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古城めぐり(三重) ブログトップ

津城(三重県津市) [古城めぐり(三重)]

DSC06110.JPG←水堀に浮かぶ石垣の要塞
 津城は、伊勢の豪族長野氏に入嗣した織田信長の弟信包が築いた平城である。1568年に伊勢平定に乗り出した信長は、長野氏を攻撃したが降すことができず、和睦して信包を長野氏の養子とした。信包は、当初上野城を築城して居城としたが、急造のため狭小に過ぎたので、新たに津城の築城を始めた。しかし長島一向一揆や越前討伐の出兵で築城は進まず、ようやく1580年に完成した。その後、富田氏が城主となり、1600年の関ヶ原合戦の前哨戦で西軍の攻撃を受け、戦火で荒廃した。1608年、今治城主藤堂高虎が伊勢・伊賀等22万石に移封され、伊賀上野城に入城し、翌年津城に入った。高虎は、天険の伊賀上野城を有事の本城とし、津城を平素の居城としたと言う。高虎は、津城に大改修を加え、城を拡張した。以後、藤堂氏歴代の居城となって幕末まで存続した。

 津城は、岩田川と安濃川に挟まれた平地に築かれた城で、本丸周囲に二ノ丸を巡らした環郭式の平城で、本丸の東西には馬出しとなる西ノ丸・東ノ丸という小郭が設けられて、二ノ丸に連結されていた。広大な水堀で囲まれた本丸を見ると、角馬出を東西に持った今治城というイメージである。しかし、本丸と西ノ丸以外は遺構は完全に湮滅しており、高虎の築いた要塞は半分町に埋もれてしまっている。本丸周囲の水堀さえ、全周の1/3程しか残っていない。それでもしっかりした石垣や天守台が残り、広い水堀の向こうに見える豪壮な石垣の要塞の姿は、壮観である。これで伊勢亀山城の様に、湮滅した遺構についても標柱が細かく建てられていればそれなりに満足できたのだが、湮滅遺構の標柱もなく、市民の城への愛着があまり感じられなかったのは残念である。
本丸から見た西ノ丸→DSC05997.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.717629/136.507841/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
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松坂城(三重県松坂市) [古城めぐり(三重)]

DSC05882.JPG←豪壮な石垣
 松阪城は、蒲生氏郷が新造した近世城郭である。戦国時代末期に伊勢を領した織田信長の次男信雄以来、津川玄蕃允、滝川雄利と、松ヶ島城を居城としていたが、1584年、この地に入部した蒲生氏郷は、松ヶ島城が海岸に近く不便なうえ狭小であった為、1588年、規模の大きい要害城として新たに松阪城を築城した。しかし間もなく1590年の奥州仕置で氏郷は会津に移封となり、代わって翌91年、服部一忠が松阪城主となった。その後、1595年には古田重勝が城主となり、1616年に徳川頼宣が和歌山藩主となって徳川御三家が成立すると、松阪城は和歌山藩領となり、幕末まで城代が置かれて存続した。

 松阪城は、国指定史跡となっているだけあって、豪壮な石垣遺構がよく残る平山城である。石垣で築かれた近世城郭の典型で、複雑な折れを持った城道には、巧みに枡形が築かれている。また松阪城と言うと、石垣の城という印象が強いが、下段の腰曲輪には土塁もある。ところでこの松阪城、石垣と枡形は多いがただそれだけの城という印象で、何故かあまり感銘を受けなかった。何故だか考えてみたが、今になって気付いた。「そうだ、堀がないからだ!」。城の周囲に、広大な堀がないのである。外郭には水路に変貌した外堀跡がわずかに残るが、内堀は元々無かったらしく、その分威容に乏しい。

 尚、城下には御城番屋敷が残っているが、城よりこちらの方が自分には興味深かった。その風情や古風な佇まいもさることながら、今でも人が住んでいるというのがすごい。自宅周りを観光客に普通に見せているという、寛容さには頭が下がる思いである。
御城番屋敷→DSC05893.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.575755/136.525587/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平山城
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亀山古城(三重県亀山市) [古城めぐり(三重)]

DSC05507.JPG←城跡とされる小丘
 亀山古城は、伊勢平氏関氏の歴代の居城で、伊勢亀山城の前身となった城である。関氏は、平重盛(清盛の嫡男)の子資盛が鈴鹿郡久我に流され、その孫の実忠が1204年の三日平氏の乱討伐で功を挙げ、関谷24郷の地頭職に補せられ、関に居館を築いて関氏を称したことに始まる。以後、関実忠は執権北条氏の重臣となり、1264年に久我から亀山に移って、若山の地に城を築いたとされる。これが亀山古城である。以後、関氏歴代の居城となった。南北朝時代には、関盛政は南朝方に付き、伊勢国司となった北畠氏に従った。時代は下って戦国時代後期の1573年、伊勢を制圧した織田信長によって関盛信が追放され、亀山古城は神戸(織田)信孝に与えられた。1583年、信長の後継者となった羽柴秀吉が亀山古城を攻めた際、城将佐治新介がよく防戦したものの、加藤清正・山内一豊・細川忠興らの猛攻によりついに落城し、関盛信の子一政が城主となった。その後、関一政が陸奥白河に移封となると、秀吉の家臣岡本宗憲が新たに東南の値に亀山城(新城)を築き、以後亀山古城は廃城となったと思われる。

 亀山古城は、亀山城の北西にあったと言われるが、正確な位置は特定されておらず城域も不明である。現在石碑や解説板が建っているのは、民家に囲まれた独立小丘で、この目で確認したわけではないが、特に遺構はないらしい。この小丘は、近世には古城として認識されていたというが、果たしてどうなのであろうか?また小丘西側の宅地は、居館跡であろうか?謎の多い城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.858116/136.447481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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伊勢亀山城(三重県亀山市) [古城めぐり(三重)]

DSC05371.JPG←北側空堀と二ノ丸帯曲輪
 伊勢亀山城は、豊臣秀吉の家臣岡本下野守宗憲が築いたとされる近世城郭である。この地には、元々伊勢平氏関氏の築いた亀山古城があったが、1590年の小田原の役後、新たに宗憲が亀山古城に入部したが、城地が狭く腐朽も甚だしかったため、秀吉の許しを得て、新たに東南の丘陵地に亀山城を築いたと言う。しかし発掘調査の結果からは、戦国時代末期の空堀跡が検出されており、関氏時代に既に新城の位置に城が築かれていたか、或いは出城の様なものが築かれていた可能性があるらしい。1600年の関ヶ原合戦では、宗憲は西軍に付いて没落し、その後は三宅康定が城主となった。当初は三層の天守閣があったが、三宅氏時代の1632年、幕府から丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が、間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したとされるが真偽のほどは定かではない。その後、頻繁に城主が変わり、1744年に備中松山城主石川総慶が城主となり、以後、石川氏が11代世襲して幕末まで続いた。

 伊勢亀山城は、亀山宿北側の段丘上に築かれた城で、北側と南側を10m程の断崖で守られた台地上に位置している。西出丸・本丸・二ノ丸・東三ノ丸・西ノ丸から成る広い城であったが、現在は市街化によりほとんどの遺構が湮滅している。本丸は公園となり土塁や天守代用三階櫓の櫓台跡がわずかに残る程度で、あまり遺構は残っていない。二ノ丸は小学校に変貌し、その北側の帯曲輪が復元されて開放されている。ここには埋門跡や礎石・水路跡などが発掘復元されている。その他、東三ノ丸・西出丸・西ノ丸は完全に市街化で湮滅しているが、西出丸だけわずかに土塁跡と周囲の切岸が往時の姿を残している。亀山城のシンボルとも言える現存多聞櫓は、訪城時は修理中で見ることはできなかったが、荒々しい雰囲気の古風な石垣は見ることができた。(先日、不審火があったとのニュースがあった。)ただ囲いがあったりして、石垣の中にあるという墓石はよくわからなかった。全体に湮滅は進んでいる城であるが、道路などに枡形門など往時の名残を残しており、門跡などは標柱で細かく明示されている。宿場町や家老屋敷の長屋門などもよく残っている。大手門や本丸がもう少し遺構を残していれば素晴らしかったのにと惜しまれる。
多門櫓の石垣→DSC05411.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.856214/136.450399/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世崖端城
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