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論田山城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6519.JPG←土塁で囲まれた主郭
 論田山城は、小見城とも言い、歴史不詳の城である。中地山城のある山地から、川一つ隔てて東の山地の峰上に築かれており、中地山城を背後から支えるような位置にあることから、1578年に上杉謙信という後ろ盾を失った飛騨の豪族江馬輝盛が、中地山城を補強するために築いた城と推測されている。また江馬氏の貴重な財源であった亀谷銀山を確保する目的もあったと考えられている。しかし間もなく江馬氏は飛騨に撤退した。

 論田山城は、常願寺川と和田川の合流点の東にそびえる、標高500mの山上に築かれている。明確な登り道はないが、城のある峰の西中腹に水力発電所用の貯水池があるのでそこまで車で行き、あとは尾根伝いに東に登っていけば、やがて城域に至る。Y字型に曲輪を配置した城で、中心となる曲輪は主尾根上に配置された3つの連続する土塁囲郭である。中央の曲輪が最も面積が広く、主郭と考えられる。主郭後部の曲輪は小さな方形郭で、背後に堀切を穿っている。主郭前面の曲輪は虎口郭を兼ねた方形郭である。この方形郭へは前面の土塁を迂回する様に進入路が設けられている。また方形郭の後方には主郭に登る虎口が築かれている。主郭と後部の曲輪は北面には土塁がなく、北に築かれた腰曲輪に段差だけで接続している。これら中心となる曲輪の西と南西に曲輪群が展開している。西曲輪群は、コの字土塁で囲み内部を掘り下げた曲輪を置き、その西側下方に平場群を配置している。先端には堀切が穿たれている。南西曲輪群は、全体的に自然地形に近いが、ここにも西曲輪群同様に内部を掘り下げた一郭がある。西曲輪群と南西曲輪群の間は緩斜面で繋がっているが、ほとんど自然地形で曲輪と呼べる様な普請はされていない。ただ中央に、下方に通じる竪土塁があり、大手道と推測されている。この他、主城部の北西にあるピークの先にも堀切が穿たれている。以上が論田山城の遺構で、囲郭を多用した特徴的な縄張りではあるものの、土塁の規模は小さく、普請もややざっくりした感じで、ややとりとめのない縄張りである。その割に、背後の堀切は大きく後方遮断を重視する特徴も見られる。
後部の堀切→DSCN6533.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.571053/137.388250/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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