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阿津賀志山防塁 その2(福島県国見町) [古城めぐり(福島)]

 昨冬の12月3日に阿津賀志山防塁を通った際に、たまたま発掘調査説明会が開催されており、それについては以前にブログの中でレポートした。この時、以前の防塁探訪で見逃していた部分を訪問したのでここに記載する。

〈森山地区〉
IMG_5182.JPG←良好に残る二重空堀
 国道4号線から少し南に逸れた道路脇の山林内に遺構が残る。山林によって風化が防がれているため、各所に残る阿津賀志山防塁遺構の中では最も往時に近い規模と姿を残していると思われる。堀は埋もれて薬研堀の鋭さを失っているが、それでもまだ深さ数m、幅も7~8m近くあることが実感できる。土塁も高さがあり、防塁中では最も良好な遺構であろう。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.885506/140.566399/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

〈木戸口〉
発掘調査で確認された木戸口→IMG_5200.JPG

 森山地区遺構のすぐ北の車道脇にある。平成20年に発掘調査が行われ、防塁の土塁に往時に作られた切れ目(木戸口)があることが確認されており、『吾妻鏡』に両軍の激戦地として記された「大木戸」であった可能性が高いとされている。木戸口の前面には土橋らしい通路跡も検出されているが、現在は埋め戻されて草むらになっているので、確認はできない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.886455/140.566163/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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陣の山舘(福島県磐梯町) [古城めぐり(福島)]

DSC01978.JPG←埋もれて腰曲輪状になった堀跡
 陣の山舘は、標高315m、比高20m程のなだらかな丘陵地に築かれた平山城である。一説には、平安時代末期に城四郎長茂が居城としたとも、木曾義仲を追討する長茂を慧日寺僧兵を率いて助けた慧日寺の乗丹坊がこの館を築いたとも言われるが定かではない。耶麻郡誌によれば、1589年6月に、摺上原に会津葦名氏を攻めた伊達政宗が築いた舘と言う。葦名氏が滅亡すると、そのまま戦略的価値を失って廃城になったのだろう。
 陣の山舘は、独立丘陵上の城で、周囲は一面の農地となり、山頂の主郭付近は耕作放棄地の薮となっている。耕地化によりかなり改変されてしまったらしく、遺構はあまり明瞭ではない。しかし、主郭周囲には切岸が残り、その周りを巡っていた堀は、埋められて腰曲輪状になって残っている。北郭も、主郭との間にわずかな切岸で区画され、平場となって残っている。この他、現地解説板の絵図によれば、主郭南側に二ノ丸・三ノ丸や馬出しがあったとされるが、この辺りは遺構は湮滅していて、その形を追うことは難しい。丘陵上からは、遥かに会津若松方面を遠望することができ、葦名氏の居城黒川城方面の動きを察知できる橋頭堡であったことが推察される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.580977/139.954265/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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猿戻城(福島県柳津町) [古城めぐり(福島)]

DSC01958.JPG←台地上の堀状の地形
 猿戻城は、越後平氏の豪族城氏が築いた城である。平安中期の988年、会津進出を狙う城四郎重則は、会津進出の足がかりとして「会津八館」を築いたと言われている。猿戻城はその中の一つで、主城であったと言われ、重則自身が居城したとされる。重則は、高寺山高隆寺と結んで慧日寺を討伐したが、991年、返って慧日寺に敗れ、自害したと伝えられている。城氏はその後も鎌倉時代まで活躍したが、1201年に城長茂が建仁の乱を起こして鎌倉幕府に叛し、討伐されて歴史から姿を消した。猿戻城もこの頃に廃城になったのだろう。
 猿戻城は、只見川とその支流下藤川の合流点西側の比高40m程の段丘上に築かれている。ほぼ独立丘の体を成しており、台地上は現在一面の広大な畑に変貌している。南西側に掘状の地形があり、遺構の様であるがはっきりしない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.555825/139.742102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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阿久津城(福島県柳津町) [古城めぐり(福島)]

DSC01892.JPG←主郭背後の堀切
 阿久津城は、歴史不詳の山城である。位置関係から考えれば、会津の戦国大名葦名氏の支城であったと考えられる。只見川の支流銀山川と竜蔵庵川に東西を挟まれた、南北に伸びる比高70m程の尾根上に築かれている。大手は、尾根北端の西側斜面であったとされ、大手筋を守る段曲輪群が築かれている。その上部は物見台状の小郭で、祠が祀られている。この小郭から南に少し降った鞍部にはニノ郭が広がっており、その先に小堀切と主郭がある。主郭は小さく、居住性はほとんど無い。主郭背後も堀切で防御され、その先は細尾根上に物見台らしい小郭群が連なっている。この他、側方斜面には竪堀もあるが、薮でかなり不明瞭である。比較的小規模な山城で、あくまで詰城の位置付けだったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.523159/139.724450/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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岩谷城(福島県三島町) [古城めぐり(福島)]

DSC01798.JPG←主郭北側の虎口
 岩谷城は、会津の戦国大名葦名氏の支城である。伝承では室町時代の1390年に葦名氏の家臣井上氏が築いたと言われている。戦国時代には葦名盛氏の老臣松本図書が城を預かっており、その城代として井上河内が詰めていた。岩谷城は奥会津に勢力を扶植していた山ノ内領に接する境目の城で、山ノ内氏の支城桧原丸山城鴫ヶ城に近く、越後上杉氏の支援を背景に半ば独立していた山ノ内氏との間で、葦名方の支城であった岩谷城は、強い緊張下に置かれていたと推測される。そして1558年、横田中丸城主山ノ内俊清の二男俊政と三男俊範は、岩谷城を急襲して奪取する事件が発生した。そこに至る経緯の詳細は不明であるが、この報を受けた葦名盛氏は激怒し、直ちに山ノ内俊政兄弟を討伐しようとした。しかし、たまたま盛氏の居城黒川城に居合わせていた山ノ内氏一族の沼沢出雲守の仲裁で討伐は回避され、以後、山ノ内氏は葦名氏に従うようになったとされている。1589年、摺上原の戦いで葦名氏を滅ぼした伊達政宗は奥会津に侵攻し、桧原丸山城と岩谷城を突破して、山ノ内氏勝の居城横田中丸城を攻撃したと言う。豊臣秀吉の奥州仕置後、廃城になったと思われる。

 岩谷城は、滝谷川東岸に半島状に突き出した急峻な岩山の上に築かれている。比高は100m程に過ぎないが、周りを急峻な断崖で囲まれており、屈指の要害である。登道は明確ではないが、東麓に古道と平場群が広がっており、そこから断崖を無理やり直登した。山頂の主郭は思ったよりも広く、東側に腰曲輪を2段築いている。北側にも段曲輪2段あって、土塁と岩を利用した虎口が築かれており、巧みに動線を屈曲させた構造となっている。どうもこちらが大手だったらしい。とすると、現在は残っていないが、北に伸びる尾根に大手道があったのかもしれない。いずれにしても小規模なほぼ単郭の山城で、平地の居館に対する詰城であったものであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.486729/139.694680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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桧原丸山城(福島県三島町) [古城めぐり(福島)]

DSC01665.JPG←主郭搦手虎口の石垣
 桧原丸山城は、横田中丸城主山ノ内氏一族の城である。山ノ内氏は会津入部以来、中丸城を本拠に一族を奥会津の要地に配し、これら一族は「山ノ内七騎党」と称された。桧原の丸山城も七騎党の持ち城で、桧原山ノ内氏の居城であった。戦国末期の1589年当時の城主は山ノ内俊範・俊知で、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は奥会津に侵攻し、桧原丸山城と岩谷城を突破して、山ノ内氏勝の居城横田中丸城を攻撃したと言う。豊臣秀吉の奥州仕置による山ノ内氏没落と共に廃城になったと思われる。

 桧原丸山城は、同じ山ノ内七騎党の持ち城であった鴫ヶ城と岩谷城の中間に位置し、両城と共に山ノ内領の入口を押さえる要衝であったと思われる。只見川東岸にそびえる標高465m、比高170mの山上に築かれている。北東麓は根古屋らしく、だだっ広い平地が広がっており、一部に溝状遺構や堀状の地形がある。何らかの遺構であると推測される。根古屋の上方に伸びている北尾根の先端には物見曲輪があり、西辺に土塁と櫓台が築かれ、南側には虎口土塁と堀切が築かれて、主城域と区画されている。この虎口はわずかに食い違いになっているようにも見える。更に尾根を登って行くと、物見台や曲輪らしき緩斜面が続き、小堀切を跨いで主郭に到達する。主郭の規模は小さく、それほどの居住性は有していない。主郭周辺はかなり藪が多く、遺構の確認が大変であるが、搦手虎口に石垣が明瞭に残っているのが確認できる。主郭の後方にはニノ郭などの段曲輪がある。この付近の一部には石が転がっており、どうも石積みのあった城だった様である。この他、主郭下方の緩斜面西側には、横堀で尾根筋から独立した西側物見台があり、土橋で連結されている。只見川の水運を監視すると同時に、北西に位置する鴫ヶ城と連絡していたのであろう。全体を見ると、城域は広いが遺構は比較的小規模で、あくまで詰城として位置付けられていたのであろう。
物見曲輪の土塁→DSC01735.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.482540/139.676129/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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鴫ヶ城(福島県三島町) [古城めぐり(福島)]

DSC01595.JPG←三ノ郭背後の堀切
 鴫ヶ城は、横田中丸城主山ノ内氏一族の城である。山ノ内氏は会津入部以来、中丸城を本拠に一族を奥会津の要地に配し、これら一族は「山ノ内七騎党」と称された。西方の鴫ヶ城も七騎党の持ち城で、西方山ノ内氏の居城であり、日本城郭大系によれば永正年間(1504~20)に山ノ内氏信が城主であったと言う。山ノ内氏没落と共に廃城になったと思われる。
 鴫ヶ城は、只見川西岸の山地の東側山腹の尾根に築かれた山城である。麓からの比高は50m程であるが、周囲を急峻な斜面に囲まれた要害の地である。主郭の裏に車道が通っており、簡単に訪城することができる。道路脇に堀跡の窪みがあり、更に東に入ってすぐの所に主郭背後の堀切があるので、道路も堀切の様である。堀切の上には主郭がそびえ、周囲に腰曲輪を巡らしている。南側の腰曲輪には途中に竪堀が穿たれて、動線を遮断している。主郭の先にはニノ郭があるが、主郭とは切岸だけで区画されており、鞍部の緩斜面状の曲輪となっている。その先に堀切を介して三ノ郭があり、三ノ郭背後は5m程の高土塁となっていて、堀切からの高低差を大きくしている。三ノ郭先端は崖で囲まれており、急峻な地形に築かれた山城であったことがわかる。ニノ郭・三ノ郭にも腰曲輪があるが、腰曲輪は東側に集中して3段ほど築かれている。以上の様な縄張りで、3つの曲輪を直線的に連ねた連郭式で、いずれの曲輪もそれほど大きなものではないが、ある程度の兵は籠められた様である。ネット上ではほとんど無名であるが、訪城が楽なのでお勧めである。
主郭背後の堀切→DSC01549.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.487484/139.653566/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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飯盛山城(福島県会津若松市) [古城めぐり(福島)]

DSC01465.JPG←横堀
 飯盛山城は、会津白虎隊自刃の地として有名な飯盛山の山頂に、戦国時代に築かれた山城である。その歴史は定かではないが、その位置関係から考えれば、会津の戦国大名葦名氏が居城の黒川城(現在の会津若松城)防衛の支城群の一つとして築いたものと考えられる。
 飯盛山城は、標高372mの飯盛山の山頂にある堂ヶ作山古墳の前方後円墳と円墳を城域に取り込んだ縄張りとなっている。西麓のさざえ堂から伸びる登山道を登って行くと、主城部より比高で60m程低い位置にある北出丸に到達する。そこから主城部までは大手道が伸びているが、大手道に沿って竪土塁が築かれており、その上部に横堀が穿たれて主郭への障壁となっている。主郭には前方後円墳があり、南側の腰曲輪に円墳がある。主郭周囲は腰曲輪が1段あって防御を固め、主郭西側に小規模な堀切を介してニノ郭が連なっている。ニノ郭の先にも堀切と土塁が築かれている。縄張りとしてはこの程度のもので、比較的規模は小さく、大塚山城と共に黒川城北東の防衛の一翼を担った城砦であったものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.503544/139.955845/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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麻生城(福島県柳津町) [古城めぐり(福島)]

DSC01360.JPG←堀切
 麻生城は、歴史不詳の山城である。新編会津風土記によれば、天正年間(1573~92年)の頃に新井田左京義光という武士が居城したと言う。付近には、横田中丸城主山ノ内氏の支城鴫ヶ城桧原丸山城や、それらに対峙する葦名氏の支城岩谷城があり、その位置関係から考えて山ノ内氏か葦名氏の支城であったと思われる。
 麻生城は、只見川西岸の北東に向けて突き出した細尾根上に築かれた山城である。比高は120m程に過ぎないが、左右を急峻な斜面で囲まれた要害である。ヤセ尾根に狭小な曲輪が並び、北端には物見の曲輪が置かれている。曲輪の間を合計3本の堀切があるが、いずれも規模は小さい。一番南の堀切は、そのまま南側下方の曲輪に繋がっており、城内通路としても機能していたのだろう。この南下方の曲輪は、尾根上の主城部とは独立した曲輪で、位置的に井戸曲輪だったのではないかと考えられる。この曲輪から3本目の堀切の背後の尾根に伸びる道があって、その先には虎口状の地形がある。どうも背後の尾根から東側に広がるややゆるい斜面に向かって大手があり、麓に居館があったらしいが詳細は未確認である。いずれにしても、有事の際の詰城の位置付けだったものだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.502973/139.678624/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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駒形の館(福島県金山町) [古城めぐり(福島)]

DSC01246.JPG←土塁跡
 駒形の館は、横田中丸城主山ノ内氏の家臣和泉清徳の居館である。山ノ内氏は会津入部以来、中丸城を本拠とし、後に「山ノ内七騎党」と称される一族を奥会津の要地に配するなどして、支配を固めたが、同様に家臣団も各地に入部させた。駒形館もその一つで、応永年間(1394~1428年)に山ノ内通俊が横田に入部した直後の1408年に藩塀として家臣の和泉清徳に築かせたものと言われている。その後1531年に、山ノ内俊安・俊興父子が沼沢丸山城を築くと、和泉氏は俊安・俊興父子に従い、駒形館は廃館になったと言われている。
 駒形の館は、只見川の支流木冷沢上流部南岸の段丘上に築かれた館である。急峻な断崖に守られた段丘角部に築かれており、主郭の東と南の2辺を高さ1.5m程の土塁で区画防御した簡単な構造である。その外周には当然堀もあったと考えられるが、堀は湮滅しておりほとんどわからない。主郭には断崖に沿って腰曲輪が付随しており、腰曲輪へ降りる虎口が残っている。これは沢筋に降りて水汲みなどに利用していたものであろう。尚、館の西側を通る県道の脇の畑には微妙な段差が見られ、和泉氏の家臣の居住区の遺構の可能性もあるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.443296/139.553350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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宮崎館(福島県金山町) [古城めぐり(福島)]

DSC01210.JPG←主郭の堀切と土塁
 宮崎館は、横田中丸城主山ノ内氏の庶流川口氏の一族宮崎右近の居館である。1544年に山ノ内俊清は、中丸城を嫡男舜通に譲り、末子俊甫と共に川口に玉縄城を築いて移り住み、川口氏の祖となった。宮崎右近はその一族で、最初は玉縄城の峰続きの雀ヶ城を守備していたが、1550年頃に宮崎館を築いて移り住んだと言う。その後の1589年、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗が奥会津に侵攻すると、宮崎右近は本家に当たる玉縄城主川口俊安と共に政宗に臣従し、伊達勢の先陣を務めた。本家の山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した為、政宗は川口氏らを先導役として横田中丸城を始めとする山ノ内氏諸城を攻めた。間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易し、山ノ内氏は没落した。一方、伊達政宗も実力で切り取った会津を没収され、宮崎氏も米沢に移ってこの地を離れた。

 宮崎館は、只見川東岸の絶壁の上に築かれた館で、伊北道と只見川水運を確保する要地であった。只見川上流に向かって三角形状に突き出した台地上に主郭・ニノ郭・三ノ郭を連郭式に構え、各曲輪を堀切で分断した典型的な崖端城の縄張りである。特に主郭には堀切に沿って土塁が築かれ、東側に数段の腰曲輪を備えている。小規模な城館であるが、公園化されているため、簡単に遺構を見て回ることができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?#16/37.471180/139.528395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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玉縄城(福島県金山町) [古城めぐり(福島)]

DSC01109.JPG←主郭手前の堀切と土橋
 玉縄城といえば、小田原北条氏の一級支城で玉縄北条氏の居城玉縄城をすぐに思い浮かべるが、ここに記載するのは全く別の奥会津の城である。

 玉縄城は、川口城とも呼ばれ、横田中丸城主山ノ内氏の一族川口氏の城である。山ノ内氏は会津入部以来、中丸城を本拠に一族を奥会津の要地に配し、これら一族は「山ノ内七騎党」と称された。玉縄城も七騎党の持ち城で、1544年に山ノ内俊清が中丸城を嫡男舜通に譲り、末子俊甫と共に川口に玉縄城を築いて移り住み、川口氏の祖となった。1589年、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津にその勢威を伸ばした。玉縄城主川口俊安・沼沢氏・野尻山ノ内氏らは政宗に臣従したが、本家の山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した。政宗は、川口氏らを先導役として横田中丸城を始めとする山ノ内氏諸城を攻めた。間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易し、山ノ内氏は没落した。一方、伊達政宗も実力で切り取った会津を没収され、川口氏は米沢、奥州白石と移ってこの地を離れた。

 玉縄城は、只見川と野尻川の合流点の南西にそびえる標高484m、比高184mの山上に築かれている。非常に変わった縄張りの城で、山上の主郭とその下のニノ郭が離れており、その間を扇形に広がった広い斜面でつないだ構造となっている。ニノ郭手前にも100m程離れて物見の曲輪があり、祠の祀られた段曲輪を伴っている。ニノ郭は平坦で四角い曲輪で、前面に腰曲輪を伴っている。西側斜面には畝状竪堀状の地形があるが、竪堀がかなり浅く遺構かどうかちょっとはっきりしない。西側に内枡形の搦手虎口があり、そこから南縁部にかけて土塁が築かれている。そして主郭に繋がる城道には土橋の架けられた堀切が穿たれている。その向こうには枡形状の方形区画があり、そこから竪堀状の大手道が主郭まで繋がっている。大手道の東側には腰曲輪が2段あるが、傾斜のある窪地状で、井戸曲輪だった可能性もある。大手道を登って行くと、斜面上部に狭い腰曲輪があり、その先に斜面を挟んで主郭があり、主郭手前も土橋の架けられた堀切が穿たれて防御を厳重にしている。主郭背後は横堀状の堀切となっているが、横矢が掛かり屈曲している。この地方の城では横矢掛かりの堀は珍しい。また主郭東角は一段低い平場となっており、背後に降りる搦手虎口があったのかもしれない。この他、登山道の入口近くに土塁と櫓台のある平場があり、入口が木戸状になっていることから、大手の番所跡の様に想像される。また中腹には広大な平場があり、根古屋だった様である。尚、居館は野尻川対岸の段丘上にあったが、遺構は宅地化で湮滅している。玉縄城は風変わりな縄張りが特徴的だが、ちょっとパッとしない印象の城である。
主郭背後の堀切→DSC01143.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.449265/139.516920/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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野尻牛首城(福島県昭和村) [古城めぐり(福島)]

DSC00932.JPG←広い緩斜面の主郭
 野尻牛首城は、横田中丸城主山ノ内氏一族の城である。山ノ内氏は会津入部以来、中丸城を本拠に一族を奥会津の要地に配し、これら一族は「山ノ内七騎党」と称された。野尻牛首城も七騎党の持ち城で、元は1354年に野尻信濃守俊行が築いた城を、1473年に山内信濃守俊詮が修復再興したと伝えられている。永禄年間(1558~69年)には山内兵庫頭實良が城主であったらしい。1589年、摺上原の戦いで 会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津にその勢威を伸ばした。しかし山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した。政宗は大波玄蕃基重を先鋒とする500騎を、柳津から只見川沿いに侵攻させ、野尻牛首城を占拠した。そして野尻牛首城を足掛かりに、布沢城をも攻め落とした。間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易し、山ノ内氏も没落した。野尻牛首城もこの頃廃城になったと考えられる。

 野尻牛首城は、野尻川西岸の山地にあり、権現山から北に伸びる、標高650m、比高220mの支尾根に築かれた山城である。背後の山中にある吉尾峠を通して布沢城と連絡できる要地であった。城の場所が確実ではなかったので、野尻集落のおばあさんに訊いたら、一発で行き方を教えて頂けたので、地元ではしっかり城として認知されているらしい。しかし大手道は完全に途絶しており、この城に行くには、城のある尾根の一つ東側の尾根筋を登って背後の標高708mの権現山まで登り、そこから北の支尾根に降りる大迂回ルートとなる。東尾根も、途中の祠までは道があるが、そこから先は道なき薮を突き進まなくてはならない。権現山から支尾根に降りるルートも、急斜面の岩場を降りる必要があるので、かなり厳しい攻城戦である。遺構自体は良好に残っている。広い傾斜地となっている主郭の最上部に櫓台があり、その背後に小堀切、更にその上の方には物見台と小堀切がある。主郭東側には腰曲輪があり、急斜面となっている西側に対して、斜度の緩い東側を重点防御している。主郭の北側にはニノ郭があるが、主郭とニノ郭はわずかな段差だけで区画され、主郭前面とニノ郭前面には石垣の残欠が見られる。ニノ郭手前には枡形の方形区画があり、虎口を形成していたと考えられる。更にその前方に、鞍部を挟んで土塁で囲まれた三ノ郭があり、そこから東側に開いた虎口を降りると、その東下に広い四ノ郭があって城域が終わっている。基本的には梯郭式の縄張りで、曲輪周囲を低い土塁で防御しているほかは、堀切などは少ない城である。降りる時は、大手道を探して北の尾根筋を降りたが、こちらは途中で薮がひどく、進めなくなってしまった。お陰で、西側の沢筋に下る急斜面を降りるハメになってしまった。道もない山深い城なので、それ相応の覚悟と装備がないと訪城はお勧めできない。
 尚、郵便局付近が居館跡とされているが、宅地化で遺構は湮滅している。
主郭背後の小堀切→DSC00919.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(登城困難のため減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.359549/139.562320/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中井館(福島県金山町) [古城めぐり(福島)]

DSC02634.JPG←虎口跡
 中井館は、横田中丸城主山ノ内氏の一族が築いた居館である。1544年、山ノ内俊清は中丸城を長子舜通に譲り、末子俊甫と共に川口郷へ移った。只見川とその支流野尻川の合流点にほど近い段丘上に居館を構え、野尻川を挟んだ川向かいの山上に玉縄城を築いた。また俊清の弟中井政詮も川口郷に移り、中井村等20貫文の地を与えられて高屋敷中井館を築いた。そして、中井館から野尻川を挟んで東方に位置する館ノ平山(金毘羅山)に中井柵を築き、玉縄城の支城としたと言う。1589年、会津葦名氏を滅ぼした伊達政宗の会津侵攻では、中井氏も川口氏と共に伊達氏に帰順し、豊臣秀吉の奥州仕置の後、伊達氏に従ってこの地を去った。後には、子孫が再び郷里に帰り現在に至っていると言う。
 中井館は、玉梨・八町温泉の南側の、野尻川西岸の段丘上に築かれている。上流は曲がり淵に山が迫り、下流はひじき沢が平地を浸食した窪地となっていて、天然の要害地形に築かれた館である。館内は2段の平場に分かれ、上段の平場には物見の土壇が、また下段の平場には下方に向かって坂虎口が築かれている。西側の道路沿いには空堀跡と思われる窪地地形も残っている。現地解説板によれば、東側の段丘下には桝形虎口もある様だが、日没タイムアウトで確認できなかった。この様なマイナー城館にもきちんと標柱と解説板が設置されているのはありがたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.419765/139.545003/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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山ノ内屋敷(福島県金山町) [古城めぐり(福島)]

DSC02609.JPG←東側の土塁
 山ノ内屋敷は、横田中丸城主山ノ内氏の居館の一つである。横田中丸城の北麓の国道沿いに位置している。「新編会津風土紀」によれば、三方の土塁と屋敷後方の深田堀で囲まれていたと言う。この土塁は現在でも残っており、深田堀もその跡が田んぼとなって明瞭に残っている。現在でも山ノ内家の居宅が建っており、室町戦国期から江戸時代、そして現代に至るまで、山ノ内氏の歴史を伝えている。中丸城の登城口から程近いので、城に行ったついでに寄ると良いだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.394607/139.445289/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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横田中丸城(福島県金山町) [古城めぐり(福島)]

DSC02560.JPG←主郭背後の二重堀切
 横田中丸城は、会津四家の一、山ノ内氏の歴代の居城である。山ノ内氏の祖、山ノ内首藤経俊は、源頼朝の乳兄弟でありながらその挙兵時に平氏方の大庭景親に従って、頼朝に向けて矢を放った為、頼朝が関東を平定すると捕らえられて斬首されかけた。頼朝の乳母に当たる俊経の母が涙ながらに助命嘆願したため、頼朝は一命を助け、その後経俊は、奥州合戦で功を挙げて会津の金山谷、伊北郷等を与えられた。山ノ内氏が実際にこの地に入部したのは、1403年頃の10代通俊と言われている。通俊は、要害山に中丸城を築いて本拠地とした。山ノ内氏は中丸城を中心に、周辺に一族・重臣を分封して、七騎党城・六固城・51の持柵を築いたと言う。戦国末期の1589年、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津にその勢威を伸ばした。しかし時の当主山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した為、正宗は降った布沢氏らを先鋒として横田中丸城を攻撃した。氏勝は、横田中丸城を捨ててより峻険な水久保城に籠城し、越後の上杉景勝や久川城主河原田盛次の支援を受けて徹底抗戦した。しかし間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易した。小田原に出向かなかった山ノ内氏もこの時没落した。

 横田中丸城は、只見川南岸にそびえる標高546.7m、比高217mの要害山上に築かれている。登り口が整備されており、山腹の三ノ丸・二ノ丸の平場、ついで大手桝形虎口を抜けて、主城部に達する。三ノ丸は平場と言うもののかなりの傾斜地で、二ノ丸は薮で覆われており、遺構全体の確認は困難である。主城部は、主郭前面に多数の帯曲輪を配置し、主郭背後は二重堀切で尾根筋を分断しており、信濃真田ノ庄の根小屋城によく似た縄張りである。主郭は小さく、あくまで有事の際の詰城の位置付けだったものだろう。主郭前面の帯曲輪群の最下段は横堀となっており、最前面の守りを固めている。帯曲輪群は主郭の北西面に集中しているが、北東側に張り出した曲輪群もあり、主郭の東にも段曲輪が1段構築されている。西の腰曲輪には畝の様なものがあり、真ん中が凹んでいる。貯水池として利用したものだろうか?その他では、大手の虎口構造が明瞭だったり、主郭背後の堀切には石積みの跡も見られるなど、なかなか面白い。登り道はしっかりしているが、途中からほとんど直登の道になるので、ちょっと疲れる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.389118/139.451619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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大塩中山城(福島県金山町) [古城めぐり(福島)]

DSC02439.JPG←ニノ郭と主郭
 大塩中山城は、横田中丸城主山ノ内氏の支城である。家臣の菅家太郎左衛門善高が城代であったと伝えられている。1589年、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津にその勢威を伸ばした。しかし山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した為、正宗は降った布沢氏らを先鋒として横田中丸城を攻撃した。氏勝は、横田中丸城を捨ててより峻険な水久保城に籠城し、菅家善高に籠もらせた大塩中山城と共に徹底抗戦した。しかし間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易した。小田原に出向かなかった山ノ内氏もこの時没落した。

 大塩中山城は、本城の横田中丸城から西北西3.5kmの地点、只見川北側の標高564.7m、比高219.7mの要害山上に築かれている。比高110m付近の南側中腹に広がる根古屋地区と思われる緩斜面と、山上の要害部と、城域は大きく2つに分かれている。麓から伸びる山道を登って行くと、中腹の根古屋の西側下方には登城道沿いに土塁と空堀らしき遺構があり、水ノ手池跡と思われる窪地も残っている。その上にある居館が置かれたと思われる平坦地は、結構な広さがある。そこから先は道が途絶しているので、斜面を直登して山上の要害部に達する。要害部は、主郭・二ノ郭に2つの腰曲輪から成る小規模なものである。いずれの曲輪も土塁はほとんどないが、虎口は明瞭で、どれも小さな内枡形になっている様だ。主城部からやや離れた南尾根の所に堀切があるが、これまた規模が小さい。全体に遺構は残っているが大した規模・構造ではなく、戦国末期に実戦使用された城としてはやや物足りなさを感じる。途中で道が消えるのも辛い。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.401733/139.416536/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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水久保城(福島県只見町) [古城めぐり(福島)]

DSC02334.JPG←虎口を兼ねた主郭堀切
 水久保城は、横田中丸城主山ノ内氏の支城である。その創築は、鎌倉時代初頭の1213年に横田氏によるものと言われている。戦国時代になると、会津四家の一、山ノ内氏の持ち城となった。1589年、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津にその勢威を伸ばした。しかし山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した為、正宗は降った布沢氏らを先鋒として横田中丸城を攻撃した。氏勝は、横田中丸城を捨ててより峻険な水久保城に籠城し、越後の上杉景勝や久川城主河原田盛次の支援を受けて徹底抗戦した。しかし間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易した。小田原に出向かなかった山ノ内氏もこの時没落した。

 水久保城は、只見町中心部の西方にそびえる標高705m、比高325mの峻険な要害山上に築かれている。南東麓の滝神社奥から登山道が延びているが、急峻な尾根上を直登する道で、傾斜が急で中々辛い。苦労して登ると、山上の平場には小さな城址標柱が建ち、城内にはTV中継局がいくつか建てられていて、その保守用道路などの建設で一部破壊を受けているものの、遺構は明瞭に残っている。最上部の主郭部は、堀切と土橋で南北2つに分割されており主郭と副郭であろう。この堀切は虎口を兼ねている様で、その下は腰曲輪や北曲輪に繋がっている。西側の腰曲輪の南側には仕切り土塁と虎口が設けられている。北曲輪の北側には更に段曲輪が1段あり、脇から竪堀を落としている。また主郭南側にも堀切を介して南曲輪が広がり、その南側には虎口らしき地形が残っている。堀切はいずれも浅く、縄張りにも戦国末期という高度さは見られず、基本的には山の峻険さを武器とした城だった様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.356513/139.308668/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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館ノ川館(福島県只見町) [古城めぐり(福島)]

DSC02309.JPG←南側に残る堀状の地形
 館ノ川館は、歴史不詳の城館である。只見川と伊南川の合流点の内側にある比高20m程の高台上にあったと考えられている。現在この地には館ノ川神社が建ち、神社周囲が平場となっている他、東側の一段下にも平場があり、主郭と腰郭だった可能性があるが、後世の耕地化による改変の可能性も残る。また南側には堀状の地形が残るが、これも自然地形の可能性も残る。結果として館ノ川の地名が残っている他には、城館の明確な痕跡はない。只見川対岸の要害山上には、山ノ内氏の築いた水久保城がそびえており、何らかの関連を持った城館だった可能性もあるだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.342458/139.318925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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勝蔵館(福島県只見町) [古城めぐり(福島)]

DSC02258.JPG←虎口の堀と土塁
 勝蔵館は、天正年間(1573~92年)に荒井舎人の居城と伝わっている。しかしその人物も含めて、歴史は不明である。
 勝蔵館は、勝蔵山の北東麓の比高40m程の段丘上に築かれている。急斜面の上の要害地形で、館内は緩い傾斜の平坦地となっている。極めて特異な構造の城館で、この平坦地の北端と東端に各々100m2程の大きな枡形虎口・食違い虎口が形成されていて、土塁と横掘をL字型や食い違いに配置しており、虎口だけで構成された様な居館である。断崖に面した塁線は一直線ではなく一部が突き出ており、横矢を掛けていた様である。虎口遺構は見事だが、藪が多く、遺構の確認はなかなか大変である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.304645/139.348515/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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布沢城(福島県只見町) [古城めぐり(福島)]

DSC02212.JPG←主郭と東の段曲輪
 布沢城は、横田中丸城主山ノ内氏の庶流布沢氏の居城である。他の山ノ内一族と共に「山ノ内七騎党」と称された。1589年、摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津にその勢威を伸ばした。しかし山ノ内氏勝は政宗に従わず頑強に抵抗した為、正宗は降った布沢氏らを先鋒として横田中丸城を攻撃した。しかし間もなく豊臣秀吉の小田原の役となり、秀吉は奥州諸侯に参陣を求め、その後の奥州仕置で不参の奥州諸侯を悉く改易した。小田原に出向かなかった布沢氏もこの時没落した。
 布沢城は、奥会津の中でも更に奥まった山間の地にある。南北を布沢川の支流の沢筋に挟まれた尾根の上に位置し、南の毘沙沢からの比高は110m程である。しかし城への登城は困難を極める。道が完全に途絶しており、藪を突っ切って斜面を直登するしか方法はない。逆茂木の如く立ちはだかる潅木が凄まじく、道なしの辛い攻城である。苦労して尾根までたどり着くと、城の遺構は良好で、主郭とその周囲の腰曲輪が明瞭に残っている。主郭には土塁の他、西側に竪堀の様な細い内枡形の虎口がある。主郭南側の腰曲輪には枡形虎口が形成され、東の段郭群にはかなり埋もれた堀切がある。西尾根はほとんど自然地形に近いが、小さな堀切で尾根筋を防御している。遺構は中々見応えがあるが、小ぢんまりした城で全体に薮が酷く、道も無いのであまりお薦めはできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(藪で減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.331095/139.484900/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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梁取要害山城(福島県只見町) [古城めぐり(福島)]

DSC02164.JPG←腰曲輪の虎口遺構
 梁取要害山城は、梁取城に関連する山城と考えられているが、その歴史は定かではない。梁取城の西北西1.3kmの標高590m、比高130mの要害山上に築かれており、亀ヶ城とも呼ばれている。これに対して梁取城を鶴ヶ城と称し、2つは兄弟城だったと地元では伝承されている様だ。また一説には、梁取城を平時の居館とし、要害山城を有事の際の詰城としていたのではないかとも推測されている。
 梁取要害山城は、成法寺の裏山に当たる急峻な岩肌が一部露出した山の上に築かれた小城で、主郭と周囲の腰曲輪から構成された極めて小規模な城である。東尾根に段曲輪群があるが、落葉の時期でも草木が多く、確認が容易ではない。また、主郭の北西尾根にも、細長い平場があり、南側下方にやや広い腰曲輪を伴っている。この腰曲輪から尾根上の平場に登る所には、虎口の遺構がある。この虎口は、石の間を切通し状の通路としており、石を木戸口として利用していたものと思われる。いずれにしても、山上の遺構はまさに詰城と呼ぶべき規模で、平時には物見や烽火台としての機能しかなかったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.296617/139.477639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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梁取城(福島県只見町) [古城めぐり(福島)]

DSC02103.JPG←ニノ郭虎口の左袖
 梁取城は、会津葦名氏の家臣三河権守宗景の築いた城と言われている。この三河権守は、長沼氏の一族とも推測されている様だ。室町時代には横田中丸城主山ノ内氏が勢力を広げ、戦国時代末期の梁取城主梁取左馬之助は、山ノ内氏の一族であったと言われている。1589年、摺上原の合戦で会津の戦国大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、引き続き敵対を続ける横田中丸城主山内氏勝と久川城主河原田盛次を降す為、重臣の原田左馬助宗時を奥会津に侵攻させた。この時、和泉田城が撫で斬りにされる前に、梁取城は伊達勢の攻撃で攻め落とされたと言う。

 梁取城は、伊南川の北の山地の南端が半島状に突き出た、比高60m程の平坦な台地上に築かれている。主には主郭とニノ郭から成り、主郭は周囲を土塁で防御し、更にその外側を空堀をめぐらして固めている。ニノ郭の北隅には櫓台が設けられ、主郭前面と側方の空堀を攻撃できるようになっている。ニノ郭虎口には、近世城郭で言う左袖に相当する横矢の張り出しがある。中世城郭でこれほど明瞭な左袖は珍しく、栃木の桑窪城以来である。一方、主郭虎口の内部は掘状の窪地となっており、内枡形の一種の様である。ニノ郭全面や主郭背後にも曲輪らしい平場があるが、どこまでが城域かはあまり判然としない。全体に平面的な縄張りの城で、要害性を武器とせず山城と言うより居館の雰囲気が強い。西方の要害山城を詰城とした、平時の居館という見方もうなずける。尚、明確な登城道はないが、西側の尾根筋から登ることができる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.291399/139.490823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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和泉田城(福島県南会津町) [古城めぐり(福島)]

DSC01954.JPG←主郭背後の堀切
 和泉田城は、河原崎城とも呼ばれ、奥会津に侵攻した伊達政宗によって撫で斬りにされた城である。築城時期は不明であるが、戦国末期の当城最後の城主は伊南駒寄城主河原田盛次の家臣五十嵐和泉守道正で、道正は横田中丸城主山ノ内氏勝の妹が河原田氏に嫁いだ際に、付家老として山内氏より遣わされたと言う。伊南郷の北の押さえを任されていたと推測される。1589年、摺上原の戦いで奥州の有力大名葦名氏を滅ぼした伊達政宗は、奥会津制圧の為、重臣の原田左馬助宗時に軍勢を率いて侵攻させた。和泉田城を囲んだ伊達勢は、田島鴫山城主長沼盛秀の軍兵を加えた4000の兵であったと言われ、対する道正の籠城兵はわずか300人程であった。当初、攻めあぐねて多数の兵を失った伊達勢であったが、城の西側の山から多数の鉄砲により攻撃して多数の城兵を討ち、遂に落城させた。残る城兵200人を残らず撫で斬りにし、帰途の道中にその首を掛け並べたと伝えられている。勝った伊達勢も、大将の屋代勘解由、梅津籐兵衛ら800人の死者を出す、凄惨な戦いであったと言う。城はそのまま廃城になったと思われる。

 和泉田城は、比高173mの山上に築かれた典型的な連郭式山城で、主郭の前面を数段の段曲輪・腰曲輪で防御を固め、主郭背後には堀切と曲輪を交互に連ねている。主郭は小じんまりとしており、大した広さはなく、内部は2段の平場に分かれていた様である。主郭背後の堀切が最も規模が大きいが、それでも深さ3~4m程であろう。その先にニノ郭・三ノ郭が連なり、更にその先の主郭より高い位置にある小峰にも曲輪があり、物見曲輪だったのではないかと想像される。その南に伸びる尾根にも堀切があり、城域は南北に長かった様だが、城全体は大きいものではなく、山麓の比高30m程の台地上に築かれた堂平と呼ばれる根古屋に対する詰城として機能したと思われる。この構成は河原田氏の本城駒寄城によく似ており、同じ築城構想で築かれたものと思われる。山上からは、伊南川対岸の梁取城の他、川沿いの平地が手に取るように見え、城下の敵の動きが筒抜けだったことがわかる。この程度の小城で、味方の10倍以上の敵と戦えた所以であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.276682/139.495457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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西館(福島県南会津町) [古城めぐり(福島)]

DSC03885.JPG←土塁跡
(2010年12月訪城)
 西館は、会津伊南郷の豪族河原田氏の初期の居館と言われている。平時には東館と西館に居住し、有事の際には駒寄城に拠って立て篭もったと言われている。
 現在は、伊南保育所となっていて遺構は一部破壊されているが、南側半分の土塁が良好に残っていて見応えがある。往時は更に周囲を堀で囲まれていたのであろう。駒寄城との位置付けは、その要害性から考えて、戦国時代には西館は放棄されて平時も駒寄城を居城とし、有事には山上の駒寄要害山城に拠ったものと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.176919/139.525756/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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駒寄要害山城(福島県南会津町) [古城めぐり(福島)]

DSC03831.JPG←土塁に囲まれた主郭
(2010年12月訪城)
 駒寄要害山城は、伊南郷の豪族河原田氏の詰城である。河原田氏と城の歴史については、駒寄城の項に記載する。山麓の居館(根古屋)である駒寄城に対して、要害山山上にある詰城に相当する。

 駒寄要害山城は、比高220m程の峻険な要害山上に築かれている。普通ならば、麓の駒寄城からの登城道が想定されるが、登り口がさっぱりわからず、仕方なく駒寄城の西に隣接する尾根筋に取り付いて直登した。尾根筋にも明確な道はなく、しかも訪城当日は積雪で足場が悪く、登城に苦労した。途中、ちょっとした平場や腰曲輪らしい地形を経由して、山上に至る。登りついた最初の曲輪が主郭の様で、城中で最大の面積を持ち、周囲を土塁で防御し、背後に櫓台らしい土壇を挟んで堀切を設けて防御するなど、最も防備が固い。この主郭は先端が三角形状に鋭角に尖っている。背後の堀切は深さ2m程のささやかな規模のものである。その先の尾根にはニノ郭と思えわれる狭い尾根筋に沿った曲輪が段々に並び、その先にもう1本の小堀切がある。主郭周囲には帯曲輪が設けられているが、面積は狭く、ほとんど兵を置くことはできない。主郭西側の尾根筋には段曲輪群があるが、それほど明確ではなく、その先の構造も崩落地形なのか何なのか、今一つわかりにくい。

 以上の様な感じで、まともに居住性があるのは主郭のみで、あくまで臨時の詰城という位置付けである。伊達政宗の奥会津侵攻を目前にした河原田盛次が、要害地形ながらも狭小な駒寄要害山城を捨てて、峻険さでは劣るものの広くて大兵力を置くことができ、居住性も十分な久川城に拠って抵抗したのは、事実久川城で伊達勢撃退に成功したことを考えると卓見であった様である。
主郭背後の堀切→DSC03844.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.166404/139.527429/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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駒寄城(福島県南会津町) [古城めぐり(福島)]

DSC03783.JPG←段々に築かれた曲輪群
(2010年12月訪城)
 駒寄城は、伊南郷の豪族河原田氏の居城である。河原田氏は、鴫山城主の長沼氏と同じく下野の大族小山氏の庶流で、元は下野にいたが、1189年の源頼朝の奥州合戦の功でこの地を賜り、入部して駒寄城を築いたと言われている。その後、時代が下って戦国末期には、伊達政宗が摺上原の戦いで会津の戦国大名葦名氏を滅ぼして、奥会津へ勢力を伸ばしてくると、伊達氏に降ることを潔しとしなかった河原田盛次は狭い駒寄城を捨てて、新たに伊南川の対岸に久川城を築いて、伊達氏に抵抗したと言う。その後は、河原田氏が豊臣秀吉の奥州仕置で改易になると、廃城になったと思われる。

 駒寄城は、要害山山上にある詰城(駒寄要害山城)に対して山麓の居館(根古屋)に相当する。伊南中学校南側の比高20m程の山裾の高台にあり、幾つもの平場が段々に築かれている。基本的には長方形に近い形状の曲輪を、縦横に配置した構造で、まるで住宅団地の様である。大手口は北側にあり、大手道に沿って櫓台が築かれて、虎口の防備を固めている。南東の最上部には櫓台を設けた主郭があり、空堀で区画されているが、それほど規模の大きなものではなく、二ノ郭背後の土塁も含めてそれほど厳重に防備を固めた印象ではない。また、二ノ郭には謎の貯水池らしい地形があり、これは後世の改変によるものかもしれない。いずれにしても、城というよりは屋敷地という方が相応しい城で、あくまで戦時には山上の詰城に拠ることを前提とした造りである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.171397/139.527987/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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鴫山城 その2(福島県南会津町) [古城めぐり(福島)]

DSC13716.JPG←土門に残る綺麗な枡形
(2010年12月訪城)
 鴫山城を3年ぶりに再訪した。今回は、前回訪城時に見なかった西側尾根上の遺構の確認が目的であった。鴫山城は、緩やかな傾斜を持った平坦部を居館部とし、南の愛宕山を詰城を置き、居館部周囲から愛宕山までを東側と西側に走る尾根筋に沿って土塁や空堀を築いて全体を包みこんで防御した構造となっている。今回は西の尾根筋を見て回った。

 西側外郭の土塁は形状が明瞭で、尾根上にしっかりと土塁が築かれているのがわかる。尾根筋が高度を上げていくと、土塁も竪土塁の様に築かれており、土塁と石垣の違いはあるにしても、これはまさしく伊予松山城の登り石垣と同じコンセプトである。元々松山城の登り石垣は、朝鮮出兵の際に港から山上の城までの周囲を石垣で囲んで防御した倭城の経験から創出されたと言われているが、鴫山城の竪土塁(登り土塁?)もその類例ではないだろうか。現在残る鴫山城の遺構の大半は、1600年に徳川家康の会津侵攻に備えて上杉景勝が構築したと考えられているので、時代的にもほぼ一致し、有力な説ではないかと個人的には思っている。

 また、竪土塁の両側には部分的に幾つかの腰郭が付随しており、土塁の防御効果をより高めている。土塁を登って行った先の小ピークにははっきりそれと分かる削平された櫓台がある。更にその先に進むと、尾根の鞍部には土門と呼ばれる門跡があり、出枡形の土塁が非常に綺麗に残っている。この後、土門から上千畳・下千畳と呼ばれる曲輪を通って戻ったが、上千畳・下千畳は発掘整備されたため、3年前と比べると木々が綺麗に伐採され、周囲を囲む土塁などの遺構の確認がしやすくなって非常にありがたかった。

 一般にあまり大きく言われることはないが、鴫山城に残る西側尾根筋を走る竪土塁は、登り石垣に繋がる貴重な遺構として、重視されてしかるべきと思う。

 尚、現地に掲示されている土門の解説板は、実際の土門の位置から100~200mぐらい東側の、全然違う所に設置されている。その為誤解を生じやすく、間違って写真を掲載しているサイトがほとんどなので注意を要する。実際の土門の遺構は、解説板の位置から緩斜面を西に100~200m程登った場所にある。虎口形状が明瞭なので、城歩きに慣れた人なら見ればすぐに門跡とわかるだろう。
尾根筋を走る竪土塁→DSC13679.JPG
DSC13695.JPG←小ピークに築かれた櫓台
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田部原館(福島県南会津町) [古城めぐり(福島)]

DSC03616.JPG←土橋の架かる空堀と土塁
(2010年12月訪城)
 田部原館は、歴史不詳の城館である。その位置・構造から考えて、鎌倉期から室町期初頭頃の、鴫山城創築以前に築かれ、戦国期に及ぶまで使用された居館であったと考えられているようだ。
 田部原館は、阿賀川とその支流水無川の合流する段丘上に築かれており、周囲を空堀と土塁で防御した単郭方形居館である。南側には大手虎口があり土橋が架かっているが、石積みで補強された極めて珍しい土橋となっている。単純な方形単郭居館であるが、その遺構は良好で美しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.212268/139.797646/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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塩生館(福島県下郷町) [古城めぐり(福島)]

DSC03594.JPG←土塁と櫓台
(2010年12月訪城)
 塩生館は、天正年間(1573~92年)に会津の戦国大名葦名氏の家臣平田五郎忠照の居館であったと言われるが定かではない。その歴史は不明である。
 塩生館は、中妻館同様、阿賀川南岸の断崖上に築かれた居館である。西側を深い沢で削られた要害の地で、台地と地続きの東面と南面に空堀と土塁を築いて防御している。土塁の南東角には隅櫓と思われる高台があり、現在は石祠が祀られている。東側の空堀には土橋らしきものが架かるが、往時からのものであろうか?曲輪内部は一部は畑となっているが、それ以外は薮で遺構の確認が殆どできない。単純な構造の居館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.249085/139.867512/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=red&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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