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古城めぐり(静岡) ブログトップ
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武藤氏屋敷(静岡県森町) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0560.JPG←宅地裏に残る土塁
 武藤氏屋敷は、一宮荘の代官職を務めた武藤氏の居館である。遠江武藤氏は、遠江国初代守護安田義定(甲斐源氏・源清光の子で武田信義の弟)に仕えた目代武藤五郎が史料上の初見である。武藤氏では、九州に下向して大宰少弐職を代々世襲して職名を姓とした少弐氏が有名であるが、南北朝の動乱が始まった1336年に太田郷一藤名が少弐氏に伝領されている。室町中期の文安年間(1444~49年)から明応年間(1492~1501年)にかけての時期の室町幕府奉公衆の中には、武藤遠江守や武藤弥次郎等の名が見える。これに先立つ1432年に、武藤与次郎用定が一宮荘代官職に任ぜられた。武藤刑部丞氏定は用定の末裔と考えられ、戦国期に駿河遠江を制圧した甲斐武田氏に属して真田城を築いたが、1581年の徳川家康による高天神城攻撃の際に討死した。その子孫武藤孫左衛門は掛川亀ノ甲村に土着したと言う。その後、武藤氏屋敷がどうなっていたのか不明であるが、江戸中期の1679~1722年には旗本土屋主税の陣屋敷として使用された。土屋主税は、赤穂浪士の吉良上野介邸討入りの際、吉良邸の隣に江戸屋敷があったので、忠臣蔵では討入りの場面でよく出てくる武士である。

 武藤氏屋敷は、香勝寺南の住宅地の中にある。太田川西岸の段丘上の斜面に位置している。遺構は湮滅が進んでいるが、北側の道路脇に東西に走る土塁が残っている。また敷地東側には段差があり、屋敷地としての地勢はうかがうことができる。尚、香勝寺には武藤氏一族の墓が残っているが、香勝寺はききょう寺として有名で、墓所に行くには入園料を支払う必要がある。
武藤氏一族の墓→DSCN0552.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.825703/137.913684/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


静岡県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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潮城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0906.JPG←わずかに残った主郭の土塁跡
 潮城は、歴史不詳の城である。一説には、今川氏の重臣岡部氏の居城朝日山城の支城ではないかと言われている。また長篠合戦以降、駿河に侵攻した徳川氏が、田中城攻撃のために築いたとの説も提示されている。

 潮城は、潮山の東の山裾にある段丘上に築かれていたが、現在は国道1号藤枝バイパスの建設により城の中心部は大きく破壊されている。しかし、主郭北西側の土塁・塁線と、西の二ノ郭との間に穿たれた堀切跡が残っている。二ノ郭は畑となっているが、方形の土壇を置いた形状は残っている。しかし現在でも国道の拡幅工事が行われているようで、わずかに残った主郭の遺構も近々破壊してしまうかもしれない。
堀切跡→DSCN0910.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.896606/138.275814/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城館の実像 (城館研究叢書)

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  • 作者: 均, 中井
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2020/12/10
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タグ:中世平山城
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朝比奈城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0847.JPG←3郭~4郭間の堀切
 朝比奈城は、高天神衆に属した曽根孫太夫長一の城である。城山の北麓に居館があったとされ、その詰城であった。長一は、高天神城主小笠原長忠(信興)の寄子で、武田勝頼が高天神城を攻略した第一次高天神城合戦の際には、本丸の守備に付いた。高天神城が開城すると、長一は徳川方に逃れ、徳川氏家臣の大須賀康高に仕えたと伝えられる。

 朝比奈城は、朝比奈川南岸の標高90m、比高70mの山稜上に築かれている。牧之原台地の支脈の一つから北西に突き出た尾根に位置している。登り口がよくわからなかったので、私は北に派生した支尾根の先端からアプローチした。尾根を辿っていくと、やがて主尾根に築かれた二ノ郭に至る。二ノ郭は、以前は畑になっていたらしく一部改変されているのではっきりしないが、北に虎口があり、後部に土塁らしき土盛りが見られる。二ノ郭の北には腰曲輪、北西には堀切と小郭、南西の尾根には段曲輪群が築かれている。二ノ郭から西に登っていくと、最上部に築かれた主郭に至る。主郭は円形の小さな曲輪である。主郭背後に当たる南東の尾根には、腰曲輪を介して堀切が穿たれている。この堀切の先には3郭・4郭が置かれ、それぞれ堀切で分断されている。この尾根には、主郭背後・3郭~4郭間、4郭先端と3本の堀切が穿たれているが、いずれも中規模の堀切でしっかり普請されている。4郭の後部には土壇があり、堀切に繋がる城道はこの土壇の脇をすり抜けるように敷設されている。また3郭・4郭の南斜面にのみ、腰曲輪が置かれている。各堀切はこの腰曲輪に向かって落ちている。4郭の背後の尾根の先にはわずかな堀切と土橋が見られ、搦手筋を防御している。以上が朝比奈城の遺構で、基本的には細尾根城郭だが、主郭・二ノ郭は幅のある平場であり、小屋掛けぐらいは置かれていた可能性がある。
主郭背後の堀切→DSCN0838.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.660508/138.147701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 静岡編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/07/20
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タグ:中世山城
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殿ノ山城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0756.JPG←クランクする堀切
 殿ノ山城は、歴史不詳の城である。城周辺には、「おかたやしき」「遍照寺」「おおみどう」「りょうもん」等の古地名が残り、「おかたやしき」からは13世紀後半のものとみられる四耳壺が、また「遍照寺」からは室町時代の宝篋印塔の相輪2点が出土している。このことから、当時この地を治めていた比木氏の館がこの根古屋にあり、館の防衛を殿ノ山城が担い、更に詰城として比木城が築かれていたと推測されている。

 殿ノ山城は、比高20m程の小さな低丘陵先端部に築かれている。西を通る車道を少し北に登った所に、擁壁を登る階段が付いており、その先の小道を登れば城域北端の堀切に至る(この小道は堀切脇にある墓地に通じている)。北端の堀切は浅く小規模であるが、西側でクランクしており、横矢を掛けている。堀切には土橋が架かり、主郭の虎口に繋がっている。主郭は南北に細長い高台となっている。主郭の西から南にかけて、二ノ郭が広がっている。二ノ郭の南にも腰曲輪があるが、薮が酷い。腰曲輪の南端には小堀切と前面の土壇がある。遺構としてはそれだけで、地勢・縄張り共にあまり防御性が高いとも思えない、小規模で簡素な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.657313/138.170886/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海から行く! 御城印めぐり (ぴあ MOOK 中部)

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タグ:中世平山城
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比木城(静岡県御前崎市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0722.JPG←南東尾根の堀切
 比木城は、歴史不詳の城である。鎌倉期に比木弾正という武士が築いたとの伝承があるらしいが、詳細は不明。比木氏の詰城を、東遠江を制圧した武田氏が改築したとの説もある様だ。

 比木城は、比高70m程の舌状台地に築かれている。ここは比木城山と呼ばれ、主郭は全面茶畑に、二ノ郭は民家の敷地となっていて、これらには明確な遺構は見られないが、主郭の南東尾根・南西尾根に遺構が残っている。主郭である茶畑の西側に降っていく小道があり、これを降っていくと主郭南西尾根に築かれた小規模な腰曲輪と堀切がある。また茶畑の南東角から薮を降ると、主郭の南斜面に竪堀が2本落ちている。その脇の南東尾根には腰曲輪があり、その下方には堀切が穿たれている。堀切の前面は物見らしい土壇となっている。堀切の東側を降ると腰曲輪に繋がっており、その東にも腰曲輪や堀切が残っている。一方、南東尾根の堀切・土壇の先は細尾根となり、一旦降ってからまた登りになり、その先に東西に長い峰上の平場がある。平坦ではあるがほとんど自然地形で、外周の塁線もはっきりせず、遺構ではないようだ。この他、主郭の東側に一段低い平場があり、腰曲輪であったと思われる。以上が比木城の遺構で、主要部が改変により遺構が失われているせいもあって、あまりパッとしない城だった。
南斜面の竪堀→DSCN0693.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.661726/138.171337/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


静岡県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2015/02/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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相良館(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0670.JPG←標柱が立つ館跡
 相良館は、この地を本貫地とした相良氏の居館である。相良氏は、藤原為憲の流れを汲む遠江守維兼を祖とする一族で、1112年に工藤周頼が相良庄に入部し、相良氏を称した。以後、8代長頼までの80余年間の本拠となった。1198年に長頼は幕府より九州下向を命じられ、肥後国球磨郡人吉荘を領して、人吉城を居城とし、鎮西の御家人となった。その後、相良氏は九州の戦国大名となり、しぶとく生き延びて江戸時代にも肥後人吉藩2万2千百石の大名として幕末まで存続した。即ち相良館は、近世大名相良家の発祥の地である。

 相良館は、荻間川東岸の平地に築かれていたらしい。現在は民家近くのただの空き地で、明確な遺構は残っていない。館跡を示す標柱が、その歴史を伝えているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.690101/138.199317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


静岡県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/08/01
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タグ:居館
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滝堺古城(静岡県牧之原市) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0632.JPG←先端の主郭
 滝堺古城は、室町中期に勝間田城主勝間田氏によって築かれた出城と伝えられる。その後、1476年に遠江攻略を目指す駿河守護今川義忠に攻められて廃城になったと言う。後に今川氏を駆逐してこの地を支配した甲斐の武田信玄は、滝堺古城が手狭であるため、新たに新城(滝堺城)を築いた。

 滝堺古城は、眼下に太平洋を望む比高60m程の丘陵上に築かれている。牧之原台地の南東端の一角に当たる。西の台地上は一面の茶畑になっており、茶畑の奥の薮を突っ切ると、細尾根を下っていく小道がある。この小道は一旦鞍部まで降り、その先は再び登りとなる。尾根を登りきった先に細長い平場が広がっており、そこが主郭となる。主郭はただの平場で、きれいに削平はされているが、塁線ははっきりせず、周囲にも明確な切岸はない。主郭の先端近くに、倒れた城址碑がある。以前は解説板もあったらしいが、現在は失われている。主郭先端から北と南東に尾根が下っているが、小郭などの明確な遺構は特に見られない。前述の尾根の鞍部は、はっきりしないが堀切だった可能性がある。結局、明確なのは主郭だけである。西の茶畑が二ノ郭だったとの情報もあるが、現状からでは判断できない。いずれにしても、海上監視を主任務とした物見的な城だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.705467/138.210347/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城の政治戦略 (角川選書)

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  • 作者: 大石 泰史
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2020/12/18
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タグ:中世崖端城
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大熊備前守屋敷(静岡県吉田町) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0621.JPG←屋敷跡の茶畑
 大熊備前守屋敷は、小川城城代となった武田氏の家臣大熊備前守長秀の城代屋敷である。武田信玄は1571年2月、徳川家康の部将松平左近真乗が守っていた山崎の砦を攻略し、馬場美濃守信房に命じてこれを修築して、新たに小山城を築いた。そして信玄は、越後上杉氏から亡命した客将大熊備前守朝秀の子長秀を足軽大将とし、小山城城代とした。長秀は、騎馬30・足軽75人で小山城を守備し、その後陣として相木市兵衛昌朝率いる80騎が置かれたと言う。長秀は、以後1572年暮頃までの約1年半を、この地で過ごした。

 大熊備前守屋敷は、小川城のある台地の地続きにある。台地の北端にあり、現在屋敷跡の北半分は削られて工場敷地となり、南半分は茶畑となって変貌している。「東は深い沢で空堀や土塁の跡も見られる」と解説板にあるが、薮でどこのことかよくわからなかった。結局台地の上にあるという以外、明確な遺構はない。それでも史跡に指定され、標柱・解説板が立っている。
 尚、近くを通る県道230号線のトンネルは備前守隧道と言い、武将の名がトンネル名になっている珍しい例である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.776791/138.240988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

武田三代の城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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家康御陣場(静岡県吉田町) [古城めぐり(静岡)]

DSCN0619.JPG←陣場跡の八幡神社
 家康御陣場は、徳川家康が武田勢の拠点城郭小川城を攻略するため、本陣を置いた場所である。1573年の武田信玄の死後、遠江で武田勢に押されていた家康は、同盟する織田信長と共に反転攻勢に転じた。1575年の長篠合戦で武田勝頼が織田徳川連合軍に大敗を喫すると、徳川勢の遠江での攻勢は一段と強まり、一旦は勝頼に奪われた遠江の要衝高天神城奪還のため、武田方の補給路を断つ作戦に出た。徳川方は、激戦の末に攻略した諏訪原城を前進基地とし、高天神城への補給線の重要な中継拠点となっていた小山城攻撃のため、1578年3月と同年8月の二度にわたり、家康は大井川の八幡の森に陣を敷いたと言う。

 家康御陣場は、小山城の北方約1.5kmの位置にある大幡の八幡神社の地に置かれた。現在町史跡に指定されており、入口の鳥居の近くに解説板が立っている。遺構はなく、普通の神社の境内である。大井川にほど近く、国道にも近いので大井川の渡河点を押さえていたのだろう。田中城など、駿河方面からの武田勢の後詰を警戒した選地であったことがうかがわれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.792158/138.248112/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東海の名城を歩く 静岡編

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/07/20
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向笠城砦(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

IMG_9007.JPG←標柱の立つ法雲寺の裏手
 向笠城砦は、歴史不詳の城である。平城であった向笠城から南に1.2kmの位置にあり、その出城として機能したものと推測される。
 向笠城砦は、法雲寺の裏手付近にあったらしい。比高30m程の段丘の縁に位置しているが、標柱が建っているだけで解説板もないので、由来も縄張りもよくわからない。おそらく物見程度の簡素な砦だったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.756828/137.878708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世平山城
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向笠城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

IMG_9002.JPG←城址付近の現況
 向笠城は、戦国時代に今川氏に属した向笠氏の居城である。向笠伯耆守が築城したと言われ、1508年に、今川氏親の部将伊勢宗瑞(北条早雲)が三河岩津城を攻撃した際、向笠氏も参陣していたと伝えられている。今川氏が滅亡した後は、遠江に進出した甲斐武田氏に属し、武田方の一支城として修築されたが、1573年3月、徳川家康の家臣酒井忠次・平岩新吉らに攻囲され落城した。時の城主向笠彦三郎は、一旦高天神城に逃れたが討死したと言う。

 向笠城は、敷地川西側の平野部に築かれていたとされる。城址一帯は、民家と一面の畑に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。付近には、城屋敷・東門・陣垣戸・奥屋敷など、城にちなむ地名が多く残っているらしい。この他には、向笠史談会が建てた解説板だけが、往時を物語っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.768094/137.880473/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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加賀爪甲斐守屋敷(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

IMG_9000.JPG←屋敷跡とされる場所
 加賀爪甲斐守屋敷は、江戸時代前期の旗本加賀爪氏の屋敷跡である。加賀爪氏は元々上杉氏の一族で、加賀爪甚十郎忠郷の時に駿河守護今川氏の被官となって加賀爪氏を称した。今川氏滅亡後、加賀爪政尚は徳川家康に仕え、長久手の戦いや小田原の役で功を挙げ、武蔵国比企と相模国高座に3,000石を領した。政尚の子忠澄は、関ヶ原合戦や大坂の役の戦功により、5,500石に加増され、江戸町奉行に登用され、最終的には9,500石に累進した。忠澄の子、加賀爪甲斐守直澄は、1万1,500石を領して大名格となり、掛塚藩を立藩した。一時期は、武蔵の高坂館に陣屋を構えたと言われ、館跡の高済寺境内に加賀爪氏累代の墓が残っている。その後直澄は、書院番隊長や1661年には寺社奉行となり、幕府の重職を歴任して、1668年には更に3,000石が加増された。また直澄は、旗本中の乱暴者として通り、一方で茶道にも通じていたとされる。1679年、嫡子直清に家督を譲ったが、1681年に成瀬正章と領地問題で争いを起こし、処置不十分を理由に改易された。

 加賀爪甲斐守屋敷とされる場所は、敷地川西側の段丘の麓にある。この付近一帯は民家や畑に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。わずかに向笠史談会が建てた標柱と解説板だけが、往時のことを物語っている。尚、ここから南に1.3kmの位置にある寺田家の門は、加賀爪甲斐守屋敷の門であったと伝えられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.774554/137.872555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:居館
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瀬名館(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05099.JPG←松寿院に残る2代氏貞の墓
 瀬名館は、今川氏の一族瀬名氏の居館である。瀬名氏の祖今川陸奥守一秀は、遠江今川氏の後裔堀越氏の一族で、父の堀越城主堀越貞延が1474年の小夜の中山合戦で討死すると、海蔵寺の喝食から還俗した。1476年、今川義忠が塩買坂で討死すると、今川家中では幼い嫡子竜王丸と義忠の弟小鹿範満の間で家督争いが起こり、今川一秀が竜王丸の補佐役として抜擢されて駿府に移り、旧領の瀬名郷を与えられて瀬名氏を称した。瀬名氏は今川宗家を補佐する一族として大きな勢力を有し、一秀は二俣城の城将となって遠江斯波氏の勢力を押さえるなど、重臣として活躍した。一秀以後の瀬名館は、氏貞・氏俊・氏詮と4代に渡る居館となった。氏俊は、桶狭間合戦の際には今川軍の先発隊の将となり、その名を残している。尚、瀬名館の付近には瀬名砦があったが(所在不明)、1568年の武田信玄の駿河侵攻の際に落城した。
 瀬名館は、長尾川東岸に広がる瀬名郷に築かれていたが、現在は完全に宅地化され、遺構は完全に湮滅している。西奈図書館の西側一帯が館跡と推測されており、付近には「大屋敷」の字名が残る。尚、館跡推定地の東側には、今川一秀の菩提寺光鏡院や松寿院があり、供養塔や墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.017503/138.422359/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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内牧城(静岡県静岡市葵区) [古城めぐり(静岡)]

DSC05072.JPG←畑化した平場
 内牧城は、南北朝時代に駿河南朝方の武将狩野介貞長が築いた安倍城の支城である。元々内牧城には狩野氏の居館が置かれており、その創築・廃城時期は安倍城と同時期と考えられている。
 内牧城は、内牧川西岸に突き出た比高40m程の丘陵突端に築かれている。2つの曲輪から成り、尾根には堀切もあった様だが、現在は畑に変貌している他、城域の一部を新東名が通っており、かなり破壊を受けていると思われる。「思われる」というのも、主郭と思われる先端の平場は、前述の通り民有地の畑で、勝手に入ることはできないからである。柵越しに見たところでは、畑に変貌した平場以外は確認できない。この平場の中央には、台座に「内牧城址」と刻まれた五輪塔と石碑が建っている。いずれにしても南北朝期の城であり、同じ安倍城の支城であった小瀬戸城と同様、素朴な縄張りであったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.020794/138.345073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小川城(静岡県焼津市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05052.JPG
 小川城は、法永長者屋敷とも呼ばれ、1476年に今川義忠が塩買坂で討死した後に今川家中で生起した跡目争いの時、伊勢新九郎長氏(北条早雲)を介して、義忠の正室で長氏の姉妹であった北川殿とその子竜王丸(後の今川氏親)を保護した人物「法永長者」の居城である。その後、法永の子孫は長谷川氏を称して今川氏の家臣となり、今川氏滅亡後は徳川氏に仕えたと伝えられている。
 小川城は、現在は住宅地に変貌しており、遊歩道に石碑と解説板が建つ以外は何もなく、遺構は完全に湮滅している。空中写真閲覧サービス(旧称、国土変遷アーカイブ)の昭和20年代の航空写真では、畑地の中に方形に巡る堀跡がはっきりと残っている。発掘調査の結果からも、方形の単郭居館であったらしく、南側に虎口が2ヶ所築かれ、大手虎口にはわずかに横矢が掛かっていた様である。わずかでも遺構が残っていればよかったのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.856425/138.304771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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城之崎城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC05007.JPG←球場の周囲に残る城塁
 城之崎城は、見附城とも言い、徳川家康が築城途中で放棄した城である。一説には、古く平安末期の寿永・建久年間(1182~1190)に遠江守となって当地に入部した安田三郎義定が築いたのが始まりともされるが、定かではない。その後、応仁の乱の時、今川義忠の遠江侵攻により生起した今川氏と遠江守護斯波氏との抗争の際に、一時的に城塁として機能したと推測されている。城之崎城が歴史上に明確に現れるのは、1569年正月に徳川家康が築城した時で、山本帯刀成氏(成行)の縄張りで見付宿の東方山続きの「旧塁」を崩して新城を築こうとした。この頃家康は、武田信玄と連携して東西から今川領を挟撃しており、駿府を逃れて掛川城に籠もった今川氏真を包囲攻撃していた。しかし掛川城の守りは固く、同年5月に氏真と講和を結び、掛川城が開城となると、城之崎城は未完のまま放棄され、1570年6月に曳馬城へ移った。そして曳馬城を一郭として取り込んだ形で新たに浜松城を築城した。

 城之崎城は、磐田原台地の南、今之浦川とその支流に挟まれた段丘上に築かれている。かつての主郭は、現在は城山球場に変貌し、ニノ郭とされる場所は磐田東高校となっている。その為、遺構はかなり破壊されているが、球場の外周には土塁が残り、特に北西角には櫓台があったと思われる高土塁が残っている。その北の外郭らしい高台には小さな神社が鎮座している。球場の東側には空堀跡が広い低地となって残っている。破壊を受けたにも関わらず、思ったより城塁らしい雰囲気をよく残している。
空堀跡の低地→DSC04995.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.722585/137.864975/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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見付端城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04954.JPG←墓地外周に残る土塁
 見付端城は、今川氏が築いた城である。この地には元々遠江国府が所在し、南北朝時代に足利一門として足利尊氏に従って各地を転戦して今川氏興隆の礎を築いた今川範国は、遠江における拠点として見付端城を築いたと言う。その後、今川範氏・泰範は駿河に進出して拠点を移し、見付端城は庶家今川了俊を祖とする遠江今川氏の数代の居城となった。後に堀越館に移ったものと推測されている。室町時代後期には、今川義忠の遠江侵攻に抵抗した狩野宮内少輔・横地氏・勝間田氏らの拠点となったと思われる。戦国時代には、城主の堀越用山(今川貞基)は、花倉の乱で反義元派となった為、今川義元の命を受けた犬居城主天野氏により、1537年に攻め落とされた。その後、義元の持ち城となり、1563年、堀越氏一族の時に焼失したらしく、後の1569年に徳川家康が城之崎城築城の時に廃城となったと考えられる。

 見付端城は、現在の大見寺から磐田北小学校にかけての一帯に築かれていた。古絵図によれば、東を流れる今之浦川を外堀とし、大見寺境内を主郭、磐田北小敷地をニノ郭として、それぞれ方形の土塁で囲んでいたらしい。現在は市街化で遺構の湮滅が進んでいるが、大見寺境内墓地の南と西側に土塁が残り、西側には堀跡も残っている。しかしかなり改変が激しい。地元のご老人の話では、今川義忠が塩買坂での討死の前に攻め落としたのは、この城であったそうだが・・・。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.728281/137.858773/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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井出館(静岡県富士宮市) [古城めぐり(静岡)]

DSC01375.JPG←現在に残る屋敷門
 井出館は、井出の代官屋敷とも呼ばれ、この地の小土豪井出氏の居館である。井出氏は、鎌倉時代以来この地に居住した小土豪で、富士山本宮浅間神社の富士大宮司家に仕えたとされる(富士氏の被官であったことについては、静岡古城研究会著『静岡県の城跡』では否定的見解を示している)。『吾妻鏡』によれば、1193年5月に源頼朝が富士の巻狩をした際、宿泊所となったのが井出館とされており、既にこの頃には将軍に宿所を提供する程の格式を持った名家であったことがわかる。またこの事績から、この地には「狩宿」という地名が付いている。井出氏は戦国時代には今川氏に仕え、今川氏輝・義元・氏真から、安堵状などが度々下されている。1569年、駿河に侵攻した武田信玄は富士氏の大宮城を攻めたが、この時井出氏一族は富士氏の被官として戦功を立て、今川氏真を支援した北条氏政から感状が下されている。その後間もなく今川氏が滅亡し、富士地方が武田氏の支配下に入ると、井出氏の一族は武田氏に従った者と小田原北条氏を頼った者に分かれた。武田氏に従った井出氏は、武田氏滅亡後は徳川家康に仕えて駿河国代官職に任じられ、1606年には井出志摩守が三島代官に任じられ、天領を支配し、その後も幕臣として続いた。

 井出館は、前面に潤井川が流れ、背後に芝川渓谷と丘陵地を控えた平地に築かれている。現在でも井出家の屋敷が構えられており、表には立派な屋敷門(長屋と高麗門)が建てられている。屋敷の前には国の特別天然記念物にもなっている「下馬桜」があるが、「駒止めの桜」とも呼ばれ、頼朝縁の桜である。訪問したのは3月下旬で、静岡では既に桜が開花していたので期待していったが、残念ながら硬い蕾のままだった。それもそのはず、ここは標高435mもあり、咲くのは4月中旬になるらしい。井出館は、遺構はないものの、歴史的遺物が多く興味深い。又付近には、曾我兄弟の仇討ちにまつわる遺蹟も多く残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆ (あくまで城館遺構としての評価)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.301554/138.587948/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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樽山城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01348.JPG←先端の堀切と小郭
 樽山城は、犬居城主天野氏の支城である。天野氏の所領の東端、遠駿両国の山間部を結ぶ街道の要衝に位置し、関所的な機能を有する城であった為、勝坂城と並んで重要な支城であったと言う。天野氏は、今川氏没落後、徳川氏に属したが、武田信玄が遠江に侵攻すると、武田氏に降ってその尖兵となって活動した為、徳川家康は激怒して犬居城に攻め寄せた。一度目の1574年の攻城戦で惨敗した徳川勢は、長篠合戦の翌年の76年に再び大挙侵攻した。一度目の敗戦の経験から、武田方の後方支援を遮断する為、家康はまず周辺の支城の攻略に取り掛かり、樽山城は真っ先に攻め落とされ、城兵は勝坂城に敗退した。この時の城主は、天野兵衛佐とも天野助兵衛とも言われており、いずれにしても天野氏の一門衆が守る重要な城であった様だ。
 樽山城は、樽山南東の敷原沢の蛇行部にそびえる標高629mの山上に築かれている。物凄い山間の奥地に築かれており、ここまで来るのは車でも大変である。大井川沿いから境川ダム近くで国道362号線を西に入り、クネクネ道を10kmほど走り、そこから更に分岐した車道を4km以上走らなければならない。しかもこの分岐した車道は、途中落石も多く、城址まで数百mの所で進めなくなった為、そこに車を置いて歩いて訪城した。登城口に解説板が建ち、道も付いているので登城は容易である。小規模な連郭式の山城で、ニノ郭・主郭・三ノ郭の順に並んでおり、登城道を登ると腰曲輪と枡形虎口を経由して三ノ郭に至る。三ノ郭には僅かな空堀と枡形虎口の土塁が築かれている。主郭は狭小な曲輪で、ニノ郭との間には堀切が穿たれている。ニノ郭の下方の尾根筋には更に小郭が置かれ、堀切を介して尾根先端の物見曲輪に至り、城域が終わっている。いずれの曲輪も狭小で、20人籠もるのが精一杯の感じで、徳川勢に一斉攻撃されたらひとたまりもなかっただろう。しかしこの手の小規模な城にしては、明確な枡形虎口だけが異彩を放つ遺構である。
三ノ郭の枡形虎口→DSC01328.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.013240/138.006597/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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徳山城(静岡県川根本町) [古城めぐり(静岡)]

DSC01244.JPG←「殿屋敷」の大土塁
 徳山城は、南北朝時代に駿河南朝方の最後の拠点となった城である。1353年、在地土豪の鴇(土岐)氏は、居館の東方にそびえる無双連山に徳山城を築き、周囲にも萩多和城護応土城などの城砦群を構築して駿河山間部に立て籠もった。又この時、観応の擾乱で尊氏と争った直義方の武将石塔義房の家人佐竹兵庫入道らも、大津城を攻め落とされた後、南朝方と合力して徳山城に籠もったらしい。将軍足利尊氏の命を受けて今川範氏はこれを討伐し、援将伊達景宗は先鋒として発向し、まず出陣の翌日の2月11日、早くも萩多和城を落とし、尾根伝いに洗沢に抜け、13日には護応土城を攻め落とし、本城の徳山城に迫り、夜襲により落城させたと伝えられている。

 徳山城は、標高1100mの無双連山一帯に築かれた峻険な山城である。山中まで林道が伸びているが、物凄いガレ道で、RVではない普通車は登るのは止めた方が良い。しかも車を降りた標高823mの四差路からでも、本城まで歩いて登るのに1時間近くも掛かる遠い道のりである。そんなわけで、この城に登るにはそれなりの装備と覚悟が必要である。
 徳山城は、まず北端に「清水砦」とされる小ピークがあり、そこから本城までの間は「犬戻り」と呼ばれる一騎駆けの細尾根となる。この一騎駆けは、明らかに両脇を人工的に削り落としている。本城部は「殿屋敷」と呼ばれ、尾根上に削平の甘い緩斜面が広がっているだけであるが、その北斜面には空堀状の窪地や大土塁、切岸など、やはり明らかに人工的な加工の跡を残した地形が見られる。ここから南西に尾根を降って行くと、やはり曲輪らしき緩斜面などが展開しているが、あまり明瞭ではない。途中にある堀切も、鋭さはなく、多少加工の跡を留める程度である。堀切の先の広い平場には中部電力の反射板が置かれ、更にその南西尾根の緩斜面が「陣屋平」、更に三角点のある小ピークを越えて、「鍛冶屋敷」という平坦地に至る。徳山城は、南北朝期の山城でもあるため、戦国期の山城と違って明確な遺構は少ないが、本城部の腰曲輪と大土塁・空堀は見応えがある。また平場状の緩斜面も多数存在する。しかし、南朝方の一土豪の城に、これらの平場を守備できるだけの多数の兵が籠って戦ったのかは、甚だ疑問である。何しろ、清水砦から鍛冶屋敷まで、全長1.3km程にも及ぶ城域で、更に周辺城砦群を備えていたとされるなど、劣勢にあった南朝方にそれほど広大な城砦群が守備できたのだろうか?今後の考究が待たれる城である。
険しい一騎駆け→DSC01225.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.062425/138.152679/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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堀江城(静岡県浜松市西区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01193.JPG←現在の城址付近の遠望
 堀江城は、この地の豪族大沢氏の居城である。大沢氏は、藤原道長の後裔持明院左中将基盛を祖にすると言われ、室町時代の貞和年間(1362~68年)に丹波大沢から大沢基久がこの地に入部して堀江城を築いたとされている。当初は遠江守護であった斯波氏に属したが、戦国時代に今川氏親が遠江を攻略すると、今川氏に従った。1569年、9代基胤の時、今川氏の弱体化を見て取った徳川家康が遠江へ侵攻すると、基胤は今川方として堀江城に拠って最後まで抵抗した。結局基胤は、和睦の形で降伏したが、その戦いぶりを家康に認められてそのまま徳川氏の旗本となり、その後の武田氏との戦いで功を挙げた。江戸時代、10代基家からは高家として遇され、新しく堀江陣屋を築いて幕末まで存続した。

 堀江城は、現在の舘山寺温泉の場所にあった御陣山と呼ばれた丘陵地にあったとされているが、遊園地などが造成されて景観は一変し、遺構は壊滅しているとされる。国土変遷アーカイブの昭和30年代の航空写真を見ると、現在でもホテル九重の南に残る丘陵地と、浜名湖パルパルという遊園地の造成で消滅した部分と、2ヶ所の丘陵地が隣接していた様である。一説には堀江氏という武士が築いた佐田城がこの地にあったとも言われ、城地には不明の部分も多い。一説には、現在残る丘陵地の方が陣屋跡、遊園地の方が佐田城跡で、より古い堀江城は後者を、新しい堀江城は前者を指すものとも解されている。ホテル九重の係の方に、堀江城のことを伺ったが残念ながら要領を得ず、夕方でもあった為、丘陵へ登って現状を確認するのは断念した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.765007/137.616602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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堀川城(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01183.JPG←城址碑と首塚
 堀川城は、気賀の土豪、斎藤為吉・竹田右京・新田四郎・山村修理・尾藤主膳らが築いた城柵である。戦国時代、この地は今川氏の勢力下にあり、今川義元が桶狭間で討たれ、今川氏が弱体化すると、1568年にこの地の今川方の土豪達は、徳川家康の遠江侵攻に備えて堀川城と刑部城を築いた。1568年、刑部城を落とした家康は、翌69年3月27日、3千の軍で堀川城を攻めた。土豪達は農民ら2000人と城に立て籠もって抵抗したが、間もなく落城し、男女共1000人がなで斬りにされ、捕虜となった人々も700人余が首を討たれたと、戦いに参加していた大久保彦左衛門の『三河物語』に記載されている。
 堀川城は、浜名湖畔に築かれた平城であったが、現在は耕地化で完全に湮滅している。わずかに城址碑と首塚が残っているだけである。尚、近くの気賀宿には関所跡や気賀宿西入口の枡形、斬首された首が晒された獄門畷などが残っている。又、城址から西に1.5km程の所には、城を逃れた後燃え落ちる堀川城を見ながら切腹して果てた城将山村修理の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.803074/137.646171/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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井伊氏居館(静岡県浜松市北区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01158.JPG←解説板の建つ公民館
 井伊氏居館は、井伊谷城を本拠とした遠江の豪族井伊氏の平時の居館である。井伊氏の事績については井伊谷城の項に記載する。井伊谷城南東麓の平地にあったとされ、現在4区公民館の前に、解説板が建っている。解説板に掲載されている古絵図によれば、堀や土塁、井戸跡などがあったらしいが、現在では遺構は全く残っていない。しかし、ちょっと北に行くと、1544年に今川氏に誘殺された井伊直満、直義兄弟の墓「井殿の塚」だけが往時のまま残っている。この直満の孫が、徳川四天王に数えられた井伊直政である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.834501/137.673572/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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中尾生城(静岡県浜松市天竜区) [古城めぐり(静岡)]

DSC01138.JPG←主郭下方の横堀
 中尾生城は、中日向城とも記載され、今川氏の北遠江における拠点の一つである。伝承によれば、南北朝時代に犬居城主天野氏の出城として築かれたとされるが、定かではない。戦国期には、天方城掛川城二俣城光明城・犬居城等と共に、今川氏の北遠における拠点として重視された。1529年には二俣近江守が、また1535年には向坂(匂坂か?)長能が城主となり、1564年には奥山兵部丞・左近将監父子が今川氏真に城の普請を命じられている。その後の歴史は不明で、今川氏が甲斐武田氏に滅ぼされると、そのまま廃城になったのかも知れない。
 中尾生城は、天竜川中流域西方の山間部、標高479mの山上に築かれた峻険な山城である。城山稲荷が鎮座した小規模な主郭と、その南東尾根の数段の曲輪で構成された小規模な城で、主郭の北西下部には1/3周ほどに渡って横堀が穿たれている。主郭は周囲との高低差が大きく、ほとんど切岸だけで防御されていた様である。その他の曲輪は削平が甘く、城域がどこまでかも明瞭ではない。山頂の南西に位置するピークは出丸と思われるが、植林等で損壊を受けており、ここも遺構が明瞭ではない。現存する遺構を見た限りでは、武田氏利用の形跡は確認できない。中尾生城は、位置が山奥で遠いし、途中まで車で登れるが、その先の登り道は入口付近以外には途中の標識がなく、分岐する山道の行き先に迷う。その割に大した遺構ではないので、あまりお勧めはしない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.975474/137.805451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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社山城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00943.JPG←主郭西側の横堀と帯曲輪
 社山城は、武田氏によって改修された山城である。創築時期は不明であるが、『宗長日記』等によって、1501~03年頃の遠江を巡る斯波氏と今川氏との抗争の際に、両軍争奪の場となったことが知られている。即ち1500年3月、旧遠江守護の斯波義寛が失地回復の為、弟義雄を社山城へ送り込んだが、翌年、義雄は今川氏親によって二俣城に追われた。以後、社山城は今川氏の属城となった。又、1532年には、社山城主匂坂筑前守六郎五郎長能は、菅沼重左衛門定平と城主を交代し、本領匂坂に匂坂城を築いて移ったと伝えられている。1572年10月には、西上作戦を開始した武田信玄が、青崩峠を越えて遠江へ侵攻し、二俣城を攻略する為、社山城の北1.8kmの合代島に本陣を構えた。この時、社山城も武田氏の支配下に置かれたと見られる。その後の歴史は明確ではないが、現在残る遺構からはこの武田氏支配時代に社山城は大規模な改修を受けたと推測されている。その後、武田氏の勢力が遠江から駆逐されると、廃城になったと考えられる。

 社山城は、標高130m、比高100mの丘陵上に築かれた城である。大きく主郭・ニノ郭・三ノ郭から成る連郭式の縄張りで、周囲には腰曲輪を廻らし、更に派生する尾根にも曲輪群を築いた、比較的規模の大きな城である。特に出色なのは主郭西側の遺構群で、まず長い横堀と帯曲輪が外周下方に構築され、その更に下方の腰曲輪群の先には、深さ10mの大堀切や二重堀切が穿たれて厳重な防御線を構築している。主郭北側にも二重横堀が穿たれ、主郭とニノ郭の間も大きな堀切で分断している。ニノ郭と三ノ郭は土橋の掛かった片堀切で分断され、三ノ郭の東端は数段の腰曲輪と数本の堀切で、尾根筋を分断防御している。主郭の北尾根の細長い曲輪にも中間に土橋の掛かった小堀切があり、北端の櫓台には腰曲輪と横堀が築かれている。この他、動線遮断の竪堀が効果的に用いられており、多用された横堀等と共に、丸子城高天神城八幡平の城と共通性を持ち、明らかに武田氏の改修による縄張りで、見応えのある遺構である。北側の車道から登城道が整備されているので苦労なく登ることができ、城内も解説板や標柱などかなり整備されていて、遺構の確認がしやすい。ちなみに、こんなに平地部に近い山なのに、カモシカのつがいに出くわしたのにはびっくりした。
主郭~ニノ郭間の堀切→DSC00988.JPG
DSC00965.JPG←西側遺構群の大堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815710/137.853598/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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匂坂城(静岡県磐田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC00861.JPG←道端の城址碑
 匂坂城は、遠江の国人領主匂坂氏の居城である。現地城址碑によれば、1532年、匂坂筑前守六郎五郎長能は、社山城主を菅沼重左衛門定平と交代し、本領匂坂に匂坂城を築いた。1571年3月に武田信玄が高天神城を攻撃した際には、同月3日小田松、匂坂、宮口の3城が落城したと言う。その後、遠江に侵攻した武田信玄は、再び匂坂城を落とし、一門衆の重臣穴山梅雪を匂坂城に置いて守らせた。この頃の匂坂城は、武田軍の二俣城攻めに際し、徳川方の掛川城浜松城の連絡を分断する大きな役割を果たしており、守将の人選にはよくその重要性が現れている。
 匂坂城は、天竜川東岸に広がる平地の只中、岩田小学校南の畑の脇に城址碑が建てられている。開墾によって遺構は完全に湮滅しており、道の形などにも城の形は残っておらず、その姿は今では全く想像することすらできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.765254/137.832381/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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作左曲輪(静岡県浜松市中区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00792.JPG←曲輪跡と思われる高台の平場
 作左曲輪は、浜松城の出丸である。独立した城郭ではないが、形態の上では浜松城とは区別されて扱われる事が多いとされる。徳川家康の重臣本多作左衛門重次が屋敷を構えていた場所である。重次は、家康の祖父清康の代から仕えた老臣で、家康の三河時代に高力清長、天野康景と共に三奉行の一人として活躍し、この3人を称して「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と謳われ、鬼作左と恐れられた。1572年の三方ヶ原の戦いの前には、家康から武田軍と長期籠城戦に陥った時の兵糧の心配を相談された重次が、「米は十分貯蔵してあります」と返答して家康を喜ばせた。後に家康は、その時の米蔵の位置に重次の屋敷を作ることを許し、1579年にはこの屋敷に城柵を設けて浜松城の搦手を防衛する出丸とし、作左曲輪と呼んだとされる。そしてその後も長く浜松城の西北の護りとなったと言う。
 作左曲輪は、現在浜松城北西の「作左の森」と呼ばれる公園に変貌している。広い窪地の中には起伏があり、高台になっている平場があって、その部分が曲輪だったのではないかと想像される。いずれにしても往時の地形からは大きく改変されており、遺構は不明瞭である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.712390/137.723869/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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曳馬城(静岡県浜松市中区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00821.JPG←城址である東照宮の遠望
 曳馬城は、引間城とも記載され、浜松城の前身となった城である。築城者には諸説あるが、吉良氏の被官、巨海新左衛門尉が築いたとするのが可能性が高いとされる。曳馬城が明確に姿を現すのは斯波氏と今川氏の遠江を巡る抗争期で、1512年には斯波氏の家臣大河内貞綱が曳馬城を占領したが、同年今川氏親は安部山の金掘りを使って曳馬城を攻め落とし、貞綱を滅ぼした。その後は飯尾氏が城主となった。飯尾氏は賢連・乗連・連竜と3代にわたって城主を歴任したが、桶狭間の戦いの後、今川氏が弱体化すると、飯尾連竜は徳川家康に通じて今川氏真と絶縁した為、今川勢に2度にわたって攻撃を受けた。一旦講和したが、駿府に呼ばれた連竜は暗殺され、飯尾氏は滅亡した。その後は江馬氏が城代となったが、内紛で滅亡し、徳川家康は1568年12月に重臣酒井忠次を派遣して曳馬城を接収した。その後家康が遠江を制圧すると、1570年に居城を曳馬城に移し、これを一郭に取り込む形で新たに浜松城を築城した。

 曳馬城は、浜松城の古絵図等に「古城」と記され、現在の東照宮付近一帯に相当する。周囲の町並みより、6~7mの高台となっており、明確な遺構は確認できないものの、城の痕跡をその地勢に漂わせている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.713237/137.728504/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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浜松城(静岡県浜松市中区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00681.JPG←搦手虎口と復興天守
 浜松城は、遠江を押さえるために徳川家康が新造した城である。家康は、この城を居城とした14年の間に、三方ヶ原の大敗の艱難を乗り越え、遠江を甲斐武田氏から奪還し、織田信長と連携して武田氏を滅ぼし、その遺領を併合して駿河・遠江・三河・甲斐・信濃5ヶ国を領する大大名となった。それ故、浜松城は出世城としても知られている。
 浜松城の前身として、この地には曳馬城が築かれていた。1568年12月、徳川家康は武田信玄と連携して遠江の今川領に侵攻し、翌69年には遠江をほぼ制圧し、遠江への本拠地の移動を計画した。当初国府のあった見付に城之崎城を築こうとしたが途中で取り止め、1570年に曳馬城に移り、曳馬城を一郭として取り込んだ形で新たに浜松城を築城した。この時、それまでの居城であった岡崎城は、嫡子信康に譲り渡された。その後浜松城を拠点として、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い等多くの戦いに赴き、前述の通り5ヶ国を領する大大名にのし上がった。そして浜松では領国統治に於いて西に偏することから、1586年に駿府城に居城を移したが、それまでの14年間、浜松城を居城とした。駿府移城後は、家康の家臣菅沼定政が浜松城主となり、1590年に家康が関東に移封となると、豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が浜松城主となった。関ヶ原合戦の戦功により、堀尾氏が出雲松江に移封となると、その後は徳川氏の譜代大名が相次いで城主となった。江戸時代には、東照大権現縁の城として岡崎城と並んで意識され、幕閣への登竜門となる「出世城」となって幕末まで存続した。

 浜松城は、三方原台地の東南端に築かれた平山城である。西から東に傾斜する斜面に、天守曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸を並べた梯郭式の縄張りであったが、現在は市街化で遺構の大半が湮滅し、わずかに天守曲輪と本丸付近が遺構を残すだけとなっている。それでも天守曲輪と本丸の周囲には、荒々しい野面積みの石垣がよく残り、復興天守が華を添えている。また現在は天守曲輪大手に当たる天守門の復元工事が進められている。こういう近世城郭だと、どうしても天守に目が移りがちであるが、曲輪外周に残る野面積みの石垣はなかなか豪壮な姿を残しており、必見の遺構である。ただ残念なのは、三ノ丸や大手門など、湮滅した遺構の標柱は全くなく、城への市民の愛着が感じられないのはちょっと残念に感じた。
本丸外周の櫓台跡→DSC00761.JPG
DSC00766.JPG←天守曲輪の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.711773/137.724878/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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頭陀寺城(静岡県浜松市南区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00650.JPG←石碑の建つ土壇
 頭陀寺城は、松下屋敷とも呼ばれ、曳馬城(後の浜松城)の支城である。曳馬城主飯尾氏の与力松下嘉兵衛之綱が城主で、之綱は今川方の一部将であった。松下之綱と言えば、少年時代の豊臣秀吉の主人として有名で、わずか3年の奉公であったが秀吉は一生之綱に恩義を感じており、天下人となると之綱を召し出して所領を与え、小田原征伐の後には1万6千石の大名とし、久野城主に据えた。一方、頭陀寺城は、1564年に曳馬城主飯尾連竜が徳川家康に通じたため、今川氏の攻撃を受けて消失廃城となった。
 頭陀寺城は、現在の頭陀寺第一公園の地にあったとされ、周囲に水堀を構えた方形居館であったらしい。公園内の土壇上には「松下嘉平次屋敷跡」と刻まれた石碑が建っているが、ここは屋敷跡西北隅にあった祠の一角であったとされ、土塁跡であった様である。以前は公園内に解説板があった様だが、既に撤去されていた。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.698314/137.755948/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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