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坂本城(滋賀県大津市) [古城めぐり(滋賀)]

DSCN4409.JPG←二ノ丸に立つ石碑
 坂本城は、明智光秀が築いた近江統治の拠点である。1571年9月、比叡山を焼き討ちして全山灰燼にした織田信長は、宇佐山城の守将明智光秀に滋賀郡(湖西南部)の支配を命じ、坂本城を築かせた。比叡山延暦寺・湖西地域諸豪の監視と琵琶湖の制海権の掌握、更には佐和山城と共に信長の領国美濃と京都を結ぶ交通路の確保を目的としていた。同時代資料によれば坂本城は、信長の安土城に先立ち、壮麗な天守を築いた城であったと伝えられている。その後、坂本城を本拠とした光秀は信長の意を受け、滋賀郡を中心として近江平定を推し進めた。1575年に丹波攻略を信長から命じられ、石山合戦や荒木村重討伐などに転戦しながら、足掛け5年をかけて丹波攻略を成し遂げた。この結果、丹波一国も拝領し、坂本城とともに丹波亀山城の城主を兼帯したと見られる。1582年6月2日、光秀は本能寺の変を起こして織田信長・信忠父子を滅ぼしたが、中国大返しで急速に進軍してきた羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れた。光秀は夜半、僅かな手勢と共に坂本城へ向かう途中、山城国小栗栖で物盗りの百姓らに襲われてあえない最後を遂げた。一方、安土城の守将明智秀満は、光秀軍敗北の報に接して、辛くも坂本城に戻った。秀満は天守に立て籠もり、秀吉方の攻囲の中、自分の妻と光秀の妻子を刺し殺し、天守に火を放って自刃した。その後、秀吉に命じられて坂本城の守将となった丹羽長秀が城を再建した。その後、賤ヶ岳合戦の際には坂本城は軍事拠点となった。後に杉原家次、次いで浅野長政が城主となったが、1586年、秀吉の命により長政は大津城を築城したが、その際に坂本城の資材は大津城に移築され、坂本城は廃城になった。

 坂本城は、琵琶湖畔に築かれた水城であったが、前述の通り城の資材が大津城に移されたため、遺構はほとんどなく、城の位置・構造なども不明であった。しかし発掘調査の結果などから、湖畔に本丸を置き、その西側に二ノ丸・三ノ丸を配置した縄張りであったと推測されている。現在、本丸跡地には企業の建物が立ち、その入口脇に坂本城本丸跡の石碑が立っている。またこの奥の琵琶湖畔には石垣跡が水中に没して残っている。2021年11月に少雨による琵琶湖の水位低下で久しぶりに石垣が露出したとの報道があった。しかし訪城した年末には降雪などにより既に水位が上がっていて、石垣を見ることはできなかった。この他、二ノ丸の一角とされる住宅の道路脇に、城址碑が立っている。いずれにしても遺構はなく、幻の城である。
 尚、明智光秀の石像が立っている坂本城址公園は、城外にあるので城の遺構とは関係がない。
湖中に没した石垣→DSCN4389.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.059975/135.879185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


明智光秀の城郭と合戦 (図説 日本の城郭シリーズ13)

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/07/31
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佐和山城(滋賀県彦根市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_8958.JPG←天守台跡らしい本丸の高台
(2019年12月訪城)
 佐和山城は、石田三成の居城として有名である。最初の築城は、鎌倉時代初期の建久年間(1190~99年)に近江守護・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の6男佐保時綱が築いた砦が始まりとされる。室町時代には、近江の守護大名六角氏の支城となり、大永年間(1521~28年)には六角定頼の家臣小川左近大輔が城主となった。その後江北を支配した京極氏の家臣小谷氏が台頭すると、勢力を拡張して佐和山城を支配下に収め、浅井氏の家臣磯野員昌が城主となった。元亀年間(1570~73年)に浅井長政が織田信長と敵対すると、佐和山城は織田勢に包囲され、1571年2月に無血開城した。信長は、本拠の岐阜城から京へのルートを確保するため、重臣の丹羽長秀を佐和山城主とした。1582年、本能寺の変後に清州会議を経て、堀秀政が佐和山城に入った。堀氏時代には賤ヶ岳合戦・小牧長久手合戦などの際に羽柴秀吉が佐和山に陣を置いた。1585年、佐和山城には秀吉の家臣堀尾吉晴が4万石で入城した。1590年に堀尾氏が浜松城に移封となると、豊臣氏の直轄時代を経て石田三成の居城となった。石田時代の佐和山城は、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われる程の名城であったとされる。1600年の関ヶ原合戦で石田三成の西軍が敗れると、佐和山城は東軍諸将に攻略された。その後は、徳川家康の重臣井伊直政が城主となったが、直政は関ヶ原での戦傷が元で間もなく没し、その嫡男直勝が1603年に家康の命で彦根城を新たに築城すると、佐和山城の部材・石材は大々的に転用され、そのまま佐和山城は廃城となった。

 佐和山城は、標高232.6m、比高130m程の山上に築かれている。本丸周辺と西の丸は整備されており、北西麓の龍潭寺からと南の国道8号線脇からの2つの登路が整備されている。山頂の本丸を中心に、北東尾根に二の丸、その東に三の丸、また本丸北西には西の丸、南には太鼓丸と法華丸といった曲輪群を配している。縄張り的には純然たる中世山城と同じで、尾根筋に堀切や竪堀を穿ち、尾根に配された曲輪の先端には腰曲輪群を築いている。また西の丸や太鼓丸には土塁が残り、腰曲輪などに通じる虎口も見られる。本丸は綺麗に整備されており、眼下には彦根城がよく見えるが、破城のせいで石垣もほとんど残っておらず、天守台や桝形虎口の跡などもわずかに痕跡が残る程度で、見るべき遺構がかなり少ない状態である。また二の丸は大薮が酷く、本丸への登城路も消失していて、踏査が容易ではない。何とか平場群とわずかな残存西垣は確認できたものの、薮が酷すぎて三の丸には到達できなかった。この他、大手のあった東麓の平地には、大手口の土塁や内堀跡・外堀跡の小川が残っている。これほど有名で、そうそうたる面々が城主となった重要な城であったが、徳川による徹底的な破却のせいで近世城郭とは思えないほど見るべきものが少ない状況で残念である。
西の丸下段郭(焔硝櫓)の土塁→IMG_9007.JPG
IMG_8877.JPG←太鼓丸の土塁
二の丸付近の残存石垣→IMG_9044.JPG
IMG_8829.JPG←大手口の土塁・内堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.279714/136.269232/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


【図解】近畿の城郭II

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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大嶽城〔附、福寿丸・山崎丸〕(滋賀県長浜市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_8486.JPG←大嶽城の主郭を囲む土塁
(2019年12月訪城)
 大嶽(おおづく)城は、近江の戦国大名浅井氏の居城小谷城の背後を守る出城である。元々、浅井氏初代亮政が築いた小谷城とは、この大嶽城を主郭としていたと考えられている。その後、南東の尾根に小谷城の本城部が移った後も、背後の高所を押さえる位置にあることから、何らかの役目を負って存続していた可能性がある。1573年、織田信長が小谷城を攻撃した際には、浅井氏の援軍として加勢に来た越前朝倉氏の一軍が大嶽城を守備していた。しかし焼尾砦の守将浅見対馬守俊成は、織田勢の調略を受けて降伏し、俊成の手引きで織田軍は嵐に乗じて大嶽城を攻め落とした。この後、坂道を転げ落ちるように朝倉氏は滅亡し、孤立した浅井氏も滅亡した。

 大嶽城は、標高494.6m、比高395mの小谷山山頂に築かれている。小谷城からだと、搦手の六坊跡を通過してから登道を15~20分程登れば、大嶽城に行き着く。登道が整備されているので、迷うことはない。大嶽城は、主郭を中心に、外周に数段の腰曲輪を巡らした環郭式の縄張りとなっている。高所に築かれた出城にしては大型の城で、かなりの兵数を籠めることができる。しかしかなり大味な作りで、主郭も腰曲輪も大型の幅広の土塁で囲まれているが、切岸の傾斜は緩い。北西の尾根には堀切が2本穿たれているが、これもあまり鋭さがない。一方で、北西から南西まで廻る腰曲輪は西側で大きく斜めに湾曲して降り、その西側下方には大きな竪堀が2本落ちていて、ダイナミックな構造を見せている。この他、小谷城からの登道がある東尾根や、出砦に通じる南西の尾根には何段もの曲輪群が築かれている。

 大嶽城の南西の尾根には、福寿丸と山崎丸と言う2つの出砦が築かれている。この尾根筋にも山道が整備されているので、迷う心配はない。これらの出砦は、いずれも大嶽城と同様に援軍の朝倉勢が普請して立て籠もった砦である。福寿丸には朝倉氏の部将木村福寿庵が、山崎丸には同じく朝倉氏の部将山崎吉家が守将として入っていたと伝えられる。2つの砦とも朝倉氏の最新の築城技術で作られた城とされ、大きな城砦ではないが普請はしっかりしている。いずれも土塁で囲まれており、枡形虎口や橫矢の張り出しが多用されている。曲輪全体が枡形状の構造になっている部分もあり、こうした構造は相模御所山城韮山城附城群によく似ている。これらを見ると、織豊系陣城は織豊勢力が突然編み出したものではなく、周辺諸勢力との抗争の中で互いに築城技術を吸収し進化させてきたものだということがわかる。織豊系陣城を考察する上で、好適な事例である。
大嶽城西側の大竪堀→IMG_8544.JPG
IMG_8550.JPG←大嶽城西側の腰曲輪
大嶽城付近から見た小谷城→IMG_8454.JPG
IMG_8608.JPG←福寿丸の桝形虎口
山崎丸の横矢張出しと空堀→IMG_8654.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【大嶽城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.465983/136.273395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
    【福寿丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.460705/136.269189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
    【山崎丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.455951/136.268159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

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  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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小谷城(滋賀県長浜市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_8143.JPG←本丸の石垣
(2019年12月訪城)
 小谷城は、近江北半を支配した戦国大名浅井氏3代の居城であり、中世5大山城の一つに数えられる大規模な山城である。浅井氏の出自には諸説あって明確ではないが、鎌倉時代には北近江に根を張る国人領主であった。南北朝期に婆娑羅大名として知られる佐々木(京極)道誉が南北朝動乱期の活躍で台頭し、北近江の守護大名となって勢力を確立した。3代将軍足利義満が定めた室町幕府の典礼では、京極氏は幕府の四職に列した。浅井氏は、こうした京極氏の家臣として活動した。応仁の乱の最中に京極氏家中で家督争いが起きると、京極氏の家臣団は分裂して抗争を繰り返し、京極氏の勢力は衰えた。1523年、再び京極高清の跡目をめぐって内訌が起き、浅井亮政らは家臣団中最大の勢力を持っていた上坂信光を失脚させ、京極高清・高慶父子を尾張国に逐った。こうして江北の実権を握って台頭した亮政は、その翌年には小谷城を築いていたと見られ、1524年に尾張に奔った京極高清を小谷城の京極丸に迎えて饗応した。一方、近江守護・観音寺城主六角氏は、京極氏の本家筋であり、都を逐われた足利将軍を近江で保護する実力者であり、下剋上で台頭した浅井氏と対立するようになった。1525年、六角定頼は浅井氏討伐のため進軍し、小谷城を攻撃した。この時の小谷城は、現在の大嶽(おおづく)城に主郭があったとされる。攻撃を受けた亮政は越前朝倉氏に援軍を求め、朝倉教景(宗滴)率いる朝倉勢が小谷城へ入り、金吾丸を築いて滞陣したと言う。決定打を与えられなかった六角氏は、その後も度々浅井氏と交戦し、亮政は次第に劣勢に追い込まれた。亮政は、六角氏への従属姿勢を示しつつ、朝倉氏や本願寺勢力と協調して江北の地盤を固め、1534年には京極高清・高延父子を宿所において饗応した。この宿所は、山上ではなく清水谷の居館であるとされ、この頃には山上の城郭も山麓の根古屋も整備されていた可能性が高い。1542年、亮政が亡くなると久政が跡を継いだ。久政の時に、小谷城搦手に六坊と称される出坊が建てられている。久政は、六角氏に服属しつつ内政を整えたが、六角氏への従属を良しとしない家臣団の反発を受け、1560年に嫡子賢政(後の長政)に家督を譲って、小谷城内の小丸に隠居した。長政は、日の出の勢いの織田信長の妹お市を娶り、勢力拡大を図った。しかし1570年4月、信長が朝倉氏討伐のため敦賀に侵攻すると、突如長政は信長に反旗を翻し、危殆に陥った信長は辛くも京に逃げ帰った(金ヶ崎の退き口)。6月、信長は離反した浅井氏を攻撃し、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍による姉川合戦が繰り広げられた。浅井・朝倉連合軍は敗れ、その後織田勢は浅井氏の支城群を徐々に蚕食し、小谷城を追い詰めていった。1573年8月、信長は小谷城を包囲し、朝倉義景率いる援軍を破った。戦意に乏しい朝倉勢は序盤の敗戦と出城の失陥を見て撤退を始め、刀根坂で織田勢の激しい追撃を受けて壊滅した。本拠の一乗谷に向かった義景を追って、織田勢は越前になだれ込み、そのまま朝倉氏を滅ぼした。信長は小谷城包囲に戻り、総攻撃を開始。孤立した小谷城は落城し、長政は小谷城内の赤尾屋敷で自刃、浅井氏は滅亡した。信長は、わずか1ヶ月で越前・北近江の戦国大名を相次いで滅亡させるという、怒涛のような進撃であった。浅井氏滅亡後、小谷城は攻略の殊勲者羽柴秀吉に与えられたが、秀吉は長浜城を築いて移り、この時に小谷城の建物の多くが長浜城に移されたと言う。

 小谷城は、小谷山南東の尾根筋に築かれている。元々初代亮政が築いた小谷城主郭は、小谷山山頂の大嶽にあったが、後に南東尾根に本城を移したらしい。本丸は標高350mの峰にあり、最高所の山王丸はそれより北の50m程高い398mの峰に築かれている。信長に攻め落とされた後、秀吉の長浜移城などにより、建築物だけでなく石垣も多数持ち出されたと思われるので、往時の姿そのものではないはずだが、縄張りはほぼ往時の姿を留めていると推測される。南北に長い尾根上に曲輪群を連ねた連郭式の縄張りを基本とし、西斜面に多くの腰曲輪を築いて防御を固めている。本城部は大きく2つに分かれ、本丸を最高所とした南部分と、山王丸を最高所とした北部分がある。南部分は南から順に、番所・お茶屋・御馬屋敷・桜馬場・大広間・本丸の各曲輪から成る。本丸の東には赤尾屋敷の段曲輪が築かれている。北部分は南から順に、中丸・京極丸・小丸・山王丸から成るが、北部分の各曲輪はどれも複数の平場で構成されている。これら多くの曲輪が連ねられ、しかもいずれも広さがあるが、防御の主体は石垣・土塁・切岸だけで、堀切はほとんど見られない。唯一、本丸裏は中丸との間に大堀切があるが、実態は堀切と言うより鞍部の曲輪である。また西麓の根古屋(清水谷)に向かって、腰曲輪群を貫通する様に何本もの竪堀が、また東側にも数本の竪堀が穿たれている。石垣は、観音寺城などと比べるとだいぶ小振りである。虎口は、平易な坂虎口が多く、枡形はあまり見られない。この他、山王丸の北尾根には六坊の平場群があり、南の尾根には金吾丸・出丸が築かれている。主城域からやや離れて、小谷山の東の尾根に月所丸があり、ここだけ尾根筋を分断する堀切が3本穿たれ、尾根付け根の北側斜面には7本の畝状竪堀が穿たれている。月所丸は、明らかに構築思想が本城と異なるので、朝倉氏の援軍による構築と見るのが自然であろう。

 以上が小谷城の遺構で、本城部はオーソドックスな連郭式の作りであり、横堀の塹壕線や畝状竪堀はなく、堀切すらもほとんどない。曲輪間の切岸もあまり大きなものがなく、遮断系の要素に乏しい縄張りと感じられた。一方で、西斜面に多数の腰曲輪群と竪堀が構築され、根古屋方面からの斜面だけ防御が厳重である。

 尚、南端の出丸から小谷城全域を踏査するには、車道を使わず山麓から山道を歩いて登るしかないので、大嶽城や清水谷まで含めると、全域踏査にはほぼ丸1日費やす覚悟が必要である。私は結局、車に戻るまで6時間も掛かった。それでも清水谷奥の三田村屋敷や大野木屋敷は踏査できなかった。
本丸から見た大広間→IMG_8137.JPG
IMG_8160.JPG←大堀切とされる鞍部の曲輪
大堀切の東腰曲輪の石垣→IMG_8172.JPG
IMG_8201.JPG←中丸の3段曲輪
月所丸脇の畝状竪堀→IMG_8391.JPG
IMG_8418.JPG←月所丸先端の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.459779/136.277708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


【図解】近畿の城郭II

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安土城 その2(滋賀県近江八幡市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_7405.JPG←馬場平腰曲輪の3段石垣
(2019年12月訪城)
 15年ぶりに安土城を再訪した。15年前の私はまだ山城初心者だったため、観光ルート以外の遺構を全く見逃していたので、その他の遺構を踏査した。

 今回踏査したのは、東尾根の曲輪群である。こちらの散策路は東門道と呼ばれ、何故か城郭関係のサイトでは、このエリアの遺構には触れたものはほとんどない。私は南東山裾の蓮池付近の曲輪群を追っていったら、東尾根曲輪群の先端に当たる御茶屋平下の腰曲輪群にたまたま行き着いた。よく調べたら、弘法大師堂の脇からちゃんと登道があった。この道を登ると東門跡の桝形虎口に至る。その上が前述の御茶屋平と言う曲輪で、外周は石垣で囲まれ、角は算木積みとなっている。その南下方のいくつもの腰曲輪群にも石垣が随所に見られる。これらはいずれも、復元整備の手が入っていない古態をとどめた石垣群で、城の中心部の石垣と比べると、積まれている石がやや小ぶりで、石垣の高さもそれほど高くない。中には、鉢巻石垣の様な低いものもある。

 ここから西に向かってしばらく登っていくと、馬場平という東西に長い曲輪があり、その東のピークには神様平という曲輪がある。ここも多数の石垣群がある。ただ南側の石垣はあまり高さがなく、しかも3段の腰曲輪に石垣を築いて、3段石垣としており、ちょうど金沢城の辰巳櫓の3段石垣の様である。

 この馬場平には、安土城築城以前に六角氏の重臣目賀田氏が守っていた目賀田城が築かれていたと言われる。ただこの話は『日本城郭大系』にも『図説 中世城郭事典』にもなく、話の出元がよくわからない。この話が本当だとして、安土山のピークではなく、わざわざ東の尾根のピークに城を築いたことは、六角氏の本拠観音寺城に対して独立した城砦として築いたと言うよりも、観音寺城の西麓を抜ける街道を監視し押さえるために築いた、関所的な役割を負っていたと考えられる。

 馬場平から奥は、立入禁止となっている。この後は一旦下山し、大手道から中心部の遺構を回ったが、15年前と同様、三ノ丸や八角平は立入禁止となっていた。

 今回、再訪してわかったが、安土城は外周部の腰曲輪に至るまで、おびただしい数の石垣を築いた、全曲輪総石垣の城郭であったことがわかる。しかし縄張り的には、戦国後期の中世城郭の延長線上にあることも明らかである。よく信長も安土城も革命的と謳われるが、実際にはそれまでの歴史の延長線上にあり、過大評価することは危険である。それは、これらの埋もれた遺構群を見ると実感できる。ただ、中央政権の権力者としてこれまでの城にはない規模で石垣を構築し、権勢の象徴としての城にその役割を大きく変質させたのも確かである。いずれにしても、古いたたずまいを残した古色蒼然とした石垣を見るなら、東曲輪群がオススメである。
御茶屋平の石垣→IMG_7337.JPG
IMG_7368.JPG←御茶屋平石垣の算木積み
東門の桝形虎口→IMG_7388.JPG
IMG_7302.JPG←蓮池曲輪群の石垣・虎口

 場所:【馬場平】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.154565/136.143039/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


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観音寺城(滋賀県近江八幡市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_7817.JPG←平井氏屋敷の石垣
(2005年3月訪城)
 観音寺城は、南近江の守護大名六角佐々木氏の居城で、中世5大山城の一つに数えられる壮大な山城である。その歴史上の初見は建武の新政期で、1335年に後醍醐天皇に叛して京に攻め上った足利尊氏を追って、はるばる奥州より遠征してきた北畠顕家の軍勢を、足利方の佐々木氏頼が「観音寺の城郭」に立て籠もって迎え撃ったことが太平記に記載されている。六角佐々木氏は、近江源氏佐々木氏の嫡流で、近江北半は庶家に当たる佐々木道誉を祖とする京極佐々木氏に押さえられたが、京都の東の玄関口として重要であった南近江で代々勢威を振るった。応仁・文明の大乱では、東軍に付いた京極持清に対して、六角高頼は西軍の山名方に付いて戦った。高頼は、大乱収束後、幕府に反抗的な態度を取ったため、若き将軍足利義尚が六角氏征伐に親征したが、高頼は甲賀山中に籠ってゲリラ戦を展開した。やがて義尚は鈎の陣にあって酒色に耽り、そのまま陣没してしまった。高頼の子定頼の時が六角氏の全盛期で、1532年に近江に逃れた将軍足利義晴を庇護し、1546年には義晴の子義輝を庇護して管領代に任じられて幕政を主導するなど、権勢を振るった。観音寺城はこの定頼の時代に大改修を受け、詰城から壮大な居城へと変貌を遂げたと考えられている。定頼の子義賢の時代になると、六角氏の勢威は陰りを見せ、家臣団が離反するなど動揺を見せた。その後、1568年に足利義昭を奉じた織田信長が上洛の途に就くと、六角義賢・義弼父子は信長の通過を拒否したために信長に攻められ、観音寺城はあっけなく自落した。以後、観音寺城は廃城となった。

 観音寺城は、標高440m、比高320mの繖山に築かれた城で、ほぼ全山を要塞化した壮大な規模の山城であった。しかし城域があまりに広範囲に渡るせいか、その縄張りはやや求心性に乏しく、幾つもの曲輪が連なっただけの様に見える。特にこの城で変わっているのは、本丸が山頂ではなく、山頂から南西に張り出した尾根上に築かれていることで、本丸が最上部にない山城というのは類例が少ない。この城以外で私が知っているのは、越前朝倉氏の詰城一条谷城ぐらいである。それでもその遺構は素晴らしく、殊に大規模に積まれた石垣は、中世城郭の中では群を抜くものである。本丸や周囲の家臣団屋敷である平井氏屋敷・落合氏屋敷・池田氏屋敷・淡路丸など、いずれも立派な石垣で囲まれており、埋門なども残っている。本丸に登る大手道も石段の登城道で、本丸の裏には石組みの井戸跡も残る。この他、あちこちに石垣が残り、観音正寺の近くには大見付という門跡の石垣もある。私が訪城した当時は、まだネットで地形図を入手する術を知らず、手探りで山城に行っていたが、それでも散在する遺構群に感嘆の声を上げていたのだから、今再訪したらどれほど感動するか、想像に難くない。主城域からかなり離れた場所にも畝状竪堀群があるなど、広範囲に遺構があるらしいので、いずれ1日掛けて山中を跋渉したい城である。
大手道の石段→IMG_7773.JPG
IMG_7863.JPG←大見付の石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.145987/136.157840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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安土城 その1(滋賀県近江八幡市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_7702.JPG←天守台の石垣
(2005年3月訪城)
 安土城は、戦国時代の革命児織田信長が天下統一の拠点として築いた城である。尾張の守護代織田家の分家筋に生まれた信長は、家督を相続すると同族を討って尾張国内を統一し、桶狭間で東海最大の戦国大名今川義元を討ち滅ぼし、美濃の戦国大名斎藤龍興をも滅ぼして美濃を平定した。美濃を平定して岐阜城に移った信長は、更に足利義昭という飛び道具を手に入れ、1568年、義昭を奉じて幕府を再興するという名目で上洛を果たし、義昭を15代室町将軍に就けて、一躍天下に覇を唱える権力者にのし上がった。その後、信長と敵対する諸大名による包囲網に苦しみながら、敵対する勢力を武力を以って次々と制圧し、1573年には越前朝倉氏・近江浅井氏を滅ぼした。1576年、信長は重臣の丹羽長秀を総奉行として、琵琶湖畔の比高110mの安土山に新たに安土城を築いた。近世城郭の先駆けとされる革新的な城で、全山総石垣で築かれ、山頂には権力を誇示する壮大な天主を建設した。本丸には、天皇の行幸を仰ぐ為の御殿があったと推測されている。これは、天皇を城に呼び寄せ、自らは天主から天皇を見下ろすという、正に自ら日本国王となるための仕掛けであったとされる。しかし1582年、信長の壮大な野望はわずかな油断から脆くも崩れ去ることとなった。即ち、本能寺の変である。明智光秀に宿所の本能寺を攻撃されて、信長は自刃し、二条城にいた嫡男信忠も討たれ、織田家の権勢は大きく傾くこととなった。この騒乱の中で、安土城は焼失された。焼失の原因は不明であるが、織田家次男信雄が焼いてしまったとの説が有力である。天主完成から焼失まで僅か3年。安土城は、信長の野望と共にはかない夢と散り失せた。そして天下の覇権は、信長の一部将に過ぎなかった羽柴秀吉に移りゆくこととなったのは、誰もが知る事実である。

 安土城は、現在も国の史跡として発掘調査が続けられている。荒れ果てていた城跡は、現在ではかなり整備が進められ、一直線に続く広い大手道も復元されている。権力者の城として見せることを主眼として造られた、おそらく日本史上最初の城で、殺(や)る気満々の中世城郭の方が好きな私からすれば、変質した城というイメージが強い。それでもその遺構は素晴らしく、五角形の特異な形状の天守台石垣や、各曲輪の周囲を固める石垣、枡形虎口など、見所には事欠かない。大手口入ってすぐの両側には伝羽柴秀吉邸と伝前田利家邸があり、石垣が復元整備され、主殿に登る階段の他、排水側溝なども残っている。大手道を形作る石は、近隣の集落から多数徴発されたらしく、所々に石仏まで敷かれている。革新的で旧弊にとらわれない、有能な信長ではあったが、石仏まで下敷きにする異様な絶対君主でもあり、同時代の人達からいかに恐れられ、また反感を買っていたかは、こうした遺構を見ても理解できる。この他、山麓にも石垣が積まれた平場が多数残っており、絶対権力者の城らしくかなりの規模で城造りがされていたことが伺われる。訪城から7年もたった今でも未整備で入れない場所が残っているそうだが、今後も頑張って整備復元してもらいたい。
一直線に伸びる大手道→IMG_7652.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.155854/136.139499/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※後日の東曲輪群の再訪記はこちら


城のつくり方図典 改訂新版

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  • 作者: 三浦 正幸
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長浜城(滋賀県長浜市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_7178.JPG
(2005年2月訪城)
 長浜城は、織田信長の部将であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が築いた水城である。元々は今浜城と呼ばれ、近江半国の守護であった婆娑羅大名、佐々木道誉が1336年に築城し、今浜氏が守備していたと言われている。1575年、織田信長は北近江の戦国大名浅井長政をその居城小谷城に攻め滅ぼし、小谷城攻めで功を挙げた羽柴秀吉に、浅井領の江北三郡を与えた。秀吉は当初小谷城に入ったが、城下町整備や経済発展に不利な山城を捨て、琵琶湖畔の水運の要地であった長浜に、古城を改修して新たに長浜城を築いた。この時、今浜の地名は秀吉によって長浜と改められた。秀吉は、この時初めて城持ち大名となった。1582年、信長は本能寺で横死し、清洲会議で織田家重臣4人が織田家跡継ぎと所領の処置を決めた際、柴田勝家に長浜城が与えられ、勝家は甥の柴田勝豊を長浜城主とした。同年冬、勝家が越前北の庄城で北国の雪に閉ざされている間に、秀吉は長浜城を攻め、勝豊は呆気無く秀吉に降った。翌年、秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝家を滅ぼすと、秀吉の家臣山内一豊が長浜城主となった。関ヶ原合戦後の1606年、内藤信成が駿河から移封されて長浜城主となったが、1615年、子の信正の時に摂津に転封となり、長浜城は廃城となった。その後、彦根城築城の際に、建物・石垣などが移築転用された。

 長浜城は、琵琶湖畔に築かれた平城で、湖水を大々的に引き入れた、水面に浮かぶ水城であったらしい。しかし現在は、市街化・公園化で全て改変され、全くその名残を留めていない。昭和20年代の航空写真ですら、現在の地図にどう当てはまるのかわからないぐらい改変が進んでいるので、戦国時代の城の痕跡は望むべくもない。現在城跡は豊公園となっているが、全く創作の模擬天守が建っているだけで、明確な遺構はない。日本城郭大系には石塁の遺構の写真が掲載されているが、これも現在は残っていない。どのような縄張りの城であったのかも謎で、とにかくこれほど有名な城なのに、これほどその痕跡が残っていない城も珍しいであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.377530/136.261218/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世水城
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彦根城(滋賀県彦根市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_6967.JPG←天秤櫓前の大堀切
(2005年2月訪城)
 彦根城は、徳川四天王の一人、井伊直政が築いた近世城郭で、国宝4天守の一つである。1600年の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、大阪城の豊臣方に備える為に城郭整備に乗り出した。彦根城もその一環として新造された城である。上野高崎城主であった井伊直政は、関ヶ原の戦功により近江佐和山城18万石に封ぜられた。直政は間もなく関ヶ原合戦の際の負傷が原因で没し、その子直勝の代に佐和山城を廃して新たに彦根城の築城を開始した。幕命により、12の大名が普請に加わったにも関わらず、1622年頃まで約20年の歳月を費やす難工事であったと言われる。その後、江戸幕府の重臣井伊家の歴代の居城となり、幕末には大老井伊直弼などを輩出して明治維新まで存続した。

 彦根城は、比高30m程の彦根山に築かれた平山城である。まずその縄張りであるが、甲州流軍学者の早川弥総左衛門によって縄張りされた。近世城郭では非常に珍しく、堀切を主体とした防御線を張っていることが特徴である。即ち、本丸手前の太鼓丸の前面は、馬出しを兼ねた鐘ノ丸との間に石垣で囲まれた堀切が穿たれている。また本丸後方の西ノ丸にも大堀切が穿たれ、三重櫓が睨みを効かせている。そして斜面上には5ヶ所に登り石垣が構えられているのも、類例の少ない特徴である。山麓外周には、地盤の弱さを補強する腰巻石垣が築かれている。その他、二ノ丸外周の石垣・枡形虎口・中堀がほぼ完存し、外郭に当たる三ノ丸の土塁もごく一部ではあるが残っている。
 一方、現存建築物であるが、彦根城はかなりの部分を旧来の城からの移築に拠っている。天守は大津城天守を、天秤櫓は長浜城大手門を、西ノ丸三重櫓は小谷城の天守を、それぞれ移築したものと言われている。また石垣の石材なども、佐和山城などから多く移築されている様だ。

 近世城郭としては、中世城郭の雰囲気の濃厚な極めて特異な縄張りを持ち、しかも多数の現存建築物を有する彦根城は、極めて貴重である。
西ノ丸三重櫓と堀切→IMG_7018.JPG
IMG_7033.JPG←登り石垣と竪堀
腰巻石垣・鉢巻石垣→IMG_7084.JPG
IMG_7137.JPG←三ノ丸土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.276465/136.252238/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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