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古城めぐり(兵庫) ブログトップ
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岸の砦(兵庫県伊丹市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7800.JPG←猪名野神社境内に残る土塁
 岸の砦は、有岡城の惣構を守る砦の一つである。惣構の北端の突出部に位置し、1579年の織田信長による有岡城攻めの時には、荒木村重の重臣渡辺勘大夫が守っていたと言う。
 岸の砦は、現在の猪名野神社の境内にあったと推測されている。境内外周には土塁が残り、その脇の小道は、見るからに堀跡を思わせる。わずかな遺構ではあるが、今では失われてしまった有岡城惣構の雰囲気をよく残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.785180/135.415184/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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有岡城(兵庫県伊丹市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7757.JPG←主郭西側の堀跡
 有岡城は、織田信長に謀反を起こした荒木村重の居城として知られ、また村重を翻意させようと説得に訪れた黒田官兵衛孝高が幽閉された城としても有名である。元の名を伊丹城と言い、この地の土豪伊丹氏が鎌倉末期頃に築いたと考えられている。『太平記』には、1362年7月、佐々木道誉の讒言によって南朝に奔った細川清氏が讃岐を攻撃した際に、これに呼応した楠木正儀・和田正氏らの南朝軍が摂津を攻撃したことを記載しているが、この時、摂津守護代箕浦次郎左衛門と共に迎え撃った北朝軍の中に伊丹大和守の名が見える。同時代の軍忠状などには伊丹城の名が記載されており、南北朝期には伊丹城が実在していたことが判明している。
 また、1495年に成立した『新撰莵玖波集』という連歌集の中に、摂津守護細川氏の家臣伊丹兵庫(元親)の歌が4首も撰ばれていることから、伊丹氏は細川氏家中でも有力家臣で、和歌にも秀でた教養人であったらしい。その後、管領細川政元の暗殺に端を発する細川氏の後継争い(永正の錯乱)が起こると、伊丹城は度々攻防の場となり、三好長慶が畿内を制圧してからも伊丹城は度々攻撃を受けている。
 1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、伊丹城主伊丹親興は直ちに信長に応じて三好氏を攻撃した。信長が摂津を制圧すると、親興は池田城主池田勝正・芥川城主和田惟政と共に「摂津三守護」となった。しかし将軍義昭と信長が不和となり、1573年に義昭が追放されて室町幕府が倒壊すると、将軍家側近となっていた伊丹氏も信長と対立した。翌74年、信長は、池田勝正の家臣として頭角を現した茨木城主荒木村重に命じて伊丹城を攻撃・落城させ、伊丹氏は滅亡した。伊丹城に入った村重は、信長より摂津一国38万石を与えられ、また城名も信長の命により有岡城と改め、摂津一国の軍事上の中心となるべく大改修を行って、惣構を有した城を完成させた。その後も信長に従って石山本願寺攻めなど各地の合戦に参加していたが、1578年10月、突然信長に反旗を翻し、有岡城に立て籠もった。驚いた信長は明智光秀らを説得に行かせたが失敗した。また羽柴秀吉の家臣黒田官兵衛も説得に赴いたがやはり失敗し、城内の土牢に幽閉されてしまった。信長は、大軍で有岡城を包囲攻撃したが、屈指の堅城であったため1年近くに及ぶ長期戦となった。しかし次第に敗色が濃厚となり、村重は有岡城を脱出して嫡男村次の居城尼崎城へ移った。その後も残った家臣たちが籠城戦を続けたが、1579年11月に有岡城は落城し、捕らえられた荒木氏一族・家臣・その家族らは悉く誅殺された。その後、池田之助(池田恒興の長男で輝政の兄)が城主となったが、1583年に美濃岐阜城に移ると、有岡城は廃城となった。

 有岡城は、猪名川西岸の伊丹段丘に築かれている。南北に長い不定形をした惣構を有した城で、惣構の北端に岸の砦、中央西端部に上臈塚砦、南端部に鵯塚砦を築いて防御を固めていたと言う。主郭は城域中央の東端に位置しているが、主郭西端部が周囲より一段高く、公園化されて残るほかは、鉄道や道路建設で破壊されている。JR伊丹駅の真ん前であるので、今となってはわずかに公園として残っているだけでも貴重であろう。昭和50年から行われた発掘調査で、主郭西側の土塁内面の石垣や石組み井戸・建物礎石などが検出され、復元保存されている。石垣には、福知山城などと同じく五輪塔の石材が転用されている。主郭跡の公園の西側には広い円弧状の窪地が残っており、これほど市街化が進んだ街中であるにも関わらず堀跡であることが明確にわかる。こんなに綺麗に堀跡が残っているとは予想外である。その他の遺構が見る影もないのは、残念だが場所的に仕方のないところであろう。とにかく幅広の主郭堀跡が立派である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.781232/135.420871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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瓦林城(兵庫県西宮市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7724.JPG←城址とされる日野神社
 瓦林城は、南北朝時代に赤松円心の部将貴志五郎四郎義氏が守っていたことが知られる城である。即ち『貴志義氏軍忠申書』によれば、1336年4月13日に義氏は瓦林城に立て籠もっており、足利尊氏が九州で態勢を立て直して再挙東上するまでの間、白旗城に籠もった赤松勢の一翼を担って、摂津瓦林城で新田義貞率いる南朝軍の進攻を食い止めていた。5月25日の湊川の戦いでは、南朝軍は香下寺城・円生寺城から瓦林城に来攻し、これと戦ったと言う。また『太平記』には、1362年7月、佐々木道誉の讒言によって南朝に奔った細川清氏が讃岐を攻撃した際に、これに呼応した楠木正儀・和田正氏らの南朝軍が摂津を攻撃したことを記載しているが、この時、摂津守護代箕浦次郎左衛門と共に迎え撃った北朝軍の中に河原林(瓦林)弾正左衛門の名が見える。瓦林氏の出自は不明であるが、既に瓦林付近に拠点を持っていた可能性がある。神崎川下流の北朝軍の防衛体制を見た南朝軍は、夜半密かに神崎川の上流から渡河し、小屋野(昆陽)・戸松(富松)・河原林(瓦林)に軍勢を配して、早旦に北朝軍を一斉攻撃したと言う。昆陽・富松・瓦林は後述する通り、いずれも戦国期には城が築かれた要地であり、この時既に瓦林に何らかの城砦が築かれていた可能性がある。尚、北朝軍はこの合戦で大敗し、河原林弾正左衛門も討死したと記載されている。
 時代は下って戦国前期には、瓦林正頼の持ち城となっていた様である。瓦林氏は鷹尾城から越水城に居城を移しているが、瓦林城はその支城となっていたと推測されている。1519年に阿波から細川澄元が越水城に攻め寄せてきた時には、細川高国が越水城の後詰めとして池田城を本陣とし、昆陽城・富松城と共に瓦林城に兵を入れて陣を張らせたと言われている。1570年9月、瓦林三河守が城主の時、三好氏の部将篠原長房の攻撃を受け、織田信長に味方していた三河守は、防戦虚しく城兵ら男女110余名と共に討死した。但しこの時落城した城は、瓦林城であったとも越水城であったとも言われ、詳細はわかっていない。いずれにしても、瓦林城はこの頃には機能を失ったと考えられている。

 瓦林城は、武庫川西岸の平地に築かれていたらしい。現在の日野神社の辺りにあったと言われており、神社参道に城址碑が立ち、神社の由緒書きにも瓦林城のことが記されている。しかし堀跡も残っておらず、城を思わせるものは何も残っていない。戦後間もなくの航空写真を見ても城の名残を思わせるものは確認できないので、早くに失われた城の様である。その不鮮明な歴史と共に、闇に包まれた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.749150/135.370338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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越水城(兵庫県西宮市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7717.JPG←城址碑・解説板
 越水城は、この地の土豪瓦林氏が戦国時代に築いた城である。元々この地では、南北朝時代の観応の擾乱で打出浜合戦が行われた際に、足利直義方の畠山国清・石堂頼房・上杉朝房らが小清水(越水)に陣所を置いたと言う(『太平記』では打出浜合戦とは言わずに小清水合戦と呼んでいる)。一方、瓦林正頼は豊嶋に館を構えていた土豪であったが、応仁の乱が始まるとより要害性の高い鷹尾城を築いて居城を移した。その後、管領細川政元の暗殺に端を発する細川氏の後継争い(永正の錯乱)が起こると、正頼は1516年に越水城を築いて居城を移し、細川高国に味方したと言う。阿波から京に上る細川澄元が越水城に攻め寄せ、高国が後詰めに出陣したが、1520年2月、正頼は澄元勢に開城して堺へ逃れた。同年10月、正頼は開城の責めを問われ、また澄元と内通したとして切腹させられた。その後、澄元の家臣三好氏が入城した。以後、越水城は三好氏の本城となり、阿波本領への中継拠点ともなった。1533年、瓦林氏は一向一揆衆と共同で三好氏を攻めて越水城を奪い返し、瓦林一族が城を守ったが、その後も攻防が繰り返され、後には畿内の覇者三好長慶の居城となった。長慶は、家臣松永久秀を京に留め、自身は越水城で指揮を執ったと言う。1566年、三好氏の家臣篠原長房が城主の時、瓦林三河守に攻められて一旦開城したが、4ヶ月後には長房が奪還し、9月には足利義親(後の足利14代将軍義栄)が一時入城した。1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭・信長の連合軍が摂津征伐を始めると、長房は越水城を放棄し、越水城には織田方の武将が入ったと考えられる。その後の織田勢力の伸張に伴って、越水城は戦略的価値を失い、廃城になったと思われる。

 越水城は、比高15m程の丘陵上に築かれている。現在は一面の市街地となって民家が所狭しと建てられており、城の遺構は完全に湮滅している。しかし現在でも急坂の上にあり、西国街道の要衝であったことは地勢から窺える。大社小学校の南東角に城址碑と解説板が建っており、その文面からもてっきり小学校敷地が城址だと思っていた。しかし『日本城郭大系』に記載の縄張図と戦後間もなくの航空写真とを見比べると、小学校東側の段丘辺縁部が城の中心部であったらしい。前後の航空写真には西側の土塁と堀がはっきりと確認できる(その位置は小学校敷地より東側である)。従って段丘の南東部を堀で断ち切って、主郭を置いていた様である。主郭後部に天守台が築かれ、主郭内の段差部には石積みもあったらしいが、昭和30年代には全面的に宅地化されてしまっており、今では見る影もない。往時、畿内の覇者となった三好長慶が拠っていた城とは想像できない変わり様である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.746682/135.337830/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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船上城(兵庫県明石市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7705.JPG←本丸周囲の堀跡の畑
 船上城は、キリシタン大名として有名な高山右近が築いた城である。織田信長横死後の1585年、天下統一を目指す豊臣秀吉は大名の国替えを断行し、摂津高槻城主高山右近重友が明石与四郎則実に代わって明石郡6万石を与えられた。右近は最初、明石氏の居城枝吉城に入ったが、直ちに船上城の築城に取り掛かった。一説には、この地には別所吉親(三木城主別所長治の叔父)が築いた林ノ城があり、それを右近が拡張整備したとも言われている。しかしわずか2年後の1587年6月、秀吉はバテレン追放令を発し、右近は改宗を拒否して領地没収の上、追放となった(一時的に加賀前田家が名築城家で声望もあった右近を庇護し、右近は高岡城の縄張りを行った)。その後、明石は豊臣氏の直轄領となった。秀吉の死後、1600年の関ヶ原合戦で天下の覇権を握った徳川家康は、女婿の池田輝政を播磨姫路城に配し、明石船上城にはその一族池田出羽守由之が入ってこれを守った。1615年の一国一城令で、船上城は櫓や堀を廃して城構えから屋敷構えに改修され、1617年に信濃松本城主小笠原忠政が明石に移封となると、2代将軍徳川秀忠の命により明石城が新たに築城された。船上城の用材の一部は明石城へ転用され、1620年の明石城完成と共に船上城は廃城となった。

 船上城は、明石川の河口付近の西側の平地に築かれていた。周囲一帯は宅地化で遺構は完全に失われ、本丸跡は畑になり、その中の小さな土壇に神社が残っている程度である。また本丸周囲には堀跡の水路と低い畑が残っている。戦後間もなくの航空写真を見ると、本丸を始めとして東西に方形に近い形の畑が3つ~4つ程並んでおり、連郭式の城だったようである。方形の曲輪を並べる平城の形態は、この後に右近が縄張りした高岡城とも共通している。いずれにしてもほぼ完全に失われてしまった城である。尚、水路を挟んで本丸北東にある公園に、船上城の解説板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.647834/134.975023/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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明石城(兵庫県明石市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7377.JPG←堀切兼用の東大手道
 明石城は、2代将軍徳川秀忠の命により、西国諸藩への備えとして新造された城である。1617年、大坂の役の戦功によって信濃松本城主小笠原忠真は明石10万石を賜り、船上城に入部して明石藩が成立した。それ以前の明石は姫路城主池田輝政の領国で、甥の池田出羽守由之を船上城に置いて守らせていた。輝政の死後、嫡男利隆が若死にして幼い光政が当主になると、江戸幕府は光政を鳥取城に移し、播磨を二分して姫路城には本多忠政を、明石には小笠原忠真を配した。そして翌18年、将軍秀忠は、忠真に忠政(忠真の舅)の指導を受けて新城を築くよう命じた。忠真は領内から3ヶ所の築城候補地を選定し、秀忠の決裁で現在の地が選ばれた。同年10月、幕府は3名の普請奉行を派遣すると共に普請費用として銀一千貫を支出した。その4ヶ月前には戸田氏鉄に尼崎築城を命じており、幕府は大坂防衛のために姫路・明石・尼崎の3段構えの防御線を構築しようとしていたと言う。明石城の築城は1619年正月に始められ、櫓・御殿・城門などには一国一城令で廃城になった伏見城・三木城高砂城・船上城・枝吉城などの資材が解体使用された。1620年に城は完成し、本丸の四隅には三重櫓が建てられていたが、天守は天守台のみで建てられなかった。こうして小笠原氏の居城となったが、忠真は1632年に豊前小倉城に加増転封となった。その後6ヶ月間、姫路城主本多氏に預けられた後、戸田松平氏・大久保氏・藤井松平氏・本多氏・越前松平氏(直良流)と変遷して幕末まで存続した。

 明石城は、明石駅前にそびえる比高20m程の段丘先端部を利用して築かれた城である。現在は公園となっており、本丸南側の2つの隅櫓が現存している。幕府の特命で築かれた城だけあって、豪壮な総石垣の城となっている。段丘上には西から順に本丸・二ノ丸・東ノ丸を並べ、本丸の西側には腰曲輪である稲荷曲輪を築き、これらの南側に広い水堀で囲まれた三ノ丸を置いている。本丸~東ノ丸の北側には天然の谷戸を利用したと思われる桜堀があり、その北側の丘陵部にも捨曲輪として北ノ丸が設けられている。本丸は前述の通り天守台を備え、東の二ノ丸との間に大堀切を穿ち、土橋で連結した大手虎口を設けている。本丸北側には搦手虎口がある。本丸内には柿本人麻呂を祀ったという人丸塚があるが、塚が本丸にあるのは近世城郭では珍しい。二ノ丸と東ノ丸は高低差がない地続き地形で、食い違い虎口を有した仕切り石垣で分割しているだけである。東ノ丸の東前面には堀切兼用の東大手虎口が築かれている。各城門は厳重な枡形虎口となっており、三ノ丸南東のものは二重枡形を形成している。南西には枡形虎口がそのまま駐車場入口として利用されている。北ノ丸は、自転車競技場や文化施設が建てられて破壊されているが、遊歩道脇の林の中に石垣と土塁で形成された枡形が残っている。明石城は、段丘辺縁部の急崖を効果的に利用しており、高い石垣群と相まって見事な姿を残している。ただ残念なのは、城址に関する看板・標柱が全くと言ってよいほど無く、全然地元から愛されていない城という印象を受ける。また夏場の訪城でもあったため、石垣に雑草がかなり生えており、破損の心配もある。せめて除草剤を定期的に散布して雑草の侵食を防ぐとともに、各所に解説板を建てるだけの愛着は持ってほしいと感じた。
天守台→IMG_7474.JPG
IMG_7487.JPG←坤櫓

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.652636/134.991717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平山城
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兵庫城(兵庫県神戸市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7327.JPG
 兵庫城は、戦国末期に池田恒興が築いた城である。恒興は織田信長の乳兄弟で、その関係から信長より特に親しく遇せられた。恒興は1580年、信長に謀反を起こした荒木村重の籠る花隈城を攻め落とし、その功によって兵庫の地を拝領した。これに伴い、兵庫はそれまでの室町幕府の権力や東大寺・興福寺等の寺社勢力との関係から脱し、信長の支配下に入った。これを機に1581年、恒興は花隈城を廃し、その遺材も加えて新たに天守を備えた兵庫城を築いた。信長横死後の1583年、恒興は美濃大垣城へ移封となり、兵庫城は羽柴秀吉の直轄地となった。1617年、尼崎藩領となると兵庫陣屋と呼ばれ、奉行が置かれた。その後、1769年に幕府の直轄領となり、大坂奉行所に属して与力や同心の勤番所が設けられ、大坂谷町代官支配となった。1868年(明治元年)、明治政府はここに兵庫鎮台を置き、間もなく裁判所、県庁と変遷した。

 兵庫城は、海陸の物資の集散地であり、湊川の支流と分水路が天然の堀を成す交通の要衝に築かれた。現在の切戸町・中之島の付近で、東西・南北各々約140mの規模で、周囲には幅3.6mの堀が廻らされていたと言う。しかし明治初期に市街化のため土塁は削られ、開削された兵庫新川運河が城の中心部を貫通し、遺構は大きく破壊された。従って現在は見るべき遺構はなく、運河西側の遊歩道に石碑と解説板が立っているだけである。今となっては幻の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.665273/135.172563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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高砂城(兵庫県高砂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7245.JPG←城跡の高砂神社
 高砂城は、播磨梶原氏の居城である。元々は室町時代に杉岡蔵人によって築かれたと伝えられる。 杉岡氏は播磨守護赤松氏に属しており、嘉吉の乱の際に小松原城主小松原永春と共に赤松満祐の元に馳せ参じたと言う。その後、梶原氏が城主となり、赤松氏の水軍の将を務めて赤松晴政の淡路国脱出を支援したり、一族を馬廻として出仕させるなど、戦国期まで赤松氏に従った。播磨梶原氏は「景」を通字にしている通り、鎌倉幕府創業の功臣梶原景時の裔を称した。梶原景秀が城主の時、織田信長の部将羽柴秀吉による三木合戦となり、景秀は三木城主別所氏の麾下として高砂浦を守備し、後詰めの役を果たした。毛利氏や本願寺顕如は、この高砂城から三木城への軍兵・兵糧米の陸揚げを計画していたと言う。しかし黒田官兵衛孝高の仲介により景秀は秀吉に帰順し、高砂の本領を安堵されたと見られる。1580年には秀吉の命により高砂城は一旦破却された様である。関ヶ原合戦後に池田輝政が姫路城主になると、播磨の海の守りを固める為に1612年に近世高砂城を新たに築き、家臣の中村主殿助正勝を高砂城主として城下町を整備した。その後、元和の一国一城令によって高砂城は廃城となった。

 高砂城は、現在の高砂神社の地にあったとされる。しかしこれは池田輝政が築いた近世高砂城で、梶原氏の中世高砂城がどこにあったのかは明確ではない。小松原城の近傍にあったとも、高砂神社の北西にあったとも、或いは梶原の城の跡に近世高砂城を築いたとも言われ、諸説あって確定できないのが実情である。いずれにしても、市街化で城の遺構は完全に湮滅している。城より高砂神社が立派で、比較的広い境内には松が多数植わっており、社殿や山門も素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.743825/134.803576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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加古川城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7242.JPG←称名寺周辺の水路は堀跡か?
 加古川城は、羽柴秀吉が播磨平定の為、播磨の領主達を集めて行った加古川評定が行われた城である。この地の豪族糟谷(糟屋)氏の居城で、糟谷氏は源平合戦の際に平家追討に功のあった糟谷有季が、源頼朝から播磨国印東郡南条郷を与えられ、糟谷有数のとき加古川城を居城としたとされる。南北朝期~戦国期には播磨守護赤松氏、赤松氏衰退後は別所氏などに仕えた。加古川城が歴史の表舞台に出るのは、前述の通り加古川評定の時である。1577年、羽柴秀吉は織田信長の命で中国攻めの序戦として播磨攻略に取り掛かった。初めて播磨に入った秀吉は、加古川城(糟屋の館)に入り、播磨の領主達を参集して毛利討伐の軍議を行った(加古川評定)。この時、三木城主別所長治は自身は参上せず、代理として叔父で反織田派の別所賀相(吉親)を派遣した。この賀相が評定において秀吉と衝突し、帰城後に長治を説得して別所氏を織田方から離反させた。これを契機として一旦は織田方に付いた播磨諸豪は動揺して毛利方へ相次いで寝返るなど、情勢が一気に緊迫した。姫路城に進出していた秀吉は周囲を敵性勢力に囲まれる形となり、官兵衛の進言に従って圓教寺に入り、白山城を築いて本陣とした。この時、加古川城の糟谷氏では、時の12代城主武則が黒田官兵衛孝高の推挙により秀吉に仕え、以後一貫して秀吉の幕下で活躍した。武則の兄朝正は別所側に立って三木城に入った。別所氏麾下の反織田勢力は、神吉志方高砂・野口・淡河・端谷の6城主は各自の城を堅守し、他の小城主は三木城内に籠城した。織田方は大軍勢を播磨に派遣して、別所方の諸城を各個撃破した。この時、加古川城は織田方最前線の重要な兵站拠点となった。最後に残った三木城には秀吉が厳重な包囲網を構築して、「三木の干殺し」と呼ばれる過酷な籠城戦となった。この三木合戦において、糟谷武則は箕谷ノ上付城に布陣して活躍したと言う。後に武則は秀吉の小姓頭となり、賎ヶ嶽七本槍で功名を挙げ、加古川城主として35,000石を与えられた。武則の子宗孝は、1615年の大阪夏の陣で豊臣方として籠城し、討死した。同年6月、加古川城は破却された。

 加古川城は、現在の称名寺一帯にあったと言う。加古川の南岸に位置し、近くには山陽道(現国道2号線)が通っていることから、加古川の渡河点を押さえる要衝であったと考えられる。付近一帯は完全に市街化されており、遺構は完全に湮滅している。わずかに寺の周囲に水路があり、往時の堀跡であった可能性が推測される程度である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.768595/134.830420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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神吉城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7205.JPG←本丸跡の常楽寺
 神吉(かんき)城は、この地の土豪神吉氏の居城である。神吉氏の出自には諸説あるが、播磨守護赤松氏の一族であるとされる。少なくとも『太平記』に多数登場する赤松氏の一族郎党の中には神吉氏の名は見えないので、太平記以後の時代に分出された庶家の様である。戦国期には、三木城主別所氏と代々気脈を通じており、1578年2月に別所長治が突如織田方から離反すると、神吉城主神吉民部大輔頼定も別所氏に呼応して神吉城に立て籠もり、志方城・野口城と共に織田勢の大軍の攻撃を受けた。『信長公記』によれば、織田勢は信長の嫡男織田信忠を筆頭に、その弟神戸信孝、重臣の林秀貞、細川藤孝、佐久間信盛、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、荒木村重などそうそうたるメンバーが率いた約三万の大軍に対し、頼定はわずか千名ほどの城兵で果敢に抵抗し、何度も攻撃を撃退したと言う。しかし衆寡敵せず、織田勢の総攻撃を受けて頼定は討死し、神吉城は落城した。尚この際、西の丸を守備していた頼定の叔父神吉貞光(藤大夫)は、荒木村重・佐久間信盛が藤大夫の詫言を取次いで奔走し、志方城降参の説得を条件に助命され、志方城へ退去したと言う。

 神吉城は、常楽寺の地に本丸があった。周辺は全て市街化し、遺構は完全に湮滅している。『信長公記』の記載によれば、中の丸(本丸)・東の丸・西の丸で構成され、中の丸には天守も上げられていたと言うが、往時の面影はほとんど失われている。本丸跡の常楽寺境内は周囲より3~4m程高くなっており、往時の地勢を僅かに残しているに過ぎない。尚、常楽寺本堂裏の墓地には城主神吉頼定の墓があるが、非常に立派な墓所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.795083/134.829519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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志方城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7194.JPG←墓地に残る本丸土塁跡
 志方城は、赤松氏の重臣櫛橋氏の居城である。櫛橋氏は伊朝を祖とするが、その出自には諸説あって明確にできない。櫛橋氏の名が現れるのは南北朝期で、観応の擾乱における摂津打出浜の合戦の後、敗北して自刃を覚悟した将軍足利尊氏と執事高師直以下の高一族と共に、赤松範資(赤松円心の嫡男)の郎党の中に櫛橋三郎左衛門伊朝の名が、太平記巻29に見える。いずれにしても播磨守護となった赤松氏に代々仕えた。嘉吉の乱で赤松氏が滅び、その後赤松政則が赤松氏を再興して播磨を回復すると、櫛橋左京亮則伊は政則の股肱の臣として活躍し、祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役を務めた。櫛橋氏は代々天神山城を居城としていたが、1492年に則伊が志方城を築いて居城を移したとされる。その後、伊家・伊定・政伊と続いた。1578年、三木城主別所長治が織田方から離反すると、櫛橋氏は別所氏に呼応して志方城に立て籠もった。しかし同年8月、羽柴秀吉の攻略にあって落城し、櫛橋氏は滅亡した。尚、伊定の娘・光(てる)は秀吉の名参謀として活躍した黒田官兵衛孝高の妻となり、嫡男長政(後の福岡藩主)を産んだ。

 志方城は、周囲を低地帯に囲まれた低台地に築かれている。南端に本丸、その北に二ノ丸、西側に西ノ丸を築いていたとされる。市街化で遺構はかなり改変されてしまっている。本丸は観音寺の境内となり、周囲に段差5m程の切岸が散見され、北の墓地裏に土塁跡が確認できる。切岸下には堀跡の名残も残っている。二ノ丸は志方小学校となり、西ノ丸は民家が立ち並んでいて遺構は完全に湮滅している。結局城跡らしさを残すのは本丸だけだが、市街地中心部の城の現況としては、それでも良しとすべきであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.818075/134.822266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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白山城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7133.JPG←平場周囲に残る土塁
 白山城は、名刹として名高い書写山圓教寺の境内に、1578年、羽柴秀吉が播磨平定戦の最中に一時期本陣を置いた陣城である。その前年の77年、秀吉は織田信長の命で中国攻めの序戦として播磨攻略に取り掛かった。御着城主小寺政職の家老の姫路城主黒田官兵衛孝高は、織田方に付くことを政職に進言し、更に播磨に入った秀吉に姫路城を明け渡し、播磨の諸豪族にも織田方に付くことを説いて回っていた。その甲斐あって、短時日の内に播磨をほぼ平定し終えた秀吉であったが、翌78年2月、突如三木城主別所長治が織田方から離反し、これを契機として一旦は織田方に付いた播磨諸豪は動揺して毛利方へ相次いで寝返るなど、情勢が一気に緊迫した。周囲を敵性勢力に囲まれる形となった秀吉は、官兵衛の進言に従って圓教寺に入り、山上の十地坊に白山城を築いて本陣とした。これは、陣を構えるに好適な要害であり、また多数の兵の収容が可能で兵糧の確保が容易な大寺院であった為とされる。その後、戦況の推移に従って平井山に本陣を移すまで、白山城が秀吉の本陣となった。
 尚、圓教寺側ではこれを「秀吉の乱入」と称している。それは、秀吉が守護使不入の圓教寺の荘園27,000石を全て没収し(後に500石のみ施入された)、摩尼殿の本尊・如意輪観音像など多数の仏像・寺宝を奪い取り、自身の本拠近江長浜城に持ち去ってしまったからである。また兵たちによって僧坊は壊され、寺域は大いに荒らされた。寺からすれば、いわれのない暴挙であったろう。この様に、織田軍の各地での暴虐は、戦国乱世の常識からしても常軌を逸した破壊的なものであった。

 白山城は、圓教寺の大講堂裏の書写山山頂部に築かれている。ここは白山権現が祀られていることから白山とも呼ばれている。前述の通り、往時は十地坊と言う僧坊があった。平坦な平場となっており、現在は給水施設が建っているので改変を受けているが、平場の周囲には土塁の跡が明瞭に残っている。また土塁の外側周辺にも、幾つかの平場群が確認でき、虎口状の地形も見られる。しかし秀吉が率いていた兵数は万単位であり、とても山頂の平場群だけで収容することはできなかったであろう。実際、書写山ロープウェイの山上駅から圓教寺まで登る途中、土塁で囲まれた平場や段曲輪状の平場が散見され、山内全域に兵が駐屯していたと考えられる。山頂からは再興赤松氏の居城置塩城が望め、播磨中世史の転機となった歴史的な場所である。
圓教寺への途上に見える土塁囲郭→IMG_6982.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.893209/134.655390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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赤穂城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6937.JPG←二ノ丸東側外周の石垣
 赤穂城は、忠臣蔵で名高い赤穂浅野家(浅野内匠頭)の居城として知られている。基本は純然たる近世城郭であるが、その前身は関ヶ原合戦の後にこの地を領有した姫路城主池田輝政が、末弟の長政を22,000石で赤穂に配し、後の赤穂城地に掻上城を築いたのが最初とされる。その後、池田輝政の家臣垂水半左衛門勝重が赤穂郡代となって役所を構え、更に池田政綱・輝興が赤穂を領した。しかし1645年3月、輝興は突如狂乱して内室と侍女2人を斬り殺して改易となった。その後には、浅野長政の孫に当たる浅野内匠頭長直が、常陸国笠間城から赤穂に53,500石で移封となった。長直は、1648年に赤穂城築城願を幕府に提出し、紆余曲折を経て、1661年に赤穂城が完成した。築城に当たっては、甲州流軍学者近藤正純が設計を行い、更に招聘された軍学者山鹿素行が途中から参画して縄張りに修正を加えた。赤穂浅野家は3代続いたが、1701年、内匠頭長矩の時に江戸城中で吉良上野介義央と刃傷事件を起こし、5代将軍徳川綱吉の命で即日切腹となり、赤穂浅野家は断絶した。同年4月に赤穂城開城となり、一旦は幕府領となったが、翌年、下野国烏山城主永井伊賀守直敬が赤穂に33,000石で入封して暫定的に統治した。1706年、森長直が赤穂に20,000石で入封し、以後森氏11代の居城として幕末まで存続した。尚、元々5万余石の浅野家時代でも分不相応に広壮な城であったが、浅野家改易以降は禄高が次第に減少した為、幕末には城下町は衰微し、城の維持修復にも事欠く有様であったと言う。

 赤穂城は、海に面した低丘陵に築かれている。本丸の周囲に二ノ丸を環郭式に廻らし、北側に三ノ丸を配置した縄張りとなっている。それぞれの曲輪は水堀で囲繞され、西国の近世城郭らしく総石垣の城となっている。観念論を主軸にした江戸期軍学者の設計らしく、本丸を始めとする各所の塁線は複雑な折れを持ち、隅櫓台は張り出され、各所で横矢掛かりを強く意識した縄張りとなっている。特に本丸は稜堡式城郭の原型とも言えるもので、しつこいくらい屈曲している塁線がいかにも理念先行の軍学者の設計らしい。本丸内には天守台もあり、築城時に天守を建てる計画もあったようだが、結局財政難で建てられずに終わっている。同様に、本丸の4つの隅櫓台も、実際に櫓が上げられたのは北東隅櫓だけで、他の3つは横矢枡形と称して石垣の基台のみであった。
 城内には近代に入ってから一時期学校が置かれるなどして城の遺構は改変されたが、現在は国指定史跡となって復元作業が進められている。本丸は大手門が復元され、御殿跡の配置がコンクリート板で地面にマーキングされている。二ノ丸は国名勝の庭園が復元途上である。三ノ丸には大石神社があり、47士が祀られて観光名所となっている。護岸工事に二ノ丸石垣が持ち出されるなど、一時期改変されたせいと思われるが、石垣は真新しいものが多く、かなり積み直しされてる感じである。大手門の枡形石垣は、明治期に破壊されたものを復元しており、一部の角部が円弧状の石垣も往時の形であるらしい。三ノ丸の石垣もほぼ全周に渡って残っている。訪城が夏場だったこともあり、石垣にかなり雑草が生えていて、石垣の損壊が危惧される状況であった。私は個人的に、純然たる戦闘用に造られた、実戦本位の中世城郭の方が好きなので、権勢誇示志向の強い近世城郭、特に机上理論のみの江戸期軍学者の手になる赤穂城は、ちょっと好みから外れていた。
天守台から見た本丸御殿跡→IMG_6866.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.746047/134.388735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世水城
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坂越浦城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6682.JPG←公園となった城跡
 坂越浦城は、嘉吉の乱の後に播磨守護となった山名持豊(宗全)が築いたと言われる城である。1454年に築城工事が行われていたことが資料に残っていると言う。その後、赤松氏が再興されて播磨を再び領すると、赤松氏の庶流・龍野城主赤松村秀の支城となり、その通城(かよいじろ)となって坂越港の支配拠点となったと言う。江戸時代には、赤穂藩の御番所が置かれて坂越浦に出入りする船の監視に当たった。
 坂越浦城は、坂越浦を望む比高20m程の段丘上に築かれている。現在公園となっているが、あまりに綺麗に整備されすぎて、公園周囲も擁壁で固められ、往時の面影は微塵もない。平場があったことと、眼前に坂越浦が広がっていることがわかるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.767220/134.431844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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坂越茶臼山城(兵庫県赤穂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6643.JPG←城址とされる山頂
 坂越茶臼山城は、山名持豊(宗全)によって築かれたと言われる城である。1441年の嘉吉の乱で、幕府追討軍の先頭に立って赤松満祐を城山城に攻め滅ぼした持豊は、坂越茶臼山城を築き、赤松氏残党に備えてしばらく駐屯していたと言う。その後、1455年に赤松氏の残党が赤松氏再興を目指して蜂起し、播磨に討ち入ってその一軍が茶臼山城の山名勢を攻めたが、敗退したとも言われる。

 坂越茶臼山城は、宝珠山の西の標高160mのピーク上に築かれていたと言う。しかし現在はテレビ塔が建つ他、石仏が多数置かれており、かなり改変を受けているらしく、明確な遺構は確認できない。強いて言えば、テレビ塔や石仏が建っている部分が一段高くなっており、物見台であったものだろうか。この高台は曲輪と言う程の広さはない。物見台周囲は公園化された平場となっており、ここからは坂越浦を一望できる。城址と言うより景勝地と言う方が適している。

 尚、坂越茶臼山城の北東の尾根には太平記にその名が現れる児島高徳の義父、和田備後守範長とその一族の墓がある。熊山合戦(太平記 巻16)で重症を負った高徳が、茶臼山城中腹の妙見寺に逃れて傷を癒やしたとの伝説がある関係からなのだが、有名な児島高徳も児島・和田一族も太平記にしか記載が見られず、同時代資料に全く記載がない為、その実在が強く疑われているのが実態である。にも関わらず彼らを顕彰する平成7年に建てられた解説板では、後醍醐天皇の治世を「建武の中興」と称し、「国民の福祉を優先する後醍醐天皇の信頼を裏切った足利尊氏」と決め付けている。全く史実を無視した皇国史観という虚偽観念に毒された解説文で、こんなものを現代でも臆面もなく建てていることは、取りも直さず日本が戦前回帰主義に冒され、再び右傾化しつつある証左であり、暗澹とした気分にならざるを得ない。
 ※皇国史観について知りたい方は、拙ブログ「時代錯誤の石碑を建てた日本学協会」の項を参照下さい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.770516/134.429419/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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佐土構居(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6580.JPG←堀跡とされる水路
 佐土構居は、小寺氏の庶流英保氏の郎従、清水小左衛門久勝が1573年に居住したとされる居館である。久勝は妻鹿孫次郎貞祐の8世の裔孫と伝えられ、祖父吉春の時に初めて清水姓を名乗ったと言う。『御着茶臼山城地絵図』によれば、佐土構居の西側に旧印南郡・旧飾東郡の郡界があり、そこに御着城の東外堀が穿たれ、山陽道と郡界・外堀の交差部に城門があった。従って、佐土構居は御着城惣構の東に隣接して築かれた居館であったらしい。
 佐土構居は、現在の福乗寺境内付近に築かれていた。周辺はすべて宅地化されており、遺構は完全に湮滅している。わずかに福乗寺裏を流れる水路が堀の名残を伝えているに過ぎない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.815486/134.743066/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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御着城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6570.JPG←二ノ丸外周の堀跡と切岸
 御着城は、播磨守護赤松氏の一族、小寺氏の居城である。小寺氏は伝わっている系図では、赤松氏を南北朝動乱の中で大大名にのし上げた赤松円心より4代前に分かれた一族と言われる。しかし、円心以前の赤松氏自体の系図が不明瞭であり(南北朝で彗星のように現れた楠氏・名和氏も同様)、事実かどうかは必ずしも明らかではない。ただ太平記には、元弘の乱の時から赤松氏に従った一族として、佐用氏・上月氏と共に小寺氏の名も何度も現れており、赤松氏は鎌倉時代には名もなき土豪であったとは言え、既に一族を広く蟠踞させるほどの勢力を有していたことが窺われる。小寺氏は赤松宗家の家臣として重用され、1349年に小寺頼季が、円心の次男貞範が築いた姫山城(後の姫路城)の城代となり、以後代々、姫山城主を歴任した。1441年の嘉吉の乱の際には、小寺伊賀守職治は赤松満祐に従って幕府討伐軍と戦い、城山城で討死した。赤松氏滅亡後、その遺臣達は赤松氏再興を目指して奮闘し、職治の子と推測される小寺藤兵衛(豊職か)もその主要メンバーとなって長禄の変で後南朝に奪われていた神璽を奪還し、お家再興に成功した。再興赤松氏の当主政則は、応仁の大乱の時に東軍の細川勝元に与して山名氏に奪われていた本拠の播磨を奪還し、播磨守護に返り咲いた。播磨に戻った政則は、1469年に置塩城を築いて居城とし、小寺豊職を姫路城主とした。豊職の子政隆は、同じ赤松家臣であった浦上氏の下克上で動揺する赤松氏を支え続けた。伝承では御着城はこの政隆によって、1519年に築かれたと言われている。しかし、嘉吉年間(1441~44年)には既に構居が設けられ、明応年間(1492~1501年)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭に発展していたとされ、発掘調査の結果からもそれが裏付けられている。いずれにしても、政隆以後、則職・政職と3代に渡る小寺氏の居城となった。政職の時には、赤松氏の勢力が衰退した為、黒田職隆・孝高(官兵衛)父子らの多くの有能な人材を登用し、次第に自立した大名となった。勢力の拡張に伴って御着城も整備され、戦国末期には別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城と称せられた。播磨に織田信長の勢力が伸びてくると、政職は黒田孝高の進言を容れて一旦は織田方に付いたが、三木城主別所長治の離反、摂津有岡城の荒木村重の反乱が相次いで起き、これに動揺した政職は織田から離反して毛利方に付いた。その後、三木城・有岡城が落城すると、政職は城を捨てて備後の鞆に逃亡し、小寺氏は没落。信長の部将羽柴秀吉の侵攻で御着城は落城した。

 御着城は、天川東岸の平地に築かれた城である。中心部に本丸・二ノ丸を東西に配置し、北と東には四重の堀、南と西には二重の堀を廻らし、更に惣構を備えた城であったと言うが、現在は城の中心部を東西に国道2号線が貫通し、市街化が進んで遺構はほとんど残っていない。本丸北半は公園と天守風の公民館となり、本丸南半は小寺氏一族を祀る小寺大明神が鎮座している。また二ノ丸は御着城跡公園というグラウンドに変貌している。遺構として残っているのは、公民館北側に移築保存された天川橋の下の堀跡の窪地と、二ノ丸外周の堀と切岸(土塁)だけである。播磨三大城と称せられた面影は全く残っていない。それにしても、御着城の周辺には城を築くに適した丘陵・山稜がいくつもあるのに、わざわざ平地に城を築いたことは、小寺氏の先進性を窺わせるものであろう。
 尚、本丸跡の公園西側に黒田家の廟所が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.818533/134.740705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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英賀城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6511.JPG←英賀神社裏に残る土塁
 英賀城は、播磨の小大名三木氏の居城である。元々は、室町中期の永享年間(1429~41年)に赤松氏の一族赤松祐尚によって築かれたとされる。祐尚は、嘉吉の乱を起こした播磨守護赤松満祐の弟で、嘉吉の乱では兄に従って幕府追討軍に抗し、乱鎮圧後に一旦は赦免されるが、新たに播磨守護となった山名持豊(宗全)に抵抗して滅ぼされた。その後、赤松氏姻族の三木氏が英賀城に入り、以後三木氏の歴代の居城となった。三木氏は元々、伊予の豪族河野氏の一流で、3代将軍足利義満から播磨に地頭職を与えられ、三木通近が播磨恋ノ浜城に入部して、播磨三木氏の祖となった。通近の孫通重は赤松一族の別所氏から養子に入り、また赤松満祐の娘を娶るなど、三木氏は守護赤松氏の下で勢力を伸ばした。嘉吉の乱の際には、通重・通武父子は赤松方に付いて幕府追討軍と交戦し、通重は城山城で赤松一族と共に討死した。通武は恋ノ浜城に落ち延びて抵抗したが、後に新守護山名氏に帰順し、山名氏の命によって、祖父通近ら一族・家臣らと共に英賀城に居城を移した。通武は英賀城を改修して規模を拡張し、西播磨の有力領主に成長する基盤を築いた。通武の養嗣子通安は、赤松氏を再興した赤松政則に従って応仁の乱で軍功を挙げて勢力を伸ばした。通安の養嗣子通規は新たに市庭館を築いて移り住んで市庭家と呼ばれ、一族を城内に配置して「四本家(市庭家・井上家・土井家・堀内家)」と「三連家(山崎家・薮内家・町之坪家)」とし、これら七家の合議で英賀城内を運営したと伝えられている。また1513年、本願寺9世実如上人の子実円を迎えて英賀御堂本徳寺(英賀御坊)を建立し、三木氏一族はこぞって本願寺門徒となって、英賀城は益々栄えた。戦国後期になると、置塩城の赤松宗家は次第に衰退し、宍粟郡長水城の宇野氏、揖保郡龍野城・佐用郡上月城の赤松庶子家、東播磨の三木城主別所氏、中播磨の御着城主小寺氏、英賀城主三木氏らの小大名の割拠状態となった。ここで大きな転機となったのが、1577年の織田信長の部将羽柴秀吉による中国攻めである。播磨に侵攻した秀吉は、離反した別所長治の三木城を兵糧攻めの末に1580年に落城させ(所謂「三木の干殺し」)、別所氏に加勢していた三木氏の英賀城も続けて攻撃を受け、羽柴勢の大軍の前に短時日で落城した。

 英賀城は、夢前川河口近くの、水尾川との間に挟まれた平地に築かれた城である。現在は海岸線から離れているが、往時は海に面した城であったと考えられ、海上交通と山陽道の結節点となる要地であった。しかし昭和に入って、工場誘致に伴う夢前川の付け替え工事と、戦後の宅地造成によって遺構はほとんど湮滅している。明確な現存遺構は、英賀神社裏に70m程に渡って東西に伸びる土塁と、英賀薬師堂脇のわずかな土塁のみに過ぎない。しかし城内各所には、本丸跡の碑のほか「○○口之跡」と刻まれた石碑が建てられており、これらを追っていくといかに広大な城であったか、往時の城域の広さを窺い知ることができる。また本丸・二ノ丸付近の城の中枢部外周には、水路を挟んで1~2m程の高低差があり、城の名残を地形に残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.802766/134.646914/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世海城
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姫路城外郭 その2(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

 今年の夏、2年前に平成の大修理が完了した姫路城を再訪した。前回2006年に訪城した時には、時間の制約等もあって主要部分(要するに一般観光客の見学ルート)しか見て回ることができなかった。今回は、城内の可能な限りの範囲を見て回るとともに、これまでほとんど見て回ることができていなかった外郭の内、遺構が良く残っている中濠を見て回った(内京口門だけは以前に見に行っていた)。姫路ではありがたいことに、ホテルで自転車を無料貸出してくれる所があるので、広域の外郭を巡るのに非常に助かった。

<総社門>
IMG_5777.JPG←雑草に覆われた石垣
 総社門は、総社の西門筋にあった枡形門であった。現在は門跡を県道518号線が貫通しており、ごく一部の石垣を残すほかは壊滅的で、残存状況は悪い。市民会館西側に雑草で覆われている直方体があるが、実は総社門の残存石垣の一つで、冬場ならば石垣面が現れるだろう。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.832695/134.694893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<中ノ門>
IMG_5786.JPG
 中ノ門は、中曲輪正面5門の中央にあった枡形門であった。中央にあった門だけあって、他の門より格式が高かったらしく、内側の櫓門には単層の櫓が付随していた。又、外に出番所、枡形内に大番所があったと言う。ここも枡形は跡形もなく、残存状況は極めて悪い。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.833558/134.690323/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<鵰門>
IMG_5807.JPG←鵰門の枡形内部
 鵰(くまたか)門は、中ノ門の西側にあった枡形門で、外門と内門は直交配置ではなく、並行した食違い配置であった。車道が通っているものの、奇跡的に枡形石垣が往時の形状を残している。でもここを通る車も自転車も、走りづらそうである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.833981/134.688456/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<埋門>
IMG_5810.JPG
 埋門は、中曲輪の西南隅櫓の傍らに設けられた枡形門である。鵰門と同様に、外門と内門は直交配置ではなく、並行した食違い配置であった。他の中濠南面の城門と異なり、ここだけ小型の出枡形形式である。尚、門の西側には二層の隅櫓が付随していた。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.834492/134.685903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<車門>
IMG_5844.JPG
 車門は、船場川沿いに設けられた二重枡形のやや複雑な形状の門である。西に向いた外門は、普通の高麗門と車道門の2つがあり、高麗門と車道門との間に内側を仕切る石垣と中間門が設けられて、二重の枡形を構成していた。ちなみに車道門という名は初めて聞くもので、どのような役割の門だったのか、よくわからない。現地解説板の図では船場川(外濠)に面した船着場の様な門だが、船からの荷物を積んだ荷車を通した門だったということだろうか。車門は石垣がよく残存し、堀も残っているので、往時の雰囲気はよく感じられる。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.835690/134.685988/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<市ノ橋門>
IMG_5879.JPG
 市ノ橋門は、中曲輪西側にあった門で、船場川(外濠)の外に直接通じていた。特殊な形の枡形門で、現地解説板の図によれば塁線から斜めに張り出した台形状の外枡形と、内側に引っ込んで作られた櫓門による内枡形を組み合わせた、ハイブリッド形式の様な枡形であったらしい。現在は広い車道が通っていて、北側の石垣が一部残るだけである。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.837838/134.688306/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<清水門>
IMG_6379.JPG
 清水門は、船場川沿いに設けられた中曲輪西北方の枡形門で、枡形内に「鷺の清水」という井戸があったことからこの名が付いた。出枡形の城門であったが、現在出枡形は失われ、内側の櫓門部分の石垣が残存しているだけである。ここからはそびえ立つ天守がよく見える。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.841132/134.692190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<南勢隠門>
IMG_6422.JPG
 南勢隠門は、内濠・中濠の間に築かれた西側帯曲輪の中間に築かれた食違いの城門である。石垣がよく残っているが、残念ながら標柱も解説板もない。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.839124/134.690366/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<野里門>
IMG_6441.JPG
 野里門は、北東に設けられた城門で、野里の出入口にあたることからこの名が付いた。濠が鍵型に屈曲した部分に設けられた内枡形の城門であったが、遺構はほぼ壊滅状態である。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.842188/134.698520/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

<久長門>
IMG_6463.JPG
 久長門は、中曲輪の東側にあった内枡形の城門で、外門と内門は直交配置ではなく、並行した食違い配置であった。石垣はかなり失われているものの、何とか枡形らしい雰囲気は残している。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.837451/134.699335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

 以上、姫路城の中濠沿いの外郭城門を巡ってみた。鵰門や埋門は街中に枡形が残っており、通学する学生が自転車で枡形や南勢隠門の食違いを普通に通り過ぎている。城門遺構がすっかり生活に溶け込んでる感じがして、すごいなと思った次第。
タグ:近世平山城
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籾井城(兵庫県篠山市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6503.JPG←西尾根の段曲輪群
 籾井城は、丹波の国人領主籾井氏の居城である。籾井氏の出自は、宇多源氏佐々木氏とも清和源氏であるとも言われるが定かではない。室町時代以前より当地に土着していたと考えられており、南北朝期より足利氏に仕えて福住周辺十五ヶ村を領した。籾井城は、永正年間(1504~21年)に籾井河内守照綱が築いたと言われ、その後籾井氏は勢力を伸ばした八上城主波多野氏に従った。天正年間(1573~92年)に明智光秀が丹波に侵攻した時には、城主は下野守綱利で、1577年に明智勢は綱利の父綱重・弟綱正父子が守る安口城を攻撃して落城させ、続いて籾井城を攻略、綱利は自刃したと言う。また真偽不明であるが『籾井日記』によれば、籾井越中守教業がこの時の城主であったとされ、黒井城主赤井直正が「丹波の赤鬼」と称されたのと並んで、教業は波多野氏の「青鬼」として恐れられたが、明智勢と戦い敗れて滅亡したとも言う。

 籾井城は、標高390m、比高140mの白尾山に築かれている。籾井城跡公園として登山道が整備されているので、登るのは容易である。山頂の主郭を中心に、四方に伸びる尾根上に各々直線的に段曲輪群を連ねた、比較的単純な縄張りとなっている。東尾根の曲輪群は未踏査のため不明だが、それ以外の3つの尾根の曲輪群はそれぞれ先端部を掘切で穿ち、動線を分断している。但しそれほど大きな掘切ではないので、分断効果は限定的である。北尾根の掘切は中央ではなく右寄りに土橋が架かり、内側の曲輪は土塁で虎口を防御している。その外側も平坦な平場が広がっており、先端に虎口があることから外郭として機能したらしい。一方、西の曲輪群は先端だけでなく、途中にも掘切が穿たれている。南の大手筋を降った先には、祠が祀られた平場があり、南の出曲輪であったと思われる。籾井城は、丹波に割拠する土豪の城がどうゆう規模と構造のものであったか、よく示している好例であろう。
北端の掘切と土橋→IMG_6546.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.076791,135.343752&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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母坪城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6392.JPG←竪堀
 母坪城は、穂壺城とも記載され、西丹波の戦国大名赤井氏の支城である。元々の創築は明確ではないが、後屋城の赤井一族が台頭するに連れて、その傘下に属したと考えられている。1533年には、細川晴元に属した赤沢景盛が城主で、晴元方から離反した八上城主波多野晴通に攻められ、善戦したものの落城し、景盛は討死した。その後、一時播磨へ難を避けていた赤井時家が復帰すると、母坪城にはその家臣稲継壱岐守が入った。1579年、明智光秀の丹波平定戦の際に明智勢の猛攻を受け、8月15日に落城したと言われている。この時笛の名手の壱岐守は、心静かに「松風」の一曲を吹き終えてから討死したと言う。

 母坪城は、高見城山から北に伸びた尾根の先端が、柏原川南岸に突き出た標高156.3mのピーク部に築かれている。山頂に主郭を配し、その前後に当たる南北に段曲輪群を連ねた直線連郭式の単純な縄張りとなっている。主郭北側には3段の段曲輪があり、その前面を二重掘切で分断し、更にその前方にも土塁を備えた曲輪群を築いている。一方、主郭背後には2段の段曲輪があり、2段目の先端には小さな櫓台が築かれて下方を睥睨している。その下方にも円弧状に腰曲輪が数段築かれている。この南西側下方にも曲輪らしい平場や堀状の通路が見られるが、後世の改変の可能性もあり、遺構かどうかは明確でない。この城で特徴的なのは、竪堀の効果的な使用による動線制約効果で、前述の円弧状腰曲輪には南西と南東に各2条ずつの竪堀が放射状に穿たれている。これらの竪堀は、下方の腰曲輪への城道としても機能した様である。また主郭前方の曲輪群でも、城道の側方に動線制約の竪堀が穿たれている。全体としての技巧性には乏しいが、竪堀の活用が目を引く城である。
主郭後部の曲輪群→IMG_6365.JPG
IMG_6451.JPG←前方曲輪群の掘切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.150582,135.040201&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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清安寺跡(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6277.JPG←解説板の建つ寺跡
 清安寺は、黒井城主赤井直正が建立した寺である。直正は幼名を才丸と言い、荻野氏に入嗣して朝日城を居城としていたが、1554年1月2日、黒井城で行われていた年賀の宴の席で、黒井城主であった叔父の荻野秋清を刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って居城を移した。これは秋清に追従できない一派の策略であったとされる。叔父を刺殺した才丸(直正)も骨肉の情穏やかではなく、その菩提を弔うために下館の近くに清安寺を建立して供養したと言う。
 清安寺跡は、黒井城の北方2.4kmの位置にある。現在は畑横の微高地で、空き地となっている。奥のこんもりした藪の中には、2基の祠と数基の墓石が建っている。これが現地解説板に書かれている荻野秋清夫妻の墓碑であろうか。たまたま通りかかって見つけた史跡で、地形は改変されて寺跡らしさは微塵もないが、直正の事績を伝える貴重な史跡であろう。
奥にある2基の祠→IMG_6280.JPG
IMG_6281.JPG←祠の奥の墓石群
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.198991,135.113715&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:墓所
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玉巻城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6237.JPG←主郭の掘切
 玉巻城は、久下城とも呼ばれ、丹波の豪族久下氏が築いた詰城である。久下氏の事績については、久下氏館の項に記載する。1579年の明智光秀の丹波平定戦で落城したとも言われるが、現在残るささやかな遺構からは、戦国後期まで存続した城とは考えにくく、せいぜい室町後期の久下氏の没落と共にその役目を終えていたのではないだろうか。

 玉巻城は、久下氏の菩提寺である長慶寺の裏にそびえる標高241m、比高151mの山上に築かれた城である。道はないので、長慶寺の墓地裏付近から当たりをつけて、斜面を直登するしかない。なだらかな尾根上に曲輪を配しており、主郭は最高所の標高241m地点ではなく、それより南東の小ピークの位置とされている。主郭背後には浅い掘切が穿たれている。主郭の北東尾根にも曲輪らしい平場(ニノ郭)があり、その他主郭の周りに段曲輪が構築されている。主郭掘切の北西はなだらかな尾根で馬場とされ、その先端の241m地点の小ピークが三ノ郭とされる。三ノ郭付近には石がゴロゴロしているが、石積みとはなっておらず遺構かどうかもわからない。城内で明瞭な遺構は、掘切と段曲輪だけである。他は削平も甘く切岸もはっきりしない。遺構から考えれば、南北朝期の城とも思われるが、いかがであろうか?いずれにしても、太平記に名高い久下氏の城にしては、随分とささやかな遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.086712,135.043977&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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久下氏館(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6216.JPG←館跡付近
 久下氏館は、久下弥三郎時重屋敷とも称し、丹波の豪族久下氏の居館である。久下氏は、武蔵七党の一、私市党の一流で、私市家盛の弟為家が武蔵国久下郷に分封されて久下氏を称した。久下直光・重光父子は、源頼朝に石橋山の挙兵時から従い、殊に土肥の杉山の頼朝の陣に一番に馳せ参じたことから、「一番」の家紋を賜わり、承久の乱の際には久下三郎が京に攻め上った鎌倉勢に従軍して功を挙げ、そのまま丹波の所領に留まり、丹波の国人領主となった。1333年、丹波篠村で倒幕に挙兵した足利高氏(後の尊氏)が近国の武家に参陣を催すと、久下弥三郎時重は一族郎党140~50騎を率い、「一番」の紋をはためかせて真っ先に馳せ参じたことが『太平記』に見える。以後、時重は尊氏に従って軍功を挙げ、観応の擾乱の際も一貫して尊氏・義詮父子を助けたことから、荻野氏と並ぶ丹波有数の武家となった。しかし室町~戦国時代には、その勢力も衰微し所領も横領されて、明智光秀の丹波平定と共にその歴史を終えた。

 久下氏館は、久下氏の詰城である玉巻城の西麓の山南町金屋の金屋公民館の付近にあったらしい。ちょうど篠山川の支流が直角に折れ曲がっている部分に当たり、館の天然の外堀として機能していたと思われる。遺構は失われて久しいらしいが、地形的にはわずかに館跡らしい雰囲気を漂わせている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.08594,135.034622&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:居館
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石龕寺 足利将軍屋敷跡(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6209.JPG←足利将軍屋敷跡とされる平場
 石龕寺は、飛鳥時代の587年に聖徳太子(厩戸皇子)によって建立されたと伝えられる古刹である。鎌倉時代から室町時代にかけて隆盛を極め、慶派仏師の一人、肥後別当定慶が1242年に制作した仁王像(国重文)が山門に収められている。南北朝時代には、足利尊氏が弟の直義と争った観応の擾乱の時、京都から敗れて播磨に逃れた際に、嫡子義詮に仁木頼章・義長兄弟ら2千騎を付けて石龕寺に留め置いたことが、太平記に記載されている。この時に、後に2代将軍となった義詮が逗留したのが、現在石龕寺 奥の院となっている場所と言われている。後には明智光秀の丹波平定戦の際に、石龕寺は仁王門を残して一山灰燼と帰した。

 足利将軍屋敷跡は、石龕寺の本堂付近から山道をずーっと登っていった、奥の院の地にある。この道は、参道とは名ばかりで、ほとんど里山トレッキングの山道で、高齢者ではよほど体力に自信のある人でなければ登るのは無理であろう(高齢キャッスラーなら問題ないが)。地形図で見ると、本堂からの高低差は150mもある。登りついた先には平成6年に再建された鐘楼があり、そこからほぼ水平に北へ道を辿ると岩窟を利用して建てられた奥の院(古の石龕寺本堂)がある。更にそのちょっと先に小さな平場があり、「足利将軍屋敷跡」の石碑が建っている。非常に狭小な平場で、せいぜい小さな小屋掛けぐらいしか建てられる面積がなく、いかに敗軍の将とはいえ、兵2千騎を連れた義詮がこんな所に2ヶ月も逗留したのか、少々信じ難い。何しろ狭いので、身の回りの世話をする小姓数人と仁木兄弟だけでいっぱいになってしまうだろう。ただ、この平場から西にやや降った所に、腰曲輪状の平場が数段あるので、大将の義詮と小姓だけが上の平場に居て、その他の武将や衛兵はこの腰曲輪に居た可能性もある。いずれにしても、この場所に義詮が逗留したのが事実かどうかは別として、石龕寺は足利氏に縁の深い寺であるので、太平記フリークならば必見であろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.101478,135.028893&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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岩尾城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6050.JPG←西の丸の石垣
 岩尾城は、織豊期に大改修を受けた近世の山城である。元々は、1516年にこの地の国人領主、和田日向守斉頼が築いたと言われている。その子、作右衛門師季が跡を継いだが、1579年、明智光秀の丹波平定戦で落城した。その後、1586年に近江から佐野下総守栄有がこの地に入部し、岩尾城を近世城郭に改修した。しかし1596年、豊臣秀吉の命によって廃城となった。

 岩尾城は、標高358m、比高258mの蛇山に築かれている。和田小学校の裏から登山道が伸びており、学校に立ち入りのお断りだけ入れれば、比較的楽に登ることができる。岩尾城は比較的小規模な山城で、総石垣の近世城郭的側面と、土で構成された中世城郭的側面が併存した稀有な遺構である。城の南半分は近世城郭部分で、前述の通りほぼ全面的に石垣が築かれている。本丸には小規模な天守台や、古城物見台とされる高台が備わっている。本丸には小さな枡形虎口があって、周りの二の丸に通じている。本丸から二の丸にかけて、帯曲輪や腰曲輪が付随しているが、石垣の残欠がそこかしこに見られる。また本丸西側の西の丸に、岩尾城の現存遺構の中では最も優れた石垣が残っている。西の丸周辺の腰曲輪などにも石垣が残っている。しかし全体にかなり灌木が生い茂っており、あまり良好な整備がされていないので、石垣を一通り見て回るのも一苦労である。一方、城の北側には、本丸の裏に北曲輪があり、ここには石垣が築かれておらず土塁が築かれている。先端は一段高くなっており、その北側には土塁で囲まれた舌状曲輪があり、先端に掘切が穿たれている。一方、北西にも腰曲輪・土塁と掘切が築かれている。この他、城の南西には井戸と竪堀が残り、南端には掘切が穿たれている。南南東に伸びる尾根上には、下知殿丸曲輪・南曲輪・大手門曲輪などが散在し、ところどころに小堀切らしい地形も見られる。中々素晴らしい遺構だが、薮に埋もれつつあり、城内は荒れている。また石垣がなくなった部分も多く、近世城郭的威容にも少々欠ける。城全体の規模としても、中世山城の小規模な結構を引き継いでいるようで、大した居住性をもっておらず、近世城郭化された後も詰城としての位置付けだったものと考えられる。有子山城などと比べると、格の違いというか、城の規模の違いがよく分かる。
薮に埋もれた腰曲輪の石垣→IMG_6030.JPG
IMG_6110.JPG←北端の堀切と土橋
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.099652,134.974819&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:近世山城
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高見城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5887.JPG←北尾根の曲輪
 高見城は、佐野城とも呼ばれ、南北朝期に丹波守護となった足利尊氏の家臣仁木頼章が築いた城である。仁木頼章の事績は、仁木頼章墓所の項に記載する。尊氏が建武の新政から離反し、幾多の戦いの末に京都を制圧して幕府を開くと、頼章は丹波守護に補任され、荻野朝忠を守護代とした。高見城はこの頃に築かれたと考えられる。1354年に足利直冬(実は尊氏の庶子)の挙兵に応じて山名時氏が京都に進撃した際には、途中丹波で頼章が籠もる高見城下を通り過ぎたが、頼章はその大軍を怖れてただ傍観するのみであったと言う(『太平記』)。しかしこれは、京都を一度直冬方に明け渡した後で、包囲殲滅する尊氏の戦略に沿ったものであるとの指摘もある(亀田俊和『観応の擾乱』)。その後時代は下って戦国時代になると、高見城は後屋城主赤井家清の持ち城となり、1579年に明智光秀の丹波平定戦で落城した。

 高見城は、標高485m、比高385mの高見城山に築かれている。山頂部に小さな主郭を置き、その北側に3段程の段曲輪群が築かれている。これが主城部で、南側の切岸にはわずかに石積み跡も見られるが、この他にも北東から北西にかけて派生する尾根上に曲輪群がかなり広範囲に存在するらしい。私は登山道が整備されている北東尾根と、城山から北に伸びる北尾根中腹までは踏査したが、段曲輪群が各尾根に散在するだけで、主城とも離れており求心性は乏しい縄張りである。また2つの尾根の中程には物見台が屹立し、北尾根のものは背後に小堀切を伴っている。この他、北東尾根の登山道脇には櫓台を備えた広めの段曲輪があり、薮でわかりにくいが側方に竪堀があるようだ。他の尾根などにも曲輪が残り、山麓には居館跡もあるようだが、時間の都合で未踏査である。亀井戸跡は解説板表示だけで、埋もれていて確認できない。いずれにしても、見た限りでは比較的ささやかな遺構で、戦国期にも大きな改変は受けていないように感じられた。

 尚、現地解説板に『嘉暦2年(1327)に仁木頼章が築いた』とあるのは誤り。少なくとも建武の新政以前に仁木頼章が丹波に居たことはあり得ないことを付記しておく。
登山道脇の北東尾根段曲輪群→IMG_5860.JPG
IMG_5880.JPG←北尾根の掘切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.1257,135.033184&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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後屋城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5778.JPG←神社手前に残るL字状の土塁
 後屋城は、後谷城とも書かれ、丹波の戦国大名赤井氏の宗家の居城である。伝承によれば赤井氏は、信濃源氏頼季流の井上満実の3男家光が、平安後期に丹波国氷上郡芦田庄に移住して芦田氏を称し、1215年にその5代の孫為家が赤井野に分封されて赤井氏を称し、後屋城を築いたと言われている。この赤井氏の嫡流が、後屋城を居城とした赤井氏の宗家で、一方、為家の次男重家は朝日村に分封されて朝日城を築き、荻野氏を称した。従って、芦田・赤井・荻野は同族である。しかし赤井氏の事績は暫くの間は闇の中で、南北朝期にも太平記に記載される活躍をしたのは、庶流の荻野彦六朝忠であった。赤井氏の事績が歴史の表舞台に現れるのは戦国時代初期のことで、為家から10代目の伊賀守忠家以降である。その後、時家・家清・五郎忠家と続き、徐々に領地を拡張し、氷上郡全域を支配下に収めた。特に家清の弟が、戦国丹波随一の勇将として名を轟かせた赤井直正で、直正は当初朝日城主荻野氏の養子に入ったが、1554年に叔父の黒井城主荻野秋清を宴席で刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って居城を移した。1557年に後屋城主の兄赤井家清が没すると、その嫡子五郎忠家が若年であった為、直正が赤井・荻野一族の事実上の統帥者となった。1565年には、丹波守護代の八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の実弟)を和久郷合戦で破って敗死させ、直正は丹波西方に武威を振るい、自身を「悪右衛門」を称して(中世の「悪」は「強い」の意味)全国にその名を轟かせた。1575年に始まった明智光秀の丹波平定戦でも、数次にわたる明智勢の猛攻を撃退したが、1578年に直正が病没すると、翌79年に八上城主波多野秀治を滅ぼした光秀の攻撃によって後屋城も落城し、黒井城の落城と共に戦国大名赤井氏の歴史は終わりを告げた。

 後屋城は、白山東麓の微高地に築かれている。白山山頂から移されたという白山神社とその周辺一帯が城跡で、L字状の土塁や外周の空堀がはっきりと残っている。北側の土塁の中程には出枡形の虎口があり、その部分で空堀が屈曲してわずかに横矢が掛けられている。また周囲に見られる低い石垣のある部分は、家臣団の屋敷地跡と推測されている様だ。これらはいずれも平地の居館であるが、この他に居館の北西と南西に西から張り出した尾根先端には砦の跡があるらしい。また白山山頂にも小規模な詰城があった様である。丹波の戦国史に名を轟かせた赤井氏の宗家の居城としてはささやかな規模で、その事績の不明さとも相俟って、赤井氏の歴史の謎を感じさせる。

 尚、後屋城前の道を真東に500m程進んだ先にある谷村公民館の裏手に、赤井伊賀守忠家と赤井一族の供養塔がある。
赤井伊賀守忠家供養塔→IMG_5829.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.14674,135.017391&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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高山寺城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5705.JPG←寺跡の石垣
 高山寺城は、弘浪山に開創された高山寺を城塞化した寺院城郭である。高山寺は、社伝によれば古く天平時代の761年に法道仙人による開基とされ、源平争乱の際に兵火で消失したが、鎌倉初期に再興された。鎌倉末期の1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山で挙兵すると、その近臣千種忠顕は六波羅攻めの大将として伯耆から山陰・山陽両道の兵を率いて派遣され、荻野彦六朝忠ら丹波国人衆は倒幕戦に投じて六波羅攻めの一翼を担った。しかし幕府方(六波羅勢)の反撃に遭い、兵を引いて高山寺城に立て籠もったことが『太平記』に記載されており、これが高山寺城の初見である。その後、足利高氏(尊氏)が丹波篠村で倒幕に挙兵すると、高山寺城に立て籠もっていた朝忠は、足立・児島・位田・本庄・平庄等と共に「今更人の下風に立つ手はない」として高氏の下には参じず、丹後・若狭を経由して北陸道から攻め上ったと言う。また1336年正月の京都争奪戦に敗れた尊氏が九州に落ち延びた際には、室泊の軍議によって足利一族が来るべき再挙東上に備えて西国諸国に配置され、丹波には仁木頼章が大将として派遣され、久下・中沢・荻野・波々伯部ら丹波国人衆を率いて高山寺城に立て籠もっている。その後朝忠は、丹波守護仁木頼章の下で守護代を務めたことが知られている。しかし、1343年に備前の三宅高徳と通じて突如室町幕府に反旗を翻し、高山寺城に立て籠もったが、討伐軍の幕将山名時氏に兵糧攻めにされて朝忠は堪らず降伏したと言う。また、その後も1352年には、京に囚われていた興良親王(護良親王の子)を、丹波の南朝方武士が救出して高山寺城に入れて立て籠もっている。この様に高山寺城は、南北朝期には度々西丹波の抗争の拠点となっている。戦国時代には、その城砦としての機能が生きていたかは不明であるが、寺自体は存続し、1509年にも赤井伊賀守によって修復されているが、明智光秀の丹波平定戦によって焼かれている。1600年に寺は復興され、度々の損害を受けながらも昭和33年まで存続した。この年に高山寺は平地の常楽地区に移されて、山上の寺は廃絶となった。

 高山寺城は、標高520mの弘浪山の山頂から東にやや降った、山上の広い谷戸部分(標高380~400mの位置)に築かれている。現在は「高山寺遺跡」と呼ばれ、昭和期まで寺が存続していたため東麓から往時の参道が残っており、迷うこと無く登ることができる。参道を登って寺のあった谷戸の東に張り出した尾根上に至ると、いきなり眺望がひらける。寺は谷戸に位置していることから周囲への眺望がない為、この尾根先端部が物見の出城として機能したと思われる。丁度「盗人崩し」と呼ばれる岩場の付近で、尾根上は数ヶ所にわたって平たく削平されている。一方、谷戸部には寺の遺構が残っており、石垣や石積みの水路跡、仁王門の礎石、歴代住職の墓などが残存し、大銀杏の木も残っていて、寺のあった当時の状況が目に浮かぶ様である。ここには土塁や堀などの城郭を思わせる遺構は、ほとんど確認できない。ここから100m以上西に登ったところが弘浪山山頂で、明確な遺構には乏しいが物見砦として機能したと推測される。高山寺城は、城郭遺構というより寺院遺構がほとんどであるが、中世の歴史を伝える遺跡として重要である。
奥の本堂跡→IMG_5721.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.163442,135.018486&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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三尾山城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5621.JPG←櫓台を備えた主郭
 三尾山城は、「丹波の赤鬼」と恐れられた黒井城主赤井右衛門尉直正の弟、刑部大輔幸家が築いた城と言われている。1578年3月に直正が病没すると、幸家は直正の遺児直義を後見して黒井城を守った。同年11月、幸家が但馬竹田城へ出陣中に、その留守を突いた明智勢の攻撃によって三尾山城は落城したと言う。但馬から戻った幸家は、黒井城に籠って抗戦を続けたが、翌79年6月に波多野秀治が籠もる八上城が落城して波多野氏が滅亡すると、黒井城は孤立無援となり、同年8月に黒井城も落城した。

 三尾山城は、標高586m、比高456mの峻険な三尾山に築かれた城である。山頂までハイキングコースが整備されているが、その屹立する険しい山容に違わぬ厳しい登山となる。その険しさは、陸上自衛隊の山岳訓練に使われる程である。城自体は、高さのみを武器とした小城砦という趣で、曲輪はいずれも小規模である。三尾山はその名の通り3つの屹立する峰を持ち、三尾山城はそれら3つの尾根を城域に取り込んでいた様である。主郭は主峰に置き、主郭中央には櫓台と思われる大きな土壇が築かれている。周囲の薮の中には、帯曲輪や前面の段曲輪群が築かれて防御を固めている。一方、主峰の北の中三尾にも曲輪があり、二ノ郭群と思われる。主郭群とは地形的に離れており、一城別郭の構造である。ここも最高所の物見状の曲輪の南側に数段の腰曲輪が築かれ、北西へも2段程の舌状曲輪が続いている。城中最大の曲輪は、この主郭群とニノ郭群を繋ぐ鞍部の曲輪で、おそらく三ノ郭であろうか。西辺に土塁を築き、西と東に帯曲輪を築いている。特に西の帯曲輪へは、虎口も築かれている。この他に北東にそびえる前三尾にも物見の小郭があるようだが、体力と時間の関係でパスした。三尾山城は、道として整備されている部分以外は藪が多く、遺構にしても高さだけを武器にした城らしく、堀切も無く、あまり技巧性がないのでパッとしない印象である。とにかく私がよく参考にしているHP「風雲戦国史」の山城探訪の中で、「遥かな山上の城」と記載される通りの山城で、その険しさは比高の大きな山城が多い丹波の城郭の中でも群を抜く厳しさである。
 尚、北東麓からの登山道沿いの沢の水がとても冷えている上に大変美味しく、今まで山で飲んだ水の中では一番美味しかった。
主郭北側の段曲輪→IMG_5609.JPG
IMG_5590.JPG←鞍部の曲輪
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.131316,135.149335&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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