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古城めぐり(愛媛) ブログトップ

宇和島城(愛媛県宇和島市) [古城めぐり(愛媛)]

DSC01576.JPG←本丸石垣と天守
 宇和島城は、奥州伊達氏の庶流宇和島伊達藩の歴代の居城である。かつては丸串城と呼ばれ、南予の豪族西園寺氏の支城であった。築城時期は定かではないが、戦国後期になって豊後の大友氏が海を越えて侵攻を始めた為、その防衛の為に築かれたものと考えられるようだ。1575年西園寺公広の弟宣久が西園寺氏家臣の家藤監物信種に代わって丸串城に入った。その後、西園寺氏が長曽我部元親に滅ぼされ、更に1585年に豊臣秀吉の四国征伐によって伊予が小早川隆景に与えられると、持田右京を城代として置いた。小早川氏が筑前名島城に転封となると、戸田勝隆が入部して大洲城に入り、戸田信家を丸串城城代とした。戸田氏が朝鮮の役で病死すると、1595年に藤堂高虎が宇和郡7万石に封じられて、その本城として本格的な近世城郭として築城された。1608年に高虎が今治城に移り、富田信高が丸串城に入ったが、5年後に改易となり、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かって藤堂良勝を城代とした。1614年12月、仙台藩主伊達政宗の庶長子秀宗が宇和郡10万石に封じられて宇和島伊達藩として立藩、宇和島城と名を改め、以後、幕末まで歴代の居城として存続した。2代宗利は1662年に幕府の許可を得て老朽化した城の大修築を行い、現在残る城を完成させた。

 宇和島城は現存12天守の一つで近世平山城であるが、縄張は山城そのもので、予想以上に広範囲に石垣が残っている。おそらく基本的な縄張りは中世丸串城のものを引き継ぎ、更に拡張したものであろう。山上に本丸・二ノ丸とそれに付随する腰曲輪を置き、北側下方には藤兵衛丸・長門丸、西側下方には代右衛門丸・式部丸などの曲輪を連ねている。各曲輪の外周はいずれも石垣で防御し、隅には矢倉台跡がよく残っている。特に本丸には、虎口を防御する両側の矢倉礎石がよく残っていて建物の形状がよく分かるほか、御台所の礎石も明瞭である。また宇和島城の天守は他の城の天守とは異なり、狭間や石落しが全く無く、破風などに意匠を凝らした華麗な装飾を持つ、正に太平の世の城である。麓の平地には、かつては周囲を囲む外堀と、追手門・搦手門などが存在したが、現在は市街化で湮滅している。

 この城に行った時は、なんと天守入場締切1分前でぎりぎりセーフであった。天守の開館(入場)終了時間は16:00迄で、普通より早いので注意が必要である。1分でも門限に遅れると鉄の門番が入場を拒否する、無情な城でもある。とにかく晴れ続きの天気と言い、ぎりぎりセーフの天守入場といい、私にとってはラッキーな旅であった。
藤兵衛丸の高石垣→DSC01609.JPG
DSC01639.JPG←代右衛門丸の高石垣

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/33.219428/132.565187/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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大洲城(愛媛県大洲市) [古城めぐり(愛媛)]

DSC01434.JPG←本丸の重厚な石垣
 大洲城は、かつては地蔵嶽城と呼ばれ、元々は伊予の豪族伊予宇都宮氏の居城であった。伊予宇都宮氏は、下野宇都宮氏の有力な分族で、鎌倉時代に承久の乱における戦功によって伊予守護職が宇都宮氏に与えられたことに由来する。1330年に豊前宇都宮氏の出である宇都宮豊房が伊予守護職となって伊予に入部し、翌31年に地蔵嶽に新城を築いた。以後、伊予宇都宮氏歴代の居城となって、湯築城を本拠にする河野氏や黒瀬城に拠る西園寺氏と、室町・戦国期を通して抗争を繰り広げた。戦国末期になると土佐の長曽我部元親は、その強勢を以って四国平定を目指して伊予へ進攻し、1580年、宇都宮氏を降して宇都宮氏旧臣の大野直之を城主とした。1584年に豊臣秀吉の四国征伐が始まると、小早川隆景の軍勢3万に囲まれて開城した。その後、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石に封ぜられて大洲城に入り、戸田氏が朝鮮の役で病死すると、1595年に藤堂高虎が宇和郡板島7万石を与えられて、大洲城に入った。しかし1600年に関ヶ原合戦の戦功で、高虎は今治を追増されて今治城を築いて居城を移した。1609年には、淡路洲本城より脇坂安治が大洲城に入った。大洲城のシンボルである四重天守は、この脇坂時代に築かれたと思われる。脇坂氏の後は加藤貞泰が入り、以後幕末まで加藤氏の居城となった。

 城の天守は明治期まで存続していたが、1888年(明治21年)に老朽化を理由に解体されてしまった。しかし幸いなことに、天守の雛形が大洲藩作事方棟梁の家に伝わっており、それと明治時代の古写真を元にして、2004年に天守が往時そのままの姿で再建された。(再建の経緯については、三浦正幸著「城の作り方図典」(小学館)に詳しい。)

 大洲城は、再建された四重天守の他、天守と連結されている櫓二棟と、三ノ丸の櫓二棟が現存している。本丸と二ノ丸の一部以外は市街化で湮滅していて、堀も完全に湮滅しているが、本丸周囲には幾重にも石垣が残り、二ノ丸大手門の枡形の一部や二ノ丸御殿の石垣が民家の隣に何気なく残っていて、なかなか興味深い。また本丸から200m程南に離れた大洲小学校の敷地の片隅にも三ノ丸石垣と共に隅櫓が往時そのままの姿で残っており、なかなかに見応えがある。しかしやはり、水堀に映える天守や石垣の姿が見れないのは、近世城郭としてはちょっと寂しい。

 訪城当日は、松山市街で大渋滞にはまり、なおかつ高速が事故でド渋滞と言うことで、下道・裏道を使って大洲まで来るのに予定の数倍の時間が掛かり、次の宇和島城に行く為に、大洲城は駆け足で訪城せざるを得なくなった。外郭まで含めてわずか30分と、近世城郭としてはこれまでの最短訪城記録である。当然、天守にも登れなかったので、機会があればもう一度ゆっくり訪城したい。
三ノ丸石垣と現存隅櫓→DSC01488.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.509375/132.541519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世平山城
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松山城(愛媛県松山市) [古城めぐり(愛媛)]

DSC01172.JPG←本丸大手道
 松山城は、賎ヶ岳七本槍の一人として加藤清正・福島正則等と共に武勲を挙げた、加藤嘉明が築いた平山城である。現存12天守の一つとして知られ、姫路城と並ぶ連立式天守を有している。松山城が築かれた勝山は、室町時代以前は味酒山と呼ばれ、南北朝期には北朝方の湯築城に対抗する南朝方の砦が築かれ、戦国期には河野氏が湯築城の前衛拠点として城砦を構えていた。関ヶ原合戦で東軍に付いた加藤嘉明は、戦功によって伊予20万石に加増され、1602年から道後平野のほぼ中央に位置する要衝勝山に、松山城の築城を開始した。松山城は日本の築城史上、完成までに26年という最長の歳月を要した四国最大の城郭で、加藤氏は城の完成前に会津藩へ転封となり、その後入封した蒲生氏を経て、1635年から明治維新までの235年間、親藩大名松平氏の居城となって存続した。

 松山城は、大きく山頂部の本丸と山麓の二ノ丸、平地の三ノ丸から構成されている。平山城と言っても三ノ丸から本丸までの比高は100mを超え、地勢も縄張りも根古屋式の山城そのものである。三ノ丸は周囲に規模の大きな水堀と土塁が残っているほかは、美術館などが建っていて往時の面影はない。二ノ丸はかつては中学校が建てられていたが、現在は二ノ丸庭園などが復元され、大きな井戸跡も見ることが出来る。二ノ丸周囲には大規模な石垣の大手虎口(黒門)が残っており、幾重にも動線を屈曲させた極めて技巧的な作りになっている。二ノ丸から本丸に登る登城道沿いには、道沿いに石垣が散見され、一部は表面の石がなくなって裏込め石が露出しているようである。また登城道沿いに段曲輪らしき平場も見られ、まさに中世山城と近世城郭の過渡期の縄張りと言う印象である。山上の本丸には、豪壮な石垣の上に連立式天守や櫓などが多数現存し、筒井門に作られた隠門などの巧妙な仕掛けも残っている。天守は、国内に12しか残っていない現存の貴重なものであるが、江戸時代末期の再建なので、江戸時代初期までの築城技術が頂点を迎えた時期の城郭建築とはやや異なるものであることは注意した方が良い。また松山城には、現存例が国内に3つしかない登り石垣があるが、事前調査が足りなくて主要部の遺構を見逃してしまったのが残念だった。

 とにかく見所が多く、予定の2時間を大幅に超過する訪城時間となった。また山頂近くまでロープウェーが敷設されているが、二ノ丸周辺の虎口石垣の遺構を見逃す手はないので、城好きならば二ノ丸から行かないのは邪道であろう。ただ有名な観光地の割に、駐車場が少ないのがちょっと困り者であった。
山上に連なる遺構群→DSC01219.JPG
DSC01367.JPG←西側登り石垣の最上部

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/33.845398/132.765731/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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湯築城(愛媛県松山市) [古城めぐり(愛媛)]

DSC00992.JPG←搦め手虎口の土塁
 湯築城は、伊予守護の河野氏の歴代の居城である。河野氏は源平合戦で源氏に味方して以来、伊予に勢力を張った豪族で、承久の乱で一旦没落した。南北朝期に入ると、河野通盛は足利尊氏に従って戦功を挙げ、南朝方に付いた同族土居氏・得能氏らと干戈を交えた。その状況の中、1336年に通盛は本拠を河野郷の高縄山城から道後の湯築城に移した。その後、湯築城は、九州に向かう途中の懐良親王を戴いた土居・忽那氏ら伊予の南朝勢力に攻められて落城したり、東予に攻め入った讃岐の細川氏に敗れて一時城を占拠されるなど、激しい攻防の場となった。応仁の乱以降は、伊予国内は河野・宇都宮・西園寺氏によって三分され、戦国時代に入ると、河野氏は一族内部の抗争で勢力を弱めた。

 1574年に土佐を統一した長曽我部元親は、四国平定を目指して伊予へ進攻し、1584年、河野通直は長曽我部氏の軍門に降った。翌85年、豊臣秀吉の四国征伐が始まると、秀吉の命により小早川隆景が伊予に進攻し、湯築城を包囲した。隆景の降伏勧告に、河野通直は湯築城を開城して降った。その後湯築城は、四国平定の功により伊予を得た小早川隆景に与えられ、通直は妻が毛利氏の出であったため、城中に留め置かれた。隆景が筑前名島城に移封となり、福島正則が湯築城に入ると、伊予国内に身の置き所のなくなった通直は、毛利氏の好意で安芸竹原に移り、そこで病没し、河野氏は断絶した。福島正則は、居城を府中城(国分山城)へ移し、湯築城は廃城となった。

 湯築城は、現在は道後公園となって整備されている。比高30m程の小丘陵に主郭・二ノ郭を置き、周囲の平地に内堀や土塁を築き、更にその外周を外堀で囲んでいる。外堀内部の平地部分には家臣団の居館や排水溝が発掘復元されている。大手は東側にあるが、既に破壊を受けているようである。一方、搦め手虎口は西にあり、ここには虎口の土塁が屈曲して見事に残っている。外堀の北東側は内側に屈曲しているが、方向から考えて鬼門除けであろう。山上には小さな主郭とやや広い二ノ郭があるが、二ノ郭から主郭に登る道には2段の馬蹄段があり、おそらく馬出し機能を兼ねた段曲輪だったと思われる。

 守護の城としては小さい城であるが、河野氏の勢力がその程度のものだったからであろう。それでもかつては守護の城として伊予の中心であった。ちなみに街中なのに、外堀にカワセミがいたのでびっくりした。
屈曲する外堀→DSC01037.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/33.848107/132.786652/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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今治城(愛媛県今治市) [古城めぐり(愛媛)]

DSC00950.JPG←内堀にそびえる本丸石垣
 今治城は、築城の名手として知られた藤堂高虎によって築かれた平城で、日本三大水城に数えられる。元々戦国時代の今治地方の支配拠点は、唐子山山頂にあった伊予の土豪河野氏の支城国分山城であったが、関ヶ原合戦後に伊予半国20万石を与えられて今治に入部した藤堂高虎が、新たに今張浦に新城を築いた。今治の海を臨む平地を城地に選んだのは、そこが水陸交通の要地であったばかりでなく、瀬戸内海制海権の確保を狙ったものだったからであろう。高虎は今治城在城8年にして伊勢に転封となり、その後は高虎の養子の藤堂高吉が2万石で27年間在城した。1635年に家康の甥の松平定房が3万石で入封し、以後今治松平家の居城として幕末まで存続した。

 藤堂高虎によって築かれた今治城は、水城(海城)と言う珍しい城であるほかに、もう一つ城郭史に残る経歴を持つ。新型の層塔型天守が始めて築かれたとされているのである。それ以前の天守は望楼型と呼ばれ、内部構造が複雑で、強度的にもやや弱いものであったが、高虎が創始した層塔型天守はそうした欠点を克服した新時代の天守であった。以後の近世城郭には相次いで層塔型天守が採用され、江戸城名古屋城を始めとする巨大城郭の大天守など、各地の城に築かれることとなった。しかし今治城の天守は、伝承によれば丹波亀山城に移築されたと言われ、僅か4年間しか存在せず、その後築かれる事はなかった。但し、天守は最初からなかったとする説もある。

 現在残る今治城は、広大な水堀(内堀)に囲まれ石垣で全周を防備した本丸・二ノ丸部分である。周りから見ると、海原に浮かぶ要塞の如き威容を誇っている。しかも模擬天守とは言うものの5層の天守は非常に見栄えがして、視界に始めて入ってきた時には思わず声が出てしまうほどであった。伝承の通り天守が丹波亀山城に移築されたものであったとすると、今治城天守は飾り破風を持たない無粋なものであったはずだが、昭和55年に再建された天守は千鳥破風を持った意匠を凝らしたものに仕立て上げられている。この点は史実と異なるので注意を要する。天守以外では3つの隅櫓と鉄御門が再建されている。石垣は往時の遺構がほとんどであると思われるが、一部は積み直しも行われているらしい。二ノ丸より一段高くなった本丸には吹揚神社が鎮座している。内堀外周の曲輪は市街化で湮滅しており、今では見る影もないが、一部には外堀跡が残っているようだ。しかし今回は時間の都合で、外郭には行かなかった。内堀にそびえる高虎が築いた石垣は、反りを持たず直線的な傾斜を持っていて、目を見張るような美しさには欠けるが、これはこれで重厚感がある。平城なので縄張りの面白みには欠けるが、石垣と復元櫓・天守の見栄えのする城である。
天守から望む二ノ丸と瀬戸内海→DSC00913.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.063015/133.006700/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:近世水城
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