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女沼古戦場(埼玉県熊谷市) [その他の史跡巡り]

DSCN4053.JPG←古戦場の標柱付近
 女沼の戦いは、南北朝時代に第2次畿内遠征を敢行した鎮守府大将軍北畠顕家と、足利義詮を奉じた上杉憲顕・高重茂らの鎌倉府の軍勢の戦いである。『太平記』第19巻によれば、1337年8月、義良親王を奉じて霊山城を出立した顕家率いる奥州軍が下野国に入ると、この報を聞いた鎌倉府の上杉憲顕らは武蔵・相模の軍勢を率いて出陣し、利根川に防衛線を敷いた。両軍は12月13日に時雨で増水した利根川を挟んで対峙した。この時、源平合戦の加賀篠原の戦いで名高い斎藤別当実盛の後裔・斎藤別当実長は、「敵より先に渡河した方が勝つ」と顕家に進言して先陣を許された。しかし実長が打立つのを見た閉伊十郎・高木三郎はいつも先陣を争っていた者達だったので、実長を出し抜いて先に渡河しようと、利根川に馬を打ち入れた。これを見た実長は、「このままみすみす渡河させては、どうして高名を立てることができよう」と舎弟実季(太平記では実季は「豊後次郎」と記載される)と共に腹を立て、3町ほど上流を2騎で渡ろうとした。しかし実長・実季兄弟は、逆巻く激流に馬ごと飲まれて帰らぬ人となったと言う。これを見た武士達は、「さすがは鬢髭を染めて討死した実盛の末裔だ」と感嘆したと言う。これを機に両軍は川中に討ち入って戦い、結局顕家軍が勝利した。この後16日に、顕家軍は武蔵国安保原でも鎌倉府軍を撃破し、義詮を三浦半島へ追いやり、関東執事斯波家長を討ち取って23日に鎌倉を占領した。

 女沼の戦いは、『太平記』には「戸祢川(利根川のこと)」とだけ書かれていて、具体的な場所は書かれていない。標柱が立っているが民家近くの畑に標柱が立っているので、何か根拠があるのだろう。河川改修で周囲の景観は変わっているが、近くの妻沼聖天山やその周辺には斎藤塚など斎藤氏に所縁のある史跡がある。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.227286/139.387579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記(三) (岩波文庫)

太平記(三) (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/04/17
  • メディア: 文庫


タグ:古戦場
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板櫃川古戦場(福岡県北九州市) [その他の史跡巡り]

DSCN3525.JPG←古戦場付近の現況
 板櫃川の戦いは、大宰少弐・藤原広嗣の乱の時に広嗣軍と朝廷軍が激突した戦いである。『続日本紀』によると、740年、太宰府に左遷されていた広嗣は、全国で相次ぐ伝染病の流行や天災の発生を朝廷の失政が原因であるとして、政敵の僧玄昉・吉備真備を朝廷から排斥するため挙兵した。朝廷は、大野東人を大将軍に任命し追討軍1万7千人を派遣した。両軍は板櫃川で対峙し、広嗣軍は舟筏で渡河しようとしたが、朝廷軍から弓を激しく射掛けられ、渡河に失敗した。更に朝廷軍からの呼びかけで広嗣軍から投降者が相次ぎ、戦列が崩壊、広嗣軍は大敗した。敗走した広嗣は後に肥前で捕らえられて処刑されたと言う。この乱により、朝廷は政治・軍事が集中した太宰府のあり方を再考することとなり、一時大宰府は廃止された。

 板櫃川古戦場は、小倉市街地の南西方にある。古戦場付近は市街化されており、かつての古戦場の雰囲気は全く残っていない。わずかに八幡橋の袂に解説板が立っているだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.876874/130.855021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫)

  • 作者: 宇治谷 孟
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1992/06/05
  • メディア: 文庫


タグ:古戦場
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須賀谷原古戦場(埼玉県嵐山町) [その他の史跡巡り]

DSCN2343.JPG←出土した五輪塔群の覆屋
 須賀谷原古戦場は、山内・扇谷両上杉氏が戦った長享の乱の際の古戦場である。1486年に声望の高かった扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、主君扇谷上杉定正の糟屋館で謀殺され、道灌死後の翌年、関東管領山内上杉氏と扇谷両上杉氏との間に対立が生じ、長享の乱と呼ばれる動乱となった。1488年2月、扇谷上杉定正の本拠糟谷館を襲撃しようとして実蒔原で敗北した山内上杉顕定は、同年6月に定正の重要拠点河越城を攻撃しようと出陣した。しかし定正は、顕定に反逆していた長尾景春と古河公方足利成氏の子政氏の援軍と共に須賀谷原で迎え撃った。この須賀谷原の合戦で扇谷上杉氏は再び勝利した。この後、11月には高見原で三度目の合戦があり、これにも定正は勝利し、山内上杉氏は3タテを食うこととなった。これら3つの合戦を総称して、俗に長享三戦と言う。

 須賀谷原の合戦は、菅谷館北東の丘陵地で行われたらしい。埼玉の古城巡りで有名なブログ「そこに城があるから」の記事を参考に古戦場推定地を訪問した。住宅団地の只中にある空き地(公園?)の丘の上に覆屋があり、五輪塔数基が建っている。ここでは平成12年に行われた発掘調査の結果、戦国時代の塚や墓壙群が発見され、15世紀後半から16世紀前半にかけての遺跡と考えられており、遺跡の年代と位置関係から須賀谷原合戦と関係する遺跡と推測されているらしい。五輪塔はこの時出土したものという。残念ながら、現地には遺跡についての解説板や石碑はなく、あるのは土地区画整理組合の石碑だけである。歴史を後世に伝えるために、遺跡についての解説板などを是非設置してもらいたいものである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.038802/139.327809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱 関東の戦国動乱を読む

もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱 関東の戦国動乱を読む

  • 作者: 水野大樹
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2018/05/18
  • メディア: Kindle版


タグ:古戦場
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浦賀奉行所(神奈川県横須賀市) [その他の史跡巡り]

DSCN2006.JPG←周囲に残る石垣と水路
 浦賀奉行所は、江戸中期の1720年10月に伊豆の下田奉行所を移転し、新たに開設された奉行所である。全国各地から江戸に様々な物資が船で運搬されていたため、江戸に近く、検査をほぼ完ぺきにできる場所として浦賀が選ばれたとされている。浦賀奉行所では、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う「船番所」が開設され、江戸を往来する全ての船は浦賀で検査を受けることが義務付けられた。船改めは廻船問屋105軒に委託され、生活必需品11品目について3ヶ月毎に集計された数字が江戸町奉行へ報告された。また現在で言う税務署・裁判所・警察署・海上保安庁などの仕事も行っていた。浦賀奉行所開設から100年を過ぎた頃から江戸近海に異国船が来航するようになると、江戸を異国船から守る最前線の基地の役目も持つようになった。1853年6月にアメリカ合衆国のペリー艦隊が浦賀に来航すると、中島三郎助や香山栄左衛門らの浦賀奉行所の役人達が交渉などに大いに活躍した。1859年6月に神奈川奉行所が開設されると、異国船関係の仕事は神奈川奉行所に移されたが、浦賀奉行所は1868年閏4月に新政府に接収されるまで続き、更に船改めの業務だけは、1872年(明治5)3月まで続けられた。

 浦賀奉行所は、浦賀港西方の山に挟まれた平地の奥に築かれている。以前は会社の社宅が建っていたが、現在は跡地が横須賀市に寄贈され、更地となっている。しかし周囲には低い石垣が残り、水路が廻らされている。また2021年設置の真新しい解説板も立っている。2020年に奉行所開設300周年を迎えたが、ちょうど新型コロナのパンデミックと重なってしまい、話題になることはほとんどなかったようだ。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.236497/139.719186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


開国への布石: 評伝・老中首座阿部正弘

開国への布石: 評伝・老中首座阿部正弘

  • 作者: 土居 良三
  • 出版社/メーカー: 未来社
  • 発売日: 2000/08/18
  • メディア: ハードカバー


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小山芳姫の墓(栃木県栃木市) [その他の史跡巡り]

DSCN3072.JPG
 小山芳姫は、下野の名族小山義政の正室である。義政は、宇都宮基綱と下野守護職を巡って長年対立しており、1380年に遂に宇都宮領に軍勢を率いて進軍し、裳原で両軍は激突した。この戦いで宇都宮基綱は討死した。義政のこの行為を、勝手に戦を始めたとして咎めた2代鎌倉公方足利氏満は、関東の諸武家に催促状を発し、大軍で小山氏討伐を開始した。所謂「小山義政の乱」で、その経緯は鷲城の項に記載する。芳姫は、侍女一人を連れて最後の拠点粕尾城に立て籠もった夫義政の元に向かう途中、大事に持っていた乾飯の袋を宝の袋と間違われ、案内役の者に山中で殺されたと伝えられる。

 小山芳姫の墓は、谷倉山から西に伸びる尾根の南の谷にある。芳姫が殺された場所と言われ、標高340m程の場所で、麓から山道(寒沢林道)を30分程かけて登った先にある。5~6年ほど前に台風だか豪雨だかで山道が崩れて登れなくなったと聞いていたが、Google Mapの口コミでここ1~2年で登っている人がいたので、今回意を決して登った。山道は途中に何回も案内板が出ているので、あまり迷わずに登ることができる。ただ、途中道が崩れてる場所が数ヶ所あり、荒れている所もあるが、さほど困難ではない。墓は刻文によれば享保8年(1723年)に建てられたもので、脇には墓塔上部の残欠2基と小祠もある。こんな山奥の高所なのに、結構人が来ているらしく、真新しい花とお供物が飾られていた。麓には小山芳姫を祀った御堂があり、そこには以前に訪れているが、山中のお墓には7年越しでようやく登ることができ感慨深い。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.487307/139.632121/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東公方足利氏四代―基氏・氏満・満兼・持氏

関東公方足利氏四代―基氏・氏満・満兼・持氏

  • 作者: 田辺 久子
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2002/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:墓所
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妙吉塚(栃木県宇都宮市) [その他の史跡巡り]

DSCN1829.JPG←妙吉塚
 妙吉塚は、南北朝末期の1387年に築かれた高塚である。塚の上には宝篋印塔が建ち、「至徳四丁卯八月七日 聖金剛仏子妙言(吉?)貞禅」と刻まれている。また塚の東側には、妙吉安産子育高地蔵尊がある。宝篋印塔の碑文は妙言貞禅と読めそうだが、見様によっては妙吉貞禅とも読める。南北朝時代で妙吉と言えば、初期の室町幕府を主導した足利直義から絶大な信任を得ていた謎の禅僧に思い至る。妙吉は、元々尊氏・直義兄弟が深く帰依した夢窓国師の兄弟弟子で、夢窓の斡旋で直義に近侍してその信任を受け、絶大な権勢を振るったらしい。そして直義の側近上杉重能・畠山直宗と結んで、将軍尊氏の執事高師直の暗殺を目論んだが、失敗した。逃れた師直は京に大軍を集めて直義邸、次いで直義が逃れた将軍御所(尊氏邸)を囲み(「御所巻」という)、上杉重能・畠山直宗・妙吉3人の引き渡しを要求した。数度の交渉の結果、直義は政務から身を引き、上杉・畠山両名は配流となったが、妙吉だけはこの混乱の最中に逐電し、その後行方知れずとなり、歴史からその姿を消した。妙吉は、軍記物の『太平記』だけでなく、第1級の同時代資料である『園太暦』にもその名があるので、実在したことは間違いない。観応の擾乱の導火線となった大事件の当事者であった。妙吉塚はこの僧妙吉の供養塚の可能性がある。おそらく全国でも妙吉にまつわる史跡はここにしかなく、もし本当に妙吉のものだとしたら、晩年は宇都宮氏の庇護を受けていたのかもしれない。

 妙吉塚は、日光街道の西に並走する脇道沿いにある。高龗(たかお)神社境内の西端にあり、脇の市道はこの塚を避けるためやや屈曲している。想像していたよりも大きい立派な塚である。南北朝フリークにとっては貴重な史跡である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.588371/139.863338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Kindle版


タグ:墓所
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宗円塚(栃木県宇都宮市) [その他の史跡巡り]

DSCN1302.JPG←宗円塚と呼ばれる古墳
 宗円塚は、下野の名族宇都宮氏の初代とされる藤原(宇都宮)宗円の墓と言われている。但し、藤原宗円は実在が証明されておらず(宇都宮氏で実在が確認されているのは、2代宗綱からである)、半ば伝説上の人物であることは注意しなければならない。また宗円塚は古墳であるので、宗円が死んだ平安後期(1111年に没したと伝わる)とは築造の年代が大きく隔たっており、宗円の墓でないことは明らかとされる。

 宗円塚は、宗円塚古墳群という丘陵上の小さな円墳群の一角にある。この古墳群の中で最も南東にあり、規模も最大の円墳である。前述の通り藤原宗円の墓とする伝承は後世の仮託に過ぎないが、宗円塚と同じ丘陵の北西には藤原宗円・宗綱父子が居住したとされる羽下城があるので、宗円伝説を色濃く残す地であることは間違いないようだ。

 尚、宇都宮市内には宗円の墓と言われている場所が2ヶ所あり、一つがこの宗円塚で、もう一つは新里町の日枝神社南方にあるオカザキ山と言う小山である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.583253/139.817451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


タグ:墓所
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神戸古戦場(長野県富士見町) [その他の史跡巡り]

DSCN3633.JPG←古戦場の五輪塔と解説板
 神戸古戦場は、1528年に諏訪攻略を狙う武田信虎が諏訪頼満と戦った古戦場である。甲斐国内を統一した信虎は、1528年8月22日、蘿木(つたき)郷の小東に先鋒隊を進出させたが、これに対して頼満は8月26日に木舟の白ザレ山に軍を進めて布陣した。両軍は8月30日に激突した。朝、武田勢の進撃を諏訪勢が迎え撃つ形で戦いが始まり、神戸付近一帯が戦場となった。この戦闘では諏訪勢が敗れ、部将千野孫四郎などが討死した。しかし夜になって諏訪勢が勢いを盛り返して境川付近で武田勢を攻撃し、武田方の部将萩原備中守などを討ち取って勝利したと言う。この後、数年間は両軍で交戦が続いたが、1535年に両軍は和睦した。

 神戸古戦場は、神戸地区北端の旧甲州街道沿いの丘陵地に石碑が立っている。場所が非常にわかりにくいが、民家裏の高台に解説板が立ち、その近くに戦死者の供養塔と伝えられる五輪塔4基が立っている。一応町の史跡になっているので、解説板がある場所までの誘導標識などを設置してくれるとありがたいのだが・・・。


 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.930578/138.206184/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田信虎 (中世武士選書42)

武田信虎 (中世武士選書42)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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瀬沢古戦場・九ッ塚(長野県富士見町) [その他の史跡巡り]

DSCN3617.JPG←瀬沢古戦場の石碑
 瀬沢の戦いは、『甲陽軍鑑』だけに記され、同時代史料には現れない謎の多い合戦である。1542年2月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の4大将は甲斐の武田信玄を攻撃しようと合議し、甲信境の瀬川に陣取った。しかしこの動きを察知していた信玄は密かに軍勢を発し、3月9日朝、信濃勢の不意を衝いて攻撃した。武田軍は信濃兵1621を討ち取って大勝したが、味方にも多数の死傷者を出したと言う。以上が軍鑑の記述であるが、実際の年次と合わないなど不自然な事が多い。しかしその一方で地元にはその伝承を裏付ける史跡や地名も存在している。
 九ッ塚はそうした史跡の一つで、戦死者の屍を9つの穴に埋めて塚を作ったと伝えられる。

 瀬沢古戦場は、国道20号線が大きくカーブする地点の内側道沿いに石碑と解説板が立っている。このカーブはかなり急である上、内側に丘があって視界を遮っているので完全なブラインドコーナになっており、車通りも多く横断するのは大変危険である。近くで農作業をしていた方の話では過去に何度も事故があったとのことで、そのため古戦場碑の東側に地下通路が作られている。訪問の際はこの地下通路を使って道路を横断した方が良い。
 また九ッ塚は、瀬沢古戦場碑から1.2km程西方の横吹地区の町道脇にある。ここにも石碑と解説板が立ち、謎の多い歴史を伝えている。
九ツ塚の石碑→DSCN3626.JPG

 場所:【瀬沢古戦場】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.896047/138.244550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【九ツ塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.893578/138.231740/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)

甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 文庫


タグ:古戦場
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乙事陣場(長野県富士見町) [その他の史跡巡り]

DSCN3612.JPG←現在の乙事原
 乙事陣場は、1582年の天正壬午の乱の際、徳川方の七手衆が迫りくる北条勢に対して布陣した陣場である。武田征伐で短時日で武田氏を滅ぼし、その領国を併呑して得意の絶頂にあった織田信長であったが、そのわずか3ヶ月後の6月2日早暁、信長が本能寺で横死すると、甲斐・信濃を支配していた織田氏の勢力は瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発した。北条氏直は、神流川の戦いで滝川一益を破った後、服属した上野国衆を加えた大軍を率いて碓氷峠を越え、信濃に侵攻した。そして川中島での上杉景勝との対陣を経た後、7月29日、甲斐制圧に矛先を変えて南下を始めた。一方、信長の招待で堺遊覧中だった徳川家康は、本能寺の変の報を受けて決死の伊賀越えを敢行して、6月4日、命からがら岡崎城に戻った。その後、家臣や庇護していた武田旧臣達を甲信攻略のため先発させた。6月27日には重臣の酒井忠次に命じて、3000人余の軍勢を率いて奥三河から伊那口を通って信濃に侵攻させた。忠次は、伊那衆を服属させつつ北上し、諏訪を目指した。家康自身は、駿河から中道往還を経て甲斐に入り、7月9日に甲府に着陣した。この頃、諏訪郡に到達した忠次は、信長滅亡後に旧領を回復して高島城(茶臼山城)で自立した諏訪頼忠を服属させるため、開城交渉を開始した。しかし頼忠は、忠次の高圧的な態度に反発して返って北条方への服属を決めてしまい、徳川方との交渉は遅々として進まなかった。家康は、頼忠を味方につけるため軍事的圧力を強めるべく、甲斐から大久保忠世・大須賀康高ら七手衆を諏訪に派遣した。忠世らは7月18日に諏訪に着陣し、乙事村名主の五味太郎左衛門を使者に立てて数度の交渉を行ったが、頼忠の北条氏服属の意志は決しており、7月22日に徳川七手衆と諏訪氏との交渉は決裂し、徳川軍は高島城への攻撃を開始した。しかしそんな最中の7月29日、北条軍4万3千の大軍が諏訪を目指して南下を始めたとの知らせを受けた七手衆は、29日夜、撤退を開始した。3千の兵を率いて乙事まで退いて布陣したが、北条の大軍は一里近くまで迫り、両軍は乙事原で衝突しようとする寸前にあった。この時、太郎左衛門はつぶさに北条軍の動静を探り適切な助言をしたので、徳川軍は上の棒道を進んでくる北条軍の先鋒隊を牽制しつつ、中の棒道を通って一兵も損なうことなく新府に退くことができた。これを乙事の退陣と言い、徳川軍が布陣した乙事原の地を陣場と呼ぶようになった。この後の乱の経緯は、御坂城の項に記載がある。天正壬午の乱終結後、太郎左衛門はその功績により十貫文の知行を拝領し、更に後になって家康に召し出され、姓を乙骨と改め、その旗本に取り立てられた。

 乙事陣場は、矢の沢川と母沢川に挟まれた丘陵地帯にあったらしい。現在はなだらかに傾斜した丘陵地であるが、現地解説板によれば以前はなだらかな尾根となっていたらしい。しかし戦後の土地改良区整理事業で切り取られ、改変されてしまっている。市道の脇に解説板が立ち、そこから北北西90m程の高台に「史跡 陣場」と刻まれた石碑が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.907240/138.266523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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桔梗ヶ原合戦 宗良親王本陣(長野県岡谷市) [その他の史跡巡り]

DSCN4966.JPG←東堀正八幡宮境内の石碑
 桔梗ヶ原合戦は、南北朝期の1355年に南朝の宗良親王が結集した信濃南朝方と北朝方の信濃守護小笠原氏率いる軍勢との戦いである。これに先立つ1351年12月、観応の擾乱で足利方が尊氏党と直義党に二分して抗争した隙に乗じ、南朝方は一時京都を制圧(正平一統)、更に関東では宗良親王が新田一族と共に碓氷峠を越えて関東に進撃し、足利尊氏を攻撃した(武蔵野合戦)。一旦は足利勢を破って鎌倉を制圧したものの、体勢を立て直した尊氏勢の逆襲にあって敗退し、新田一族は四散、宗良親王も越後に逃れた。その後、宗良親王は再び信濃に戻っていたが、1355年に諏訪氏・仁科氏ら信濃南朝方を結集して挙兵し、北朝方の信濃守護小笠原長基の軍勢と桔梗ヶ原で合戦した。これは、同年に故直義の養子直冬の元に結集した旧直義党が南朝と組んで京都争奪戦を行っており、これに呼応して宗良親王も挙兵したものと考えられる。しかしこの桔梗ヶ原合戦については『太平記』にも記述がなく、史料も少ないため実情はよくわかっていないが、南朝方の大敗となり、信濃南朝方は大きく衰退した。

 この桔梗ヶ原合戦の際に、宗良親王が本陣を置いたと伝えられるのが東堀正八幡宮の境内である。ここには柴宮の地名が残っているが、これは宗良親王がこの地に来た時、諏訪社の社人が仮の御所を柴で造り御座所としたことから柴宮の名が付いたと伝えられる。現在はただの神社であるが、境内に宗良親王御舊蹟地と刻まれた石碑が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.075248/138.064435/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣所
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安国寺門前古戦場(長野県茅野市) [その他の史跡巡り]

DSCN1896.JPG←安国寺の山門
 安国寺門前古戦場は、甲斐の武田信玄が高遠頼継を破った戦いである。1542年、信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで諏訪氏惣領の諏訪頼重を攻撃して降し、甲府で自刃させた。これにより諏訪惣領家の直系は滅亡した。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに信玄は頼重の遺言と称して頼重の遺児寅王を擁して出陣し、高遠勢を攻撃した。9月25日、安国寺門前の一帯で両軍の激戦があり、700余人の戦死者を出して高遠勢は大敗し、頼継は敗走したと言う。この結果、諏訪郡全域は武田氏の支配下となった。

 安国寺門前古戦場は、その名の通り安国寺の周辺で行われた。安国寺は、南北朝時代の小康時期の1345年、足利尊氏・直義兄弟が夢窓国師の勧めに従って元弘以来の戦乱による戦死者を弔うため、全国66ヶ国に造立した寺院である。信濃安国寺は、現在も茅野市宮川に残っている。門前を通る車道の脇の生垣に古戦場の解説板が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.989093/138.140802/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

戦国大名武田氏の戦争と内政 (星海社新書)

  • 作者: 鈴木 将典
  • 出版社/メーカー: 星海社
  • 発売日: 2016/07/26
  • メディア: 新書


タグ:古戦場
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長尾能景塚(富山県砺波市) [その他の史跡巡り]

DSCN0490.JPG←能景塚
 長尾能景は、上杉謙信の祖父に当たる。越中守護畠山氏の勢力が減退し、射水・婦負郡守護代神保慶宗が越中一向一揆と手を結んで自立の動きを見せると、1506年、畠山尚順は越後守護代の能景に支援を求め、これが越後長尾氏が越中の騒乱に関わるきっかけとなった。能景は、越後に一向一揆の勢力が広まるのを恐れて尚順の要請に応じ、7月に軍勢を率いて越中に侵攻した。そして同年9月、礪波郡盤若野で一揆勢と交戦したが敗れ、討死した【般若野の戦い、または芹谷のの戦いとも言う】。

 長尾能景塚は、市の史跡となっている伝長尾為景塚の東方180mの位置にある。民家の屋敷地の中に円墳の様な塚があり、その頂上近くに石造りの墓塔が立っている。ネット上には能景塚の情報がないので、為景塚の解説板に書かれている「東方180mの屋敷にある」という情報だけを頼りに場所を推測し、そのお屋敷の住人の方に敷地内に能景塚がありますかと訊いたら、家の裏手にあると教えていただけた。一般の民家であるので、詳細な場所を記載するのは差し控えさせていただく。
塚に立てられた墓塔→DSCN0491.JPG


上杉謙信 人物叢書

上杉謙信 人物叢書

  • 作者: 山田邦明
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/11/01
  • メディア: Kindle版


タグ:墓所
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巣伏古戦場(岩手県奥州市) [その他の史跡巡り]

DSCN5250.JPG←古戦場碑
 巣伏の戦いは、蝦夷の族長アテルイ(阿弖流為)が征東将軍紀古佐美率いる朝廷の大軍を撃破した戦いである。『続日本紀』によれば、桓武天皇は789年、蝦夷勢力の拠点を制圧するため、紀古佐美を征東将軍に任じ、大軍をもって胆沢地方に侵攻させた。古佐美は征東軍を3軍(前中後)に分け、北上川を渡ってアテルイ率いる蝦夷軍を攻撃した。中後軍から各々2千人を選んで渡河し、アテルイの居所に着く頃に蝦夷軍300余人と迎撃戦となった。戦闘は征東軍が優勢で、村々を焼き払いながら進軍した。巣伏村で前軍と合流する予定であったが、前軍は蝦夷の別働隊に阻まれ、渡河できずにいた。そうした中、中後軍に蝦夷軍800人程が次々と来襲し、その激しい攻勢に征東軍は後方へと押し戻された。更に東の山上の蝦夷の伏兵400人程が征東軍の横・後方から急襲して挟み撃ちにし、征東軍は退路を断たれ総崩れとなった。結局征東軍は、戦死者25人、矢に当たった負傷者245人、川での溺死者1036人、裸で泳ぎ生還した者1257人の損害を出して大敗したと言う。小軍が巧みな戦術で大軍を討ち破った、日本古代史上稀有な戦いであった。

 巣伏古戦場は、県道251号線の四丑橋付近で行われたとされる。「四丑」(しうし)の地名は、古代の「巣伏」(すふし)であったとされる。墓地の前に石碑と解説板が立っている。またここから南南西1.4kmの北上川対岸には、物見やぐらが立つ巣伏古戦場跡公園がある。現在ではのどかな田園地帯が広がっているだけだが、蝦夷の時代から前九年の役・後三年の役に至るまで、朝廷に翻弄された東北の歴史の重要な一コマである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.156962/141.173930/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


阿弖流為: 夷俘と号すること莫かるべし (ミネルヴァ日本評伝選)

阿弖流為: 夷俘と号すること莫かるべし (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 樋口 知志
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2013/10/10
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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瀬原古戦場(岩手県奥州市) [その他の史跡巡り]

DSCN4273.JPG
↑古戦場付近の景観
 瀬原古戦場は、前九年の役の際の古戦場である。安倍軍の本陣は、北は鵜ノ木の稜線、南は毛越寺の稜線の間の衣川の全域であったとされる。1057年9月、安倍軍はこの本陣の中に源頼義軍を誘い込む作戦を展開した。源氏軍の主力は北上川東岸の長島から渡河して衣川に攻め込んだが、陣場山に密かに待機していた安倍軍は、源氏軍を充分に引き寄せてから攻撃を加え、大損害を与えるとともにその退路を絶ったと伝えられる。

 瀬原古戦場は、衣川地区の東端付近にある。民家の横に解説板が立っているだけで、周囲にはのどかな田園風景が広がっている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.011523/141.107862/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像 (中公新書)

  • 作者: 高橋 崇
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1991/09/01
  • メディア: 新書


タグ:古戦場
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将門の首塚(栃木県宇都宮市) [その他の史跡巡り]

DSCN3953.JPG←首塚
 宇都宮市の旧河内町の下ケ橋地区には、平将門の首塚と伝えられる供養碑がある。将門縁故の者がこの地に遁れ、将門の怨霊を弔うために建てたものと伝わる。

 将門の首塚は、県道125号線と239号線が交わる東下ケ橋交差点の南東にある。馬頭観音堂の裏手にあり、覆屋のある供養碑が立ち、その脇に将門の事績を伝える石碑が建てられている。将門にまつわる史跡は関東各地にあるが、将門討伐で功のあった藤原秀郷の本拠があった下野国内では将門の史跡は珍しく、希少である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.651352/139.943032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


平将門と天慶の乱 (講談社現代新書)

平将門と天慶の乱 (講談社現代新書)

  • 作者: 乃至政彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/04/10
  • メディア: Kindle版


タグ:墓所
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大島古戦場(山梨県身延町) [その他の史跡巡り]

DSCN3583.JPG←柵で囲われた古戦場の一角
 大島古戦場は、甲斐に侵攻した駿河今川氏の部将福島正成率いる今川勢と、甲斐の武田勢が戦った古戦場である。1521年、今川氏親の家臣で遠州土方城(高天神城)主福島正成は1万5千の大軍を率いて甲斐へ侵攻した。甲州河内に駐留していた所、8月28日に武田信虎は総攻撃を掛けて今川勢を敗走させた。しかし今川勢は態勢を立て直して逆襲に転じ、9月6日に富士川左岸の大島で武田勢を迎え撃ち、これを撃破した。今川勢は敗走する武田勢を追って富士川沿いを遡り、9月16日に甲府盆地の入口にある富田城を攻略し、この城を前進基地とした。その後、今川勢は甲斐府中の武田信虎の館(躑躅ヶ崎館)を目指して進撃を開始した。一方、武田信虎は大井夫人を要害城に避難させ、2千の兵を率いて荒川左岸の飯田河原に布陣した。正成率いる今川勢は、登美の龍地台に布陣して荒川を挟んで信虎の軍勢と対峙した。10月16日に飯田河原で両軍は激突し、武田勢が勝利した。今川勢は態勢を立て直し、再び11月23日に上条河原で武田勢と激戦を交えたが、信虎は再び今川勢に大勝した。大敗した今川勢は総大将の福島正成を始め多くの部将を失い、富田城へ敗走した。そのまま越年し、1月14日に駿河に引き上げたと言う。この戦いで今川勢に味方した波木井城主波木井義実は、1527年に信虎に攻められ、峯の城(波木井城)で滅ぼされたと言う。

 大島古戦場の場所は非常にわかりにくい。場所は大島集落の南端で、県道10号線から少し東に入ったところにある柵で囲まれた空き地が大島古戦場に指定されており、解説板が設置されている。空き地の中には東西に離れて2つの五輪塔がポツンと立っている。この今川勢侵攻に関する史跡は複数あり、戦国甲斐の歴史にとって非常に重要な事件であったことが伺われる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.332379/138.450587/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


今川氏親 (中世関東武士の研究26)

今川氏親 (中世関東武士の研究26)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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飯田河原古戦場(山梨県甲府市・甲斐市) [その他の史跡巡り]

DSCN3269.JPG←飯田河原古戦場慰霊碑
 飯田河原合戦は、甲斐に侵攻した駿河今川氏の部将福島正成率いる今川勢を、武田信虎が撃ち破った戦いである。1521年9月、今川氏親の家臣で遠州土方城(高天神城)主福島正成は1万5千の大軍を率いて甲斐へ侵攻した。このとき富田城は9月16日に落城し、今川勢の前進基地となった。その後、今川勢は甲斐府中の武田信虎の館(躑躅ヶ崎館)を目指して進撃を開始した。一方、武田信虎は大井夫人を要害城に避難させ、2千の兵を率いて荒川左岸の飯田河原に布陣した。正成率いる今川勢は、登美の龍地台に布陣して荒川を挟んで信虎の軍勢と対峙した。10月16日に飯田河原で両軍は激突し、武田勢は勝利した。今川勢は態勢を立て直し、再び11月23日に上条河原で武田勢と激戦を交えたが、信虎は再び今川勢に大勝した。大敗した今川勢は総大将の福島正成を始め多くの部将を失い、富田城へ敗走した。そのまま越年し、1月14日に駿河に引き上げたと言う。

 飯田河原古戦場は2ヶ所に石碑があり、一つは県立中央病院西側の荒川東岸に慰霊碑が建ち、もう一つは甲斐市島上条にある八幡神社境内に供養板碑が建てられている。供養板碑の方は、大永年間(1521~28年)に建てられた可能性がある古い板碑で、市の有形文化財となっている。甲斐の戦国時代の歴史を今に伝える貴重な碑である。
飯田河原合戦供養板碑→DSCN3260.JPG

 場所:【飯田河原古戦場慰霊碑】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.671095/138.548863/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【飯田河原合戦供養板碑】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.683592/138.528650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田信虎 (中世武士選書42)

武田信虎 (中世武士選書42)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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裳原古戦場(栃木県宇都宮市) [その他の史跡巡り]

DSCN2474.JPG←古戦場付近の現況
 裳原古戦場は、1380年に行われた小山義政と宇都宮基綱の戦いである。小山・宇都宮両氏は、いずれも劣らぬ下野の名族であり、下野守護職を巡って長年対立していた。そしてついに1380年5月、義政は軍勢を率いて宇都宮氏の支配地域に進撃した。基綱はこれを迎え撃ち、両軍は裳原で激突した。激戦の末、宇都宮勢は当主基綱を始め80名余りが討死にした。しかし一方の小山勢も、一族30名余り、家臣200名余りが討死するという大難戦であった。義政の攻撃による基綱戦死の報は、かねてから小山氏の勢力削減を狙っていた鎌倉公方足利氏満に格好の口実を与え、氏満は鎌倉府を挙げた小山氏討伐を開始した。こうして始まったのが小山義政の乱と呼ばれる動乱で、裳原合戦は関東中世史の大きな画期となる戦いであった。

 裳原古戦場の伝承地はいくつかあるが、そのうちの一つが宇都宮市茂原2丁目の国道4号線付近と言われている。南北朝期の戦いでは、街道筋の要地での合戦が数多くあった様に、裳原合戦も現在は国道4号線に変貌した、古の奥州街道沿いの戦いであった。裳原古戦場は、現在は幹線国道の途中なので、周囲は完全に市街化し、往時の面影は微塵も見られない。しかしいつの日か、古戦場碑が建てられる日を望みたい。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.473177/139.870956/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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小荒間古戦場(山梨県北杜市) [その他の史跡巡り]

DSCN8669.JPG←信玄の御座石
 小荒間の合戦は、1540年2月に武田晴信(信玄)が信濃の村上義清の軍勢を破った戦いである。村上氏の軍勢3500余が小荒間に押し寄せ近郷を焼き払ったので、晴信は旗本を率いて迎撃し、勝利を得たと言う。但し、『甲陽軍艦』に記載されたこの戦いは、史実としては疑問とされている。

 小荒間古戦場は、JR小海線の甲斐小泉駅の南西にある。古戦場の石碑の他、信玄の「御座石」「鞍掛石」等がある。以前は整備され、解説板もあったらしいが、現在はほとんど放置され、薮だらけになっている。「遠見石」というのもあったらしいが、現在は標柱もなくなってどれがその石だかわからなくなってしまいっている。山梨県内で信玄にまつわる史跡がこれほど放置されている例は他に見たことがなく、これではさすがに信玄が泣くぞ、と思わずにはいられなかった。
薮に埋もれた鞍掛石→DSCN8670.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.878941/138.358287/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

山梨県の歴史散歩 (歴史散歩 19)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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大坪古戦場(山梨県韮崎市) [その他の史跡巡り]

DSCN8161.JPG←古戦場碑
 大坪古戦場は、1531年に甲斐統一を目指す武田信虎が、甲府を目指して進む諏訪頼満の援軍を引き連れた飯富虎昌・栗原兵庫・今井信元ら国人衆の連合軍を撃破した「河原部合戦」の古戦場である。また1538年7月18日には、武田晴信(後の信玄)は諏訪頼重・小笠原長時の信濃連合軍を韮崎において迎撃し、大坪の地で信州軍に大勝したと言う。

 大坪古戦場は、JR韮崎駅の真裏の路地脇に石碑が建っている。珍しい石碑で、韮崎合戦大坪古戦場之碑と刻まれた石碑の裏面には、3つの合戦で秋山兵庫介に与えられた感状(戦功を賞した文書)が刻まれている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.709575/138.452314/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1





タグ:古戦場
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夕狩沢古戦場(山梨県山梨市) [その他の史跡巡り]

DSCN7813.JPG←解説板が立つ夕狩沢
 夕狩沢古戦場は、武田氏13代信昌が守護代の跡部景家を撃ち破った戦いが行われた場所である。跡部氏は武田信元(穴山満春)の甲斐入国時にその後援のため跡部明海・景家父子が守護代として入国したが、守護武田氏を凌ぐ勢威を有し、国内の実権を掌握した。1455年に信昌が守護となった時、信昌がまだ幼少であったため跡部氏は専横を極めたとされる。1464年に明海が死去すると、翌年19歳の信昌は夕狩沢合戦で跡部景家を破り、景家は小田野城に敗走して自刃した。こうして跡部氏の排除に成功した信昌は家運を挽回した。

 夕狩沢古戦場は、兜山の東麓にある。現在はぶどう畑の広がる丘陵地帯で、フルーツラインという市道の脇に解説板が立っている。その北西には御前山城があり、もしかしたら夕狩沢合戦に関連した城砦であったかもしれない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.688751/138.651441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


生誕500年 武田信玄の生涯

生誕500年 武田信玄の生涯

  • 出版社/メーカー: 山梨日日新聞社
  • 発売日: 2021/03/15
  • メディア: 大型本


タグ:古戦場
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菖蒲沼古戦場(山形県寒河江市) [その他の史跡巡り]

DSCN5809.JPG←古戦場碑
(2020年11月訪問)
 菖蒲沼の戦いは、1480年に伊達成宗の軍勢が寒河江大江氏を攻撃した戦いである。これより先、周辺に勢力を拡大する伊達氏に対して寒河江大江氏は敵対姿勢を示してきた。そこで1479年冬、伊達成宗は一族の桑折播磨守宗義を大将として寒河江大江氏の本拠寒河江城を攻撃させたが、深雪の為撤退した。翌80年春、成宗は再び寒河江大江氏を攻撃した。伊達勢は寒河江荘の奥深くの菖蒲沼に誘い込まれ、そこへ溝延・左沢勢の伏兵が襲い掛かって、伊達勢は総崩れとなった。大将の桑折宗義も傷を負い、自刃したと言う。

 菖蒲沼の戦いは、長岡山北麓の一帯で行われたらしい。市道の脇に石碑が立っているが、石碑が小さい上に、碑が立っているのが車道より一段低い果樹園の隅なので、普通だったらまず気付かないだろう。解説板もなく、残念である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.388680/140.269586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山形県の歴史 (県史)

山形県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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女子林古戦場(山形県山形市) [その他の史跡巡り]

DSCN5710.JPG←古戦場の解説板
(2020年11月訪問)
 女子林古戦場は、1600年の慶長出羽合戦の際に、撤退する上杉軍と追撃する最上軍の間で激戦が展開された戦いの場である。慶長出羽合戦の経緯は長谷堂城の項に記載する。大軍で長谷堂城を囲んだものの、最上方の巧みな防衛戦により城を攻めあぐねた直江兼続率いる上杉勢は、関ヶ原合戦の西軍敗戦の報に接し、撤退を開始した。上杉勢は、富神山の南側と南沢・早坂林道方面に分かれて退却したが、それを察知した最上義光は針生熊蔵、月岡八右衛門等に追撃を命じた。一隊は山王で上杉勢に追いつき激しい攻防戦が繰り広げられた。もう一隊は早坂林道に先回りをし、オカグラ山麓の南沢を退却する上杉勢を捕捉することに成功し、女子林という急な山道となる場所で上杉勢を攻撃した。東軍勝利の報に勢いづいた最上勢の追撃は厳しく、両軍銃撃戦を交え、敵味方入り乱れての激烈な戦いが展開された。双方多数の死傷者を出し、最上方の記録では、この合戦に味方の兵600余人を失ったが、上杉勢の首級1580余を獲ったと言われている。慶長出羽合戦での最大の犠牲者を出した戦いとなった。

 女子林古戦場は、オカグラ山楯の西側の丘陵地帯にあったらしい。古戦場の解説板が、七ッ松集落内と、集落から北西に伸びる山道の奥(オカグラ山楯に向かって南沢川を渡河する付近)に立てられている。集落内にある地図によれば、山道の奥の解説板から更に北西に入ったところが古戦場であるらしい。しかし耕作放棄地の薮が広がっているだけで、何も確認できない。ここでは解説板の位置を示すに留めておく。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.241231/140.228623/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本



タグ:古戦場
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般若野古戦場(富山県高岡市) [その他の史跡巡り]

DSCN3789.JPG←弓の清水
 般若野古戦場は、別名を弓の清水古戦場とも言い、治承・寿永の乱(所謂源平合戦)の際の倶利伽羅合戦の前哨戦が行われた場所である。1180年に以仁王の令旨を受けて信濃で挙兵した木曽義仲は、北陸に勢力を広げた。1183年、平家は北陸の木曽義仲軍を討伐するため、平維盛を総大将とする10万の大軍を北陸道へ差し向けた。越前・加賀を制圧して進軍した維盛は、越中前司平盛俊に兵5千を与えて先遣隊として越中へ進出させた。一方、越後国府にいた木曽義仲は、平家軍の北陸進軍の報を受け、自ら軍を率いて越中へ兵を進めた。この内、義仲の重臣今井兼平を先遣隊として兵6千で先発させ、兼平は越中国御服山(現在の呉羽山)に布陣して迎撃態勢を整えた。平盛俊は倶利伽羅峠を越えて越中に入ったが、今井軍が御服山に布陣していることを知って、盤若野で進軍を停止した。兼平は、5月9日未明に平盛俊軍に夜襲を掛けた。盛俊軍は善戦したが、劣勢となり退却した。そして義仲が、倶利伽羅峠で平家の大軍を撃破したのは、この2日後の5月11日のことである。
 尚、「弓の清水」は、義仲の本軍が般若野に駆けつけた時、義仲が喉の渇きを訴える兵士達のために崖に矢を射たところ、清水が湧き出て渇きを癒したという伝説による。現在も水が湧き出しており、とやまの名水に選出されている。

 般若野古戦場は、常国神社の南にある。Y字に分岐した道路の中央にそびえる小丘の西麓に弓の清水があり、そこから丘上に伸びる遊歩道を登っていくと、丘上に古戦場の石碑が立っている。義仲の快進撃が始まった由緒のある地である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.687435/137.037545/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


木曽義仲に出会う旅

木曽義仲に出会う旅

  • 作者: 伊藤 悦子
  • 出版社/メーカー: 新典社
  • 発売日: 2012/07/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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武田信玄の治水事業(山梨県甲斐市・韮崎市・南アルプス市) [その他の史跡巡り]

DSCN2478.JPG←信玄堤の現在の姿
(2020年8月訪問)
 武田信玄が甲斐国主として在世中に行った釜無川・御勅使(みだい)川の治水事業は、広く知られている。国の史跡にも指定されているし、NHK BSプレミアムの「英雄たちの選択」で治水について取り上げた回(「水害と闘った男たち〜治水三傑・現代に活かす叡智〜」)でも細かく紹介されていた。

 戦国大名といえば、世間一般では民衆の苦しみをよそに戦いに明け暮れていたイメージが強いが、実際にはかなり民政を重視した政策を採っていた。民衆が疲弊すれば国力が弱体化し、すぐに他国に攻め込まれて滅亡する危険性があったし、領内の有力国人衆が主君の悪政に対して叛乱を起こすと、たちまち国から追放される可能性もあったため(中世では家臣には主君を選ぶ権利があると考えられていた)、各地の戦国大名はかなり民政に神経を尖らせていた。最先端の領内統治システムを構築していた小田原北条氏などは、その最たるものである。現代の、危機感が欠落し、上から目線で国民をナメてかかっている劣悪な政治屋たちに、爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいである。戦国時代は、ある意味で現代よりも国民に目を向けていた時代だったから、堤防などを築いて治水事業を行った大名は数多い。中でも複合的な治水対策を行った大名が、武田信玄であった。信玄はおよそ20年もの時間をかけて、これらの治水事業を完遂した。

 ここでは、信玄が行った治水事業による史跡群を紹介する。


<信玄堤>
 信玄堤は、甲府の西方、釜無川と御勅使川の合流点の下流に築かれた堤防である。しかしこの堤防だけでは、暴れ川の釜無川・御勅使川の洪水を防ぐことができない。そこで以下の様な複合的な対策を行って洪水の流れを調節した。
 ・御勅使川の流れを上流の「石積出し」で北側へはねる
 ・このはねた流れを2つの「将棋頭」で受け止める
 ・次に河岸段丘を切り開いた「堀切」で御勅使川の洪水の流れを「高岩」に導き、その勢いを弱める
 こうして弱まった流れを「信玄堤」で受け止めたと言う。ただ、信玄が築いた当時の「信玄堤」は霞堤という形式であり、現在のものとは形が異なる。霞堤については後述する。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.668088/138.501474/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<聖牛>
信玄堤公園にある聖牛→DSCN2649.JPG
 聖牛は、洪水の流れを弱めるために考えられた日本で有名な古い河川工法の一つで、戦国時代の甲州が発祥の地と言われている。丸太を横に寝た三角錐の形に組み、底面に細長い石籠をいくつも積んだ形をしている。展示用のものが信玄堤公園の北端にあるほか、川縁にも現存している。現在でも機能していると言うから、戦国の知恵はすごい!

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.668000/138.501216/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<一の出し、二の出し>
DSCN2638.JPG←現在の一の出し
 一の出し、二の出しは、釜無川・御勅使川の洪水の流れが下流の信玄堤に直接当たらないように、川岸から川中へ向けて作られた出っ張りである。洪水の流れを川の方へはねて堤防を守る働きがあった。現在は一の出しだけがあり、残る一の出しもコンクリートと石で作られているが、往時は竹で作った籠に石を詰めた蛇籠をたくさん並べていたと言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.669953/138.500251/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<高岩>
DSCN2643.JPG
 御勅使川と釜無川の合流点付近は強い洪水流となるため、「信玄堤」だけでは洪水の流れを防ぎ切れない。そこで、釜無川と御勅使川の洪水の流れを自然の地形の段丘崖「高岩」へ導き、ぶつけることによって、強力な水の勢いを弱め、更に「信玄堤」で氾濫を防いだと言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.671260/138.499564/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<霞堤>
DSCN2659.JPG
 往時の信玄堤は、霞堤という堤防形式であった。川の流れに対して逆八の字の形で雁行状に堤防を複数配列し、上下流の堤防の間には隙間を開け、一部が重なるようにしている。こうして水の逃げ道を作ることで、大洪水の水の圧力を逃し、洪水の流れを柔らかく受け止めることで堤防の決壊を防いだ。霞堤の隙間から外に溢れた水は、再び下流の隙間から川へ戻った。車道脇の緑地帯の中に、霞堤の一部が残っている様だが、夏場だと雑草でわかりにくい。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.662718/138.503104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<竜岡将棋頭>
DSCN2529.JPG
 竜岡将棋頭は、南に配置された「白根将棋頭」と合わせて、御勅使川の洪水の流れを押さえて下流の「堀切」へ導く効果があったと考えられている。将棋の駒の頭の様に、山型に尖った形をしているので、この名がある。戦国時代から明治初めまで約400年にわたって維持されてきたが、明治になって山間部が荒れ、洪水時に川が出す土砂が増えたため、この付近一帯は埋没して、将棋頭は機能しなくなったと言う。現在見られる将棋頭は、昭和62年に発掘されたもので、南側の石堤だけが残っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.671783/138.456563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<石積出し>
DSCN2540.JPG←一番堤の先端部
 石積出しは、御勅使川が山間部から扇状地に出る扇頂部に築かれた雁行状の多段式堤防群である。この堤防群によって御勅使川の流路を北にまわし、ここから下流に将棋頭を設けて洪水時に水を分水した。石積出しは8番堤まであったらしいが、現在は1番から5番まで確認されていると言う。現在現地で確認できるのは1番から4番までで、駐車スペースと解説板があるのが2番堤、そのやや上流に大きな石で組まれた大きな1番堤、下流に数分歩いた所に3番堤がある。4番堤は浄水場の敷地に掛かっており、破壊を受けている。多分浄水場を作った人は、まさか国指定史跡になるとは思ってなかったんだろうなぁ。
2番堤→DSCN2533.JPG

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.653408/138.416523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<枡形堤防>
DSCN2569.JPG
 枡形堤防は、V字型の堤防で、六科村や野牛島村に水を引いている徳島堰の取水口(水門)を守るために築かれた。徳島堰が開削されたのは江戸時代前期なので、信玄の手になるものではないが、併せてここに記載する。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.662631/138.444375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<白根将棋頭>
DSCN2575.JPG
 白根将棋頭は、前述の「竜岡将棋頭」と同様に御勅使川の洪水の流れを制御するために築かれた。ここで御勅使川の流れが2方向に分流され、北側に新しく河道を開削して主流とした。南側の旧河道を前御勅使川と呼び、新河道を後御勅使川または本御勅使川と呼んだ。現在は北側の石堤だけが残っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.663119/138.451370/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<堀切>
DSCN2583.JPG
 「白根将棋頭」で分流された御勅使川の流れを、「高岩」に導くために新しく河道が開削された。特に「堀切」の部分は、小高くなった釜無川西側に沿った河岸段丘を穿ち抜いたもので、人力だけが頼りの時代には大変な難工事であったと言われている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.672202/138.478428/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<十六石>
DSCN2585.JPG
 十六石は、武田信玄が御勅使川と釜無川が合流する地点に置いた16個の巨石群である。この巨石で、釜無川の流れを当方の高岩方向に変えたと伝えられる。しかし江戸後期に編纂された『甲斐国志』では、既に砂中に埋まっていたと言い、度重なる水害で砂に埋まって、その位置も不明になっていた。しかし地中探査と発掘調査の結果、地下約1.5mに、西北西に配列して埋没している花崗岩の巨石が確認された。現在は車道脇に解説板と、柵で囲まれたスペースに中型の石が並べられているだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.676019/138.480788/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信玄堤

信玄堤

  • 作者: 和田 一範
  • 出版社/メーカー: 山梨日日新聞社
  • 発売日: 2021/01/30
  • メディア: 単行本


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矢坪坂古戦場(山梨県上野原市) [その他の史跡巡り]

DSCN0687.JPG←古戦場の解説板
 矢坪坂合戦は、1530年4月23日に甲斐国郡内の領主小山田越中守信有の軍勢が、甲斐に攻めこんだ相模の北条氏綱の軍勢を迎え撃った戦いである。激戦の末、小山田勢は敗退し、多数の戦死者を出したと言う。

 矢坪坂古戦場は、旧甲州街道の矢坪集落付近にある。大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、南西に切り立った崖と北面に山腹を臨み、道が入り組んでいる要害の地であった。この付近の甲州街道はかなり起伏のある山道で、丘陵上に宿場町が散在し、山間地中腹を縫うように街道が通っている。矢坪坂合戦は街道沿いの要衝での戦いであったことが、現地の地勢を見るとよく分かる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.632064/139.047593/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 戦国北条氏と合戦

図説 戦国北条氏と合戦

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2018/07/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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姉川古戦場(滋賀県長浜市) [その他の史跡巡り]

IMG_8790.JPG←古戦場碑
(2019年12月訪問)
 姉川古戦場は、浅井・朝倉連合軍を織田・徳川連合軍が破った戦いである。1570年4月、越前の朝倉義景討伐のため、敦賀に侵攻した織田信長は、金ヶ崎城に入ったところで義弟浅井長政の離反を知り、南北より挟撃される危地に陥った。急遽京に向けて逃げ帰り、辛くも虎口を脱した信長は、同年6月に裏切った長政を討つべく、北近江に侵攻した。一方、朝倉氏は一族の朝倉景健を大将とする援軍を派遣した。こうして6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が姉川の両岸に布陣し、激戦が行われた。旧陸軍参謀本部編纂の『日本戦史』によれば、兵数は浅井軍8000、朝倉軍10000に対して、織田軍23000、徳川軍6000で、合戦は午前5時に始まり午後2時に終わったとされている。戦端は、西方に布陣した朝倉・徳川両軍の間で始まり、最初は朝倉勢が優勢であったが、榊原康政らが側面から朝倉勢を攻撃し、形勢は逆転した。一方、浅井・織田両軍の間でも戦闘が開始され、最初は浅井勢が優勢であったが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川勢の加勢により、浅井勢も敗退したと言う。しかし一説には、浅井勢による奇襲攻撃であったとも言われる。いずれにしても合戦後、信長は浅井方の重要拠点横山城を攻略し、虎御前山城に本陣を置いて執拗に浅井攻撃を続けた。

 姉川古戦場は、長浜市街地の東方にある。国道365号線の付近に関連史跡が多数散在し、史跡看板が建てられている。中心となるのが姉川北岸にある古戦場碑である。南には、陣杭の柳と言う名の織田信長本陣跡や、勝山という独立丘陵に徳川家康本陣跡がある。この一帯からは、北方に浅井氏の居城小谷城が遠望でき、浅井氏のお膝元で行われた戦いであったことがわかる。浅井氏は、朝倉氏の援軍がないと、独力では全く織田勢に対抗できないことや、本拠地近くが主戦場となるなど、浅井長政の信長からの離反には大局が見えていなかったというしかない。何しろ織田勢は、小谷城近くで農村を荒らし回るだけで浅井氏の領国を荒廃させ疲弊させられたのだから。姉川の合戦も真夏の戦いで、どれほどの稲穂が蹂躙されたことか。いくら信長包囲網があったとはいえ、浅井氏の抵抗には限界があっただろう。最初から本拠地近くが主戦場になっていた時点で、浅井氏の命運は決していたという他はない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.416020/136.322168/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


浅井氏三代 (人物叢書)

浅井氏三代 (人物叢書)

  • 作者: 宮島 敬一
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2008/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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佐久山義隆滅亡地(栃木県矢板市) [その他の史跡巡り]

IMG_3199.JPG←境が峯の地蔵尊と供養塔
 佐久山義隆は、那須氏の一族佐久山氏の最後の当主である。佐久山氏は、那須与一宗高の兄・次郎泰隆を祖とする一族で、佐久山城を居城としていた。時に那須氏の重臣に返り咲いた大田原資清は、長男高増を大関氏の養子に、次男資孝を那須一族の福原氏の養子にし、3男綱清に大田原氏を継がせた。また長女を佐久山義隆(資信?)の室に、次女を那須政資の室とし、那須氏の家中を牛耳った。1563年5月、福原資孝は兄弟の大関高増・大田原綱清と共に謀略をもって佐久山義隆を殺害し、佐久山氏を滅亡させて、その遺領は福原氏に併呑された。伝承では、「うずら狩り」を口実に誘い出し、境が峯と言う所で酒に酔わせて殺したと言う。また義隆の妹も佐久山城内の井戸に突き落とし、石埋めにして殺害したと言う。佐久山家の滅亡を嘆き悲しんだ義隆の妻は尼となり、2人の冥福を弔って一生を終えた。

 佐久山義隆が殺された場所は、江川西方の丘陵中腹にある。ここには義隆夫妻と義孝の妹の3人の霊を慰めるため、佐久山氏家臣の子孫によって3体の地蔵が建てられている。「境が峯の地蔵尊」と呼ばれているが、ネット上にはほとんど情報がない上、地蔵尊のすぐ南側を通る県道にも案内標識もないし、登り口の表示もない。地元の人でも知らない人が多いのではないだろうか。それだけ他所者に知られたくない、恨み深い場所ということかもしれない。私がここを知ったのは、大田原市で「大田原氏3代」という企画展があり、その講演会で紹介があったからである。山中にひっそりと佇む3体の地蔵とその上にある佐久山家の供養塔はきれいに整備され、登道もしっかりしている。有志の人々(佐久山氏遺臣の末裔?)によって、維持されているのだろう。この事件に限らず、大田原氏の経歴には謀略が付き纏っており、いくら戦国乱世とは言え少々やりきれない思いになる。それ故、どうも私は大田原氏が好きになれない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.817719/139.949480/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


地蔵菩薩: 地獄を救う路傍のほとけ

地蔵菩薩: 地獄を救う路傍のほとけ

  • 作者: 下泉 全暁
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2015/11/26
  • メディア: 単行本


タグ:墓所
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羽継原古戦場(群馬県館林市) [その他の史跡巡り]

IMG_1692.JPG←戦死者の供養塔と石碑
 羽継原の戦いは、享徳の乱における古河公方足利成氏・関東管領上杉房顕両軍の激戦の地である。1455年、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことで発生した享徳の乱は、またたく間に関東全域を覆う大乱となった。兄の跡を継いで関東管領となった上杉房顕は、室町幕府の支援と上杉一族の総力を結集して成氏と戦ったが、成氏は古河に本拠を移して古河公方となり、利根川を挟んで上杉勢の大軍と対峙し、一歩も譲らなかった。一方、房顕は武州五十子に本営を置き、ここに越後守護上杉房定や扇谷上杉持朝、京都から加勢に来た上杉中務少輔教房らの軍勢を集結させた。1459年10月14日、上杉軍は武州太田荘に進出して成氏軍と戦い、次いで翌15日早朝には海老瀬口(現在の板倉町海老瀬地区)で、更に同日夕方には羽継原に陣を移して死闘を繰り広げたと言う。終始優勢であった成氏方だけでも死傷者2千余人を出したと伝えられる激戦であった。

 羽継原の戦いにまつわる石碑と戦死者の供養塔が宝秀寺の山門前に建っている。戦後550年を記念して建てられたものらしい。尚、宝秀寺にはなんと、楠木正成の紋で有名な菊水紋が刻まれていた!境内の由緒書を読んだら、楠木神社の別当寺だそうである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.229337/139.571364/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱: 関東の戦国動乱を読む

もうひとつの応仁の乱 享徳の乱・長享の乱: 関東の戦国動乱を読む

  • 作者: 水野 大樹
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2018/03/27
  • メディア: 新書


タグ:古戦場
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