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古城めぐり(長野) ブログトップ
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与川古典庵館(長野県南木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4404.JPG←眺望に優れた丸山
 与川古典庵館は、木曽氏の庶流三留野氏の家臣小川野氏の居館である。小川野氏の祖・次郎左衛門は三留野左京亮家範に仕え、三留野氏係累の俊範を迎えて住僧とした。1584年、妻籠城の戦いの際、軍学にも優れていた与川俊範は、与川村の郷民を率いて妻籠城に籠城する木曽勢の救援に赴き、徳川勢を撃退したと言う。尚、木曽左京大輔家方(家賢)の4子右馬之助家益が野路里(野尻)に分封され、その支裔が小川野氏であるとも言う。しかし木曽氏の歴史はよくわからないものが多く、三留野家範は戦国時代以前の武士であり、家範に仕えた次郎左衛門が迎えた俊範が戦国末期に活躍したというのは時代的に合わず、前述の所伝には疑問がある。

 与川古典庵館は、与川北岸の丘陵上に築かれている。丘陵上はグラウンドとなって削平され、その南端部に丸山という細長い小山がある。小山の上には古典庵の石碑や与川俊範の供養塔、良寛の歌碑などが建っている。この地は江戸時代、観月の名所で木曽八景に数えられており、眺望に優れた地勢である。古典庵が建っていたのは、グラウンドの北部であったらしいが、前述のようにグラウンドとなって削られ、往時の形態は失われている。
古典庵跡地の現況→DSCN4392.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.635020/137.642384/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

甲信の戦国史:武田氏と山の民の興亡 (地域から見た戦国150年)

  • 作者: 笹本正治
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2016/05/30
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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和村城(長野県大桑村) [古城めぐり(長野)]

DSCN4320.JPG←主郭北側の堀切
 和村城は、歴史不詳の城である。木曽川北岸の段丘辺縁部にあるが、川を挟んで南には木曽氏の拠点須原城・定勝寺館があり、それらと関連する城であることが推測されている。

 和村城は、木曽川に大沢が流れ込む合流点の北東岸に築かれている。ほぼ単郭の城で、先端に主郭が置かれ、東に段状に腰曲輪群が築かれ、主郭の北には堀切を挟んで土塁が伸びている。主郭は、現在はただの空き地となっている。二ノ郭もあったとされるが、耕地化で改変され失われているようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.698022/137.684602/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査ハンドブック

城館調査ハンドブック

  • 作者: 千田 嘉博
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA(新人物往来社)
  • 発売日: 1993/10/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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古畑伯耆守重家屋敷(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4298.JPG←大手の石垣
 古畑伯耆守重家屋敷は、木曽氏の庶流でその家臣であった古畑氏の居館である。古畑氏は木曽家村の3男黒川三郎家景の後裔で、代々黒川に住し、馬場氏と共に黒川口の守りに当たったと伝えられる。重家は戦国後期の当主で、木曽義康・義昌2代に仕えた。1560年、飛騨の三木氏が木曽に侵攻すると、重家は奈川口を守てこれを敗走させた。この戦功により「五貫文山」と呼ばれる山を賜り、江戸時代に木曽を統治した尾張藩が木曽住民に私有林を許さなかった中にあって、この山だけは古畑氏子孫に私有を認めていたと言う。

 古畑伯耆守重家屋敷は、木曽福島宿から開田高原に通じる街道沿いにある。現在は国道361号線が通っているが、かつては黒川沿いに飛騨街道の旧道があったらしく、屋敷はこの飛騨街道に面している。現在屋敷跡地は畑となっているが、飛騨街道に面して大手虎口が開かれ、その両側に石垣が残っている。また屋敷地の南北両辺にも段差が残っている。大手門には、門跡の礎石も残っている。どこまでが中世の遺構なのか、どこからが近世の遺構なのかははっきりしないが、石垣と門跡が残っているのは素晴らしい。
門跡の礎石→DSCN4312.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.876228/137.674870/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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木曽氏定勝寺館(長野県大桑村) [古城めぐり(長野)]

DSCN3205.JPG←台地上の館跡
 木曽氏定勝寺館は、木曽氏の一時期の居館である。木曽氏は三留野から木曽福島までの間を南から北へ度々居所を移しており変転が激しいが、その中の一つが定勝寺館である。

 木曽氏定勝寺館は、現在は定勝寺の境内となっている。須原宿の西端にあり、街道を眼下に収める台地上に築かれている。前述の通り寺の境内となっているため、明確な遺構は残っていない。しかし定勝寺は名刹で、1598年に建てられたという山門・本堂・庫裡は国の重要文化財に指定されている立派なものである。また墓地には木曽氏歴代の内4人の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.694833/137.688528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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上松蔵人屋敷(長野県上松町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3087.JPG←居館跡の平場
 上松蔵人屋敷は、現地解説板では「天神山 木曽氏館跡」と記載され、木曽氏19代義昌の弟上松蔵人義豊の居館である。義豊は上松に分封されて上松氏を称した。1582年1月、木曽義昌は頽勢に陥っていた武田勝頼を見限り、織田信長の調略に応じて実弟義豊を人質に差し出し、武田氏から離反した。これが契機となって信長の武田征伐が開始され、瞬く間に武田領国は崩壊し、同年3月に武田氏は滅亡した。同年6月、信長が本能寺で横死すると、権力の空白地帯となった甲斐・信濃の武田遺領争奪戦、天正壬午の乱が生起した。その経過の中で、木曽氏は徳川家康に帰属し、同年9月に義豊は遠州浜松に移ったと言う。義豊が遠州に去った後は、地士塚本氏が入り、駅亭長・問屋職を務めた。尚、義豊は後に兄義昌の跡を継いだ義利と折り合いが悪く、義利に殺された。この事件によって阿知戸(網戸)藩木曽家は改易された。

 上松蔵人屋敷は、玉林院背後の台地、天神山に居館を構えていたと伝えられる。玉林和尚は木曽氏17代義在の弟で、義豊の大叔父に当たるのでこの地を義豊に与えたと伝えられる。天神山の先端部にはその名の通り天満宮のお堂が建ち、その背後は一段高い平場となっている。台地上は草むらに覆われた平場があるだけで、他に明確な遺構は見られないが、玉林院裏の登り口に解説板が建っており、その歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.786218/137.696811/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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西野城(長野県木曽町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3021.JPG←主郭
 西野城は、木曽氏中興の祖とされる木曽讃岐守家村が築いたとされる砦である。家村は、足利尊氏に従って軍功を上げ、1338年に恩賞として信濃国木曽・高遠・向・洗馬等を賜り、妻籠城の他、馬籠・田立・西野に砦を構え、贄川に関所を設けたと伝えられる。木曽の防衛網の重要拠点であり、『日本城郭大系』によれば戦国期には木曽義康・義昌の家臣西野右馬允友重が守っていたと言う。

 西野城は、標高1422m、比高250mの城山に築かれている。城山の北の尾根には旧飛騨街道が通る西野峠があり、交通の要地を押さえる城であったことがわかる。現在城跡は町の史跡となり、展望台となっているので、登山道が整備され真夏でも薮漕ぎせずに登ることができる。ほぼ単郭の城で、山頂の主郭の北側にはわずかに土塁が築かれている。主郭の北東と北西に小郭を築き、北西尾根の少し下の方に堀切を穿っているが、かなり浅い堀切でほとんど段曲輪に近い形状となっている。遺構はこれだけであるが、周囲の眺望に優れ、ここに城砦を築いていた重要性はよく分かる。
北西尾根の堀切→DSCN3033.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.948994/137.588761/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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古畑十右衛門屋敷(長野県木祖村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2975.JPG←屋敷のあった段丘崖
 古畑十右衛門屋敷は、薮原殿屋敷とも言い、木曽氏の庶流でその家臣であった古畑氏の居館である。1800年に奉行所に提出した家筋の書上げによると、古畑十右衛門家は木曽讃岐守家教の後裔古畑伯耆守家重の分流で、薮原に居住し、村民は尊称して薮原殿と言った。初代十右衛門、2代勘右衛門は木曽義昌に仕えた。1590年に徳川氏が関東に移封となると、義昌も下総国海上郡阿知戸(網戸)に移封となったが、古畑氏は下総には行かずにこの地で帰農し、江戸時代には薮原宿の本陣・問屋・庄屋を務めた。6代目より寺島に改姓した。

 古畑十右衛門屋敷は、江戸時代には本陣にあったが、それ以前は東の段丘崖の上の台地に上屋敷・下屋敷があったらしい。明治初年の町村誌では、屋敷跡は皆畑となっているが、堀跡は残っていたらしい。屋敷跡と見られる東の台地上は、西向きの緩傾斜地で、現在は宅地と畑になっている。めぼしい遺構は無い上、車を停める場所も近くにないので、行くのはやめて薮原宿から遠望するだけにした。
本陣跡→DSCN2955.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.938205/137.786461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

宮坂武男と歩く 戦国信濃の城郭 (図説 日本の城郭シリーズ3)

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/08/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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奈良井城(長野県塩尻市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2920.JPG←主郭周囲の空堀
 奈良井城は、現地標柱では奈良井治部少輔義高居館と書かれ、木曽氏の一族奈良井義高の居城である。義高は、福島城主木曽義康の弟で、奈良井に居住して奈良井治部少輔を称した。1555年4月、武田信玄の木曽侵攻の際に義高は敗死し、城も陥落したとされるが、異説もある。

 奈良井城は、木曽路の観光で有名な奈良井宿の北の段丘辺縁部に築かれている。西のカツ沢を天然の堀とし、北と東に空堀を穿って台地と分断して主郭を形成している。ほぼ単郭の城であるが、南や西にわずかな段差で腰曲輪が構築され、特に南西に向って下り勾配となる部分には腰曲輪が3段形成されている。城とは言うものの、居館的色彩の濃い館城である。尚、近くの大宝寺の裏手には奈良井義高の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.967196/137.811749/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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城の上砦(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7346.JPG←堀跡
 城の上砦は、西牧城主西牧氏が於田屋館を中心とする本拠地防衛のために築いた城砦群の一つである。西牧台地東の段丘崖に本神沢川の浸食谷が入り込み、その北側の段丘角部に築かれている。ほぼ単郭の砦であったようで、現在は西側の堀の一部が残っているだけである。この堀も北に登った所で耕地化で消滅してしまっている。主郭は畑になっている。遺構はわずかだが、砦を築くにふさわしい地勢である事はわかる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.229294/137.864406/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


歩いて楽しむ信州 善光寺 松本

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  • 出版社/メーカー: JTBパブリッシング
  • 発売日: 2020/07/29
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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伊藤坂上砦(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7326.JPG←わずかに残る主郭堀切
 伊藤坂上砦は、西牧城主西牧氏が於田屋館を中心とする本拠地防衛のために築いた城砦群の一つである。西牧台地東の段丘崖に谷が入り込み、その南側に北東に向かって突き出た台地上に築かれている。現在残っているのは、先端の主郭と、その南西の二ノ郭だけであるが、往時はもっと南にも外郭があったらしい。主郭・二ノ郭は林に、外郭は畑に変貌している。車道脇の薮の中に二ノ郭背後の堀切がわずかに残る他、二ノ郭と主郭の間の堀切もわずかに窪地となって残っている。北側の切岸ははっきりしており、砦があったことが明瞭である。尚、超マイナーな城砦であるが、近くの果樹園で作業中だった方は砦のことをご存知だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.225520/137.861874/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

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  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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桜坂上砦(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7315.JPG←崖下から見た堀跡
 桜坂上砦は、西牧城主西牧氏が於田屋館を中心とする本拠地防衛のために築いた城砦群の一つである。梓川北方の段丘崖上に築かれている。空堀で区画された3つの曲輪を東西に並べていた様だが、現在は住宅の裏になっていて、ほとんど入れない。西の畑裏や崖下から薮をかき分けて、ようやく一部の堀跡が確認できた程度である。残存遺構がわずかで、少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.214978/137.850759/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本100名城公式ガイドブック スタンプ帳つき(歴史群像シリーズ)

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タグ:中世崖端城
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波田山城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSCN7146.JPG←主郭の虎口郭
 波田山城は、最初は信濃守護小笠原氏の一族櫛木氏、後には小笠原氏家臣の波田氏が城主であった。1462年頃、櫛木市正(いちのかみ)一俊が波田郷の地頭となり、西光寺内城と波田山城を築いた。飛騨・木曽方面の境を固めるとともに対岸の西牧城主西牧氏に備えた。子の紀伊守政盛まで2代在城したと言う。戦国期には信濃守護小笠原長時の旗本波田数馬が城主となった。長時が甲斐の武田信玄に駆逐されると、深志城代日向大和守により1552年に西光寺内城と波田山城は破却された。

 波田山城は、梓川の南方にある標高977m、比高210m程の峰に築かれている。城の南側に遊歩道があり、そこから城への登道が整備されている。中央に長円形の主郭(本城)を置き、北に二ノ郭(北城)、南に三ノ郭(南城)、更に南に四ノ郭を配し、それぞれ堀切で分断しており、連郭式の縄張りを基本としている。そしてそれらの周囲に幾重にも腰曲輪群を築き、堀切から落ちる長い竪堀は、これらを貫通して落ちている。遺構はしっかりと残り、堀切などの普請もしっかりなされているが、如何せん至る所に入山禁止の看板があり、主郭周り以外はあまり自由に見て回ることができない。主郭は低土塁で囲まれ、西側中央に築かれた虎口の外には、腰曲輪より一段高い虎口郭が置かれている。縄張図を見ると、腰曲輪群の中にいくつも竪堀が穿たれているようである。遺構はよく残っているが、入山禁止エリアが多く消化不良気味になる城である。
主郭~三ノ郭間の堀切→DSCN7157.JPG
DSCN7217.JPG←堀切から長く落ちる竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.183654/137.837155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


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日岐氏館(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]

DSCN7078.JPG←館跡の現況
 日岐氏館は、日岐殿屋敷とも言い、日岐氏の歴代の居館があった場所である。日岐氏の事績については日岐城の項に記載する。

 日岐氏館は、日岐城北東麓の犀川に面した平地にある。裏日岐と呼ばれる地域で、現在は宅地と畑・果樹園に変貌している。表示板裏の解説文によると、往時は土塁が築かれ、建物礎石も残っていたらしい。この平地の南端近くには、番所屋敷があったらしく、表示板が立っている。遺構はないが、西上段の正福寺跡には日岐氏一族の墓が残っている。
日岐氏の墓→DSCN6963.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.423967/137.941976/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:墓所 居館
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日岐城(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]

DSCN7026.JPG←わずかに残る主郭石積み
 日岐城は、信濃の名族仁科氏の一族日岐氏(日岐丸山氏)の居城である。1492年頃に生坂谷に進出して裏日岐に居館を構え、日岐城を築いたと言われる。仁科明盛の2男盛慶は、生坂の丸山氏に入婿して丸山氏を嗣ぎ、、肥後守を称したと言う。盛慶以後、盛高・盛次・盛武など約100年に渡る居城となった。その間、甲斐武田氏が信濃に侵攻すると、武田氏に降り、北信濃の川中島進出の際には道筋の守りを担当した。1582年、武田氏滅亡、織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際、深志城を回復した小笠原貞慶は、筑摩・安曇郡の旧領回復を目指して軍事行動を開始し、8月初旬、日岐氏の拠る日岐城を攻撃した。激しい攻防の末、9月上旬に日岐城は攻略されたが、日岐盛直・耳塚作左衛門尉は日岐大城に立て籠もって抵抗を続けた。翌83年8月、貞慶は、籠城衆を調略してようやく日岐大城を攻略した。日岐盛直・盛武兄弟、耳塚作左衛門尉、穂高盛棟らは一族を引き連れて城を脱出し、上杉氏のもとに逃れたと言う。また別説では盛武は小笠原氏に降って許され、小笠原氏に従って各地を転戦し、1590年に小笠原氏が関東に転封となるとそれに従ってこの地を離れたとも言われる。

 日岐城は、犀川曲流部に西から突き出た標高620mの山上に築かれている。北麓から登道が整備されている。これを登っていくと左手に広い高台が広がっており、『信濃の山城と館』によると大手曲輪とされている。水の手もあるらしいが、薮が多くよくわからない。更に登っていくと、東尾根の鞍部に至る。ここから東に進むと、小ピークの高台(物見曲輪)があり、見張台跡の表示板がある。後部に高台を築いた曲輪の北に、2段の腰曲輪を築いている。逆に西に進むと三ノ郭に至る。途中には2~3段の腰曲輪がある。三ノ郭は楔形をした平坦な曲輪で、後部の細尾根の鞍部には堀切が穿たれている。その上に二ノ郭がある。二ノ郭は先端に土塁が築かれ、後部が1段低くなり、主郭との間には堀切が穿たれている。その上が城内最高所で主郭が築かれている。主郭は西側が1段高く櫓台のようになっている。主郭東辺には石積みがわずかに残っている。主郭の南尾根には段曲輪が3段あり、上段の段曲輪の側方に虎口が開かれ、下の段曲輪に通じている。中段の段曲輪の西辺には石積みのある土塁が築かれている。また主郭の西尾根には、堀切が穿たれ、その先の細尾根脇に竪堀2本が穿たれ、その先に小堀切、更に先の尾根に一番規模の大きな堀切が穿たれて、城域が終わっている。基本は連郭式の縄張りであるが、途中の繋ぎの尾根が細いため、二ノ郭・三ノ郭・物見曲輪は離れて配置されている。曲輪はいずれも小さく、居住性はほとんどなかったと思われ、有事の際の詰城であったものだろう。
二ノ郭後部の堀切→DSCN7014.JPG
DSCN7068.JPG←城域最西端の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.420618/137.937512/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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日岐大城(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]

DSCN6880.JPG←主郭
 日岐大城は、日岐城主日岐氏(日岐丸山氏)の支城である。1582年の天正壬午の乱の際、深志城を回復した小笠原貞慶は、筑摩・安曇郡の旧領回復を目指して軍事行動を開始し、8月初旬、日岐氏の拠る日岐城を攻撃した。激しい攻防の末、9月上旬に日岐城は攻略されたが、日岐盛直・耳塚作左衛門尉は日岐大城に立て籠もって抵抗を続けた。翌83年8月、貞慶は、籠城衆を調略してようやく日岐大城を攻略した。日岐盛直・盛武兄弟、耳塚作左衛門尉、穂高盛棟らは一族を引き連れて城を脱出し、上杉氏のもとに逃れたと言う。

 日岐大城は、峻険な京ヶ倉の北の峰にある。京ヶ倉・大城トレッキングコースが整備されており、迷うことなく登ることができるが、道程は長く、岩場の道もあるので、城歩きというより完全なトレッキングである。小屋城の東にある京ヶ倉登山口から登って京ヶ倉までジャスト1時間、更に15分でようやく大城に到達する。京ヶ倉までの稜線はアップダウンが激しく、ロープに捕まらないと登り降りできない。また途中には馬の背道という岩場もあり、訪城当日は穏やかな天候で風もなく絶景が楽しめたが、強風時は恐怖だろう。最高峰の京ヶ倉は頂部が平坦な平場になっており、往時の物見台、兼狼煙台である。京ヶ倉物見から大城までの尾根には堀切はなく、自然地形の稜線だけである。大城は、東が高台となった三角形の主郭を頂部に置き、南の尾根に舌状の腰曲輪、北の尾根に二ノ郭、三ノ郭を配置している。いずれも平坦ではあるが、普請はささやかなものである。また主郭の北側下方の谷地には、腰曲輪群が築かれている。城から北にやや離れて物見岩があり、往時に番兵が見張りをしていた場所と伝わる。主郭から物見岩までは10分程掛かる。この途中にも小ピークの小郭が見られる。最低限の普請しかしていない小城砦で、稜線が急峻なので堀切がないのも道理である。1年もの間籠城戦ができたのも、ひとえにその峻険な地形によるものと言える。片道1時間半、往復約3時間の行程であったが、シジュウカラなどの小鳥を見ながらの、楽しい春の登山となった。遺構は小規模なので、城には期待しない方が良い。
谷地の腰曲輪→DSCN6888.JPG
DSCN6943.JPG←京ヶ倉物見

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.436346/137.952061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館 第4巻(松本・塩尻・筑摩編)―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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小屋城(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]

DSCN6793.JPG←大堀切と主郭
 小屋城は、日岐城主日岐氏(日岐丸山氏)の支城である。城主は、丸山丹波守と伝えられる。1582年の天正壬午の乱の際、深志城を回復した小笠原貞慶は、筑摩・安曇郡の旧領回復を目指して軍事行動を開始し、8月初旬、日岐氏の拠る日岐城を攻撃した。激しい攻防の末、9月上旬に日岐城は攻略され、この攻防の中で小屋城も落城した。

 小屋城は、京ヶ倉西麓の犀川曲流部にある岩尾根に築かれている。東麓の鞍部に京ヶ倉登山道の登り口があり、そこから城への登道がある。大堀切で城域を二分した一城別郭の縄張りとなっている。東のピークに長円形をした主郭があり、北東下に段曲輪、その下方に堀切を穿った土壇を配置している。主郭の西側には大堀切が穿たれているが、片側(北側)だけ二重堀切となった変則的な堀切である。大堀切の西には2つの尾根上の長い曲輪が連なり、その先に小高くなった小ピークがあり、物見台となっている。物見台の周りには腰曲輪が数段築かれている。更にその西に伸びる尾根にも、小堀切と細尾根の平場がある。以上が小屋城の遺構で、万平に置かれた日岐氏の居館を守る砦であったと推測される。
西の物見台→DSCN6807.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.428146/137.939476/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東・甲信越戦国の名城・古城歩いて巡るベスト100

関東・甲信越戦国の名城・古城歩いて巡るベスト100

  • 作者: 清水克悦
  • 出版社/メーカー: メイツ出版
  • 発売日: 2014/10/17
  • メディア: Kindle版


タグ:中世平山城
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羽場城(長野県辰野町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3931.JPG←主郭の空堀と土塁
 羽場城は、小笠原氏が築いた城である。伝承では天文年間(1532~55年)に小笠原十二郎が羽場城に居住したとされる。武田信玄が伊那に侵攻し、藤沢頼親が拠る福与城を攻撃した際、小笠原長時が家臣の草間肥前守時信を入れて守らせたと言う。武田氏支配時代には柴河内守がこの城に入ったが、1582年の織田信長による武田征伐の際に織田軍によって落城した。但し、別説では柴氏が拠ったのは沢を挟んで北にある古城原で、文禄年間(1592~96年)に新たに羽場城を築いて移ったとも言われる。いずれにしても江戸前期の1636年に高遠城主保科正之が出羽山形に加増転封となると、柴氏も保科氏に従ってこの地を離れたと言う。

 羽場城は、天竜川曲流部南の段丘辺縁部に築かれている。主郭は手長神社の境内となっている。主郭は方形をしており、北の崖面以外の三方に、曲輪の規模とは不釣り合いなほど大きな土塁を築いている。その外周には空堀を穿っているが、南西角はJR飯田線が貫通しており、破壊を受けている。主郭の大手虎口は神社入り口に当たる南側であるが、神社建設によって改変されている。搦手虎口が北西にあり、土塁にわずかな切れ込みがあり、空堀に土橋が架かっている。主郭の周りには二ノ郭があるが、畑や宅地に変貌している。一部に外周の土塁が残り、堀跡らしい畑が残っている。基本的に方形プランで横矢掛りはほとんどないシンプルな縄張りであるが、大型の土塁と空堀は事前の予想以上の規模で見応えがある。
二ノ郭土塁と堀跡の畑→DSCN3940.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.956445/137.983947/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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王城(長野県辰野町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3828.JPG←主郭切岸と北の帯曲輪
 王城は、歴史不詳の城である。上伊那の北端に屹立する山上にあって、上伊那盆地全域を眼下に収めるとともに、諏訪・府中の両方面に通じる街道を押さえる要衝であり、物見として重要な位置にあったことが現在でも分かる位置にある。『信濃の山城と館』では、小笠原氏系の砦や狼煙台であったと推測している。

 王城は、標高1027m、比高290m程の大城山に築かれている。まともに麓から登ったら大変だが、幸い車道が山上まで整備されており、苦労することなく登ることができる。しかし城内は公園化されている上、西尾根には電波塔があり、現在はないが主郭南東下には反射板が設置されていたので、遺構は改変を受けていて細部が失われてしまっている。現状から見る限り、東西に長い長円形の主郭と、周囲に廻らされた帯曲輪で構成された単郭に近い城である。主郭の南東には平場があり、曲輪があったらしい。この他、主郭の西尾根には堀切・竪堀がはっきりと残っている。尚、この城に行ったのは2月下旬であったが、山の北側の車道は残雪が多く、途中凍結もあり運転にはかなり緊迫感があった。
西尾根の堀切→DSCN3834.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.992930/137.994654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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龍ヶ崎城(長野県辰野町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3738.JPG←堀切と二ノ郭
 龍ヶ崎城は、伊那谷から善知鳥峠を越えて府中・松本平へ抜ける交通の要衝に築かれた城である。築城者・築城時期は不明であるが、『神長官守矢満実書留』の1464年条に記載されているのが文献上の初見である。1487年には、高遠の諏訪継宗が龍ヶ崎城を取り立てて支配した。1544年から下伊那に侵攻を開始した武田信玄は、翌1545年4月、箕輪福与城の藤沢頼親を攻撃したが、頼親の義兄であった信濃守護・林城主小笠原長時は、福与城の援軍として龍ヶ崎城に陣を敷いた。信玄は、5月21日に小山田信有らにこれを攻撃させ、6月に至って武田氏の重臣板垣信方が龍ヶ崎城を攻め落とし、長時は府中へ逃げ帰った。この結果、頼親は和議を結んで福与城を開城して城を出、福与城は武田勢に放火破壊された。その後の龍ヶ崎城の消息は不明である。

 龍ヶ崎城は、比高120m程の山上に築かれている。公園化されており、南東麓から登山道が整備されている。登ってすぐに平場があり、龍ヶ崎公園となっているが、後部には土塁と堀切が残り、大手の曲輪であったと考えられる。そこから急な尾根を登っていくと、やがて傾斜が緩くなり、小郭や堀切が現れる。更に登ると前衛の三ノ郭があり、背後を堀切で遮断している。その上に二ノ郭がある。二ノ郭は後部に物見台の土壇を築き、背後を堀切で遮断している。この堀切は西側で三重竪堀となっている。堀切の上には主郭がそびえている。主郭は小さく、周囲に土塁を築いてすり鉢状になっている。主郭の背後には深い堀切が穿たれ、主郭の西側下方には、この堀切と連携して畝状竪堀が穿たれており、形がよく残っている。主郭背後の堀切は小堀切と組み合わせた三重堀切となっており、東斜面には更に竪堀1本が足されている。その先は細尾根が続くが、散発的に小堀切と竪堀が数本穿たれている。この内、宮坂氏の描いた縄張図で言うと、「ク」の竪堀は下方に長く落ちている。城域北端は小平場と浅い堀切で区画されているが、あまり防御が固いようには見えない。龍ヶ崎城は、信濃守護が本陣を置いたにしては小さい城で、中枢部だけ集中的に堀切や畝状竪堀で守りを固めている。
主郭西側の畝状竪堀→DSCN3721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.989405/137.976941/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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高尾山城(長野県岡谷市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3644.JPG←大きく傾斜した主郭
 高尾山城は、諏訪大社下社大祝であった金刺氏の庶流で、この地の地頭三沢対馬守が築いたと伝えられ、築城は鎌倉期または室町前期頃と推測されている。

 高尾山城は、標高1016mの高尾山に築かれている。この山は独立丘で、いかにも城山という感じの山である。南東麓から登山道が整備されており、迷うことなく登ることができる。登り口からの比高は150m程である。城は南北2郭から構成されており、南の主郭は三角形をした曲輪で、内部は東に向かって大きく傾斜し、南東に腰曲輪を伴っている。主郭は展望台となっていて、諏訪湖まで一望できる。主郭の北側には、横矢の屈曲のある土塁・堀切が築かれているが、屈曲はわずかで、強く防御を意識したような感じではない。北側には二ノ郭が広がるが、ほとんど自然地形の地山である。見た限りでは古い形態の城で、戦国期には物見や狼煙台として機能した城砦と考えられる。
主郭北側の堀切・土塁→DSCN3656.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.055023/138.017871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「東国の城」の進化と歴史

「東国の城」の進化と歴史

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/04/26
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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小坂城(長野県岡谷市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3602.JPG←わずかに残る堀切跡
 小坂城は、諏訪氏(神氏)の庶流有賀氏の分流小坂氏の居城であったと伝えられる。伝承では、平安後期の1154年に甲斐源氏の源信義が初めて築城したとも言われるが詳細は不明。小坂氏は、上社大祝敦光の子敦忠を祖とする一族で、小坂郷に入部して小坂殿と呼ばれた。小坂城は有賀城の支城で、1483年に前宮神殿(こうどの)で大祝継満が惣領家諏訪政満一族を忙殺した「文明の内訌」の時には、小坂氏は惣領家に与した。武田信玄が諏訪を攻略すると、小坂氏は一旦は武田氏に降ったが、1548年に信玄が上田原の戦いで村上義清に敗北すると、諏訪西方衆の反乱に与し、鎮圧後に追放された。その後、小坂城は武田氏の支配下となったが、1582年に武田氏が滅亡すると廃城となったと推測されている。

 小坂城は、諏訪湖西岸の山地の先端部に築かれている。中央自動車道の建設に伴って、城跡の主要部分は発掘調査の後、破壊消滅している。かつては土塁で囲まれた方形の主郭を持ち、西に堀切を挟んで、二ノ郭を配し、これらの外周に腰曲輪群を廻らしていたらしい。城へは南東麓から伸びる小道を登って行ける。主郭は完全に消滅しているが、二ノ郭は西側部分が残存し、間の堀切も南端部分がわずかに残っている。主郭と二ノ郭の周囲に段々に廻らされた腰曲輪群は明瞭に残っているが、昭和20年代の航空写真を見ると、全山耕地化されているので、どこまでが往時の曲輪跡で、どこからが畑の跡なのか、明確には判別できない。城から西の谷を挟んで西の丘陵地に方形の平場と段々の平場群があるが、これも城跡だったのかどうかはわからない。以上が小坂城の遺構で、残っているのはわずかだが、二ノ郭には標柱も立ち、城の雰囲気は残っている。尚、登り口である南の畑地には往時は城主居館があったらしく、近くには「御頭屋敷」の地名も残り、小坂氏が上社の社務を務めた両頭奉行であったことを示している。
西の腰曲輪群→DSCN3581.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.034776/138.063844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 武田信玄

図説 武田信玄

  • 作者: 平山優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/02/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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大和城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3421.JPG←虎口脇の石積み
 大和(おわ)城は、1469~1555年の86年間、金刺氏の庶流大和(大輪)監物の居城であったと伝えられる。諏訪大社上社・下社の抗争の時代に、下社勢力の東の境目を守る要地であったことが推測される。大和氏は、武田氏支配時代にも諏訪五拾騎の一人であり、下社勢の有力社人であったことが伺われる。

 大和城は、諏訪市と下諏訪町の境界線上にある標高940mの山上に築かれている。『信濃の山城と館』では南の雨明沢の脇の尾根筋が大手とされるが、登道はあまり明確ではなく途中で消滅している。しかも結構斜度が急で滑りやすいところを直登するように登っていかなければならない。城が近づくと祠が現れ、その上には帯曲輪らしい平場群が多数確認できる。主郭手前の虎口や主郭周囲には、石積みが残っている。主郭は長円形の曲輪で、後部に土塁が築かれている。北側の帯曲輪には竪堀も確認できる。主郭背後は堀切が穿たれ、その先の短い尾根の曲輪は畝状阻塞となっていて、北斜面に二重竪堀が落ちている。それらの後部にもう1本堀切が穿たれている。ここまでが本城域であるが、ここから西に登る尾根筋に、物見の遺構がある。物見の峰の手前に堀切が穿たれ、物見小郭の背後にも堀切が穿たれている。以上が大和城の遺構で、高木城よりは防御が固められているが、遺構を見る限りは物見の砦として機能していたと考えられる。
背後の二重竪堀→DSCN3472.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.064564/138.113744/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


諏訪神社 七つの謎: 古代史の扉を開く

諏訪神社 七つの謎: 古代史の扉を開く

  • 作者: 皆神山 すさ
  • 出版社/メーカー: 彩流社
  • 発売日: 2015/08/25
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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高木城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3346.JPG←二ノ郭から見た主郭
 高木城は、金刺氏の庶流で諏訪大社下社の東の守りを果たした高木氏の居城と伝えられる。武田氏支配時代にも、狼煙台や物見の砦として機能したものと推測されている。

 高木城は、諏訪湖北東岸に突き出た小さな峰に築かれている。東側に住宅地背後まで登る車道があり、城内には送電鉄塔があるので、車道の先から登道が整備されている。5分も登れば城域に至るので、お手軽に訪城できる。峰状に円形の主郭を置き、東の鞍部に二ノ郭を配した小規模な城である。主郭外周には帯曲輪が廻らされ、竪堀が3本程穿たれているが、いずれも痕跡はわずかで、縄張図に書いてなければ気付かない程度のものである。主郭と二ノ郭は、切岸だけで区画され、大した高低差もない。二ノ郭の北と南の斜面には腰曲輪があるが、ニノ郭の先には何らの防御構造もなく、山の斜面がそのまま続いているだけである。麓からの比高差も小さく、物見を主任務とした小城砦であったと思われる。城内をくまなく歩いても大した時間がかからず、登り口から登るのも大した時間がかからないので、最短登城記録の山城となった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.069351/138.101631/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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萩倉砦(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3325.JPG←堀切と主郭切岸・帯曲輪
 萩倉砦は、下の城から谷一つ挟んだ東の尾根上に築かれた砦である。歴史は皆目わからないが、その位置関係から下の城・上の城と密接に関連した城砦であったと推測されている。

 萩倉砦は、下諏訪社中学校の背後の尾根に築かれている。南北2郭から成る小規模な城砦であるが、事前の情報では城域は立入禁止になっているとのことだったが、ダメ元で南麓から山道を登ってみたら、北の二ノ郭は規制がなかった。但し南の主郭は立入禁止になっていたので、二ノ郭周辺だけ踏査した。二ノ郭はほとんど自然地形に近いが、背後に当たる北尾根と、南の主郭と、それぞれの間に堀切を穿っている。しかし堀切はいずれも浅く、特に北のものはわずかな窪地となっているだけである。主郭との間の堀切は、主郭の土塁・切岸が明瞭であるため、北の堀切よりは形状が明確である。また主郭の西側には、二ノ郭西側から続く帯曲輪が築かれているが、立入禁止のため、その先は未確認である。いずれにしても簡素な城砦で、東の中山道筋を押さえるため、下の城の死角を補完する目的で築かれたと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.090127/138.079294/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学

「城取り」の軍事学

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2013/08/29
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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上の城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3220.JPG←北側の横堀・帯曲輪
 上の城は、伝承では甲斐の武田信玄24将の一人、横田備中守の居城と言われるが、事実かどうか疑問である。1518年に上社・下社の抗争があり、下社の金刺昌春の「萩倉の要害」が自落したとの記事があるが、この萩倉の要害が上の城のことであるとの説が近年有力になっている。萩倉要害の自落の結果、金刺氏は没落し、昌春は武田氏を頼って甲府に逃れた。それ以後の上の城にまつわる歴史ははっきりしない。尚、この城の南方下方の尾根には下の城があり、両城が一体となって機能していたことが推測され、下の城に対する詰城となっていた可能性がある。

 上の城は、標高1060mの山上に築かれている。下の城から上の城まで登道があるので、迷うことなく行くことができる。上の城は、曲輪は大きいがほぼ単郭の城で、下の城とは全く築城思想が異なっている。主郭の外周に二重(一部は帯曲輪状)に土塁・横堀を廻らした形態で、まるで古代のチャシの様である。横堀は浅く、あまり強く防御性を意識したようには感じられない。これらの横堀は、北東の尾根筋も穿つ堀切を兼ねている。この堀切部分では、主郭が尾根側にやや突出し、そこに横から主郭内に進入するような感じになっていて、形状があまりはっきりしないが枡形虎口を形成していたようにも感じられる。主郭内は平坦な地山のままで、外周が一段低く帯曲輪状になっている。この他、南東斜面には水の手と思われる腰曲輪が2段あり、南尾根には竪堀らしい地形がある。以上が上の城の遺構で、技巧性のない古い形態の縄張りで、戦国後期まで使われた城とは考えにくい様に感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.096768/138.078468/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


2時間で分かる諏訪大社の歴史と日本の政祭構造 (八洲文庫)

2時間で分かる諏訪大社の歴史と日本の政祭構造 (八洲文庫)

  • 作者: 矢島景介
  • 出版社/メーカー:
  • 発売日: 2022/10/24
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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下の城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN3283.JPG←横堀状の登道
 下の城は、歴史不詳の城である。諏訪大社下社の重要な場所であったことから、下社大祝の金刺氏かその一党によって築かれた可能性がある。尚、この城の北方の山上には上の城があり、両城が一体となって機能していたことが推測される。

 下の城は、下諏訪社中学校の北西の尾根上に築かれている。この尾根の西下を通る車道脇から登道が付いており、それを登っていくとすぐに前衛の段曲輪群が現れる。ここには土塁や竪堀が見られ、登山道はこの中を堀底道のような形で通っている。その上には三ノ郭群が築かれている。三ノ郭群も段状の平場が続き、方形の小型の櫓台や空堀で囲まれた大土塁、竪堀などが見られる。その上方に自然地形の斜面がしばらくあって、その先に主郭群が築かれている。主郭は縦長の曲輪で低土塁を築き、背後に堀切を穿っている。また東側側方には横堀状に登道が通っている。また主郭の南東に伸びる尾根に段曲輪群が築かれている。主郭の後ろには二ノ郭がある。ニノ郭はほとんど自然地形で削平甘いが、後部に土塁囲郭が置かれている。二ノ郭の背後も土橋の架かった堀切が穿たれて、城域が終わっている。現在の登山道は、堀状になっている部分が散見されるので、元々の城道であったらしい。以上が下の城の遺構で、曲輪群は明確であるものの全体的に求心性がやや乏しい縄張りで、縄張りにも古さを感じさせる。武田氏侵入時代の戦国期には、あまり使われなくなっていたように思える。
二ノ郭後部の囲郭→DSCN3154.JPG
DSCN3160.JPG←二ノ郭背後の堀切・土橋

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.091739/138.076515/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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伊豆木城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1142.JPG←3郭の土壇
 伊豆木城は、小笠原氏の家臣伊豆木氏の城と考えられている。伊豆木氏は、南北朝期頃から伊豆木に在住し、小笠原氏に属して伊賀良庄南部を領した。1400年の大塔合戦では、信濃守護小笠原長秀に属した下伊那の武士の中に伊豆木美作守の名が見える。また応仁の乱の際に将軍足利義政から感状を受けた松尾城主小笠原家長らに関連して伊豆木尾張守の名がある。伊豆木氏の事績については不明点が多いが、1582年の織田信長の武田征伐により没落したと伝えられ、この時期に廃城になったと考えられる。後の1600年、小笠原信嶺の弟長巨は、徳川家康から伊豆木に1千石を賜り、伊豆木城の南東麓の居館跡に陣屋を造営して居所とした。

 伊豆木城は、国重要文化財に指定されている旧小笠原家書院が建つ伊豆木陣屋背後の比高70m程の丘陵上に築かれている。陣屋跡に建つ小笠原資料館の裏から登道があるが、立入禁止になっており、仕方なく西の竹藪を突っ切って登城した。大きな谷地形で隔てられた3つの曲輪群と、東の出曲輪で構成されている。曲輪群を隔てる2つの谷地形は堀切とされているが、いずれもほとんど自然地形であり、鋭い薬研堀として普請した感じではない。その一方で、3つの曲輪群を構成する平場群は明瞭である。『日本城郭大系』『信濃の山城と館』に倣って呼称すると、西の曲輪群が1郭、中央の曲輪群が2郭、東の曲輪群が3郭となるが、これは便宜的に数字付けしたものであって、実際にどの曲輪群が主郭に相当していたのかは、現状ではわかりにくい。付随する曲輪群が一番多いのは1郭で、頂部の縦長の曲輪の南東に段曲輪群が築かれ、また南西に舌状曲輪を伴っている。この舌状曲輪の先端の段曲輪には小祠が祀られている。中央の2郭は付随する曲輪群が最も少ないが、北西の谷地形の先に出丸的な曲輪が築かれている。ここには鉄塔が立っているので、改変を受けている。周囲には腰曲輪があるらしいが、高木がないので薮で覆われていて、地形がよくわからない。3郭は1郭に次いで付随する曲輪群が多く、頂部の平場の南端近くには物見台らしい土壇がある。また北に堀切と小郭、南に腰曲輪群と竪堀地形が見られる。東の腰曲輪の先には鞍部を挟んで東の出曲輪がある。この鞍部も堀切とされているが、ほとんど自然地形である。また出曲輪は普請がかなり不明瞭で、どこまでが曲輪なのかはっきりしない。以上のような遺構の状況で、かなり消化不良になる城である。
1郭~2郭間の谷地形→DSCN1199.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.447115/137.792995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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西平城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN0857.JPG←東斜面の腰曲輪群
 西平城は、麦種城と共に小笠原氏が築いた久米ヶ城の支城とされる。その他の歴史は不明である。

 西平城は、標高800mの城山に築かれている。浄玄寺裏手の墓地脇から登山道が整備されているので迷うことなく登ることができる。ちなみに浄玄寺からの比高は150mである。この登山道は長く、尾根道を延々歩いて行って、ようやく城域入口にある小堀切に至る。西平城は山頂に、東以外の三方に低土塁を築いた長方形の主郭を置き、その南に浅い堀切を挟んで馬蹄形の二ノ郭を築いている。二ノ郭の南東に2段の腰曲輪を配し、南東下方に堀切を穿ち。その先に三ノ郭を配置している。主郭の東辺には内桝形虎口があり、その入口には長い石を並べた石積みが見られる。ただこれは遺構かどうか定かではなく、同行した妻は昔神社があった名残ではないかと推測していた。最近妻は遺構に対する洞察力が鋭く、なるほどと唸らせられることも多いので、ここでの見解も合っているかもしれない(後で確認したら、『信濃の山城と館』の著者宮坂氏も「往古のものとは思われない」と述べている)。主郭の北西の尾根には合計3本の堀切が穿たれている。この背後の堀切は前面の堀切よりもやや規模が大きい。この城で特徴的なのは、主郭東斜面に築かれた10段程にも及ぶ腰曲輪群である。主郭の1段下には広い腰曲輪があり、曲輪内の北寄りに食違い虎口が構築されている。この東腰曲輪群の眺めは壮観である。また曲輪間を繋ぐ城道も明瞭に残っている。腰曲輪群の最下段には横堀が穿たれ、また腰曲輪群北辺部には竪堀も数本落ちている。腰曲輪群の南辺には横矢掛かりの屈曲を持った竪堀が穿たれている。この他、二ノ郭の南尾根、三ノ郭の東尾根・南尾根、主郭の北東尾根に段曲輪群がかなりの数築かれている。この中では北東尾根が防備が厳重で、先端に二重堀切が穿たれている。しかしその他の曲輪群も要所に堀切を穿っている。全体ではかなり広い範囲に、かなりの数の曲輪を築いており、単なる支城以上の役割を負っていた城だったと思われる。縄張りの技巧性はあまりないが、見どころが多い城である。
主郭北西尾根の堀切群→DSCN0908.JPG
DSCN1015.JPG←腰曲輪群最下段の横堀
北東尾根曲輪群の二重堀切→DSCN0959.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.473751/137.747526/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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麦種城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN9747.JPG←西辺に残る土塁
 麦種城は、西平城と共に小笠原氏が築いた久米ヶ城の支城とされる。
 麦種城は、二ツ山の西麓にある、山地から独立した半島状台地に築かれている。南北に細長い台地で、城内は墓地や畑となっていて改変を受けている。北の台地基部には堀切があったと想定されるが、現状では全くその痕跡は残っていない。平場の中央部付近には、東西両辺に土塁跡が残っている。土塁の外側には腰曲輪も残っている。しかし全体的に遺構の残存状況が悪く、どのような城だったのか、往時の縄張りが想像しにくい状態で残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.479517/137.767804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2022/03/10
  • メディア: 大型本


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松尾城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN9530.JPG←二ノ郭の空堀
 松尾城は、信濃守護小笠原氏の一流、松尾小笠原氏の居城である。松尾城がある伊賀良庄は、鎌倉時代には北条得宗領であったが、1333年の元弘の乱による執権北条氏滅亡後は、信濃守護に補任された小笠原貞宗の所領となったらしい。松尾城の創築時期は不明であるが、一説には南北朝時代には小笠原貞宗やその子政長が居城としていたとも言われる。即ち、戦国時代に府中の林城を本拠とした信濃守護家の小笠原氏は、南北朝期には松尾城を本拠としていた可能性がある。しかし文献上、松尾城が現れるのは室町時代中期である。小笠原氏は一時期信濃守護職から外されていたが、政康の時に復権を遂げ、政康の死後はは深志(府中)小笠原氏・松尾小笠原氏・鈴岡小笠原氏が分立し、惣領職をめぐって抗争を繰り広げた。その経緯は鈴岡城の項に記載する。1493年、松尾の小笠原家長の嫡男定基は、守護の鈴岡小笠原政秀・長貞父子を松尾城に誘い出して殺害し、鈴岡小笠原氏は滅亡した。1534年、深志の府中小笠原長棟は松尾城の定基を攻め、定基父子は降伏して松尾城を明渡した。長棟は松尾城を破却し、定基の子貞忠とその子信貴は甲斐へ逃れた。長棟は分裂していた信濃の小笠原氏を統一し、その子信定が鈴岡城に入り、伊賀良庄を治めた。1554年、甲斐の武田信玄が下伊那に侵攻すると、下伊那の多くの国人衆は武田氏に降ったが、鈴岡城の信定と神之峰城主知久頼元は頑強に抵抗した。しかし先に甲斐に逃れていた松尾小笠原家の信貴・信嶺父子は、武田氏の先鋒となって鈴岡城を攻撃し、落城させた。信貴によって松尾小笠原氏は再興され、武田氏の重臣山県昌景の率いる伊那先方衆として100騎を持つ松尾城主となった。1582年2月、織田軍が武田征伐を開始すると、下伊那の有力国衆であった松尾城主小笠原信嶺は早々に織田方に降り、伊那の武田領国崩壊の口火を切った。武田氏滅亡後、織田信長から本領を安堵されたが、信長は密かに信嶺を誅殺しようとしていたらしい。しかし同年6月、本能寺で信長が横死し、武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起すると、徳川家康に服属した。1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼすと、徳川家康が関東に移封となり、信濃の徳川方諸将も関東に移された。信嶺は武蔵本庄城主となり、松尾城は廃城となった。

 松尾城は、天竜川西方の比高40m程の河岸段丘先端部に築かれている。毛賀沢川を挟んで鈴岡城と対峙する位置にある。県の史跡に指定されており、主郭周囲は公園化されている。かなり広大な城で、公園化されているのは城跡のごく一部に過ぎない。城のある段丘は大まかに言って上下2段に分かれており、主郭は上段段丘の先端部に構築されている。東西に帯曲輪を伴い、東の切岸には河原石を積んだ石積みが残っている。主郭の西側下方には「本城」の名が残る曲輪群があり、堀切・舌状曲輪群が築かれていて、一部は民家の敷地となっている。主郭の西から北にかけて、L字型に空堀が穿たれている。この空堀は北側では堀底が幅広となり、曲輪として機能したしたらしい。空堀の西側には二ノ郭が築かれている。二ノ郭は南側が高く、北に向かって下り勾配となり、郭内は何段かに分かれていたらしいが、公園化による改変があって、往時の形状をどこまで残しているのかは不明である。二ノ郭の南側にも腰曲輪群が築かれているが、竹薮となっている。二ノ郭の西側に空堀が穿たれ、その外側に三ノ郭が広がっている。三ノ郭も南が高台となり、御霊屋・龍門寺屋敷などの地名が残るが、全体が民有地となっていてほとんど内部踏査できない。三ノ郭の北には空堀が穿たれ、外郭が広がっている。北古城・南古城などの地名が残るが、全て民家となっていてここも内部踏査はできない。外郭の北には沢筋が天然の堀となって城域を区画している。一方、主郭の東には、堀切を挟んで「長ごろう山」という小山があり、小郭群が築かれ、堀切・竪堀も構築されている。長ごろう山の東は下段の段丘が広がり、サカヤシキという広大な平場が広がっている。内部は畑や耕作放棄地となっているが、外周に横堀が穿たれている。縄張図では何本も竪堀があるとされるが、形状は明瞭ではなく、どちらかと言うと竪土塁の形状の方が明瞭である。以上が松尾城の遺構で、公園化による改変が多かったり、踏査できない部分があったりして、やや消化不良気味の城である。
主郭切岸の石積み→DSCN9735.JPG
DSCN9689.JPG←長ごろう山の堀切
サカヤシキの竪堀→DSCN9665.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.486961/137.828271/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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