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古城めぐり(栃木) ブログトップ
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鳴沢城〔仮称〕(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1078.JPG←主郭虎口と土橋
 鳴沢城は、新発見した城である(発見したのはCS立体図から)。最初は新発見との確信は持てなかった。城跡が公園の一部となって散策路が敷設され、東屋まで建ち、あまりにきれいに整備されているからである。こんなにきれいに整備されていて、しかも遺構がはっきりしているのに、これが未発見の城とは、現地を確認した際はちょっと信じられなかった。しかし家に帰ってから再確認しても、栃木県の城郭本や各種のネット情報では全く記載がなく、日光市遺跡地図にも記載がない。日光市の文化財課に問い合わせたところ、紛れもない新発見の城であることが確認された。文化財課も早々に調査をしてくれて、保護の手立てを講じてくれるとのことである。

 鳴沢城は、日光市小倉山森林公園の一部であり、大谷川北岸の段丘上に築かれている。霧降大橋の北西である。段丘上でも、一段高くなって斜面で囲まれた高台にあり、いかにも城を築くに相応しい地勢である。前述の通り公園の一部となって、散策路が整備されている。GoogleMap等の航空写真を見ると、城内は一面の林で埋もれているので、最近になって間伐して整備したのかもしれない。大型の南北2郭から成る城で、館城と呼ぶに相応しい規模と構造である。北が二ノ郭で、北西部が内側に折れ曲がった曲輪で、北端が尖っている。北端部の北側には堀切が穿たれ、その前面に土壇が築かれている。二ノ郭の外周には腰曲輪が1段取り巻いている。散策路は北西部の折れ曲がりの部分を登るように敷設されているが、往時の虎口をそのまま散策路として使用した可能性がある。二ノ郭の南にあるのが主郭で、これも二ノ郭同様に北西部を内側に折れ曲げている。この外周に折れを持った空堀を穿って二ノ郭との間を分断し、主郭は空堀に沿って土塁を築いている。土塁の中央左寄りに虎口を開き、空堀には土橋が架かっている。主郭の西側には、二ノ郭西側からそのまま腰曲輪が伸びている。主郭の東側は、堀底と繋がる形で腰曲輪が築かれ、主郭塁線の円弧に沿って腰曲輪が伸びている。不思議なのは、主郭の南東端には堀切がなく、そのまま細尾根が伸びていることである。この細尾根は、城の東側斜面を上部から見下ろす形になっているが、東側斜面は削られて改変されているので、何らかの防御施設があったのかもしてない。

 以上が鳴沢城の遺構で、日光市内では拠点城郭的な規模があり、中世日光山の宗教勢力を統括する立場の豪族の城であった可能性が考えられる。戦国時代には鹿沼城主の壬生氏が日光山勢力を掌握しているので、その代官の居城であった可能性もある。しかし鳴沢城近くの住宅地はいずれも戦後に造られたものなので、その歴史が地元に伝わっていないのかもしれない。それにしても、これまで幾度となく通っている道路の直上に知られざる城があったとは!
空堀→DSCN1099.JPG
DSCN1105.JPG←主郭
主郭の土塁→DSCN1094.JPG
DSCN1138.JPG←主郭東側の腰曲輪
二ノ郭北端の堀切→DSCN1063.JPG
鳴沢城縄張り略図.jpg←略図(クリックで拡大)
(出典:栃木県森林整備課提供CS立体図)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.753370/139.617616/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


富原文庫蔵 陸軍省城絵図

富原文庫蔵 陸軍省城絵図

  • 作者: 富原 道晴
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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瀬尾愛宕山城〔仮称〕(栃木県日光市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1038.JPG←腰曲輪から見た主郭
 瀬尾愛宕山城は、栃木県のCS立体図から発見した城である。愛宕神社が祀られた愛宕山に築かれているが、市内には他にも愛宕山城があるので、ここでは地区名を冠して瀬尾愛宕山城と命名した。主郭には愛宕神社が祀られており、その参道が南麓から伸びているので、これを登れば城域に至る。
 瀬尾愛宕山城は、比較的小規模な山城で、山頂に主郭を置き、南側に腰曲輪を廻らしている。更に南下に舌状腰曲輪を築いている。西尾根には堀切が穿たれ、その先に薮に覆われた二ノ郭がある。二ノ郭の西にも堀切が穿たれ、この堀切に繋がる形で二ノ郭北側に帯曲輪が築かれている。更に少し西の先にももう1本堀切が穿たれている。北尾根は自然地形で、明確な普請の形跡は見られない。一方、南東の尾根の先には高台となった物見台が置かれている。前述の参道は、この尾根に登ってくるが、尾根の中間部分に堀切が穿たれ、更に物見台の付け根にも土橋が架かった堀切が穿たれている。以上が瀬尾愛宕山城の構造である。

 城が築かれているのは、この山塊の最高所の峰ではなく、そこより東に張り出した峰にある。このことから、東方に対する備えに重点を置いた城であったことが推測される。また平地を挟んで東方には倉ヶ崎城があるが、倉ヶ崎城は宇都宮氏の城で、天正年間(1573~92年)に対立していた日光山勢に攻め落とされたとの伝承があるので、この時の向城(付城)であった可能性も考えられる。
二ノ郭付け根の堀切→DSCN1023.JPG
DSCN0987.JPG←南の物見台と堀切・土橋
略図(クリックで拡大)→瀬尾愛宕山城 縄張り略図.jpg
(出典:栃木県森林整備課提供CS立体図)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.741919/139.674854/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査の手引き

城館調査の手引き

  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2016/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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長福城 その2(栃木県小山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1764.JPG←土塁の発掘調査現場
 長福城が昨年発掘調査され、2023年5月27日に現地説明会があったとの報道を後で知った。そこで6月初旬に現地に行ってみたところ、まだ部分的にブルーシートがかかったままの状態が周りの車道から見ることができた。山林が全面伐採されたので、今まで薮に埋もれていた土塁がよく分かるようになっていた。おそらく曲輪の西側に当たると思われる土塁は、L字型に残っている。東側の土塁も部分的に残存している。その周りは外郭、または腰曲輪があったと推測され、南側には段丘の崖線があり、曲輪の切岸になっていたと思われる。崖線の南には10m程の幅の窪地地形も見られ、天然の外堀となっていたと考えられる。小山市教委文化振興課は、貴重な遺構を何らかの形で保存する方向で協議を進めてくれるようなので、今後に期待したい。
土塁周囲の発掘調査現場→DSCN1741.JPG
DSCN1744.JPG←外郭南の崖線(切岸)
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本田城〔仮称〕(栃木県塩谷町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0257.JPG←主郭
 本田城は、栃木県のCS立体図から発見した城である。国土地理院地形図を見ると一番近い地区名が本田だったので、本田城と命名した。荒川に臨む断崖上の峰にあり、単郭の小規模な城である。城へは南の断崖を登るか、西の尾根から登るしかないかと思って、かなりの困難を覚悟していたが、南の断崖に石窟があり、そこに十二社権現が祀られているので、そこまでの登道が整備されていた。更に幸いなことに、十二社権現の石窟から東に登ると小さな展望広場があり、そこから城まではすぐ目と鼻の先で、緩斜面をちょこっと直登するだけで城に至る。

 基本的に単郭の城で、南西に向って突き出た台形をした主郭を持ち、東側に腰曲輪を1段、更に断崖に臨む南以外の三方に腰曲輪を廻らした縄張りとなっている。主郭内は削平が甘く、南に向かって傾斜している。北角部分が一番高くなっており、方形に近い小さな平場があり、物見台のようである。その裏手の腰曲輪の角部だけ、わずかに土塁が築かれて横堀状となっている。主郭の東中央に坂虎口がある。また腰曲輪の南端は2ヶ所、短い竪堀が断崖に向って下っている。この他、三方を囲む下段の腰曲輪は、主郭物見台の裏手に段差があり、ここから東側は一段低くなっている。

 本田城は、主郭の削平が甘いことから、恒久的な城というよりは陣城として築かれた可能性が考えられ、南方の平野を監視する要害であったと思われる。南は宇都宮領なので、宇都宮氏と敵対する勢力が築いたものだろうか?
東腰曲輪の南端の竪堀→DSCN0221.JPG
DSCN0225.JPG←主郭の坂虎口
北側の腰曲輪→DSCN0230.JPG
CS地形図.jpg←略図(クリックで拡大)
(出典:栃木県森林整備課提供CS立体図)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.741180/139.897585/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (475) (歴史文化ライブラリー)

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  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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千手山城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4938.JPG←西を区画する三重竪堀
 千手山城は、城砦としての記録は残っていないが、鹿沼城の北方を守る城であったと考えられている。城跡は千手山公園という遊園地になっていて、大きく改変されているので、明確な遺構は丘陵の西と北を区画する竪堀だけである。しかし竪堀はいずれも規模が大きく、特に城域の西を区画する竪堀は、上部が二重、途中で真ん中に竪堀が増え、下部が三重竪堀となっており、中間土塁もしっかりした規模で見応えがある。栃木の城でこれほどの規模の多重竪堀は珍しく、貴重な遺構である。
北を区画する竪堀→DSCN4972.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573276/139.742961/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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妙見寺城 小城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2982.JPG←主郭前面の円弧状堀切
 妙見寺城 小城は、HP「新 栃木県の中世城郭」の管理人masakiさんが寄せられた情報を元に現認した城である。「新 栃木県の中世城郭」では「妙見寺333m峰」と呼んでいるが、ここでは長野県によくある城名に倣って、333mの峰に築かれた城を「妙見寺城 小城」、南東の尾根先端部には築かれた別城を「妙見寺城 大城」と呼ぶことにする。

 妙見寺城 小城は、妙見寺の北西にある標高333mの峰に築かれている。東麓近くの大城から尾根伝いに登ってくるのが大手と考えられる。即ち、小城は大城に対する詰城に相当すると考えられる。小城は東西2郭から成り、西が主郭、東が二ノ郭である。主郭・二ノ郭共に外周に帯曲輪1段を廻らしている。二ノ郭の北側の帯曲輪には帯曲輪を分断する竪堀が穿たれている。二ノ郭後部には土塁が築かれ、主郭との間は主郭帯曲輪がそのまま円円弧状堀切となって分断している。主郭帯曲輪は主郭後部でも円弧状横堀となって防御している。この前後が堀切・横堀となり、そのまま帯曲輪と繋がっている形態は、伊釜山城とよく似ている。主郭は東西に長い長円形の曲輪で、後部にわずかに土塁を築いている。郭内はきれいに削平されている。この他、主郭の北西・南西の尾根と、二ノ郭の北東の尾根には、それぞれ小堀切が穿たれている。以上が妙見寺城 小城の遺構で、小さな城ではあるが普請はしっかりしており、重要な役目を負っていたことが伺われる。
 尚、大城、小城を結ぶ尾根の途中に竪堀状の地形があり、masakiさんは木戸跡と推測している。しかし、堀が尾根を斜めに横切り、削り残された尾根が明確な土橋になっておらず広幅なままのため、私は伐採木の搬出路などの跡で、城郭遺構ではないと考えている。
主郭後部の円弧状横堀→DSCN3005.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.524372/139.653289/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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妙見寺城 大城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2863.JPG←帯曲輪
 妙見寺城は、HP「新 栃木県の中世城郭」の管理人masakiさんが発見した城である。粟野城の後方を押さえる位置にあるので、粟野城と何らかの関係があったことが推測される。尚、西の山上(標高333m)にも山城がある。ここでは長野県によくある城名に倣って、下の城を「妙見寺城 大城」、上の城を「妙見寺城 小城」と呼ぶことにする。

 妙見寺城 大城は、妙見寺背後の比高70m程の山上に築かれている。妙見寺奥の墓地脇の山林から斜面を直登して訪城した。尾根上に、先端から主郭・二ノ郭・三ノ郭を東西に連ねた連郭式で、各曲輪間は堀切で分断している。主郭はきれいに削平されており、前面には一段低い小郭を配し、前面に3段の帯曲輪を廻らしている。主郭後部にはしっかりした土塁が築かれており、土塁の南には虎口が築かれている。二ノ郭は削平がやや甘いが、やはり後部に土塁が築かれている。三ノ郭は北西角に一段低い腰曲輪を築き、西尾根には少し降った先に小堀切が穿たれている。曲輪間を分断する堀切は、それほど大きなものではないがしっかりしたものである。この他、前述の帯曲輪群の内、2段目の帯曲輪は南側で三ノ郭まで伸びており、この帯曲輪に向かって前述の堀切が落ちてきている。また上段の帯曲輪では、南側に帯曲輪を分断する竪堀が穿たれている。大城は、大きな城ではないが、普請はしっかりしており、よくこれだけの城が未発見でいたものだと感心した。尚、城内の木は根元に網が巻かれるなど整備されているので、もしかしたら地元では城があったことを知っている人がいるかもしれない。
主郭背後の堀切と土塁→DSCN2901.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.522768/139.660177/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2022/03/10
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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久野寄居城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2800.JPG←主郭の手前にある小郭
 久野寄居城は、杉浦昭博氏が近年発見した城である。位置的には諏訪山城粟野城の中間にあり、また北東には下南摩城を望むことができる。守りが固く、争奪の場ともなったこれらの山城が周囲にあることから、①繋ぎの城、②出城、③城攻めのための向城、などの可能性が考えられよう。

 久野寄居城は、久野地区にある小松神社南方の比高65m程の山上に築かれている。明確な登道はないが、北西麓にある民家門前を山側に入る小道があり、その道から動物除け柵内に入り、北西尾根に取り付いて登攀した。この尾根を登っていくと、小堀切と前衛の小郭があり、その先に帯曲輪を廻らした主郭がある。細尾根に築かれた城なので主郭は細長く、大した広さを持っておらず、削平も甘い。主郭の背後には堀切が穿たれ、その先にちょっと進んだところにも、中央に土橋を削り残した堀切が穿たれている。これら2本の堀切の西側には両者を繋ぐように帯曲輪が築かれている。明確な堀切は以上の2本であるが、主郭の後部にも浅い窪みが2ヶ所あり、これらも堀切であったように思われる。しかしいずれにしても普請はわずかで、臨時的に築かれた城だったように感じられた。
主郭背後の堀切→DSCN2826.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.509196/139.688823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

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  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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諏訪山北城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2577.JPG←西郭群の出枡形の虎口
 諏訪山北城は、HP「新 栃木県の中世城郭」の管理人masakiさんが発見した城である。諏訪山城の北の尾根続きにあり、縄張り面の共通点から諏訪山城の北方の防衛拠点または出城として、諏訪山城を築いた皆川氏系の勢力が築いた可能性が高いと思われる。

 諏訪山北城は、前述の通り諏訪山城から北に上る尾根の北端に築かれている。八洲カントリークラブというゴルフ場に行く車道が西麓にあり、その脇から西の谷戸に入って訪城した。この谷戸も城内で、段々に整地された削平地が奥まで続き、虎口群で厳重に防御され、最上段の曲輪は尾根上鞍部に築かれた二ノ郭前面の堀切に繋がっている。二ノ郭の北側には岩山がそびえ、その上に主郭がある。主郭はL字型をした細長い曲輪で、西端に土塁を伴った小型の枡形虎口が構築され、虎口の前面には側方に竪堀を穿って土橋状に動線を狭めている。主郭の北には尾根に沿ってわずかな段差で区画された小郭群が築かれ、その先は急崖となっている。主郭の西には細尾根が続き、途中に物見の様な平場があり、先端に小郭と小堀切が穿たれている。この堀切は、南斜面を竪堀となって長く伸び、前述の西谷戸の曲輪群の脇に落ちている。二ノ郭前面には土塁・虎口が築かれ、その先の堀切は横矢のクランクをして、西下の腰曲輪に繋がっている。二ノ郭の南には、堀切を挟んで西郭群の腰曲輪がある。この腰曲輪の上には尾根に築かれた西郭がある。西郭は堀切で東西2郭に分かれ、その西側上方には小山がそびえている。この小山はほとんど自然地形に近いが、周りに腰曲輪を伴っており、物見の堡塁であったらしい。堡塁の北西の尾根には、小郭や竪堀が見られる。前述の西郭群の腰曲輪は、西郭の東から南にかけてL字型に伸びている。このL字の折れ曲がりの部分に、出枡形を設けた二重枡形虎口が築かれている。出枡形の外周下方には横堀が廻らされ、虎口の動線は横堀に通じている。横堀は枡形に沿ってL字に曲がっており、東側は鞍部を遮断する堀切となっている。更に東にもう1本堀切が連続してあり、二重堀切となっている。この二重堀切から東にも小道が伸び、東郭に通じているが、東郭は立入禁止の表示があるので、無断では入れない。東郭入口は尾根と土塁で虎口を構成しているようで、その先に平場が広がっているのが見える。masakiさんの縄張図によれば、東端に二重堀切があるらしい。この他、西郭群の南の谷戸にも段々に整地された平場群があり、西郭群の横堀は、ちょうどこの谷戸を登ってくる敵を迎撃できるように構築されているのがわかる。
 以上が諏訪山北城の遺構で、かなり明確な城郭遺構で、よくこれだけのものが知られずに残っていたものだと感心する。横堀の防御線は諏訪山城と同じ築城思想であるが、その一方で北城単体としては縄張りに求心性がない。諏訪山城の北方を守る出曲輪群という趣で、南の本城と合わせて諏訪山城と言ったのかもしれない。
二ノ郭のクランクする堀切→DSCN2569.JPG
DSCN2616.JPG←出枡形外周の横堀
主郭の枡形虎口→DSCN2706.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.506765/139.705088/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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茶臼山城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2495.JPG←南の腰曲輪
 茶臼山城は、磯城とも言い、宇都宮氏の家臣山形刑部の城であったと伝えられる。1588年、佐竹氏の後援を受けた宇都宮国綱は皆川領に大軍を率いて侵攻し、西方城と磯城に陣を敷いた。一方、皆川城主皆川広照は諏訪山城まで進出して迎え撃ったが城を陥とされ、布袋ヶ岡城に落ち延びてこれに拠って防戦したと言う。

 茶臼山城は、小藪川向かって西から突き出た比高40m程の丘陵上に築かれている。明確な登城道はなく、北麓から取り付けそうな場所を見つけてアプローチした。丘陵基部を二重堀切で区画しているが、堀切は浅く、大した防御性は持っていない。また城内の曲輪は、切岸がはっきりしない部分もあり、主郭の範囲もあまり明確ではない。その中では南の腰曲輪だけは比較的明瞭である。あまり積極的な普請をしていない感じの城で、恒常的な城砦ではなく、臨時的な陣城という感じである。
浅い二重堀切→DSCN2518.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.501883/139.743497/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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山形刑部館(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2466.JPG←空堀
 山形刑部館は、宇都宮氏の家臣で茶臼山城主山形刑部が、江戸時代になってから移り住んだ館と伝えられる。現在もご子孫の宅地となっているようで、ほとんど内部探索はできないが、宅地北側に広がる屋敷林の北西の墓地脇から林の中を覗いたところ、空堀が確認できた。しかし遺構の全容はよく分からなかった。尚、北西には磯前田館が隣接している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.489739/139.745750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2014/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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磯前田館(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2443.JPG←南西の空堀
 磯前田館は、歴史不詳の城館である。民家の周囲に土塁と空堀が残っているが、北東の土塁は江戸時代以降のものであるらしい。南西の空堀は往時の雰囲気をよく残しているが、栃木の田園地帯にはこうした構えの農家が多く、本当に中世まで遡る遺構なのかどうかは俄には判断し難い。ここでは『鹿沼の城と館』に基づいて、城館遺構として記載しておく。尚、すぐ南東には山形刑部館が隣接している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.490895/139.744592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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藤江堀之内(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2438.JPG←北東の土塁
 藤江堀之内は、歴史不詳の城館候補遺構である。城館候補遺構とは、「断定はできないが、城館の可能性を残しているもの」のことで、北陸地域の中世城郭を調査している佐伯哲也氏が提唱している呼称である。
 藤江堀之内は、小河川の南に接した平地にあり、現在は畑と宅地となっている。堀之内地名が残る民家の北東の藪の中に土塁がわずかに残っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.497623/139.764183/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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永林寺館・荒屋敷(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2418.JPG←寺背後の土塁と空堀
 永林寺館・荒屋敷は、歴史不詳の城館である。
 永林寺館は、極瀬川南の平地にあり、永林寺背後に当たる北側にL字型の土塁と空堀が残っている。この土塁の北側が館跡であったと推測されている。また寺の西にも二重土塁と空堀があるが、これは寺の獣土手で北の沢から水を引いていたと伝わっており、城館遺構ではないらしい。
 荒屋敷は、永林寺境内の西に隣接しており、石川家の宅地一帯が館跡であったと言う。屋敷跡の大半は空き地と林になっており、遺構は特に見られない。かつては堀があったらしいが、現在は湮滅している。
石川城の程近くにあるが、関連もわかっておらず、謎の城館である。
荒屋敷の現況→DSCN2427.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【永林寺館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.523044/139.808943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【荒屋敷】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.522027/139.807742/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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高根沢城(栃木県高根沢町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1985.JPG←主郭南の空堀
 高根沢城は、宇都宮景綱の弟上総介盛綱の後裔高根沢新右衛門尉兼吉が、南北朝時代に築いたと伝えられる。兼吉は、観応の擾乱の際、足利尊氏方に付いた宇都宮氏綱の軍勢が、足利直義方の桃井直常・長尾景泰らと戦った上野那波庄の合戦で、宇都宮勢に属して戦い討死したと言う。兼吉の死後、益子宗之が高根沢郷を領して高根沢氏を再興した。1597年、宇都宮氏が改易となると廃城となった。尚、鎌倉時代の正嘉年間(1257~59年)に高根沢胤吉の名が伝わっており、この頃に胤吉によって築かれた可能性もある。

 高根沢城は、鬼怒川と五行川に挟まれた宝積寺台地の東縁部に築かれている。城跡の大半は、本田技研のテストコース建設によって破壊されてしまっている。わずかにテストコース外の山林内に空堀の遺構が断片的に残っているだけである。『高根沢町史』所収の関口和也氏の縄張図によれば、段丘崖東縁部に沿って南北に長い城だったらしく、北端に橫矢の折れを持った空堀があり、そこから城の西側を一直線に南に走る外堀があったらしい。この外堀は、昭和20年代前半の航空写真でもその痕跡を確認できる。縄張図には明確に区画された主郭が明示されていないが、前述の航空写真を見ると、どうも現在民家が建っている崖上の区画であったように見受けられる。この民家の南に明確な空堀が残っている。北側にも空堀の痕跡が見られ、大半が車道になっているが、車道脇にわずかに空堀跡が残っている。また主郭の南には二ノ郭があったと推測され、その東側に橫矢の折れを持った横堀が南北に走っている。この横堀は南の方で埋もれて消えてしまうが、その先の方で東斜面に竪堀らしいものが落ちている。結局、往時の縄張りがはっきりしないところもあり、ちょっと消化不良になる城である。
二ノ郭東の横堀→DSCN1994.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.582633/140.025859/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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狸穴城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1948.JPG←城跡推定地の現況
 狸穴(まみあな)城は、御殿山城とも言い、応永年間(1394~1428年)に宇都宮氏の家臣大谷玄蕃頭高利の居城であったと伝えられる。

 狸穴城は、鬼怒川東岸の満美穴町内にあったらしい。満美穴町の名は、古くは「狸穴」と書いたものを、あまり良い印象を持たれない字であることから「満美穴」と当て字にしたものだろう。正確な場所は、詳細な資料がなく不明であるが、『日本城郭大系』には「台地上に柏木稲荷がありその近辺が館跡といわれている」、『栃木県の中世城館跡』には「鬼怒川の東南岸に張り出した段丘面に立地し、低地の水田面から20mの比高を持つ」とあるので、そこから場所を推測した。おそらく140.7mの三角点がある付近だと考えられるが、確証はない。淡路城の所から三角点の所まで歩いて辿ってみたが、柏山稲荷は発見できず、畑仕事をしていた地元の方も稲荷の存在をご存じなかった。耕地化で遺構も残っていないらしいので、結局場所を特定する術がなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.584011/139.976099/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    (推定地)


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2014/03/01
  • メディア: 単行本


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淡路城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1923.JPG←段々の削平地と切岸
 淡路城は、宇都宮氏の家臣直井淡路守の居城と伝えられる。

 淡路城は、鬼怒川東岸の台地の東側の縁にある。ここは、台地に南から谷が入り込み、台地が細長く括れた部分に当たる。地勢的には阿久津城とよく似た占地である。『日本城郭大系』や『栃木県の中世城館跡』によれば、以前は二重の堀もしくは土塁があったが、昭和40年代前半に団地造成のため大部分が破壊されたと言う。現在は民家裏の竹薮となっており、台地の東縁部に段々の削平地が見られ、曲輪遺構の可能性がある。また2段目の削平地の南東下方に堀状地形もあり、遺構である可能性がある。しかし前述の通り大半が破壊・改変されているらしく、どのような縄張りだったのかは現状からでは推測が難しい状況である。
 尚、城の南東250m程のところにある墓地に、淡路守の墓碑が立っている。そこには「直江淡路守」と刻まれているので、もしかしたら直江が正しいのかもしれない。
堀状地形→DSCN1926.JPG
DSCN1943.JPG←直江淡路守の墓碑

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573449/139.980519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の名門 宇都宮氏

中世の名門 宇都宮氏

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2018/06/14
  • メディア: 単行本


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下小倉堀ノ内(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1808.JPG←屋敷に残る土塁
 下小倉堀ノ内は、大桶城とも言い、宇都宮城主宇都宮国綱の家臣大桶備前の屋敷跡であるらしい。大桶氏は、元々那須郡に居たが、宇都宮氏に仕えて小倉郷を拝領し、堀ノ内地区に大桶館を建てたとされる。大桶氏と言えば、那須氏麾下の根古屋城(大桶城)主大桶氏があり、1590年に主家那須氏改易と共に没落しているので、もしかしたら那須氏改易後に宇都宮氏に仕官して、この地に入部したのかもしれない(官途も同じ備前守である)。1597年、宇都宮氏が改易となると、大桶氏はこの地で帰農したと言う。近くにある清泉寺には、大桶備前夫妻の墓があると言う。

 下小倉堀ノ内は、現在は民家となっており、その南と東に土塁が残っている。これが、宇都宮氏改易前からあった城館(大桶館)なのか、それとも帰農後に構えられた屋敷なのかは不明であるが、昭和20年代前半の航空写真を見ても、この下小倉地区では図抜けて大きな屋敷地であり、江戸時代にこの地の名主として続いた名家であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.687599/139.920588/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2014/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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栃窪堀の内(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1755.JPG←北側に残る堀と土塁
 栃窪堀の内は、鹿沼市編纂の『鹿沼の城と館』に掲載されている城館候補地である。栃窪地区にある民家(渡辺家)に「ホリノウチ」の屋号があり、城館があった可能性がある。『鹿沼市史』にある渡辺氏系図に「重則 野州栃久保城主」とあり、また1457年に開山されたと伝わる遍照寺の開基を栃窪城主竹沢讃岐守としている。栃久保城(栃窪城)の詳細は不明であるが、栃窪堀の内を指す可能性がある。

 栃窪堀の内は、渡辺家を中心として東西に並んだ民家集落にあったと想定されている。関口和也氏が調査した25年前にはなかった車道が堀の内のすぐ北側に開通するなど、近年でも改変が進んでいるが、民家の北側に堀と土塁がわずかに残っている。しかし残った土塁も、林が伐採されて破壊が進行しているようで、危機的状況である。本当に城館があったかどうかは定かでないとしても、このまま破壊されてしまうのは少々惜しい。尚、ここからは多気山城がよく見える。多気山城を防衛する出城であった可能性も考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.589060/139.791434/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木「地理・地名・地図」の謎 (じっぴコンパクト新書)

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  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2014/11/06
  • メディア: 新書


タグ:中世平城
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伊釜山城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1733.JPG←外周の帯曲輪
 伊釜山城は、高小屋とも言い、地元では古くから城館跡と認識されていた城である。「古賀志山を守ろう会」のMt.masaoのブログの記事によれば、伊釜山は古賀志村の原点になった場所で、鎌倉初期の1199年、高小屋(伊釜山)に北條氏の子孫が居住し、室町後期の1459年に唐沢に移住するまでの約260年間、この地に拠点を置いていたと言う。

 伊釜山城は、低山トレッキングで有名な古賀志山の南中腹の峰に築かれている。城の北側を通る林道から散策路があり、簡単に訪城できる。山頂に削平の甘い長円形をした主郭があり、南に3段の段曲輪、東に帯曲輪、東帯曲輪の下には城全体を周回する帯曲輪が築かれている。外周の帯曲輪は、主郭後部で堀切に繋がっている。その北にも浅い堀切がある。また南にも浅い堀切が2本穿たれている。しかしいずれの堀切もかなり浅くて、ほとんど防御性を持っていない。構造を見る限り、伝承の通り戦国時代以前の古い小城砦であった様である。
帯曲輪と接続する堀切→DSCN1696.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.613573/139.767079/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 鎌倉北条氏―鎌倉幕府を主導した一族の全歴史

図説 鎌倉北条氏―鎌倉幕府を主導した一族の全歴史

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/09/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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大堀館(2号)(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1672.JPG←北の空堀
 大堀館(2号)は、大堀館(1号)の南東に小河川を挟んで隣接するように築かれている。歴史は不明であるが、大堀館(1号)と同様、安土桃山時代に築かれたと推測されている。

 大堀館(2号)は、小河川に接する東の台地上に築かれている。現在館跡は田畑と宅地になっており、遺構の湮滅が進んでいるが、南と北にはっきりと堀跡が残っている。西側は小河川が天然の堀となっている。東側にも堀があったと思われるが、埋められてしまっているのか、堀の痕跡は見いだせない。北の堀は想像していたよりも規模が大きく、立派な遺構である。宇都宮市には、何らかの保存の手立てを講じてほしいものだが・・・。
南の空堀→DSCN1680.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.623872/139.834714/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2014/03/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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雨乞山城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1477.JPG←主郭後部の腰曲輪
 雨乞山城は、近年発見された城である。位置的には田中城の背後に当たるので田中城の詰城の可能性があるが、宇都宮氏の一家臣である田中氏が果たして詰城を築く必要性があったのか、疑問がある。また戦国末期に宇都宮氏の新たな本拠となった多気山城の支城との見解もあるが、それにしては多気山城と直接連絡することは間に山があって難しく、また敵対していた壬生氏の勢力圏である北西方面からの侵攻に対するよりも南東の宇都宮氏本領を眼下に収める位置に築かれており、多気山城の支城とするのも疑問がある。

 雨乞山城は、標高330mの山稜上に築かれている。南麓の墓地脇に登り口があり、そこからわずかな踏み跡を辿っていくことになる。登道はところどころ踏み跡がおぼつかなくなるが、とにかく上へ向かって進んでいけばまた踏み跡が現れ、やがて城域に至る。基本的には典型的な細尾根城郭で、南北300m以上もある長い山城である。最も高所にあり、城内で一番広い曲輪が主郭で、後部に腰曲輪、前面に両側に土塁を築いた虎口郭を置いている。城域は、この主郭から南の部分と、主郭背後の堀切から北の部分と、大きく2つに分かれている。主郭背後は高低差が大きく、急な切岸で遮断され、暗部に堀切が穿たれている。主郭の虎口郭の前面に堀切があり、そこから南には尾根上に細長い曲輪群が連なっている。途中に2本の堀切が穿たれ、竪堀も見られる。また主郭から北には、やや幅広の曲輪が尾根に沿って連なり、主郭に次ぐ広さの二ノ郭をピークとして曲輪群が更に北に連なっている。これら北の曲輪群でも、4本の堀切が穿たれている。以上が雨乞山城の遺構である。主郭から南は薮が少なく遺構が見やすいが、主郭から北は薮が多く、遺構の確認がし辛い。
 それにしても、宇都宮にも堀切と曲輪群で構成された純然たる細尾根山城があるとは!貴重な遺構である。
南の堀切の一つ→DSCN1450.JPG
DSCN1489.JPG←主郭背後の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.632258/139.809759/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2022/03/10
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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岩原城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1396.JPG←空堀と土塁・土橋
 岩原城は、宇都宮氏の家臣高橋氏の居城と推測されている。宇都宮氏麾下の高橋氏には3家あり、岩原城主高橋氏はその内の一つである。多気山城の支城の一つであったとされる。1597年に宇都宮氏が改易となると、高橋左京亮は帰農し、以後は代々岩原村の庄屋(名主)を勤めたと言う。

 岩原城は、国道293号線脇の段丘先端部にある。ネット上ではほとんど情報がなく、そのため遺構にもあまり期待せずに訪城したのだが、堀の内の屋号を持つ高橋家の北側に高さ3mの土塁と深さ2mの空堀が、断片的ではあるもののしっかりと残っている。空堀はL字型をしており、南の高橋家敷地に向かって土橋が架かっている。また高橋家の北東には南北に土塁も残っている。主郭は空堀・土塁の南にある高橋家の宅地と思われるが、たまたま作業中のご主人にお話を伺ったところ、宅地は城跡ではないと否定されていた。周辺は耕地化による改変が進んでいるため、城の縄張りを想像することも難しい状況であるが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、城域の北辺を東西に一直線に連なる土塁が築かれていたように見受けられる。ただ曲輪配置については、この航空写真を見てもよく分からず、不明点が多い。『日本城郭大系』等によると、二重の堀で囲まれていたとされ、現在残る空堀は内堀であるらしい。

 それにしても断片的とはいえ、赤埴城に似た雰囲気の立派な遺構で、なぜこの城がネット上では無名なのか、不思議でならない。また市の文化財に指定すべきとも思うが、宇都宮市の文化財行政にはどうも文化財保護への積極性が感じられない。宇都宮市民として大いに不満である。
北側に伸びる空堀→DSCN1393.JPG
DSCN1402.JPG←屋敷北東の土塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.613246/139.819973/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世宇都宮氏 (戎光祥中世史論集9)

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  • 作者: 江田郁夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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外和田城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1359.JPG←南東部の空堀の屈曲
 外和田城は、近年発見された城である。東北自動車道のすぐ西側にあり、民家裏の山林内に遺構が眠っている。民家の老夫婦に立入りの許可を頂いて山林内に分け入ると、入ってすぐのところに空堀と土塁が現れる。ほぼ正方形の居館形式の単郭の城館で、南東と北辺の2ヶ所にしっかりとした横矢掛りの屈曲が見られる。曲輪の外周には低い土塁が築かれている。空堀や曲輪の切岸は明瞭だが、空堀は埋まっているのかかなり浅くなっており、あまり大した防御性を持っていないように思う。中世・戦国期の城というよりは、近世初頭の館城と感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.592006/139.839746/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城郭研究家の全国ぶらり城めぐり (わたしの旅ブックス)

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  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 産業編集センター
  • 発売日: 2022/12/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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羽下城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1336.JPG←空堀と土塁
 羽下(はちだ)城は、下野の名族宇都宮氏の初代藤原宗円と八田(宇都宮)宗綱の父子が2代にわたって居住したと言われる。しかし初代宗円は実在が確認されておらず、2代宗綱は吾妻鑑に「八田武者宗綱」と書かれていることから、常陸小栗御厨内に所在した八田を本拠としていた可能性が指摘されている。従って宇都宮氏が宇都宮を本拠としていたことが明確なのは、3代朝綱からである。ただ、羽下城が築かれた丘陵の南東部には宗円の墓と伝承される宗円塚があり、ここが宇都宮氏の祖藤原宗円の伝説を色濃く残す地であることは間違いない。

 羽下城は、前述の通り宗円塚と同じ南東から北西に伸びた細長い独立丘陵に築かれている。丘陵の西寄りに空堀と土塁が山林内に残っている。この堀と土塁は、途中1ヶ所で屈曲している。ただ、これが城館遺構であるのかどうかはかなり不分明で、この空堀・土塁に並行して走る堀底道も見られ、またここには旧日光街道が通っていたとの話もある。仮に遺構だとしても堀・土塁が1本走っているだけで、区画を形成しているわけでもないので、羽下城跡なのかどうかよくわからないというのが実態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.584029/139.816282/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

下野宇都宮氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 郁夫, 江田
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/10/01
  • メディア: 単行本


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武部城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4383.JPG←北の腰曲輪と主郭切岸
 武部城は、HP『新 栃木県の中世城郭』のmasakiさんが発見した城である。従って歴史も不明である。尚、城名の漢字であるが、お城巡りの先達余湖さんは「健部城」としているが、武部、または健武がこの地域の名前なので、武部城か健武城とするのが正しいはず。ここでは発見者のmasakiさんの命名通り武部城と記載する。

 武部城は、標高234.3m、比高90mの山上に築かれている。南東の民家裏から尾根筋を登って訪城した。平坦で広い主郭と、南北に築かれた腰曲輪で構成されている。主郭は、北辺は明確な切岸で塁線が築かれているが、南辺は傾斜していれ塁線が不明瞭になっている。主郭の先端に当たる西側には堀切が穿たれ、その前面に小郭を置き、更に円弧状堀切を穿っている。これら2本の堀切と、主郭南の腰曲輪からは合計3本の竪堀が落ちている。腰曲輪は、北側のものは幅が広く、明確な切岸で主郭がそびえている。主郭の北東には舌状の北出曲輪が築かれ、付け根には片堀切が穿たれている。北出曲輪下方の北西尾根にも片堀切が円弧状に穿たれて城域が終わっている。小規模で単純な構造の城であるが、堀切・竪堀はしっかり構築されており、武茂城の東方にあって街道筋を監視する城として構築されていたことがうかがわれる。
主郭先端の堀切→DSCN4364.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.750825/140.200653/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


アクティブライフ・シリーズ009 クルマで行く 山城さんぽ 100 (CARTOP MOOK)

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  • 作者: 交通タイムス社
  • 出版社/メーカー: 交通タイムス社
  • 発売日: 2017/09/22
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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鳴神山城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4276.JPG←腰曲輪と主郭切岸
 鳴神山城は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』を始めとする城郭関係の書籍には全く記載のない城であるが、お城巡りの先達余湖さんのHPによれば、地元では城跡であると認識はされているらしい。

 鳴神山城は、標高260m、比高130mの山上に築かれている。武茂城の北東1.3kmの位置にある。この城に行くには、城の北尾根に登る未舗装路が西側の車道から付いているので、それを車で登り、尾根上の空き地で車を降りて尾根伝いに辿っていけば、大した高低差もなくお気楽な訪城ができる。この背後の尾根を辿っていくと、緩斜面の東側方に土塁状の小道が通り、西側には高台となった土壇が見られる。更にその先にも西側に土壇がある緩斜面がある。自然地形にも見えるが、城に関連する遺構である可能性も捨てきれない。更に尾根に沿って登っていくと、土橋の架かった堀切が現れ、ここからが本城域となる。城は、山頂に主郭を置き、周囲に腰曲輪を廻らし、南に二ノ郭、三ノ郭を連ねた縄張りとなっている。前述の堀切の先は平坦な斜面が広がり、そのまま主郭北側の腰曲輪に通じている。腰曲輪の手前には、動線を制約する竪堀が穿たれている。腰曲輪の東端には横堀が穿たれている。横堀はそのまま主郭の北東斜面を走り、東の堀切まで繋がっている。東の堀切から先は、武者走りの小道が伸び、短い横堀を経由して二ノ郭東側の帯曲輪に通じている。二ノ郭は先端に堀切を穿ち、東側に坂土橋を設けた虎口を築いている。三ノ郭は傾斜した曲輪で、その先端にも土橋を架けた堀切を設けている。二ノ郭の北には主郭腰曲輪があり、主郭への登道が付いている。この腰曲輪は西に長く伸びている。主郭は2基の祠がある平坦な曲輪であるが、西側は切岸不明瞭でだらっとした斜面となっている。西尾根にも堀切が穿たれている。鳴神山城は、腰曲輪・堀切・竪堀・横堀などが明瞭であるが、普請の規模は小さく、全体に中途半端な印象が拭えない。野戦築城された陣城だったものだろうか?
横堀→DSCN4239.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.748315/140.182049/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東周辺歴史トレッキング 攻める山城 50城 山を歩き、山城に出合う旅へいざ出陣!

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  • 出版社/メーカー: 山と渓谷社
  • 発売日: 2018/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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谷田城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4173.JPG←主郭背後の堀切
 谷田城は、歴史不詳の城である。那珂川西岸の比高わずか10m程の段丘先端部に築かれている。場所が民家の裏なので、民家の方にお断りをして入らせいていただいた。舌状に突き出た段丘先端部を堀切で区画しただけのほぼ単郭の簡素な城砦で、民家裏に堀切と土塁が残っている。その北が主郭で、主郭の西側には帯曲輪があり、更に水路が外堀となって廻っている。立入りさせていただいた主郭南の民家も二ノ郭だった可能性があり、入口に土塁や堀っぽい起伏が見られる。
主郭西側の帯曲輪→DSCN4187.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.737259/140.138748/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める

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  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/12
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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大久保城(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4130.JPG←南側の円弧状堀切
 大久保城は、下野の名族那須氏の庶流大久保氏の居城である。鎌倉時代に那須資村の4男資清は、出家の後に還俗して那須四郎と名を改め、宇都宮景綱に属して大久保に居城を構え、大久保源左衛門を名乗ったと言われる。また南北朝期には、金丸肥前守資国の子義国が大久保に住し、大久保掃部介を称したとも言う。天正年間(1573~92年)には白久隼人という武士が在城していたとも言う。

 大久保城は、白久神社の西方にある比高30m程の丘の上に築かれている。『栃木県の中世城館跡』では、本丸・二ノ丸から成るとされるが、実際は単郭の城である。白久神社裏から西に丘陵を登っていき、丘陵上に達したところで北西の丘陵突端を目指すと城に至る。南に円弧状堀切を穿った城で、主郭後部には土塁を築いている。主郭内には段差や傾斜があり、削平は甘い。主郭の北側にも堀跡らしい切岸が見られる。遺構としては以上で、小規模な城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.724482/140.131688/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

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  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


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下川井城(栃木県那須烏山市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN3866.JPG←堀切と南の小郭
 下川井城は、下野の名族那須氏の庶流川井氏の居城である。築城時期は不明だが、伝承では那須友家が上川井城と共に築城したとされる。1521年11月、岩城常隆・白河義永が宇都宮氏の加勢を得て那須領に侵攻し、上川井城を攻撃した。烏山城主那須資房の家臣川井(下川井)大膳掾は、上川井出雲守・熊田源兵衛高貞らと協力して防戦したと言う。1590年に那須氏改易と共に廃城となった。

 下川井城は、江川と岩川に挟まれた比高50m程の丘陵上に築かれている。登道がよくわからなかったので、西側の取り付きやすそうな山林の斜面から登った。城は、中央部が細くくびれた部分を境に、南北2つの郭群で構成されている。北が主郭、南が古本丸とされる。主郭も古本丸も外周を横堀と腰曲輪で囲んでいる。古本丸の南端では横堀が堀切となって尾根を穿ち、その南に独立堡塁状の小郭を置いている。小郭の先も堀切で分断している。また小郭と古本丸の間の堀切からは、西斜面に向かって竪堀が落ちている。竪堀は、古本丸北東の外周斜面にも見られる。古本丸と主郭の間には独立堡塁状の曲輪があり、前後を堀切で穿っている。主郭には土塁が廻らされ、東から北にかけて2段の幅広の横堀が構築されている。主郭の北に続く尾根には堀切がなく、後方の防御構造が貧弱である。
 下川井城は、堀跡などの表示があるので過去に整備したことがあるらしいが、その時に高木を伐採してしまった様で、日当たりが良くなった一方、整備を継続していないため、薮がひどくなってしまっている。そのため、横堀・土塁・堀切などがよく残っているものの、遺構がわかりにくくなってしまっている。残念な状況である。
主郭周囲の横堀→DSCN3972.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(薮で☆1つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.694567/140.103579/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


難攻不落の城郭に迫る! 『山城』の不思議と謎 (じっぴコンパクト新書)

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  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2017/03/01
  • メディア: 新書


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