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小屋城(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]

DSCN6793.JPG←大堀切と主郭
 小屋城は、日岐城主日岐氏(日岐丸山氏)の支城である。城主は、丸山丹波守と伝えられる。1582年の天正壬午の乱の際、深志城を回復した小笠原貞慶は、筑摩・安曇郡の旧領回復を目指して軍事行動を開始し、8月初旬、日岐氏の拠る日岐城を攻撃した。激しい攻防の末、9月上旬に日岐城は攻略され、この攻防の中で小屋城も落城した。

 小屋城は、京ヶ倉西麓の犀川曲流部にある岩尾根に築かれている。東麓の鞍部に京ヶ倉登山道の登り口があり、そこから城への登道がある。大堀切で城域を二分した一城別郭の縄張りとなっている。東のピークに長円形をした主郭があり、北東下に段曲輪、その下方に堀切を穿った土壇を配置している。主郭の西側には大堀切が穿たれているが、片側(北側)だけ二重堀切となった変則的な堀切である。大堀切の西には2つの尾根上の長い曲輪が連なり、その先に小高くなった小ピークがあり、物見台となっている。物見台の周りには腰曲輪が数段築かれている。更にその西に伸びる尾根にも、小堀切と細尾根の平場がある。以上が小屋城の遺構で、万平に置かれた日岐氏の居館を守る砦であったと推測される。
西の物見台→DSCN6807.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.428146/137.939476/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東・甲信越戦国の名城・古城歩いて巡るベスト100

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タグ:中世平山城
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角城楯(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6693.JPG←三重堀切
 角城楯(角城館)は、沢村氏の城と伝えられる。沢村氏について詳しいことはわからないが、大槌孫三郎の兄との伝承があるらしい。一説には建保年間(1213~19年)の築城とされるが、現在残る遺構は明らかに戦国期のものであり、遠野阿曽沼氏支配時代の遺構と推測される。

 角城楯は、小烏瀬川西岸の比高100m程の山上に築かれている。Y字型をした尾根に曲輪が展開しており、山頂が主郭、南尾根が二ノ郭、南東尾根が三ノ郭である。南麓から小道があり、それを登っていくと二ノ郭前面の段曲輪群に至る。段曲輪群を登っていくと、細尾根先端の二ノ郭に至る。二ノ郭は物見台的な小郭で、両側方にも帯曲輪を築いている。後ろの尾根を伝っていくと、再び腰曲輪群が現れ、その上に主郭がそびえている。主郭は外周に1~2段の腰曲輪が取り巻き、背後の尾根にはなんと三重堀切が穿たれている。2つ目の堀切の後ろには小郭がある。この三重堀切から落ちた竪堀は、東西両翼で二重横堀に変化して主郭下方の斜面を走っている。この内、東のものは二重横堀が両方とも直角に曲がって竪堀になって落ちている。この上には三ノ郭があるが、三ノ郭は段曲輪群で構成された郭群である。この他、三重堀切の先の尾根にも堀切っぽい地形があるが、山道を切り開いたような跡があり、形状もやや不明瞭で遺構とは判断し難い。いずれにしても、遠野地域の山城の例に漏れず、多重堀切とそこから派生する多重横堀で防御を固めた、見事な遺構である。
腰曲輪と主郭→DSCN6652.JPG
DSCN6602.JPG←東の二重横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.371804/141.593599/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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タグ:中世山城
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火渡楯(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6463.JPG←東尾根の三重堀切
 火渡楯(火渡館)は、横田城(鍋倉城)主阿曽沼氏の一族火渡中務の居城である。中務の子広家(後に玄浄と称す)は、1600年に阿曽沼広長が最上出陣の留守中に鱒沢広勝らが反逆した際、それに与せず抵抗した。その為鱒沢氏らの攻撃を受け、火渡楯で数日の攻防戦の末討死したと言う。尚、広家の遺児倉之助は寺に匿われて生き延び、後年南部氏に忠臣の遺児として召し出され、土淵の山口村に50石を与えられた。

 火渡楯は、荒川西岸の比高60m程の丘陵上に築かれている。主郭には神社が建っており、その参道が南尾根に整備されているので、それを登って城に行くことができる。城域は思ったよりも広く、山頂から北西に伸びる尾根先端までの全域に遺構が残っている。中間部に堀切があり、それより上が主郭群、下が二ノ郭群である。いずれの郭群も段差で区切られた多数の段曲輪群・腰曲輪群で構成されている。主郭群は北西に向かって伸びた縦長三角形の郭群で、最上段には前述の通り神社が建っている。しかし最上段の主郭は大した広さはなく、詰城的な曲輪である。二ノ郭は横長の広い曲輪で、前面に腰曲輪群を何段も築き、北西に伸びる尾根に段曲輪群を築いている。この段曲輪はほとんど丘陵の麓近くまで築かれている。この城で出色なのは、主郭群・二ノ郭群の北側に穿たれた長大な横堀で、二ノ郭群の北では1本だが、主郭群の北東では二重横堀となり、東尾根に近づくに連れて堀が大きくなっている。この二重横堀は主郭側方の東尾根を穿つ堀切となり、二重横堀のまま主郭背後の南東斜面に回り込んでいる。この二重横堀から神社参道脇に竪堀が落ちている。また参道の主郭手前にも堀切が1本穿たれている。前述の主郭東尾根では、二重横堀の外側にもう1本堀切が穿たれ、合計で三重の堀切となっている。この内、一番外側の3本目の堀切はまっすぐ尾根を掘り切っているが、横に横堀が派生して、堀のネットワークを形成している。この他、主郭群・二ノ郭群の間の堀切から落ちる竪堀は、北斜面の横堀に繋がっている。以上が火渡楯の遺構で、南東の平地側よりも斜面の傾斜が緩い北側の谷に面した部分を、横堀群で重点的に防御した城である。
主郭群を構成する曲輪群→DSCN6356.JPG
DSCN6370.JPG←主郭群・二ノ郭群を画する堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.406364/141.537992/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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タグ:中世平山城
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松崎東楯(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6292.JPG←二重横堀の一つ
 松崎東楯は、松崎楯(松崎館)の出城と考えられる。岩手県の文化財地図には松崎東楯の呼称はなく、「松崎館」として一括りにされているみたいだが、独立性の高い出城であるため、ここでは松崎東楯という仮称で取り扱う。

 松崎東楯は、松崎楯から谷を挟んだすぐ東の峰に築かれている。松崎楯との間の谷戸にある木戸口と推測される段の脇から、かすかな登道があり、これを登っていくとやがて帯曲輪群に至る。本城の松崎楯と比べると素朴な縄張りで、山頂に3段の曲輪が連なり、その周囲に多数の帯曲輪群を取り巻いた構造となっている。最上部の主郭の後部には土塁が築かれ、その背後に二重堀切が穿たれている。内堀は深く鋭さがあるが、外堀は浅いものである。この二重堀切から、北東斜面に向かって二重横堀が伸びている。また横堀の付け根からは竪堀が1本落ちている。二重横堀は、南東に下り勾配となりながら延々と伸びている。以上が松崎東楯の遺構で、いかにも松崎楯の東方を防衛する出城と言う印象の城である。
主郭→DSCN6256.JPG
DSCN6306.JPG←二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.367939/141.553012/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


地図でめぐる日本の城

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タグ:中世山城
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松崎楯(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN6085.JPG←五重堀切の一部
 松崎楯(松崎館)は、横田城(鍋倉城)主阿曽沼氏最後の当主広長の家臣松崎監物が城主であったと伝えられる。

 松崎楯は、猿ヶ石川と小烏瀬川の合流点西側の比高80m程の山上に築かれている。すぐ東の峰には、出城として松崎東楯(仮称)が築かれている。松崎楯に登るには、南東を通る市道脇から松崎楯と松崎東楯との間にある谷に入り、それを登っていくと左手に大きな谷地形が見えてくるが、これが実は松崎楯の多重堀切から落ちてくる大竪堀で、しかも登城道を兼ねているので、これを登っていけば良い。また松崎楯と松崎東楯との間の谷には、木戸口らしい段も見られ、これが往時の大手道であった可能性がある。前述の大竪堀を登ると、竪堀は2つに分岐し、右手のものはそのまま登っているが、左手のものは屈曲しながら腰曲輪群の横を登っており、腰曲輪群に通じる登城路であったと推測される。山頂には主郭があり、きれいに削平されている。前述の腰曲輪群は、主郭の東側に何段も築かれている。一方、主郭の南西には段曲輪群が数段築かれている。段曲輪群の西下方には横堀が穿たれている。この横堀は、段曲輪・主郭の西斜面を走って、背後の多重堀切に繋がっている。主郭は後部に土塁が築かれ、その背後の尾根には中規模の五重堀切を穿っている。陸奥国域では初めて見る五重堀切で、しかも見応えのある規模である。3本目の堀切外の土塁は上端が丸い平場となっている。五重堀切だけでもすごいのだが、松崎楯では更にここから落ちる竪堀が、複雑な堀のネットワークを形成している。内側4本の堀切は、西斜面で合流しながら屈曲して三重横堀に変化、外側の堀から分岐して竪堀が落ち、また外側2本の横堀は少し先で合流して竪堀となって落ちている。一番内側の横堀は、もう少し先まで伸びた所で竪堀となって落ちるが、その側方から横堀が派生して、前述の段曲輪西の横堀へ繋がっている。5本目の堀切だけは、西斜面にまっすぐ落ちている。一方、東斜面では、まず真ん中3本の堀切から落ちる竪堀が合流して1本の竪堀となり、そこに更に5本目の堀切から落ちる竪堀が合流、更にその下で1本目の堀切から落ちる竪堀(前述の腰曲輪群に繋がる登城路)が合流して、最終的に1本の大竪堀となって東の谷に落ちている。以上が松崎楯の遺構である。尚、主郭に到達した瞬間、立派な角を持った大きな雄鹿がダッシュで逃げていった。非常に見応えのある遺構と、大きな鹿とで、とても印象深い城である。
 また遠野阿曽沼氏の領域ではこの城に限らず、周辺地域では見られない多重堀切・多重横堀の防御構造が突然変異的に現れる。この築城技術がどこから来たのか、大いに考えさせられる。
南西の段曲輪群→DSCN6131.JPG
DSCN6095.JPG←竪堀群が横堀群に変化

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.366894/141.551424/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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タグ:中世山城
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横田城(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5978.JPG←北側の堀切と独立堡塁
 横田城は、遠野阿曽沼氏の歴代の居城である。阿曽沼氏は、下野有数の豪族藤姓足利氏の庶流で、源頼朝の奥州合戦の軍功により閉伊郡遠野保を与えられた。その事績は鍋倉城の項に記載する。築城年代は、1189年に阿曽沼広綱が築いたとする説、建保年間(1213~19年)に広綱の子親綱が築いて居城としたとする説等があり明確にできないが、いずれにしても中世の遠野郷を支配した阿曽沼氏の長い間の本拠地であった。天正年間(1573~92年)に第13代阿曽沼広郷は、鍋倉山に新城(後の鍋倉城)を築いて居城を移した。

 横田城は、高清水山の南東の裾野にある傾斜した段丘上に築かれている。南北に深い沢が入り込んだ、扇状をした台地となっている。市の史跡に指定されており、南麓から登城道が整備されている。この登城道は、堀切のような切通しの道となっているが、左右に櫓台がそびえており、往時の大手であったと推測される。この上には前面の腰曲輪群が数段築かれ、その奥は広大な緩傾斜地となっており、全体が広大な主郭となっていた様である。内部にはいくつかの段差が見られるが、区画ははっきりしない。主郭の南は沢に面した急崖だが、北側は空堀・堀切が穿たれ、独立堡塁が数個築かれている。主郭の背後には、天然の沢を加工した大堀切が穿たれ、そこにV字に2本の土橋が架かっている。しかし土橋については造作がはっきりしない部分もあり、自然地形に多少手を加えた程度のものだった可能性がある。主郭の中程には薬師堂が建っているが、この付近だけ小さな段々地形があり、何らかの曲輪遺構であった可能性がある。この他、城の東下方の墓地や畑も、腰曲輪群であった可能性がある。以上が横田城の遺構で、天然の要害地形をそのまま利用した感じで、縄張りに技巧性はあまり見られない。
登城道左手の櫓台→DSCN5943.JPG
DSCN6003.JPG←主郭背後の土橋・堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.352377/141.520772/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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二桜城西砦〔仮称〕(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5281.JPG←竪堀
 二桜城西砦は、地形図でたまたま見つけた城館候補遺構である。城館候補遺構とは、「断定はできないが、城館の可能性を残しているもの」のことで、北陸地域の中世城郭を調査している佐伯哲也氏が提唱している呼称である。ここでは佐伯氏の提唱に倣うことにする。

 二桜城西砦があるのは、二桜城の南西に突き出た支尾根の南斜面で、現在は一面にソーラーパネルが設置されている。傾斜量図を見ると、ここに堀っぽいもので囲まれた台形をした地形が確認できる。このすぐ西の尾根上には市の有形文化財「貞治3年金剛界大日種子石塔婆」があり、これは二桜城主清水氏が建てた供養碑である。元々この石塔婆の場所を地図上で探していて、この西砦を見つけたのである。この石塔婆には一応覆屋があるが、倒れかけている。また岩手県の文化財地図では「葛西塚」と記載されている。この石塔婆の存在からもわかるように、この尾根は古来より二桜城と密接に関連する場所であり、西砦は寺院等の結界か隠居城であったかもしれない。しかし斜面にあるので、まとまった広さの平場はない。ソーラーパネルでよく見えないが、堀で囲まれた中に段々に曲輪群が造成されていたものと推測される。東西には竪堀が明瞭に残り、曲輪群の最上段は土塁となっていて、背後を切岸で落としている。埋もれてわかりにくいが、切岸下には空堀もあったように見受けられる。ここでは城館遺構の可能性を指摘するだけにとどめたい。
 尚、石塔婆へはソーラーパネルの東の山林の斜面を登って行った。尾根上には道があったので、どこかから山道が通じているらしいが未確認である。
土塁背後の切岸→DSCN5285.JPG
DSCN5275.JPG←尾根上にある石塔婆

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.847019/141.155927/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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西永井楯(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5874.JPG←主郭後部の横堀
 西永井楯(西永井館)は、内ノ目城・西館とも言い、戦国後期に永井氏の城であったと伝えられる。元々は、1457年に菅原春道が青葉山城から西永井楯に移居し、道慶に至るまでの居城となった。その後、1555~90年まで永井半左衛門の居城となったと言う。

 西永井楯は、比高50m程の丘陵上に築かれている。南麓には民家が立ち並んでいるので、民家のない東斜面を直登して訪城した。山頂に堀切で区画された主郭・二ノ郭を東西に並べ、その周囲に腰曲輪を築いている。主郭・二ノ郭ともに北面は急崖に面しており、北側だけ腰曲輪は築かれていない。主郭は後部が円弧状の塁線を描いており、その外側に横堀を穿っている。これら主郭前後の空堀は、北斜面に竪堀となって落ちており、主郭は空堀に沿って土塁を築いている。主郭はきれいに削平され、社が建てられている。二ノ郭と腰曲輪は、郭内が大きく傾斜している。二ノ郭・腰曲輪は、以前はどうも果樹園であったらしい。以上が西永井楯の遺構で、簡素な構造の比較的小さな館城である。
主郭~二ノ郭間の堀切→DSCN5910.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.799475/141.225407/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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タグ:中世平山城
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男沢城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5811.JPG←東郭外周の横堀・土塁
 男沢城は、鷹鳥城とも言い、葛西氏の家臣及川一族の城である。1590年の葛西大崎一揆では、男沢城主及川主計正頼通が栗原郡高清水の森原山に陣取った薄衣城主千葉甲斐守胤勝を大将とする葛西勢に加わったと伝えられる。

 男沢城は、標高66m、比高46mの館平という丘陵上に築かれている。西麓の豊龍神社脇の道から登城道があり、標柱も立っている。その先を登っていくと平坦な平場が広がっていて、これが二ノ郭に当たる。二ノ郭の中央には段差だけで区画された主郭が置かれ、環郭式の縄張りとなっている。二ノ郭の外側にも腰曲輪が築かれている。二ノ郭は、全体として方形に近い形状のようだが、東側中央部が外側に突出している。更にこの東側には急崖に面して東郭(出丸)がある。東郭は、規模は小さいが東に突出した物見台的な曲輪と考えられる。楕円形をした曲輪で、北から東側にかけての外周に円弧状の横堀・土塁が築かれている。以上が男沢城の遺構で、主郭・二ノ郭は耕作放棄地となっているので、一部を除き薮が多く、踏査不能の劇藪もある。いずれにしても比較的簡素な構造の館城だったと思われる。
腰曲輪と二ノ郭切岸→DSCN5794.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.814240/141.217339/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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小野下館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5757.JPG←館の全景
 小野下館は、歴史不詳の城である。但し、岩手県の遺跡地図では単に「中世」という漠然とした表記ではなく「室町~江戸」時代と具体的な時代が明示されているので、何らかの伝承はあるらしい。1573年3月2日の『葛西晴信知行状』に出てくる「流日形村小野館」が、小野下館のことであろうか?この城の歴史についてご存じの方がいたら、ご教示を乞う。

 小野下館は、小野堤の北に隣接する独立丘陵に築かれている。小さな丘で、いかにも城館の適地らしく見える。主郭には民家が建っているため、郭内の踏査はできていない。しかし、北には一段低く腰曲輪がある。スーパー地形などで見ると、背後の小野館山との間の鞍部には天然の堀切があるようだが、これも近づく術がなく確認できていない。いずれにしても、丘の頂部を平らに整形しただけの館城だったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.829904/141.246908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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葉山楯(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5740.JPG←外周の横堀
 葉山楯(葉山館)は、波山館とも記載され、小野寺肥後守の居城であったと伝えられる。楯主の小野寺氏は、1475年にこの城に入り、以後約80年間居住したと言う。小野寺肥後は、天正年間(1573~92年)の岩ヶ崎城主富沢日向守直綱の騒動や米ヶ崎城主浜田安房守広綱が反逆した浜田兵乱の際に、葛西勢として参陣している。

 葉山楯は、標高83mの独立丘陵に築かれている。明確な登道はなく、北麓の牛舎の脇から斜面を直登した。山頂の主郭と、それを取り巻く横堀から成る簡素な構造の城である。横堀は全周しておらず、北から西面にかけて、主郭の約半分を囲んでいるだけである。郭内は傾斜した地山となっており、郭内の平場の段差は不明瞭で、南東側だけ段差が比較的明瞭となっている。横堀の西側中央部に土橋があったらしいが、横堀以外の遺構があまりに見劣りする感じで、途中で戦意喪失してしまい、見逃した。遺構の感じからすると、恒久的な城館と言うより、一時的な陣城とだったのではないだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.831927/141.240031/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

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戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢

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  • 作者: 西股総生
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峠城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5435.JPG←本丸館~北館間の大堀切
 峠城は、苅明楯(苅明館)とも言い、葛西氏の家臣寺崎氏の居城である。寺崎氏は、戦国末期には流郷24郷の旗頭として勢威を振るった。元々峠城主は峠千葉氏で、峠千葉氏は金沢城主金沢清胤の3男胤資に始まると言われる。その子胤時は、嫡男胤永が早逝したため、5男胤継を後継とした。尚、4男定時は下油田蒲沢楯主として独立している。胤継以後、峠千葉氏は寺崎氏を称したとされる。胤継の嫡孫寺崎下野守時胤は、1507年9月に金沢城主金沢冬胤と争いを起こし、千葉一族の抗争に発展した。この抗争で時胤は討死した。また胤永の嫡孫で宗家に当たる日形城主千葉秀胤も討死したため峠千葉氏は衰微し、桃生郡寺崎城より葛西氏支族の寺崎氏(寺崎倫重?)が峠城に移った。1579年、岩ヶ崎城主富沢日向守直綱は大崎氏の支援を受けて、峠城主寺崎石見守良次(良継)を攻撃したが、良次は葛西諸勢力の支援を受け富沢勢を撃退し、更に追撃して岩ヶ崎城まで追い詰め、富沢氏を降参させた。1582年、良次は九戸城主九戸政実に攻略された河崎城(金ヶ崎城?)を攻撃する葛西勢4000騎の総大将となったが、敗退して討死した。良次の養嗣子正次は、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で没落し、翌91年に桃生郡糠塚山に至る途中で伊達政宗の謀略によって討死したと言う。
 以上が峠城主の歴史の概観であるが、葛西氏家臣団の例に漏れず、峠千葉氏・寺崎氏の事績についても文献によって異同があり、何が正しいのかよくわからない部分もある。

 峠城は、標高120m、比高60m程の丘陵上に築かれている。W字型をした山稜上に曲輪が連なっており、北から順に北館、本丸館、東館、南館の各曲輪が配置されている。伝承では本丸館に寺崎石見守、北館に千葉伊豆、東館に岩渕美作、南館に千葉大隅と、寺崎氏とその家臣団が居住していたとされる。城の北西にある林道から南東に谷戸を登る小道があり、それを登っていくと本丸館(主郭)と北館を画する大堀切に至る。北館はしゃもじのような形をした曲輪で、そこから北西に細長い曲輪が伸び、先端には平野神社が建っている。その背後には土塁があり、その裏に二重堀切が穿たれ、城域の北限を画している。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』では、二重堀切の北にも平場が見られると言うが、薮でよくわからない。本丸館(主郭)は、登山靴のような形をした曲輪で、断崖に臨む東以外に腰曲輪を廻らしている。主郭北の腰曲輪には二重竪堀が穿たれ、その下方の尾根には堀切がある。主郭の西側にも何段もの腰曲輪群が築かれている。主郭南西の腰曲輪には竪堀状虎口があり、屈曲して横堀状通路になって、下の腰曲輪に繋がっている。本丸館の南東には東館がある。東館はやや細長い曲輪で、西側に腰曲輪を伴っている。南端は三重堀切で分断している。ここに土橋が架かり、南館に繋がっている。南館は単純な平場で、南端に小堀切が穿たれている。以上が峠城の遺構で、さすがはこの地域の旗頭の城であり、この地域では屈指の大城郭である。

 尚、西を通る車道の西側山上には西館があるが、未踏査である。
三重堀切の一部→DSCN5658.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.835654/141.221545/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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高森城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5353.JPG←鞍部から落ちる二重竪堀
 高森城は、奈良坂城とも言い、葛西氏の家臣奈良坂氏の居城である。奈良坂氏には平姓と藤原姓の2流があったとされる。平姓奈良坂氏は、葛西小八郎延平を祖とし、建武年間(1334~38年)に奈良坂郷に住して奈良坂氏を称したと伝えられる。即ち葛西氏一族である。一方、藤姓奈良坂氏は、登米郡弥勒寺城主佐藤信行の次子信貞が流郷中村城より奈良坂家重の養子となったことに始まると言われる(但し弥勒寺城にはその様な伝承はない)。信貞は、奈良坂小山城をしばらく居城としたが、1466年に高森城に移り、家重は清水城に転じたと言う。この頃、平姓奈良坂氏当主は5代重光で、重光は継嗣がなく、黒沢氏から重朝を養子とした。8代重弘は、1564年に馬籠重胤が主家葛西氏に逆らって討伐を受けた馬籠合戦の際に討死した。次の重時の代に豊臣秀吉の奥州仕置を迎え、平姓奈良坂氏は没落したと言う。また藤姓奈良坂氏も奥州仕置で没落したと言われ、両系が戦国末期まで存続していたようで、どちらが高森城主だったのか、正確なところは不明である。いずれにしても、高森城は大崎領に接する葛西領の最前線にあり、境目の城として機能していたと推測されている。

 高森城は、養寿寺背後の丘陵上に築かれている。南に張り出した小丘に主郭を置き、鞍部を挟んで北の斜面に二ノ郭を配置している。養寿寺の墓地裏を登れば、もうそこは主郭群である。主郭は、西側先端にL字型の土塁を築き、その脇に虎口を開いている。虎口を出た西側には西1郭がある。西1郭は北辺に土塁を築いている。西1郭の先には切岸の下に西2郭がある。主郭・西1郭・西2郭の南斜面には腰曲輪群が数段築かれており、養寿寺墓地も腰曲輪であった可能性があるが、全てが遺構かどうかは定かでなく、一部は畑跡かもしれない。主郭群の北の鞍部は堀切となり、その北の二ノ郭は外周三方(西・北・東)をコの字型に横堀で囲んでいる。この二ノ郭周囲の横堀の西辺部は、南端で直角に折れて竪堀となって西へ降っている。この竪堀は前述の暗部の堀切から落ちる竪堀と並走しており、二重竪堀となって降っている。二ノ郭は、斜面上に築かれているため、郭内は大きく傾斜しており、建物などはなかったのではないかと考えられる。二ノ郭の上端には土塁的な段があり、その背後を前述の通り横堀が防御している。また、二ノ郭の真ん中下方が窪んでおり、城門など何らかの構造があったようである。この他、コの字横堀の北西の折れ部では、外側土塁の西斜面に竪堀が落ちている。以上が高森城の遺構で、境目を防衛する城にしては規模・構造ともに大したものではなく、防御が固い城であったとも思えない。どちらかといえば、物見や狼煙台的な運用をされた城だったようにも思える。
二ノ郭北西の横堀角部→DSCN5396.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.844262/141.133697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

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  • 作者: 西股 総生
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金森城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5224.JPG←主郭の現況
 金森城は、高山館とも言い、葛西氏の家臣金森氏の居城である。元々は、清水城(二桜城)主だった清水重兼が、1520年に子に城を譲って金森城に隠退したと伝えられる。その後、天正年間(1573~92年)には金森内膳貞利が城主であったが、1590年の葛西大崎一揆に加担し、桃生郡糠塚で伊達政宗の謀略によって討死したと言う。

 金森城は、二桜城の南南東1kmの段丘先端部に築かれている。主郭は現在水田となっている。しかし水田の後ろ(南)にある薮の部分も郭内である。主郭南端の東半分には幅広の土塁が築かれ、その裏には空堀が一直線に穿たれている。この空堀は、東に掘りきったところで東下方に穿たれた空堀と交差し、全体としてT字形をした空堀となっている。東下方の空堀は南の二ノ郭側方まで伸びているが、その先は薮のため未踏査である。遠目に見た感じと、スーパー地形の地形図から推測すると、改変によりあまり遺構の存在に期待できない可能性が大きい。この他、主郭の北から東にかけて、腰曲輪が円弧状に廻らされているが、ここも薮が酷くて一部しか踏査できていない。以上が金森城の遺構で、簡素な構造の館城だったと思われる。尚、東麓にある金蔵寺には金森貞利の供養碑が残っている。
主郭背後の空堀→DSCN5236.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.840017/141.162021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

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  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


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蒲沢楯(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5129.JPG←主郭・二ノ郭間の大堀切
 蒲沢楯(蒲沢館)は、下油田城とも言い、奥州千葉氏の一流で、流郷の旗頭的存在であった下油田千葉氏の居城と伝えられる。下油田千葉氏は、旗頭であった峠城主寺崎氏(峠千葉氏)の一門で、1439年に峠千葉氏の胤永の弟定時(右馬助)が流郷磐井郡下油田の蒲沢楯に分封されたことに始まる。1579年の峠城主寺崎良次と岩ヶ崎城主富沢直綱との抗争の際、下油田の千葉良胤・道胤父子が寺崎氏に加わって活躍し、道胤は戦功により加増を受けた。その後、父と共に栗原郡石越村に西門館を築いて居城を移したと言う。しかし別説では、蒲沢楯主は二階堂氏であったとも言われ、沢辺楯主であった沢辺氏(二階堂氏)が、所領を大崎氏に奪われると岩井郡黒沢村の霞館に移り、更に1448年に蒲沢楯に所領を移されたとも言われる。いずれにしても、葛西大崎一揆で葛西氏家臣団が壊滅したため、これら家臣の事績は多くが失われており、明確にできないのが実態である。

 蒲沢楯は、油島市民センター西側の比高50m程の丘陵上に築かれている。登道がわからなかったので、南麓に数軒並んだ民家の西側にある空き地を突っ切って、南西に伸びる尾根に取り付いて訪城した。丘陵頂部に主郭・二ノ郭が東西に並立し、それらからハの字に伸びた尾根に曲輪を連ねたハの字型をした構造である。主郭とニノ郭は大堀切で分断されており、一城別郭の縄張りとなっている。二ノ郭は、西から南にかけて横堀を穿ち、前面に虎口があって横堀に土橋を架けている。二ノ郭の南西には西郭が配置され、外周は切岸と腰曲輪が築かれている。主郭は背面を円弧状の横堀で防御している。この横堀外側の土塁は、ニノ郭の北東端からそのまま土塁が伸びて繋がっている。主郭の南東には南1郭・南2郭と曲輪が2つ連なり、南1郭の前面には堀切が穿たれ土橋が架かっている。南1郭・南2郭とも主郭東側まで続く腰曲輪が築かれている。南2郭の先端には物見台らしい高台がある。以上が蒲沢楯の遺構で、蝦島楯などと比べるとかなりしっかりした防御構造が備わっており、さすがは流郷の旗頭的豪族の居城であったと感心する。ただこの城も薮が多く、踏査は大変である。
南1郭の土橋→DSCN5171.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.812585/141.172171/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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  • 発売日: 2017/10/25
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蝦島楯(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5052.JPG←南端の堀切
 蝦島楯(蝦島館)は、西館とも言い、葛西氏の家臣蝦島氏の居城である。1590年の葛西大崎一揆では、流郷蝦島城主蝦島蔵人盛永は、栗原郡高清水の森原山に陣取った薄衣城主千葉甲斐守胤勝を大将とする葛西勢に加わったと伝えられる。

 蝦島楯は、飛ヶ沢地区の比高50m程の丘陵上に築かれている。丘陵東側を南北に貫通する市道の脇に標柱があり、そこから民家脇をすり抜けて途中まで小道が続いている。この道を登っていくと右手に腰曲輪らしい平場があり、その先は南に登る尾根を区画する横堀状の登城路となっている。この登城路から南に三ノ郭と思われる平場が伸び、南端が一段高く物見台となっており、その下に堀切が穿たれている。登城路の北には二ノ郭・主郭があるが、薮が酷くて遺構の確認が大変である。二ノ郭は主郭の南にあり、切岸だけで区画されている。二ノ郭の両側方には腰曲輪がある。主郭は丘陵中央部にある高台で、一部を除いて薮に埋もれている。主郭内の北端近くに祠があり、その周りだけ薮払いされている。主郭西側には虎口が確認できたが、薮が酷くて詳細な構造はわからなかった。主郭外周には腰曲輪が全周しているらしいが薮でよくわからなかった。また西側は腰曲輪が数段築かれているらしいが、これも激薮で踏査できていない。いずれにしても比較的小規模な館城である。
祠のある主郭→DSCN5066.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.787116/141.163030/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


豊臣秀吉 (中公新書 784)

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  • 作者: 小和田 哲男
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千手山城(栃木県鹿沼市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN4938.JPG←西を区画する三重竪堀
 千手山城は、城砦としての記録は残っていないが、鹿沼城の北方を守る城であったと考えられている。城跡は千手山公園という遊園地になっていて、大きく改変されているので、明確な遺構は丘陵の西と北を区画する竪堀だけである。しかし竪堀はいずれも規模が大きく、特に城域の西を区画する竪堀は、上部が二重、途中で真ん中に竪堀が増え、下部が三重竪堀となっており、中間土塁もしっかりした規模で見応えがある。栃木の城でこれほどの規模の多重竪堀は珍しく、貴重な遺構である。
北を区画する竪堀→DSCN4972.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573276/139.742961/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
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タグ:中世平山城
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一夜城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4797.JPG←主郭
 一夜城は、1574年の武田勝頼の東濃侵攻の際、勝頼が本陣を置いた陣城と伝えられる。一夜城の名は、明知城攻めの際に武田方の将秋山伯耆守が戸障子を立てて白壁の城のように見せかけたという伝承から名付けられたと言う。

 一夜城は、標高720.4mの山上に築かれている。北東尾根の林道脇に昨年の山城サミットで設置された誘導標識と幟があり、そこから登道が整備されている。この道を進んでいくと、最初に現れるのが小ピーク上にある北出曲輪で、本城との間を堀切で区画している。しかしこの出曲輪が置かれている意味がよくわからない。かつての大手道がこの尾根にあったのであれば、城の前衛の曲輪と言うことになる。この南西の山上には主郭がある。主郭はほとんど地山に近く、あまり削平されていない。南側に一段低く腰曲輪が見られる他、主郭中央部が鞍部となっていて堀切のようにも見えるが、いずれも普請の痕跡はわずかである。また北斜面には明確な武者走りが築かれ、主郭外周下方を廻っている。遺構としてはこれだけで、織田信長が本陣を置いた諏訪ヶ峯砦よりも更に簡素な陣城である。
北出曲輪と堀切→DSCN4788.JPG
DSCN4791.JPG←北斜面の武者走り

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.323503/137.407207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田三代の城

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  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2020/06/15
  • メディア: 単行本


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