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栃窪堀の内(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1755.JPG←北側に残る堀と土塁
 栃窪堀の内は、鹿沼市編纂の『鹿沼の城と館』に掲載されている城館候補地である。栃窪地区にある民家(渡辺家)に「ホリノウチ」の屋号があり、城館があった可能性がある。『鹿沼市史』にある渡辺氏系図に「重則 野州栃久保城主」とあり、また1457年に開山されたと伝わる遍照寺の開基を栃窪城主竹沢讃岐守としている。栃久保城(栃窪城)の詳細は不明であるが、栃窪堀の内を指す可能性がある。

 栃窪堀の内は、渡辺家を中心として東西に並んだ民家集落にあったと想定されている。関口和也氏が調査した25年前にはなかった車道が堀の内のすぐ北側に開通するなど、近年でも改変が進んでいるが、民家の北側に堀と土塁がわずかに残っている。しかし残った土塁も、林が伐採されて破壊が進行しているようで、危機的状況である。本当に城館があったかどうかは定かでないとしても、このまま破壊されてしまうのは少々惜しい。尚、ここからは多気山城がよく見える。多気山城を防衛する出城であった可能性も考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.589060/139.791434/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木「地理・地名・地図」の謎 (じっぴコンパクト新書)

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  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2014/11/06
  • メディア: 新書


タグ:中世平城
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伊釜山城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1733.JPG←外周の帯曲輪
 伊釜山城は、高小屋とも言い、地元では古くから城館跡と認識されていた城である。「古賀志山を守ろう会」のMt.masaoのブログの記事によれば、伊釜山は古賀志村の原点になった場所で、鎌倉初期の1199年、高小屋(伊釜山)に北條氏の子孫が居住し、室町後期の1459年に唐沢に移住するまでの約260年間、この地に拠点を置いていたと言う。

 伊釜山城は、低山トレッキングで有名な古賀志山の南中腹の峰に築かれている。城の北側を通る林道から散策路があり、簡単に訪城できる。山頂に削平の甘い長円形をした主郭があり、南に3段の段曲輪、東に帯曲輪、東帯曲輪の下には城全体を周回する帯曲輪が築かれている。外周の帯曲輪は、主郭後部で堀切に繋がっている。その北にも浅い堀切がある。また南にも浅い堀切が2本穿たれている。しかしいずれの堀切もかなり浅くて、ほとんど防御性を持っていない。構造を見る限り、伝承の通り戦国時代以前の古い小城砦であった様である。
帯曲輪と接続する堀切→DSCN1696.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.613573/139.767079/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 鎌倉北条氏―鎌倉幕府を主導した一族の全歴史

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  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/09/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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大堀館(2号)(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1672.JPG←北の空堀
 大堀館(2号)は、大堀館(1号)の南東に小河川を挟んで隣接するように築かれている。歴史は不明であるが、大堀館(1号)と同様、安土桃山時代に築かれたと推測されている。

 大堀館(2号)は、小河川に接する東の台地上に築かれている。現在館跡は田畑と宅地になっており、遺構の湮滅が進んでいるが、南と北にはっきりと堀跡が残っている。西側は小河川が天然の堀となっている。東側にも堀があったと思われるが、埋められてしまっているのか、堀の痕跡は見いだせない。北の堀は想像していたよりも規模が大きく、立派な遺構である。宇都宮市には、何らかの保存の手立てを講じてほしいものだが・・・。
南の空堀→DSCN1680.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.623872/139.834714/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

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  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2014/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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雨乞山城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1477.JPG←主郭後部の腰曲輪
 雨乞山城は、近年発見された城である。位置的には田中城の背後に当たるので田中城の詰城の可能性があるが、宇都宮氏の一家臣である田中氏が果たして詰城を築く必要性があったのか、疑問がある。また戦国末期に宇都宮氏の新たな本拠となった多気山城の支城との見解もあるが、それにしては多気山城と直接連絡することは間に山があって難しく、また敵対していた壬生氏の勢力圏である北西方面からの侵攻に対するよりも南東の宇都宮氏本領を眼下に収める位置に築かれており、多気山城の支城とするのも疑問がある。

 雨乞山城は、標高330mの山稜上に築かれている。南麓の墓地脇に登り口があり、そこからわずかな踏み跡を辿っていくことになる。登道はところどころ踏み跡がおぼつかなくなるが、とにかく上へ向かって進んでいけばまた踏み跡が現れ、やがて城域に至る。基本的には典型的な細尾根城郭で、南北300m以上もある長い山城である。最も高所にあり、城内で一番広い曲輪が主郭で、後部に腰曲輪、前面に両側に土塁を築いた虎口郭を置いている。城域は、この主郭から南の部分と、主郭背後の堀切から北の部分と、大きく2つに分かれている。主郭背後は高低差が大きく、急な切岸で遮断され、暗部に堀切が穿たれている。主郭の虎口郭の前面に堀切があり、そこから南には尾根上に細長い曲輪群が連なっている。途中に2本の堀切が穿たれ、竪堀も見られる。また主郭から北には、やや幅広の曲輪が尾根に沿って連なり、主郭に次ぐ広さの二ノ郭をピークとして曲輪群が更に北に連なっている。これら北の曲輪群でも、4本の堀切が穿たれている。以上が雨乞山城の遺構である。主郭から南は薮が少なく遺構が見やすいが、主郭から北は薮が多く、遺構の確認がし辛い。
 それにしても、宇都宮にも堀切と曲輪群で構成された純然たる細尾根山城があるとは!貴重な遺構である。
南の堀切の一つ→DSCN1450.JPG
DSCN1489.JPG←主郭背後の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632258/139.809759/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2022/03/10
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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岩原城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1396.JPG←空堀と土塁・土橋
 岩原城は、宇都宮氏の家臣高橋氏の居城と推測されている。宇都宮氏麾下の高橋氏には3家あり、岩原城主高橋氏はその内の一つである。多気山城の支城の一つであったとされる。1597年に宇都宮氏が改易となると、高橋左京亮は帰農し、以後は代々岩原村の庄屋(名主)を勤めたと言う。

 岩原城は、国道293号線脇の段丘先端部にある。ネット上ではほとんど情報がなく、そのため遺構にもあまり期待せずに訪城したのだが、堀の内の屋号を持つ高橋家の北側に高さ3mの土塁と深さ2mの空堀が、断片的ではあるもののしっかりと残っている。空堀はL字型をしており、南の高橋家敷地に向かって土橋が架かっている。また高橋家の北東には南北に土塁も残っている。主郭は空堀・土塁の南にある高橋家の宅地と思われるが、たまたま作業中のご主人にお話を伺ったところ、宅地は城跡ではないと否定されていた。周辺は耕地化による改変が進んでいるため、城の縄張りを想像することも難しい状況であるが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、城域の北辺を東西に一直線に連なる土塁が築かれていたように見受けられる。ただ曲輪配置については、この航空写真を見てもよく分からず、不明点が多い。『日本城郭大系』等によると、二重の堀で囲まれていたとされ、現在残る空堀は内堀であるらしい。

 それにしても断片的とはいえ、赤埴城に似た雰囲気の立派な遺構で、なぜこの城がネット上では無名なのか、不思議でならない。また市の文化財に指定すべきとも思うが、宇都宮市の文化財行政にはどうも文化財保護への積極性が感じられない。宇都宮市民として大いに不満である。
北側に伸びる空堀→DSCN1393.JPG
DSCN1402.JPG←屋敷北東の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.613246/139.819973/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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外和田城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1359.JPG←南東部の空堀の屈曲
 外和田城は、近年発見された城である。東北自動車道のすぐ西側にあり、民家裏の山林内に遺構が眠っている。民家の老夫婦に立入りの許可を頂いて山林内に分け入ると、入ってすぐのところに空堀と土塁が現れる。ほぼ正方形の居館形式の単郭の城館で、南東と北辺の2ヶ所にしっかりとした横矢掛りの屈曲が見られる。曲輪の外周には低い土塁が築かれている。空堀や曲輪の切岸は明瞭だが、空堀は埋まっているのかかなり浅くなっており、あまり大した防御性を持っていないように思う。中世・戦国期の城というよりは、近世初頭の館城と感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.592006/139.839746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城郭研究家の全国ぶらり城めぐり (わたしの旅ブックス)

城郭研究家の全国ぶらり城めぐり (わたしの旅ブックス)

  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 産業編集センター
  • 発売日: 2022/12/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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羽下城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1336.JPG←空堀と土塁
 羽下(はちだ)城は、下野の名族宇都宮氏の初代藤原宗円と八田(宇都宮)宗綱の父子が2代にわたって居住したと言われる。しかし初代宗円は実在が確認されておらず、2代宗綱は吾妻鑑に「八田武者宗綱」と書かれていることから、常陸小栗御厨内に所在した八田を本拠としていた可能性が指摘されている。従って宇都宮氏が宇都宮を本拠としていたことが明確なのは、3代朝綱からである。ただ、羽下城が築かれた丘陵の南東部には宗円の墓と伝承される宗円塚があり、ここが宇都宮氏の祖藤原宗円の伝説を色濃く残す地であることは間違いない。

 羽下城は、前述の通り宗円塚と同じ南東から北西に伸びた細長い独立丘陵に築かれている。丘陵の西寄りに空堀と土塁が山林内に残っている。この堀と土塁は、途中1ヶ所で屈曲している。ただ、これが城館遺構であるのかどうかはかなり不分明で、この空堀・土塁に並行して走る堀底道も見られ、またここには旧日光街道が通っていたとの話もある。仮に遺構だとしても堀・土塁が1本走っているだけで、区画を形成しているわけでもないので、羽下城跡なのかどうかよくわからないというのが実態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.584029/139.816282/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 郁夫, 江田
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


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宗円塚(栃木県宇都宮市) [その他の史跡巡り]

DSCN1302.JPG←宗円塚と呼ばれる古墳
 宗円塚は、下野の名族宇都宮氏の初代とされる藤原(宇都宮)宗円の墓と言われている。但し、藤原宗円は実在が証明されておらず(宇都宮氏で実在が確認されているのは、2代宗綱からである)、半ば伝説上の人物であることは注意しなければならない。また宗円塚は古墳であるので、宗円が死んだ平安後期(1111年に没したと伝わる)とは築造の年代が大きく隔たっており、宗円の墓でないことは明らかとされる。

 宗円塚は、宗円塚古墳群という丘陵上の小さな円墳群の一角にある。この古墳群の中で最も南東にあり、規模も最大の円墳である。前述の通り藤原宗円の墓とする伝承は後世の仮託に過ぎないが、宗円塚と同じ丘陵の北西には藤原宗円・宗綱父子が居住したとされる羽下城があるので、宗円伝説を色濃く残す地であることは間違いないようだ。

 尚、宇都宮市内には宗円の墓と言われている場所が2ヶ所あり、一つがこの宗円塚で、もう一つは新里町の日枝神社南方にあるオカザキ山と言う小山である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.583253/139.817451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


タグ:墓所
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伊豆木城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1142.JPG←3郭の土壇
 伊豆木城は、小笠原氏の家臣伊豆木氏の城と考えられている。伊豆木氏は、南北朝期頃から伊豆木に在住し、小笠原氏に属して伊賀良庄南部を領した。1400年の大塔合戦では、信濃守護小笠原長秀に属した下伊那の武士の中に伊豆木美作守の名が見える。また応仁の乱の際に将軍足利義政から感状を受けた松尾城主小笠原家長らに関連して伊豆木尾張守の名がある。伊豆木氏の事績については不明点が多いが、1582年の織田信長の武田征伐により没落したと伝えられ、この時期に廃城になったと考えられる。後の1600年、小笠原信嶺の弟長巨は、徳川家康から伊豆木に1千石を賜り、伊豆木城の南東麓の居館跡に陣屋を造営して居所とした。

 伊豆木城は、国重要文化財に指定されている旧小笠原家書院が建つ伊豆木陣屋背後の比高70m程の丘陵上に築かれている。陣屋跡に建つ小笠原資料館の裏から登道があるが、立入禁止になっており、仕方なく西の竹藪を突っ切って登城した。大きな谷地形で隔てられた3つの曲輪群と、東の出曲輪で構成されている。曲輪群を隔てる2つの谷地形は堀切とされているが、いずれもほとんど自然地形であり、鋭い薬研堀として普請した感じではない。その一方で、3つの曲輪群を構成する平場群は明瞭である。『日本城郭大系』『信濃の山城と館』に倣って呼称すると、西の曲輪群が1郭、中央の曲輪群が2郭、東の曲輪群が3郭となるが、これは便宜的に数字付けしたものであって、実際にどの曲輪群が主郭に相当していたのかは、現状ではわかりにくい。付随する曲輪群が一番多いのは1郭で、頂部の縦長の曲輪の南東に段曲輪群が築かれ、また南西に舌状曲輪を伴っている。この舌状曲輪の先端の段曲輪には小祠が祀られている。中央の2郭は付随する曲輪群が最も少ないが、北西の谷地形の先に出丸的な曲輪が築かれている。ここには鉄塔が立っているので、改変を受けている。周囲には腰曲輪があるらしいが、高木がないので薮で覆われていて、地形がよくわからない。3郭は1郭に次いで付随する曲輪群が多く、頂部の平場の南端近くには物見台らしい土壇がある。また北に堀切と小郭、南に腰曲輪群と竪堀地形が見られる。東の腰曲輪の先には鞍部を挟んで東の出曲輪がある。この鞍部も堀切とされているが、ほとんど自然地形である。また出曲輪は普請がかなり不明瞭で、どこまでが曲輪なのかはっきりしない。以上のような遺構の状況で、かなり消化不良になる城である。
1郭~2郭間の谷地形→DSCN1199.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.447115/137.792995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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西平城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN0857.JPG←東斜面の腰曲輪群
 西平城は、麦種城と共に小笠原氏が築いた久米ヶ城の支城とされる。その他の歴史は不明である。

 西平城は、標高800mの城山に築かれている。浄玄寺裏手の墓地脇から登山道が整備されているので迷うことなく登ることができる。ちなみに浄玄寺からの比高は150mである。この登山道は長く、尾根道を延々歩いて行って、ようやく城域入口にある小堀切に至る。西平城は山頂に、東以外の三方に低土塁を築いた長方形の主郭を置き、その南に浅い堀切を挟んで馬蹄形の二ノ郭を築いている。二ノ郭の南東に2段の腰曲輪を配し、南東下方に堀切を穿ち。その先に三ノ郭を配置している。主郭の東辺には内桝形虎口があり、その入口には長い石を並べた石積みが見られる。ただこれは遺構かどうか定かではなく、同行した妻は昔神社があった名残ではないかと推測していた。最近妻は遺構に対する洞察力が鋭く、なるほどと唸らせられることも多いので、ここでの見解も合っているかもしれない(後で確認したら、『信濃の山城と館』の著者宮坂氏も「往古のものとは思われない」と述べている)。主郭の北西の尾根には合計3本の堀切が穿たれている。この背後の堀切は前面の堀切よりもやや規模が大きい。この城で特徴的なのは、主郭東斜面に築かれた10段程にも及ぶ腰曲輪群である。主郭の1段下には広い腰曲輪があり、曲輪内の北寄りに食違い虎口が構築されている。この東腰曲輪群の眺めは壮観である。また曲輪間を繋ぐ城道も明瞭に残っている。腰曲輪群の最下段には横堀が穿たれ、また腰曲輪群北辺部には竪堀も数本落ちている。腰曲輪群の南辺には横矢掛かりの屈曲を持った竪堀が穿たれている。この他、二ノ郭の南尾根、三ノ郭の東尾根・南尾根、主郭の北東尾根に段曲輪群がかなりの数築かれている。この中では北東尾根が防備が厳重で、先端に二重堀切が穿たれている。しかしその他の曲輪群も要所に堀切を穿っている。全体ではかなり広い範囲に、かなりの数の曲輪を築いており、単なる支城以上の役割を負っていた城だったと思われる。縄張りの技巧性はあまりないが、見どころが多い城である。
主郭北西尾根の堀切群→DSCN0908.JPG
DSCN1015.JPG←腰曲輪群最下段の横堀
北東尾根曲輪群の二重堀切→DSCN0959.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.473751/137.747526/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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和田城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0662.JPG←東の段曲輪群
 和田城は、歴史不詳の城である。山田城の支城との説もあるが、確証はない。

 和田城は、国道363号線と国道418号線との交差点の北西にある、比高40mの丘陵上に築かれている。特に標柱などはないが、東麓から作業林道があり、城域のすぐ北まで林道で行くことができる。小規模な城砦で、中心に長円形の主郭を置き、6方向に派生する尾根に段曲輪・腰曲輪を配置している。この内、北西にあった二ノ郭と思われる曲輪は、前述の林道開削によって破壊を受けている。この二ノ郭と主郭切岸の間には、北に向かって穿たれた横堀(堀切?)がある。その北側下方に腰曲輪があるが、木が生い茂っている。この腰曲輪の先には武者走りが伸びていて、主郭の北から東まで通じている。主郭の南東には虎口が開かれ、その下方に東尾根の段曲輪3段が築かれている。この他の尾根にも、前述の通り腰曲輪があるが、いずれも小規模である。和田城は、街道が交差する要地にあって、物見や烽火台を主任務とした小城砦だったと推測される。
主郭の虎口→DSCN0661.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.355185/137.393861/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


オールカラー徹底図解 日本の城

オールカラー徹底図解 日本の城

  • 作者: 香川元太郎
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/09/28
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タグ:中世平山城
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石平城〔仮称〕(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0549.JPG←二ノ郭から見た主郭群
 石平城は、私が発見した城である。岐阜県のCS立体図を見ていて城跡ではないかと思い、現地を踏査したところ、平場群の配置や切岸が城と考えるのが自然であり、その一方で背後の西尾根には全く平場の造作が見られないことから、おそらく城郭遺構と考えてよいと思う。

 東西2つの郭群から構成され、高所にある東の曲輪が主郭、西が二ノ郭と考えられる。二ノ郭は「く」の字形をした長い曲輪で、背後の尾根とは高さ1.5m程の切岸で明確に区画されているが、堀切は見られない。二ノ郭の東には腰曲輪群・段曲輪で囲まれた主郭がある。頂部の主郭は地山に近い自然地形で、面積も狭小で、物見程度の役割であったと考えられる。しかし周りに巡らされた腰曲輪群は明瞭で、頂部の小さな主郭の周りに1~2段の腰曲輪を廻らし、更に南東に4段(先端近くには祠と墓地がある)、南に3段ほどの段曲輪を配している。これらはいずれもしっかりした切岸で区画されている。また主郭群の北斜面にも、谷に向かって腰曲輪が2段築かれている。以上が石平城の遺構であるが、全体的に薮が多く、段曲輪群など全て踏査できてはいないと思う。

 石平城は、上手向城と和田城の間に位置しているが、城の造りは上手向城の西郭群と似ているので、上手向城主の勝氏が築いた出城であった可能性も考えられる。

 尚、この城については既に恵那市の生涯学習課に連絡済みで、2023年度の城館跡調査の日程に組み込んで現地確認していただけるとのことである。
主郭西側の腰曲輪群→DSCN0550.JPG
DSCN0609.JPG←主郭北側の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.354712/137.390792/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城郭史研究 (41)

城郭史研究 (41)

  • 出版社/メーカー: 東京堂出版
  • 発売日: 2022/12/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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落合砦(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0428.JPG←三ノ郭井戸と主郭群
 落合砦は、明知遠山氏の一族串原遠山五郎経景が居城したと伝えられる。串原遠山氏は、その本拠地串原に串原城や大平城があるが、戦国後期の天正年間(1573~92年)に武田氏の勢力が強く及んでくると、明知遠山氏の本拠明知城周辺に移り、その防衛に当たっていたことが推測される。

 尚、三ノ郭に明智光秀産湯の井戸があるなど、光秀生誕地とされ、城砦の名も土岐明智城とか多羅砦などとも称されるが、明知城の項に記載した通り、全く史実に基づかないものと考えてよい。

 落合砦は、比高60m程の落合山に築かれている。鞍部の尾根によって隔てられた2つの曲輪が南北にあり、より高所にある南の曲輪が主郭、北の曲輪が二ノ郭、鞍部の西下にある平場が三ノ郭と考えられている。城跡一帯は千畳敷公園となって整備されており、かなり改変を受けている。その中では主郭とその周辺は最も旧状を残していると考えられる。主郭は東西2段で構成され、周囲に腰曲輪群を築いている。また大手道が南東に残る他、南斜面に竪堀も確認できる。二ノ郭は、完全に公園化されている上、腰曲輪と思われる平場には電波塔が建っており、かなり改変が進んでいる。しかしここからの眺望は素晴らしく、眼前に明知城が見えるだけでなく、織田信長が本陣を置いた鶴岡山や、武田勝頼が本陣を置いた一夜城などが一望でき、この地の当時の緊張状態をまざまざと見せつけている。三ノ郭は台地上の平場で、前述の通り明智光秀産湯の井戸が残るが、改変されているので、どこまで旧状を残しているのか判断し難い。いずれにしても、落合砦は遺構を見る限り、現地解説板の縄張図や宮坂先生の縄張図よりも腰曲輪の数が多いようで、簡素な城砦の割には主郭・二ノ郭共に広めで、単なる物見や烽火台以上の役割を負っていた様だ。
南斜面の竪堀→DSCN0513.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.298936/137.387713/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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仲深山砦(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0262.JPG←二ノ郭西側の曲輪群
 仲深山砦は、歴史不詳の城砦である。明知城との間にある万ヶ洞には信州からの街道が通り、関ヶ原合戦の後、近世明知遠山氏3代長景の庶兄遠山与惣左衛門が万ヶ洞に屋敷を構えたと伝えられるが、その屋敷というのがこの砦を指すのかは不明。ただ明知城とは縄張り面の共通点が多く、明知城の攻防に関連する城砦として、明知城を築いた勢力がこの砦を構築した可能性が考えられる。

 仲深山砦は、谷を挟んで南に隣接する丘陵西端部に築かれている。両者の間はわずか400m弱に過ぎない。恵那市は昨秋、山城サミットが開催されたばかりなので、各所の城砦は登道が整備され、薮払いもされている。おかげで仲深山砦も、南麓から登山道が整備され、城内も全域薮払いされているので見通しがよい。ただ伐採された幹や枝葉がそのまま散乱しているので、竪堀などの一部の遺構はやや確認しづらい状況である。砦は東西2郭で構成され、更にその周囲に腰曲輪・段曲輪・帯曲輪を築いて防御を固めている。東にあるのが主郭で、後部に低土塁を築き、郭内部は西に向かって傾斜している。背後の尾根には二重堀切を穿って分断している。主郭北東の帯曲輪には。等間隔で竪堀が3本穿たれている。主郭と二ノ郭の間は鞍部の堀切となっている。ここから南の斜面にも竪堀群が構築されているが、散乱した伐採木でややわかりにくい。二ノ郭の外周には腰曲輪が巡らされ、西と南西に段曲輪があり、小堀切が穿たれている。北側の帯曲輪にも竪堀が3本、間隔を空けて穿たれているが、城内最大の竪堀は薮に埋もれてしまっている。以上が仲深山砦の遺構で、竪堀群を活用した以外はそれほど技巧的な縄張りでもなく、あくまで補完的な城砦であったと考えられる。仮に武田氏による構築であると考えた場合、高遠城に対する的場城の縄張りと対比させると、この砦の性格を考える上で示唆されるものがあるだろう。
主郭北東の竪堀群→DSCN0347.JPG
DSCN0353.JPG←背後の二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.300197/137.394075/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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明知城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN0847.JPG←北東斜面の畝状竪堀
 明知城は、白鷹城とも言い、岩村城主遠山氏の庶流明知遠山氏の居城である。遠山氏の祖は、藤原利仁の後裔加藤氏とされる。加藤景廉は、源頼朝が伊豆石橋山で挙兵した時より仕えて、鎌倉幕府創業の功臣の一人となった。1185年、頼朝は景廉を美濃国遠山庄の地頭とし、景廉は嫡男左衛門尉景朝を遠山庄に入部させ、岩村城を築いた。この景朝が遠山氏を称し、美濃遠山氏となった。1247年、景朝の子三郎兵衛尉景重が明知城を築いて明知遠山氏の祖となったとされる。戦国時代には、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の「遠山七家」が東濃の恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。弘治・永禄年間(1555~70年)になると、遠山氏は南信の伊那谷全域を制圧した武田信玄と、尾張から美濃へ大きく勢力を伸ばし始めた織田信長との間に挟まれることとなった。まずこの地に影響を及ぼし始めたのは東濃への進出を目論む武田氏で、岩村城主遠山景前は武田氏に誼を通じて勢力の安泰を図った。その子景任は武田・織田と両属関係となり、後には信長の叔母おつやの方を正室に迎えるなど徐々に織田方への傾斜を深めた。そして遂に遠山一族は武田氏から離反し、武田氏の攻撃を受けることとなった。1570年、高遠城主秋山虎繁(信友)が美濃に侵攻し、遠山一族と徳川氏傘下の三河衆の連合軍が恵那郡上村で迎え撃って大敗した。この上村合戦で明知遠山景行は討死した。敗報を受けた信長は直ちに援軍を派遣し、虎繁は信濃へ撤退した。明知遠山氏は、景行の嫡男景玄も討死したため、孫の一行が継いだ。1572年8月、岩村遠山景任が嗣子なく没すると、信長は自身の5男御坊丸を遠山氏の養嗣子とし、おつやの方を後見人として東濃を支配下に置いた。同年10月、信玄は西上作戦を開始し、秋山虎繁は伊那衆を率いて岩村城を攻囲した。御坊丸の養育と城兵を助命するかわりにおつやの方が虎繁と再婚し、岩村城を開城させて虎繁が城主となった。信玄は翌73年4月、志半ばで陣没し、勝頼が後を継いだ。1574年1月、勝頼は代替わりの緒戦として東濃攻略を企図して岩村城に進出し、周辺の遠山一族の諸城を攻略しつつ明知城を囲んだ。この時、勝頼は一夜城に陣を構えたと伝えられる。信長は、嫡男信忠と共に鶴岡山に本陣を構えて武田勢と対峙したが、2月6日に飯羽間友信の裏切りによって明知城が落城したため、神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。明知城主遠山一行は城から脱出した。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると、信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となった。一行と叔父の遠山利景は、この戦いの中で武田軍が占拠していた小里城を攻め落とした。織田軍が明知城を奪回すると、一行・利景は明知城に帰還した。また半年の籠城戦の末に恵那郡の重要拠点・岩村城も陥落し、東濃は完全に織田方の支配下に入った。1582年の本能寺の変後、東濃地域は羽柴秀吉に服属した美濃金山城主森長可の勢力下に入ることとなり、1583年に一行・利景は徳川家康を頼って三河に落ち延びた。1584年3月、羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが起きると、一行は家康の命を受けて舅の延友佐渡守と共に緒戦で明知城を攻略した。しかし合戦後、東濃は森領とされ、明知城は森氏に明け渡された。1600年の関ヶ原合戦の際には、明知城は岩村城主田丸直昌の支城となっており、その家臣山川佐之助・原土佐守が守っていたが、家康の命を受けた遠山利景・方景父子は明知城を攻略し、更に岩村城も落城させた。この戦功により、利景は明知城主に復帰した。1615年の元和の一国一城令で明知城は廃城となり、新たな支配拠点として山麓に明知陣屋が造営された。

 尚、現在地元では明知城を明智光秀にまつわる城として紹介している。これは、遠山景行が実は明智光秀の叔父光安と同一人物で、光安が遠山景成に入嗣したとする説による。その説によれば、元々明知遠山氏は景成の兄弟の直景が家督を継いでいたが、直景は室町幕府奉公衆で、堀越公方が成立するとその奉公衆に転出していたが、伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)の伊豆計略の中で、同じ幕府奉公衆出身であった宗瑞に仕えてその重臣となった(小田原北条氏の重臣、家老遠山氏の成立)。そのため直景は本領の明知城を親族に引き渡して伊豆に移ったので、その後を継いで明知遠山氏の当主となったのが土岐明智家から入った景行であるとするものである。これに関しては現時点では明証がないため、史実かどうかは明確にできない。

 明知城は、岩村城などとともに何度も争奪の場となった城だけあって、守りが極めて厳重な、屈指の縄張りを有している。本丸を中心にして周囲に腰曲輪を廻らし、南東に二ノ郭、西に三ノ郭を張り出させ、更に二ノ郭の南西に出丸を突出させている。これが城の中心部で、これらを取り巻く様に北~東~南の外周に横堀が穿たれている。この横堀の防御線には要所に竪堀が穿たれ、また外側には腰曲輪群も構築されている。竪堀は配置が巧妙で、いずれも竪堀を上った先には上の曲輪の塁線がそびえており、侵入してきた敵を迎撃できるように効果的に配置されている。殊に東の搦手駐車場からの登道は、横矢掛かりと正面櫓台による防御が厳重であり、大手から搦手まで寸分の隙もない。出色なのは、主郭北東から北西の斜面にかけて穿たれた畝状竪堀ある。ここの畝状竪堀は、他の城で見られるものと構造が異なり、竪堀間に構築された中間土塁は、単なる土塁ではなく物見台または独立堡塁として機能するように高く盛られている。一部の中間土塁には腰曲輪まで築かれていて、兵を置くことを前提として築かれている。ここの畝状竪堀は、傾斜の緩い斜面を防御するために集中配置されている。この畝状竪堀を上から見下ろす位置に主郭腰曲輪が配置され、より防御性を増している。出丸の南東側にも畝状竪堀が穿たれているが、二重横堀の間の土塁に竪堀を穿っていて、初めて見る特殊な形態をしている。三ノ郭の西側には、深い堀切で区画された独立堡塁が2つそびえて周囲を睥睨している。更にこの他にも北・東・西・北西に張り出した尾根に曲輪群を築き、基部を堀切で分断している。北の曲輪群では、先端近くにL字形土塁による坂土橋の通路が築かれている。二ノ郭の南下方の腰曲輪には、2槽構造の大きな貯水池もあり、これも非常に珍しい遺構である。明知城は、度重なる攻防の中で、武田氏による縄張りの改修増強を受けたものと思われ、必見の城である。
別角度から見た、同じ畝状竪堀→DSCN1015.JPG
DSCN0820.JPG←堀切と独立堡塁
貯水池跡→DSCN0917.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.303577/137.394633/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編

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