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古城めぐり(富山) ブログトップ
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井田館(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9904.JPG←館の名残の石垣
 井田館は、この地の土豪斎藤氏の居館と伝えられる。井田主馬ヶ城はその詰城であったと推測されている。斎藤氏は南北朝期の貞治年間(1362~68年)の左衛門大夫入道常喜以来、楡原保一帯を支配した豪族であった。戦国期には、斎藤孫二郎利忠・小市郎利常・五郎二郎利憲の兄弟が居住していたと言われるが、1552年に上杉謙信の配下願海寺城主寺崎民部左衛門と戦って、利常・利憲は討死し、利忠は城生城に逃れたと伝えられる。その際に井田館は寺崎氏の手に落ちたとも、後には斎藤次郎右衛門信和が居住したとも言われるが明確ではない。斎藤氏は、1583年に佐々成政に城生城を攻め落とされ、没落した。

 井田館は、現在は妙法寺、白山社、立泉寺の境内となっている。これらの周囲にある土塁や西面の石垣は、館跡の名残とされる。付近を歩いて回ったが、遺構はあまり明瞭ではない。白山社周囲にある土盛りも遺構なのか、はっきりしない。現地解説板をよく読むと、「遺構」とは書いておらず「名残」とあるので、石垣も遺構ではなく切岸の名残であるらしい。空堀跡もあるとされるが、これは改変で全く分からなかった。

お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.595658/137.151840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/12/08
  • メディア: 大型本


タグ:居館
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井田主馬ヶ城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9804.JPG←二ノ郭の畝状阻塞
 井田主馬ヶ城は、この地の土豪斎藤氏が築いた城と伝えられる。斎藤氏は南北朝期から楡原保に勢力を有し、井田館を居館としていたと推測される。戦国中期には城生城に本拠を移した。井田主馬ヶ城は、井田館の詰城と推測されており、城主として斎藤主馬・主馬判官・斎藤左源太などの名が伝わるが、はっきりしない。斎藤氏が上杉勢と戦った1552年までには築城され、1583年に斎藤次郎右衛門と佐々成政が戦った城生城攻防戦以前に廃城になったと推測されている。

 井田主馬ヶ城は、標高175.4m、比高100m程の山上に築かれている。市の史跡に指定されており、北麓に登り口がある。しかし城までの尾根道は長く、500m程の距離がある。しかしこれが往時の大手道だったと考えられ、途中に削平の甘い木戸曲輪が2ヶ所確認でき、1個目の手前には一騎駆けの土橋があって登城道を防御している。主城部は、主郭(A郭、以下アルファベットは現地表記)を中心に、東側半周に同心円状に二ノ郭(B郭)を配し、その周囲に腰曲輪、また南の尾根に不整形な三ノ郭(C郭)を配置している。二ノ郭虎口は登城路が屈曲して枡形を呈し、その前面西側には浅い空堀を穿っている。二ノ郭の南東部は、浅い横堀が主郭切岸周囲に穿たれ、その外に幅広の帯曲輪が築かれたような構造となっている。この帯曲輪を刻んだ形で、畝状阻塞が構築されている。これは畝状竪堀ではなく、「櫛の歯状畝状空堀群」(佐伯哲也氏の表現)である。この形態の空堀は摩頂山南砦に似た構造があるが、珍しい形態である。この南端に大きな土壇があり、後部を防衛する櫓台になっていたと思われる。ここでは横掘が薬研堀状に狭くなっている。二ノ郭の上にある主郭は、中央に土壇のある狭小な曲輪で、内部は傾斜していてほとんど居住性はない。南の三ノ郭は中央部に土壇があり、南端に堀切が穿たれているが、これも整形が中途半端である。二ノ郭周囲の腰曲輪には、三ノ郭から道が通じている。腰曲輪には支尾根の付け根を貫通する堀切兼用の通路が設けられている。外側の斜面には竪堀もある様だが、薮でわかりにくい。以上が井田主馬ヶ城の遺構で、全体的に曲輪の削平が甘く、パッとしない印象で少々期待外れだった。
腰曲輪から見た二ノ郭切岸→DSCN9859.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.586699/137.151346/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

図説 上杉謙信

  • 作者: 今福 匡
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/03/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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大道城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9628.JPG←南1郭の大井戸、奥は主郭虎口
 大道城は、若狭城とも言い、射水・婦負郡守護代であった神保氏の支城群の最奥の城である。神保氏は、山田川沿いに鶴ヶ城富崎城下瀬城高山城・大道城を数珠繋ぎに築いているが、大道城はその最奥・最高所に位置し、最後に拠る詰城であったと考えられる。越後の上杉謙信が越中に侵攻した際、神保氏の重臣寺嶋牛之助・小嶋甚助兄弟が立て籠もったと伝えられる。また1581年、織田信長の部将佐々成政の攻撃を受けた寺嶋・小嶋両名は富崎城を拠点に織田勢に抵抗したが、5月に織田軍の攻撃を受けて富崎城は落城し、寺嶋・小嶋両名は大道城に逃れて抵抗を続けたが、後に和を結んで佐々成政に属したと言う。

 大道城は、標高639.1mの山上に築かれている。かなり山の奥深くにあるが、なんでこんなところに城を築いたかといえば、「殿様道」と呼ばれる古道が通っていたらしい。越中には飛騨に繋がる山岳古道がいくつもあり、これもその一つだったのだろう。即ち古道を押さえる要害でもあったと考えられる。この城へ行くには、標高493.7mの三角点がある峰の西中腹にある、車道から分岐する林道を登っていく必要がある。オフロード車ならば登っていけるかもしれないが、普通乗用車はこの分岐で車を降り、歩いていく方が良い。城の南東にある入口まで、歩いて50分も掛かる遠い道のりである。市の史跡に指定されているので、この入口から城内まで散策路が整備されている。山奥の城であるが普請の規模はかなり大きい。堀切で分断された南北4つの曲輪で構成されており、ここでは便宜上、北から順に北郭・主郭・南1郭・南2郭としておく。散策路を登っていくと最初に現れるのが南2郭を防御する横掘である。南2郭は南に突き出たT字型をした曲輪で、外周に横掘を廻らし、西端部に搦手虎口を築いている。この虎口は入ってすぐ正面に土塁があり、導線を屈曲させた枡形虎口となっている。南2郭の北には南1郭の切岸があるが、切岸の下は堀状の通路となっている。この西端は竪堀が穿たれていることから、一応堀切としての機能を有していたようである。中央より東寄りに虎口がある。南1郭は郭内が傾斜しており、主郭の虎口の前には大井戸の穴があり、まるで落とし穴である。この大井戸の障壁を迂回する枡形の通路で、堀切に架かる土橋へ至る。主郭南側は堀切で画されている。主郭の搦手虎口は内枡形を形成している。主郭の北側には大手虎口があり、その右手には土塁がそびえ、櫓台となっている。主郭北側も堀切で画され、虎口前に土橋が架かっている。その先が北郭で、郭内は傾斜しており、北辺と東辺に土塁を築いている。西端近くに大手虎口があり、前面の堀切に土橋が架かっている。土橋の先には大井戸の穴があいており、南1郭のものと同じく導線を制約する役目を果たしている。この他、北郭と主郭の東側には横掘が穿たれ、主郭前後の堀切はこの横掘に交差し、更に竪堀が落ちている。つまり主郭の南東・北東は、横堀・堀切・竪堀の交差点となっている。大道城は、堀切・横掘の規模は決して大きくはないが、これらが防御線としてしっかり構築されている。
主郭北側の堀切→DSCN9718.JPG

 尚、大道城から北東に1kmの地点には、山中を通る山道の途中に「門口の門」と呼ばれる遺構がある。大道城の大手門と伝えられ、両脇に切岸・曲輪を築いた枡形通路となっている。
DSCN9541.JPG←門口の門の枡形通路

 いずれの遺構も結構草木が多く、少々確認しにくいのが難である。ちなみにこの城から車に戻り、走り出して少ししたら緊急地震速報が鳴り、車を止めたらグラグラ揺れていた。珠洲で大地震があった時だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【大道城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.545458/137.070204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【門口の門】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553284/137.076395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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下瀬城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9499.JPG←大堀切
 下瀬城は、射水・婦負郡守護代神保氏の重要拠点富崎城の出城である。『三州志』によれば、天正年間(1573~92年)に越後の上杉謙信が越中に侵攻した際、神保麾下の部将が築いたと言われる。また富崎城との間には山上を通る連絡路もあったと伝えられる。山田川沿いに展開する鶴ヶ城・富崎城・下瀬城・高山城大道城は、いずれも神保氏とその部将が居城したことで知られており、神保氏がこの流域に大きな支配力を持っていたことを物語っている。

 下瀬城は、山田川東岸に連なる丘陵から北西に突き出た尾根上に築かれている。登道はないので、適当に尾根に取り付いて登るしか方法はない。しかも城のある尾根の北西部は建設会社の敷地となって削られているので、削り残されている部分を登攀する他ない。幸い、城のある尾根の西にある谷に入っていく道があるので、そこから谷に入り、適当なところから左手の削り残された尾根に取り付いて登った。この尾根の最上部は垂直絶壁となっているが、右側に迂回する獣道があり、それを辿ると二ノ郭の虎口に至る。二ノ郭は、L字型をした曲輪で、北側の部分が広くなっている。L字の折れの西側に大手虎口があるが、広い谷状の地形になっていて、ここに3つの小段がある。枡形虎口の一種のようである。二ノ郭の背後には堀切が穿たれ、その上に主郭がそびえている。主郭は長方形をした縦長の曲輪で、背後には深さ7m程の大堀切が穿たれている。大堀切の後ろには物見の小郭があり、その後部にも小堀切が穿たれて城域が終わっている。この他主郭の西側には腰曲輪があり、大堀切から武者走りが繋がっている。下瀬城は連郭式の小規模な城であるが、堀切は鋭く、大手虎口にも工夫があり、繋ぎの城として重視されていたことがうかがわれる。
二ノ郭大手虎口の段→DSCN9476.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.634720/137.106929/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


地図でめぐる日本の城

地図でめぐる日本の城

  • 出版社/メーカー: 帝国書院
  • 発売日: 2023/07/08
  • メディア: 大型本


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銀納砦(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9418.JPG←主郭南の横掘と切岸
 銀納砦は、歴史不詳の城砦である。富崎城からわずか200m程しか離れておらず、富崎城に付随した出砦であったことはほぼ間違いないだろう。

 銀納砦は、富崎城のある段丘の東端部に築かれている。東に向かって傾斜した地形に段状に曲輪を築いている。最上段が主郭で、郭内には富崎墳墓群3号墓があり、櫓台として転用したものと推測される。主郭の南と西に土塁が築かれ、その外周には横掘が穿たれている。この横掘は北の尾根まで回り込んで掘り切っている。更に外側には西から北にかけて谷があり、自然地形をそのまま外堀として使ったものだろう。主郭の東部から下の曲輪にかけては墓地となって改変されているが、わずかに南側に土塁と空堀が確認できる。東方の監視を主任務とした物見の砦であった様である。
主郭の西から北にかけての横掘→DSCN9443.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.642107/137.120544/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/12/03
  • メディア: 大型本


タグ:中世崖端城
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富崎城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9330.JPG←主郭の空堀
 富崎城は、滝山城・福山城とも呼ばれ、戦国時代に射水・婦負郡守護代であった神保氏の有力支城の一つである。伝承では、1441年に神保八郎左衛門が居城したと言われる。戦国前期の天文年間(1532~55年)に、富山に進出した神保長職が本格的に築城したとされる。長職は、永禄年間(1558~70年)に越後の上杉謙信に富崎城を攻められ、1562年の戦いで謙信に降り、上杉氏に属して増山城に居城を移した。元亀年間(1570~73年)に長職が没すると、富崎城には長職の旧臣水越氏が一向一揆と共に立て籠もり、1572年9月に謙信に攻撃されて落城した。この時謙信は、城内を悉く焼き払い、城を取り壊したと言う。天正年間(1573~92年)には一時上杉氏が支城として使ったと見られ、1581年には神保氏旧臣の寺嶋牛之助・小嶋甚助兄弟が富崎城を拠点に織田氏に抵抗したが、5月に織田軍の攻撃を受けて落城し、寺嶋氏らは大道城に逃れて抵抗を続けたが、後に和を結んで佐々成政に属した。寺嶋氏らが落ち延びた後の富崎城は、佐々氏の支城となったと見られるが、この時に廃城になったとの説もある。

 富崎城は、山田川南岸の段丘上に築かれている。段丘北西端部を三角形に区画した城域を有している。城は大きく南北2郭に分かれ、北が主郭、南が二ノ郭である。主郭内にはわずかな段差があり、井戸跡も残っている。主郭南には空堀が穿たれ、空堀は南西で直角に折れて崖線まで掘り切っている。空堀中央部には土橋が架かり、二ノ郭に繋がっている。土橋の先は一段高くなっていて、現地解説板では馬出しとしているが、私の定義では馬出しではなく虎口郭である(馬出しは空堀で囲まれた独立小郭。虎口郭は主郭または他の曲輪に付随する小郭で、空堀で囲まれておらず独立性が高くない)。二ノ郭周囲にも空堀が穿たれ、横矢掛りが数ヶ所設けられている。主郭・二ノ郭の東側には腰曲輪が築かれ、腰曲輪の中央部には堀底道が外に向かって設けられて枡形虎口を形成している。この他、主郭の北斜面にも、段曲輪群と2本の堀切が穿たれており、川岸からの接近を阻止している。富崎城は、遺構はよく残っているが、二ノ郭など未整備の薮に覆われていて、遺構の確認がし辛い部分もある。また空堀の規模もそれほど大きくはなく、台地側からの要害性がそれほど高いとは言えず、長職没後はあまり積極的な使用はされなかったように感じられた。
北斜面の堀切→DSCN9310.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.642847/137.117615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


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長沢西城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9180.JPG←枡形虎口
 長沢西城は、単に長沢城とも呼ばれる。明確な歴史は不明であるが、観応の擾乱以来室町幕府に敵対していた元越中守護桃井直常が最後に挙兵した1369年、桃井軍の侵攻を受けた能登守護吉見氏頼がこれを迎え撃って各地で桃井勢を撃破し、逆に越中に攻め込んだ。更に越中守護斯波義将・加賀守護冨樫竹童丸もこれに加勢し、1370年3月16日に直常の嫡子直和を越中国長沢で討ち取っている。この長沢合戦の舞台となったのが長沢城ではないかとされるが、確証はない。戦国末期の佐々成政支配時代には、その家臣寺島牛之助の居城になったとも伝えられるが、これも明確ではない。

 長沢西城は、辺呂川の北側に連なる丘陵地の一角、石山に築かれている。婦中ふるさと自然公園の散策路から行くことができ、長沢東城への分岐点から更に奥に300m程進むと、西城への分岐がある。U字型をした2つの尾根に挟まれた谷部に大きな平場を築いて主郭とした形態の城である。こうした谷中式曲輪の城は、少ないが他県でも類例がある。主体となる平場は、間に仕切り土塁があって南北に分かれている。南の平場は南東から登る虎口があり、これが二ノ郭であろう。奥に位置する北の平場は大井戸があり、これが主郭と思われる。二ノ郭に登る城道は多重枡形虎口となっており、虎口側方には櫓台が築かれている。虎口の右上方には武者隠しと呼ばれる小郭があって、虎口の防御を厳重なものにしている。この大手の多重枡形を出て、道が少し下ったところには、谷側に2本の横掘・土塁が築かれている。その先に道の屈曲がもう一つあり、側方に竪堀と土塁を伴っている。主郭背後には削り残しの尾根があり、上部が削平されて上方から主郭を守る曲輪(B郭)となっている。この曲輪の南に伸びる尾根の中間には櫓台の土壇が築かれている。また南東に伸びる尾根には土塁や小郭があり、先端に堀切が穿たれている。この堀切に谷側から近づいた時、鹿がダッシュで逃げていった。B郭の後部には鞍部の先に小ピークがあり、ここに詰の曲輪であるC郭がある。C郭も北面に土塁が築かれ、背後の尾根には堀切が穿たれている。その先は自然地形の尾根であるが、側方に土塁がある。おそらくこの背後の尾根筋で東城と連絡していたのだろう。以上が長沢西城の遺構で、手の込んだ多重枡形虎口が異彩を放っている。
南尾根の櫓台→DSCN9153.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.650612/137.108088/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 北朝編

南北朝武将列伝 北朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/05/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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長沢東城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9045.JPG←大手枡形
 長沢東城は、家老屋敷とも言い、歴史不詳の城である。谷を挟んで南西には長沢西城があり、東城は西城の出城であった可能性がある。南東約1.2kmには富崎城があり、富崎城の攻防に関連して築かれたものと推測されている。

 長沢東城は、辺呂川の北側に連なる丘陵地の一角、無常山に築かれている。婦中ふるさと自然公園から南西に広がる林の中の散策路を進んでいくと、やがて城への案内板が現れる。そこから南東へと進んでいくと、城域に至る。城内は大きく7つの曲輪に分かれ、現地ではA~G郭と名前が割り振られている。城域後部の最高所にあるのがG郭で、本丸とされている。削平が甘い地山で、周囲の切岸も不明瞭であり、単なる物見か詰丸的な位置づけである。G郭の南東には切岸で区画されたF郭があり、二の丸とされるが、実態はG郭の腰曲輪である。その下方の平坦地にC~Eの3つの長方形の平場が並ぶが、土塁があるのは一番西のE郭だけで、他はわずかな段差で区画されているだけで、いかにも屋敷地と言う感じである。これらの南側に高台となったA郭がある。A郭は城内で最も広く、土塁もあり、浅い空堀でB郭と区画され、東下方に大手枡形を置いている。実質的な主郭はA郭であろう。B郭はA郭の東に突出した尾根上の曲輪で、A郭とは土橋で連結されている。大手枡形を俯瞰する位置にあり、大手虎口防衛の櫓台として機能していたと考えられる。大手枡形は、前面に土塁を築き、入り口を狭めている。枡形からの城道は、A郭へ登る道とC~E郭の脇を通る道に分かれて通じている。長沢東城は、家老屋敷の別名通り、家臣団の居館地的な城である。
A郭の土塁→DSCN9090.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.651903/137.109654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/12/01
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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赤丸城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8956.JPG←二ノ郭西側の畝状竪堀
 赤丸城は、この地の国人領主中山氏の居城と推測されている。中山氏は、室町~戦国前期にかけて浅井城を本城としていたが、戦国後期になると赤丸城に居城を移したと推測されている。佐々成政が越中を平定する過程でその配下に入った様である。天正年間(1573~92年)の城主として中山国松の名が伝わっている。1584年に成政が前田利家の支城末森城を大挙攻撃した際(末森合戦)には、中山氏も参陣している。1585年8月に成政が豊臣秀吉の討伐を受けて降伏し、越中を離れると、中山氏もこの地を離れ、越前敦賀に移り住んだとされる。尚、『日本城郭大系』では浅井城のことを赤丸城として記載している。

 赤丸城は、標高172mの城ヶ平山に築かれている。ハイキングコースが整備されており、迷うことなく登ることができる。登道は、東麓からと北東尾根筋の2ルートが有り、往時の大手に当たる北東尾根から登る方が遺構がよく分かる。登り口は八幡宮の裏手にある。北東尾根を登っていくと途中に鉄塔があり、それを越えて登っていくと、3本の堀切と段曲輪があり、その先に山頂の主郭がある。主郭は東側が一段低く腰曲輪状になっている。南東尾根にも4本の堀切が穿たれており、間には小郭も見られるが、ほとんどは自然地形の尾根となっている。主郭の西側には二ノ郭があり、殿様池と呼ばれる井戸跡が残っている。二ノ郭の周囲には腰曲輪群が築かれており、南の腰曲輪群は下方に土橋で後部土塁と連結した馬蹄形曲輪がある。また二ノ郭から伸びる南西と北西の尾根の先にも堀切があり、南西ではその先に出曲輪が築かれている。二ノ郭の西斜面には、明確な畝状竪堀が穿たれている。畝状竪堀は、主郭の東斜面にも穿たれているとされるが、草木に埋もれているせいもあってほとんどわからなかった。以上が赤丸城の遺構で、高岡市内の山城の中ではかなり技巧的な縄張りの城である。
南東尾根の3本目の堀切→DSCN8895.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.737225/136.921577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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浅井城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8785.JPG←幅広の堀切
 浅井城は、この地の国人領主中山氏の居城である。中山氏は、室町~戦国前期にかけて浅井城を本城としていたが、戦国後期になると赤丸城に居城を移したと推測されている。後に佐々成政が越中に入ると、中山国松は成政に服属したが、1585年8月に成政が豊臣秀吉の討伐を受けて降伏し、越中を離れると、中山氏も城を退転したと考えられている。尚、別説では、勝興寺の坊官下間氏が増山城の神保長職との戦いを指揮する為に浅井城に一時的に拠ったとも言われる。

 浅井城は、清水山から南東に向かって張り出した比高40m程の尾根先端部に築かれている。城へは、浅井神社の奥に伸びる車道を500m程進み、南に入る林道を5分以上歩くと、ようやく城の解説板が現れる。しかし城はそこから更に150m程奥にある。結構遠回りになるので、遺構を手っ取り早く見たい方は城の周囲の急斜面を強行突破した方が早いかもしれない。尾根の基部には幅広の堀切が穿たれ、その先が城域で、後部に方形の主郭がある。主郭は2段の平場で構成されている。主郭の南東には菱形をした広い二ノ郭が広がっている。二ノ郭外周には腰曲輪が築かれている他、二ノ郭内部もいくつかの段差で区画されているようだが、草木が繁茂していて形状がわかりにくい。以上が遺構の全容で、解説板にある通り「全体として縄張りが単純」であり、政庁機能を主とした館城だったと思われる。
主郭→DSCN8792.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.740956/136.932939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2013/12/01
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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二ッ城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8737.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 二ッ城は、標高264.1mの三千坊山に築かれている。三千坊山には、中世には能登石動山天平寺と関係のあった天台宗寺院があったと伝えられ、山伏修験の場であったらしい。南北朝時代には遠江国井伊谷を逐われた後醍醐天皇の皇子宗良親王が、1342年に名子の裏(放生津)に滞在しており、二ッ城にあった天台寺院と関係があったと言われる。それもそのはず、宗良親王は元弘の乱当時は天台座主を務めていたので、天台寺院とは深い繋がりがあったのだろう。しかし北朝方の攻撃により、この三千坊の寺院堂舎は焼亡したらしい。また戦国時代にも越後上杉氏の軍勢による戦火で焼失したと推測されている。これらのことから推測すると、二ッ城は南北朝時代によく見られる、寺院を城砦化した寺院城郭、もしくは寺院勢力が築いた詰城であったと考えられる。

 二ッ城は、前述の通り三千坊山にあり、ハイキングコースが整備されているので簡単に登ることができる。ルートはいくつかあるようだが、南中腹から登るルートが一番わかり易い。南から登ると最初に到達するのが主郭の南虎口で、浅い横堀が穿たれた円弧状の虎口郭があり、横掘の西端に竪堀が落ちている。虎口郭の上には主郭がある。主郭は円形の曲輪で展望台が建っており、高岡城などがよく見える。主郭の西には堀切を挟みながら、二ノ郭・三ノ郭が並んでいる。主郭と二ノ郭との間の堀切の北東には主郭腰曲輪がある。縄張図では二重竪堀があるとされるが、薮でわかりにくい。二ノ郭は小さな方形の曲輪で、三ノ郭との間の堀切は浅い。三ノ郭は堀切に沿って土塁が築かれ、西側には腰曲輪が築かれている。腰曲輪には3本の竪堀が間隔を開けて落ちているようだが、これも薮でわかりにくい。この他、主郭の東側にも横掘があり、前述の虎口郭脇から堀が繋がっているようだが、薮が多くてよくわからない。以上が二ッ城の遺構で、遺構はよく残っているが小さな城砦であり、主要部以外は未整備の薮に覆われていてわかりにくいのが残念である。
主郭南の虎口郭→DSCN8724.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.773998/136.933798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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頭川城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8703.JPG←西端の堀切
 頭川城は、南北朝期に古文書に出てくる城である。『二宮円阿軍忠状』によれば、足利一族の名門斯波高経の重臣であった二宮円阿は、1362年に2代将軍足利義詮と主君高経の命を受け、観応の擾乱以来室町幕府に敵対していた元越中守護桃井直常を討伐する為越中国に出陣した。和田合戦などを転戦した後、約5ヶ月間、和田城(増山城か?)を警固した。1363年3月、和田城において「鴨城衆」を命じられて鴨城に入り、5月12日に鴨城衆と共に「頭高城」を攻略し、焼き払ったと言う。ここで言う「頭高城」が頭川城の事ではないかと考えられている。

 頭川城は、小矢部川西方の比高30m程の丘陵先端部に築かれている。この丘陵上には安居山古墳群があるが、頭川城は方墳をそのまま櫓台に転用するなど、城内にそのまま取り込んでいる。そのため主郭の普請はざっくりしている。主郭の前面には2段の腰曲輪が築かれ、また後部には浅い堀切を挟んで土壇が築かれている。土壇の背後には城域西端を画する深い堀切が穿たれている。城内には里山遊歩道が通っており、東麓から登ることができる。遺構は大したことはないが、南北朝期の城の形態をそのまま留めており、貴重である。
主郭内の古墳→DSCN8688.JPG
DSCN8698.JPG←主郭後部の堀切と土壇

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.765232/136.964192/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


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摩頂山城(富山県氷見市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8560.JPG←西側の二重堀切の内堀
 摩頂山城は、歴史不詳の城である。谷を挟んで守山城と対峙する位置にある。また両城は尾根伝いに繋がっており、この尾根には二上山城、摩頂山南砦などが存在する。これらのことから、守山城の支城または付城など、守山城に関連する城であった可能性も考えられる。

 摩頂山城は、標高254mの摩頂山に築かれている。山頂の主城部の他に、周辺尾根の広い範囲に遺構が散在する広域の城であるが、佐伯哲也氏が指摘している通り求心性の乏しい縄張りである。南中腹には弘源寺があり、城のすぐ側まで車道が通っているので、訪城はたやすい。山頂部は東西に長い細尾根となっており、そこに城の中心部がある。細尾根は中間部を堀切で分断しており、そこから東側が主郭群である。主郭群は2~3段の平場で構成されているが、土塁は見られない。急峻な北側以外の三方を腰曲輪で囲んでいる。また堀切の西側は細尾根の曲輪で居住性はほとんどない。南側下方には主郭群の下から続く腰曲輪がある。その他にも平場群が周囲に見られるが、竹林になっているので改変の可能性が捨てきれない。これら主城部の西側は中規模の二重堀切で分断されている。またその北西下方には腰曲輪と二重竪堀が残っている。更に西の下方にも腰曲輪1段と竪堀があるようだが、未踏査である。
 一方、主城部から南に伸びる2本の尾根の先に遺構がある。この内、東の南尾根にある曲輪群だけ途中まで確認した。この南尾根曲輪群は2本の堀切を穿ちながら段曲輪群を展開している。ずっと降った先にもそこそこ大きな堀切があるようだが、結構竹薮が酷いのでパスした。
 主城部の東中腹にも車道脇に遺構がある。この東郭群は、墓地がある平場の先に幅広の土塁が築かれ、その下に幅広の空堀と土壇状の腰曲輪がある。畝状空堀はないが、摩頂山南砦とよく似た遺構である。
 車道を挟んで北東の小峰にも遺構がある。この北郭群は、細尾根の基部に土橋を削り残した竪堀を両側に穿ち、その上の小峰に大穴のある物見台が築かれている。この穴は櫓などの建物地下室の跡だろうか?周囲には猫の額ほどの小さな腰曲輪が築かれ、東尾根には二重堀切が穿たれている。この二重堀切の南側は竪土塁・竪堀が長く下っている。東尾根はその少し先にも堀切があって城域が終わっている。この最東部の堀切も南に長く下っている。
 以上が摩頂山城の遺構で、ほぼ全域が竹薮となっていて、少々遺構の確認がし辛いのが難である。おまけに遺構が散らばっているので、体力温存と時間の制約で踏査しなかった遺構もあることをお断りさせていただく。
主郭群の段差→DSCN8591.JPG
DSCN8624.JPG←南尾根曲輪群の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.796510/137.010455/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完全保存版 日本の城1055 都道府県別 城データ&地図完全網羅!

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  • 出版社/メーカー: 西東社
  • 発売日: 2022/11/07
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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守山城周辺遺構群(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

 守山城の項で記載した通り、二上山塊の広範囲に守山城の関連遺構が散在している。その内のいくつかを踏査したので、ここに記載する。

<向山屋敷>
DSCN8124.JPG←A郭東端の竪土塁
 向山屋敷は、守山城の大手道「殿様道」が通る尾根の東向かいの尾根南端部に築かれている。2つの尾根に挟まれた谷は「内輪子」と呼ばれ、ここには中下級の家臣団屋敷があったのではないかと推測されている。それに対し向山屋敷は、前田利長期の重臣クラスの家臣団屋敷の一つと考えられている。

 登道はないので、南の斜面を直登した。但し、眼の前の県道は車の往来が多いので、不審者と間違われないようにタイミングは見計らう必要がある。『守山城跡詳細調査概報1』の測量図を参照すると、屋敷跡と見られる大きな平場Aがあり、その東端に土塁が築かれている。土塁の東には上下2段の平場で構成されたB郭があり、ここにも竪土塁が築かれている。B郭の下方には腰曲輪的なC郭があり、竪堀が落ちている。またA郭の北東の尾根の北筋には堀切が2本穿たれており、堀切に挟まれた小郭は物見台のように思われる。それ以外はほとんど自然地形の尾根である。向山屋敷の西側下方には向山西屋敷、北側下方には対馬屋敷という平場が残るが、時間の都合で未踏査である。尚、対馬屋敷は前田対馬守長種の屋敷跡であった可能性があると言う。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.778054/137.004297/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<二上山城>
主郭→DSCN8390.JPG
 二上山城は、守山城の前身の城と推測されている。その存在が公にされたのは平成19年発行の『守山城跡範囲確認調査概報Ⅰ』の中である。そこでは、二上山城に大規模な曲輪や切岸がないことから、南北朝期から戦国前期にかけて構築・使用されたものと推測している。即ち、南北朝期の文献に出てくる「獅子頭」城とは、この二上山城のこととする説である。また神保慶宗期の史料には「二上城」「二上要害」と書かれ、天文年間(1532~55年)以降の神保長職期になって初めて「守山城」の名が現れることから、天文年間になって現在の守山城が新たに構築されたとの説を提示している。

 二上山城は、標高274mの二上山に築かれている。現在遊歩道が整備されている。山頂の主郭には日吉神社の祠がある。遊歩道設営による改変が多いため、主郭以外に見るべき遺構は少ない。主郭は南北に長い平場であるが、土塁等は見られない。北東と南西には段曲輪らしい小さい平場がある。南西の尾根には片堀切も含めて6本の堀切があるとされるが、自然地形とほとんど区別がつかない。また主郭から北西の遊歩道を下っていくと、下の方に小郭と堀切があるとされるが、薮のせいもあってこれも判然としない。その更に下には薮に覆われた広い平場があるが、遺構かどうかは明確ではないらしい。以上のような感じで、砦レベルのものはあったかもしれないが、同じ南北朝期創築の千代ヶ様城などと比べても、遺構面で見劣りする。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.789981/137.015433/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<摩頂山南砦>
DSCN8486.JPG←畝状空堀の一つ
 摩頂山南砦は、二上山と摩頂山の中間にある標高240m程の峰に築かれている。守山城の関連遺構とも考えられるが、東方への備えを持った縄張りであることから、北西にある摩頂山城を守る拠点としての性格が強いのではないかとの説が提示されている。

 摩頂山南砦は、南北に走る細尾根上に主郭を含む2つの曲輪を置き、その南から西に伸びる尾根筋と、主郭の東下方に遺構を配置している。主郭もその北にある曲輪も、大した面積はなく居住性はない。西尾根は、尾根の付け根に両側にハの字に落ちる竪堀を穿っている。尾根途中は自然地形だが、先端近くに小堀切があり、その先には物見台、堀切の南側下方には腰曲輪を築いている。腰曲輪の両側から竪堀が落ちている。一方、主郭の東下方には複雑な遺構がある。主尾根の東直下に幅広の横堀が穿たれ、その脇に腰曲輪が置かれている。腰曲輪の東辺は一段高い土壇状の幅のある曲輪となっているが、ここを3本の空堀(畝状空堀)で刻んでいる。その東にも横堀が穿たれ、3本の畝状空堀はこの横堀に直交している。更にその東には帯曲輪があり、もう1本の横堀で東側を分断している。曲輪内部を刻む畝状空堀は、富山県内では升形城・中村山城・広瀬城などに類例があると言う。いずれも天正年間(1573~92年)の上杉氏・佐々氏の城であったことから、摩頂山南砦も戦国末期の遺構と推測されるようである。基本は細尾根城郭であるが、空堀群を組み合わせた遺構は特異である。
 尚、道はないので適当に斜面に取り付くしか砦に行く方法はない。しかも当然、内部は薮である。
畝状空堀の東にある横堀→DSCN8497.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.793555/137.014189/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2013/12/01
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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守山城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8204.JPG←三の丸門口の土塁と虎口
 守山城は、二上城とも言い、越中3大山城の一つである。守山は古くは「獅子頭」と呼ばれ、南北朝時代に能登守護吉見氏の軍勢が、幕府に敵対する桃井直信(元越中守護桃井直常の弟)らの拠点獅子頭などを攻めたことが軍忠状に見えており、これが後の守山城の史料上の初見である。室町時代に畠山氏が越中守護となると、守山城は射水・婦負郡守護代となった神保氏の拠点となった。神保氏は最初、放生津城を居城としたが、1519年、越前守慶宗の時には、越中守護畠山尚順の要請に応じた越後の長尾為景らの攻撃を受け、二上城に立て籠もっている。このことから当時守山城は、放生津城の詰城としての性格を有していたと推測されている。1554年には、神保長職の一族神保職広が守山城主であったことが知られる。1560年、上杉謙信が神保長職討伐のため越中に侵攻し、富山城増山城を次々に攻略して長職を駆逐すると、守山城は自落している。その後、長職が上杉氏に降ると、神保氏張が守山城主となった。1578年に謙信が急死すると、その動揺の隙を突いて織田信長は越中への侵攻を開始し、氏張は織田方に転じた。1581年、信長の部将佐々成政が越中に分封されると、氏張は成政に仕えてその有力部将となった。また成政は、越中入国当初は氏張の居城守山城に在城したとも言われており、守山城の高い軍事上の位置づけを示すものとされる。1584年、成政が加賀・能登を領有する前田利家と対立すると、能登との国境線上にある荒山砦には氏張の家臣袋井隼人が置かれ、守山城は氏張父子が4千余の兵で守ったという。翌85年8月、成政が豊臣秀吉の討伐を受けて降伏すると、新川郡を除く越中3郡が前田利家の子利長に与えられ、利長は加賀松任城より守山城に入って居城とした。1590年の小田原の役の際、前田氏も北国勢を率いて出陣すると、守山城には前田対馬守長種が留守将として入った。以後もしばらく利長は守山城を居城とした。1597年10月に利長が富山城に居城を移すと、再び長種が守山城を預かったが、翌年には廃城になったと考えられている。

 守山城は、二上山南西の尾根続きにある標高258.9mの城山に築かれている。本丸からは東に向かっては富山平野と富山湾の全域が、北に向かっては氷見地域全域が一望でき、この城の重要性と城を築いた理由がよくわかる。本丸周辺は公園化されて大きく改変されているが、大まかな遺構は確認できる。本丸の西と南には腰曲輪が数段あり、本丸南西部の切岸にはわずかに石垣が残っている。南下方には舌状の二の丸、二の丸の南西尾根には長い三の丸とその先には段状に曲輪群が展開している。三の丸の付け根には門口の土塁が残り、中央に虎口が開いている。門口の裏は堀切状の城道となっていて、二の丸西側の帯曲輪に通じている。またここから南西に向かって、三の丸の尾根に沿った帯曲輪が伸びている。その先は車道が貫通している。
 一方、城の中心部から少々離れた西尾根にも曲輪群がある。薮だらけだが平場群と切岸が確認でき、西の先端には堀切が穿たれ、その先は物見台となっている。
 南東尾根の車道から下の尾根には、殿様道の曲輪群がある。尾根に沿って段曲輪群があり、下方には竹林になった広い曲輪がある。この曲輪の西端部には竪土塁で区画された大きな竪堀状の通路があり、かつての大手道ではないかと想像される。
 本丸の後方には高台に鉄塔が建っているが、この後部には堀切らしい地形が残る。
 以上が守山城の遺構であるが、高岡市教育委員会の調査報告書によれば、二上山塊の広範囲に遺構が散在している。本項で記載したのは広大な遺構群の中心部分だけであり、その他の遺構については項を改めて記載することにする。
本丸南西に残る石垣→DSCN8168.JPG
DSCN8263.JPG←西尾根の堀切
殿様道の竪堀状通路→DSCN8283.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.787180/137.009350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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太田本郷城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8075.JPG←屈曲する堀跡らしき水路
 太田本郷城は、上杉氏によって築かれた城である。1572年、上杉謙信の部将河田長親が一向一揆に備えてこの地に陣を張ったのが初見で、翌年謙信が富山城に拠る一揆勢を包囲した際に築いた向城群の一つであったとされる。これが実質的な城の始まりと考えられている。1578年に謙信が急死すると、その動揺の隙を突いて織田方が飛騨方面から越中に侵攻を開始した。9月24日、織田方の部将斎藤利治が尾張・美濃の織田軍を率いて侵攻すると、津毛城の上杉方城将椎名小四郎(長尾景直)・河田長親は戦わずして津毛城を退去し、今泉城に撤退した。上杉勢が退去した津毛城には織田方の部将神保長住が入城し、利治は太田本郷城に陣を敷いた。そして利治は、今泉城にいる河田・椎名ら上杉勢を攻め、10月4日に月岡野で上杉勢を破った。

 太田本郷城は、円光寺を含む一帯にあったとされる平城で、車道脇に城址碑と解説板が立っている。平成3年と平成12年に実施された発掘調査の結果、2本の堀跡が確認され、南北2郭以上で構成されていたと推測されている。現在残っているのは外堀跡だったと思われる屈曲した水路だけで、その他は畑・駐車場、円光寺の境内となって遺構は湮滅している。早くに失われた城で、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.660062/137.243335/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国革命

戦国革命

  • 作者: 吉村正夫
  • 出版社/メーカー: 北國新聞社出版局
  • 発売日: 2016/10/05
  • メディア: 単行本


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月岡野古戦場(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8065.JPG←古戦場跡の祠
 月岡野古戦場は、1578年10月4日に織田方の部将斎藤利治が上杉勢方の椎名小四郎(長尾景直)・河田長親と戦って大勝した古戦場である。その経緯は津毛城の項に記載する。尾張・美濃の織田軍を率いた斎藤勢が来攻すると、津毛城の上杉方城将椎名小四郎(長尾景直)・河田長親は、戦わずして津毛城を退去し、今泉城に撤退した。今泉城の守りは固く、攻めあぐねた利治は一計を案じ、夜半になって撤退を開始して上杉勢を城からおびき出した。この罠にかかって城から出た上杉勢は、複雑な地形の月岡野で逆襲に転じ、首級360を上げる大勝をあげた。この勝利によって越中の勢力図は塗り替えられ、上杉勢は一気に後退し、越中に織田方の勢力が扶植される画期となった。

 月岡野古戦場は、「月刊グッドラックとやま」の記事によれば、月岡野で討ち取られた首級は首塚に埋められ、その塚から出土した石仏が開発駅近くの県道43号線脇に祠として安置されているという。解説板も標柱もないが、祠だけが人知れず戦いの歴史を伝えている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.636356/137.242262/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


地図と読む 現代語訳 信長公記

地図と読む 現代語訳 信長公記

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/09/28
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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津毛城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8057.JPG←城址の現況
 津毛城は、越中に進出していた上杉氏が、飛騨方面からの織田勢の富山侵攻を食い止める前線拠点となった城である。確証はないが、元々の創築は南北朝期の武将桃井播磨守直常によると言われる。桃井氏の事績は桃井城の項に記載する。江戸時代の文書によれば「ツケノ城」「附之城」などと記されており、これが津毛城の本来の城名であったらしい。それによれば、飛騨の三木良頼の部将で戸川(栂尾)城主塩屋筑前守秋貞が、樫ノ木城を攻撃するために築いた付城であったとされている。その時期は、永禄・元亀年間(1558~73年)頃と推測されている。その後、越後の上杉謙信が越中に進出すると、上杉氏の家臣村田修理(縫殿助)が城将となり、上熊野城主二宮氏と頻りに交戦したと伝えられる。1578年に謙信が急死すると、その動揺の隙を突いて織田方の神保長住が飛騨から侵攻した。更に9月24日、織田方の部将斎藤利治が尾張・美濃の織田軍を率いて来援すると、津毛城の上杉方城将椎名小四郎(長尾景直)・河田長親は、戦わずして津毛城を退去し、今泉城に撤退した。上杉勢が退去した津毛城には、神保長住が入城した。10月4日、利治は月岡野で河田・椎名らの上杉勢と戦って大勝し、首級360を上げた。その後、織田方が富山城付近を確保するまでの間、津毛城も織田方の拠点として守られていたと推測されている。

 津毛城は、熊野川とその支流黒川の合流点に東から突き出た段丘先端部に築かれている。残念ながら1960年代後半に城跡は大規模な土砂採取によって消滅し、その後は福沢小学校などの校地に変貌している。従って遺構は全く残っていない。しかし昭和30年代後半の航空写真を見ると、東側を区画するクランクした空堀が畑地の中にはっきりと見え、クランク部に虎口の存在も確認できる。現在は、崖に囲まれた丘陵の地勢だけが城の名残を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.603169/137.257605/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

図説 上杉謙信

  • 作者: 今福 匡
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/03/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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新宮山城(富山県立山町) [古城めぐり(富山)]

DSCN8000.JPG←参道側方の竪堀状の堀底道
 新宮山城は、1579年に長連龍が岩倉薩摩が籠城する岩倉城を攻め落としているが、この岩倉城のことと推測されている。

 新宮山城は、岩峅寺駅南東にある比高わずか35m程の丘陵先端部に築かれている。主郭には熊野神社が建っているので、参道が整備されており、何の苦もなく登ることができる。そんな城なので、全く期待せずに登っていたら、参道横に突然L字型の堀底道(竪堀)が現れた。完全に油断してたので、立派な遺構にびっくりした。この脇には2段の腰曲輪が築かれている。堀底道の横を抜けて登ると、上の腰曲輪には両側に土塁が築かれた虎口が開かれ、段を経由して登城路は屈曲していくので、枡形虎口を形成していたと考えられる。その上には主郭の切岸が立ちはだかっており、この部分の虎口構造は技巧的で、織豊系山城の先駆け的な様相を呈している。主郭には神社が建っているが、脇に土塁が残り、東に高台が張り出している。南斜面には小堀切と土壇が築かれている。以上が新宮山城の遺構で、小さい城であるが前面の虎口構造が特徴であり、織田武将である長連龍による攻略後の使用・改修が推測されるという佐伯哲也氏の説は首肯できる。
虎口→DSCN8023.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.605081/137.326645/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/11/12
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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池田城(富山県立山町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7880.JPG←5郭から見た竪堀と4郭
 池田城は、1569~70年に越中有数の国人であった寺島職定の居城であったと伝えられる。寺島氏は、越中の射水・婦負郡守護代神保氏の重臣であった。この時期、上杉謙信が越中に侵攻して松倉城の椎名氏を攻撃しており、寺島氏は反上杉方として芦峅寺衆徒らの力を借りて城の守りを固めている。寺島氏は、1577年には上杉氏に属した。1583年、佐々成政が弓庄城を攻撃した際には、池田城も戦場となったと言う。成政入国後は佐々氏に仕え、佐々氏が肥後へ移ると前田氏に仕えたとされる。また別説では金森中務が城主であったとも言われるが、判然としない。

 池田城は、池田集落の南にある標高375mの城山に築かれている。北麓の林道脇に解説板があり、ここから登道が整備されている。登道は、釜池の東の尾根に至り、尾根沿いに登っていく。城域までは結構距離があり、山間にある山奥の城である。10分ほど登ると「櫓」と標柱がある高台に至る。高台上には「のろし台跡」と手書きの標柱があり、その後部には長い一騎駆けの土橋がある。これらの遺構は、現地解説板にある佐伯氏の縄張図には描かれていない。その先は堀底状通路があり、土橋が架かった幅広の堀切が穿たれ、その上に前衛の物見台が築かれている。その先も再び堀底状通路があり、その先に堀切が穿たれ、その上に主城部がある。堀切の上は大きな段差の切岸になっていて、アルミ梯子が設置されている。その上に5段の曲輪群が連郭式に築かれている。現地標柱では、下から順に5郭・4郭・3郭・2郭とあり、最上段が主郭で最も広い。5・4・3・2郭の間は比較的大きな段差で区画されているが、2郭と主郭の間の段差は小さく、2郭は主郭に付随する性格が強い曲輪であった様である。これらの内、5郭・4郭の側方にL字に湾曲した竪堀が穿たれている。主郭は中央に土壇があり、その南東部は低くなって腰曲輪状を呈している。主郭は縦長だが南西側に大きく張り出した形状で、南西尾根に腰曲輪2段を築き、その先に幅広の堀切を穿ち、更に尾根の先にもう1本土橋が架かった堀切を穿って背後を遮断している。また主郭の東側には腰曲輪が築かれ、3郭との間に大竪堀を穿って導線を遮断している。往時はここに木橋を架けて曲輪間を連絡していたのだろう。この他、5郭手前の堀切から西側に進むと千畳敷と呼ばれる区画に出る。最上段は普通の腰曲輪であるが、下方に大きな平場がある。しかし薮だらけなので、踏査はしていない。千畳敷最上段の腰曲輪の先には大竪堀が穿たれ、その先に物見台の土壇と堀切状の通路があり、その先にも腰曲輪が続いている。以上が池田城の遺構で、幅広の堀切・竪堀を使って各部を防御した城である。
5郭切岸と堀切→DSCN7858.JPG
DSCN7933.JPG←南西尾根の幅広の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.609163/137.360280/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


城館調査の手引き

城館調査の手引き

  • 作者: 中井 均
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2016/08/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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郷田砦(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7785.JPG←土橋
 郷田砦は、弓庄城の至近にある城砦である。築城については3つの説があり、(1)上杉謙信との合戦の際に弓庄城主土肥美作守政繁が出城として築いた(家老の桂田善左衛門が守将)、(2)上杉謙信が弓庄城攻撃の際に向城として築いた、(3)1583年に佐々成政が弓庄土肥氏を攻撃した際の陣城、などである。『日本城郭大系』では、初め土肥氏の出城であったものを、佐々成政が奪って向城として利用したのではないかと推測している。

 郷田砦は、弓庄城の東方600mにある、比高30mの丘陵先端部に築かれている。丘陵基部は鞍部となっており、なかば独立丘陵の体をなしている。鞍部に小道が通り、その脇に墓地があるが、これも往時の曲輪跡と考えられている。城はその北に遺構が残っているが、全域劇薮で踏査は困難を極める。それでも薮をかき分けて進むと、南の主郭虎口には土橋と堀切があるのが辛うじて確認できる。主郭は西辺以外を土塁で囲んでいるようだが、薮が酷すぎてほとんど確認できない。また薮がやや少ない西の腰曲輪を経由して北側に回り込むと、主郭北に坂虎口があるのが確認できた。主郭周囲は、2~3段の腰曲輪で取り巻いている。簡素で小規模な城砦で、いかにも戦時に一時的に築かれた砦という趣である。
主郭切岸と腰曲輪→DSCN7802.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.675570/137.368991/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣城
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柿沢城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7722.JPG←二ノ郭腰曲輪の三重竪堀
 柿沢城は、弓庄城主土肥氏の支城である。弓庄系土肥氏は、白岩川・大岩川流域に高原城-弓庄城-柿沢城-茗荷谷山城という城館群を築いており、これらは弓庄城を本拠とし、その支城群と捉えられる。柿沢城主は弓庄城主土肥美作守の兼帯、または美作守の家老桂田善左衛門と伝えられている。位置関係から本城の弓庄城と詰城の茗荷谷山城とを結ぶ繋ぎの城であったと推測されている。

 柿沢城は、大岩川東方の標高169.5m、比高110mの山上に築かれている。明確な登道はなく、尾根への取り付き方もよく分からず、結局北西の谷地に入り込み、尾根を目指して直登した。縄張図によれば、山頂の主郭までの間の尾根上に5つの曲輪を連ねた連郭式の城としているが、一部の曲輪を除いて普請は大雑把で塁線がはっきりせず、そのため縄張図のどこを歩いているのか分かりづらかった。遺構がはっきりしてくるのは、北西から3つ目の曲輪で、三ノ郭に当たると思われる。後部に櫓台を築き、その背後に堀切を穿っている。堀切の上には二ノ郭が築かれている。二ノ郭自体は単なる平場であるが、西側に腰曲輪を築き、そこには三重竪堀が穿たれている。二ノ郭の東には繋ぎの曲輪があり、その東に四角形の主郭がある。主郭はL字型の土塁を築いて後方を防御し、土塁のない切岸には浅い畝状竪堀が穿たれている。柿沢城は、全体的に大雑把な普請の城であるが、畝状竪堀や三重竪堀で防御を固めているのは特徴的である。能登・越中の城で畝状竪堀と言うと上杉氏勢力が介在した城の代名詞であるので、この城も弓庄系土肥氏が上杉氏に属していた時期に、上杉氏勢力の改修を受けたのかもしれない。
二ノ郭手前の堀切→DSCN7702.JPG
DSCN7753.JPG←主郭切岸の畝状竪堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.678495/137.376920/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版


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茗荷谷山城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7618.JPG←主郭
 茗荷谷山城は、弓庄城主土肥氏の支城である。弓庄系土肥氏は、白岩川・大岩川流域に高原城-弓庄城-柿沢城-茗荷谷山城という城館群を築いており、これらは弓庄城を本拠とし、その支城群と捉えられる。茗荷谷山城は弓庄城主土肥美作守政繁の「奥城」で、城主は政繁が兼帯していたとも言われる。或いは土肥左衛門の名も伝わっている。弓庄城系統の城館群では最奥の最高所に築かれており、最終的に籠城するべく築かれた城と推測される。しかし弓庄系土肥氏は、1582~3年に佐々成政の攻撃を受けた際、平地の弓庄城に籠城し、遂に茗荷谷山の奥城に拠ることなく、成政と和を結んで越後へ退去した。

 茗荷谷山城は、標高446.5mの峻険な城ヶ平山に築かれている。トレッキングで有名な山らしく、登山者が多数おり、西麓の日石寺付近にある駐車場は車が入り切らず路肩駐車している車が多数あった。山頂の主郭までの比高は312mもあるが、登山道が整備されているので、時間は掛かるが迷わず登ることができる。登り始めてしばらくすると、西向きの緩斜面に段々の平場が残っている。石積みもあり、昔の畑跡と思われるが、木戸口の様な部分や平場手前の横堀の様な地形があり、往時の遺構である可能性も捨てきれない。登り始めて25分ほどすると、南西尾根に穿たれた最初の堀切に行き当たる。中規模で、しっかりした普請がされている。その先には散発的に堀切や曲輪らしい平場が現れるが、やや不明瞭である。主郭手前は急登の連続となり、数段の段曲輪を経てようやく主郭に至る。主郭はトレッキングの山らしく、全周の眺望がひらけ、富山湾が一望できる他、剱岳もよく見える。しかし曲輪としては削平が甘く、塁線もはっきりせず、ほとんど自然地形に近い。主郭の北には堀切を挟んで平場があり、その先で尾根は東と北に分かれる。登山道は東尾根に続いており、これを降っていくと、2本の堀切が間隔を空けて穿たれている。ここの堀切も中規模でしっかり穿たれている。一方、北尾根の方は未整備の劇薮で、堀切はかろうじて分かる程度であるが北端に物見台があるのが確認できる。以上が、茗荷谷山城の遺構で、堀切などが広範囲に散在し、求心性のない縄張りであるが、それは山の地形自体を最大の武器としているからだろう。眺望が素晴らしいので、天気の良い日に登りたい城である。
南西尾根の堀切→DSCN7567.JPG
DSCN7635.JPG←東尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.666156/137.402637/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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千石山城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7457.JPG←南東尾根の2本目の堀切
 千石山城は、堀江城主土肥氏の支城である。堀江系土肥氏は、上市川流域に有金館-堀江城-郷柿沢館稲村城-千石山城という城館群を築いており、これらは堀江城を本拠とし、その支城群と捉えられる。千石山城は堀江城の「奥城」と伝えられ、上市川流域の城館群では最奥の最高所に築かれており、最終的に籠城するべく築かれた城と推測される。1583年に土肥氏が佐々成政との抗争に備えて構築した可能性が指摘されている。

 千石山城は、標高757.6mの千石城山に築かれている。まともに麓から登ったら大変な山だが、幸い南東の尾根まで車道があり、大した苦労をせずに登ることができる。車道のヘアピンカーブの脇から登山道が整備されている。登り口から城域到達までは思ったより遠く、最初の堀切まで15分ほど掛かる。この南東尾根には合計3本の堀切が距離を隔てて穿たれている。その先に主郭がある。主郭は広いが、やや起伏のある曲輪で、西から北にかけて腰曲輪を伴っている。主郭は整備されており、ベンチや解説板があるが、周りに木々があって眺望は良くない。腰曲輪は薮が酷いが、竪堀が穿たれているのが確認できる。また北西の尾根を降っていくと、二重堀切が穿たれている。堀切は、この北西尾根のものも前述の南東尾根のものも、中規模でしっかりした普請がされている。この他、縄張図には描かれていないが、南東尾根で城域から離れた所に幅広の横堀(堀切)状地形があり、これも遺構であった可能性があるが、薮が多くて判然としない。以上が千石山城の遺構で、峻険な地形に更に多重堀切で防御を固めた、いかにも最後の砦らしい城である。
主郭→DSCN7473.JPG
DSCN7501.JPG←北西尾根の二重堀切の外堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.669185/137.453288/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/10/25
  • メディア: 大型本


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稲村城(富山県上市町) [古城めぐり(富山)]

DSCN7403.JPG←主郭の物見台
 稲村城は、堀江城主土肥氏の支城である。城主は土肥源七郎、土肥左衛門等と伝えられる。堀江の奥城であったと言われることから、堀江城の詰城として機能していたと推測される。

 稲村城は、上市川ダムの北にそびえる標高348mの城山に築かれている。東麓の車道に登り口の案内板が出ているが、肝心の登り口には表示がないので、少々面食らう。しかし墓地脇から奥の林に入ればよい。山頂までは尾根筋を上がっていく登道が整備されているが、斜度のきつい尾根道である。山頂近くになると、東郭が現れる。先端が櫓台状となり、その背後に小堀切が穿たれている。その後ろに尾根上の曲輪があり、その後部にもう1本の堀切、曲輪の側方には腰曲輪を築いている。ここからさらに登ると、山頂の主郭に至る。綺麗に削平された広い曲輪で、北西端には物見台が築かれている。主郭の内部には穴が開いているが、『日本城郭大系』によると立山寺に通じていたとの伝承がある抜け穴の跡とされる。現存する抜け穴遺構は極めて珍しい。主郭の西尾根には小さな二ノ郭があり、3段程の平場に分かれている。この他、主郭の北東の尾根にも小郭と堀切がある。以上が稲村城の遺構で、比較的小規模な詰城である。
主郭の抜け穴→DSCN7418.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.681800/137.417164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


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高山城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6457.JPG←三ノ郭群の北の堀切
 高山城は、射水・婦負郡守護代神保氏の重臣寺島牛助(牛之助とも)が築いたと伝えられる。小島城主小島甚助は、牛助の弟である。両人の事績は小島城の項に記載する。

 高山城は、山田川東岸の標高190mの山上に築かれている。史跡指定はないが北西麓から登道が整備され、解説板も設置されている。解説板の奥を台地上に登ると、山麓居館・家臣団屋敷地らしい平場群が展開している。ここは町ヶ平・法華坊・的場などの地名が残っている。平場群は明確だが、大半が耕作放棄地の薮に埋もれている。平場群を通過すると、道は尾根を南東に登っていき、やがて主郭に至る。主郭は南北に長い曲輪で、北東角に櫓台、南端にも大きな土壇があり鐘突堂と呼ばれる。主郭中央部の平場は倉跡とされる。登ってきた道はかつての大手と推測され、主郭の北西に多数の帯曲輪群が築かれて大手筋を固めている。ただこの帯曲輪群は、近世の段々畑だった可能性もある。主郭から北に伸びる細尾根には間隔をあけて3本の堀切が穿たれている。これらの堀切群の北には二ノ郭がある。二ノ郭は、細長く伸びた曲輪で2段に分かれ、南の細長く高台となった平場は物見台であったらしい。ここだけ木が伐採されていて、北西麓への眺望が開けている。下段の平場は細長い菱形状で、南東に土塁が築かれている。二ノ郭の北には細尾根・小郭・細尾根と降っていき、三ノ郭に至る。三ノ郭はくの字型をした広い平場で、周囲に腰曲輪を伴っている。三ノ郭の南西端には土塁を兼ねた小郭が築かれて南限を区画している。三ノ郭の北東には三角形の腰曲輪があり、その先端を城内最大の堀切で分断している。その北に細尾根が伸び、その先を小堀切で区画して城域が終わっている。一方、主郭の後部にも堀切が穿たれ、南に細尾根が伸びている。この細尾根は小ピークで分岐してY字型になっている。南と、北の三角点のある峰の先に、それぞれ小堀切が穿たれている。以上が高山城の遺構で、それほど技巧的な縄張りではないが、城域は広く、堀切も中規模のものもあって、中々守りを固めた城であったことがうかがわれる。
二ノ郭の土塁→DSCN6421.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.614503/137.093024/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/03/31
  • メディア: 大型本


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小島城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6320.JPG←主郭に残る土塁
 小島城は、射水・婦負郡守護代神保氏の重臣小島甚助が築いたと伝えられる。高山城主寺島牛助(牛之助とも)は、甚助の兄である。共に上杉勢によって元居た地を追われ、この地まで逃れてきて城を築いて居城とし、神保長職の旗本となったとの伝承がある。1563年、上杉勢の攻撃を受けて小島・高山両城は落城し、小島甚助・寺島牛助兄弟は「乱の穴」という洞窟に身を隠して危難を免れ、若狭城(大道城)に逃れて立て籠もったとされる。1581年、織田信長の部将佐々成政の進攻を受けて小島・寺島兄弟は抗戦しきれず、降伏して佐々氏に仕えた。佐々氏移封後は、加賀前田氏の家臣となったと言う。

 小島城は、山田川西岸にある城山という丘陵上に築かれている。丘陵上に鉄塔があるため、南尾根の小道から鉄塔保守道を登って登城可能である。この丘陵は、傾斜量図で見ると南西から北東に向かって全部で4段の平場があるが、どこまでが城域であったのかはよくわからない。しかし最上部にある南西の平場が主郭であろう。主郭は山林内に平場が広がっていて、南と西は断崖で囲まれている。北端には低土塁が見られる。その先は鉄塔の建つ2段目の平場であるが、薮が深く侵入が困難で、遺構が存在するかどうかよくわからない。また4段の平場の内、下の2段は畑となっている。結局、平場とわずかな土塁以外に明確な遺構は見られず、縄張りがよくわからない城だった。
 尚、小島城の西方約1kmの山中に小島甚助・寺島牛助兄弟が隠れた「乱の穴」が残っている。
乱の穴→DSCN6336.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.597346/137.081233/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

47都道府県・城郭百科 (47都道府県百科シリーズ)

  • 出版社/メーカー: 丸善出版
  • 発売日: 2022/07/28
  • メディア: 単行本


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尾畑城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6208.JPG←西の堀切
 尾畑城は、歴史不詳の城である。城の西側には、飛騨街道と並び飛騨・越中を結ぶ重要街道・大長谷街道が通っており、この街道を眼下に見下ろせることなどから、街道を監視するために築かれたと推測されている。またその縄張りには、地元土豪が築いた周辺城砦と大きな違いがあり、外部勢力による築城との推測もされている。これらのことから1576年の上杉謙信の能登侵攻の際に飛騨口を守るために上杉氏が築いた城とも考えられているが、確証はない。

 尾畑城は、標高593mの奥地の山上に築かれている。市の史跡に指定されており、西麓の車道脇に標柱と解説板が立っており、そこから登道が整備されている。但し登道はあると言っても、かなり傾斜がきつく、場所によっては滑り落ちそうになるような尾根直登に近い山道なので、登るのはかなり大変である。小規模な城砦で、四方の尾根に堀切を穿ち、その手前に櫓台を配置して守りを固めている。南尾根以外の堀切は、この手の小城砦には不釣り合いなほど規模が大きい。また西・北の堀切は、間にある窪地状の平場で合流しており、更に北の堀切から東の堀切までの外周に武者走りが通じており、これらの堀切が城内通路を兼ねていたことがわかる。主郭は小さな櫓台状の高台で、周囲の腰曲輪は傾斜し、前後の櫓台との間は堀切状の鞍部となっている。また主郭の南下方には横堀が穿たれている。この他、北西の谷間には水の手が残っているが、藪が多くて形状が把握しづらい。以上が尾畑城の遺構で、少人数の番兵だけを置いて物見と烽火台を主任務とした城だったのだろう。
堀切状の鞍部と主郭→DSCN6227.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.514008/137.097402/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

図説 上杉謙信

  • 作者: 今福 匡
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/03/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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高尾城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6194.JPG←主郭の現況
 高尾城は、歴史不詳の城である。高嶺城の北西わずか900m程の位置にあり、仁歩川と室牧川に挟まれた丘陵地内の標高250mの峰に築かれている。山頂近くには送電鉄塔が建っており、南麓から保守道があるので、それを登っていけば城まで行ける。山頂には2段の平場が確認でき、主郭と二ノ郭であろう。主郭は倒木だらけの上、草に覆われていて形状がわかりにくいが、中央に土壇が見られる。主郭の南には鉄塔が建つ二ノ郭があるが、ここも鉄塔付近以外は藪で覆われている。主郭の北には空堀と土橋が築かれ、腰曲輪が構築されている。その西には小道があり、朽ちたベンチも残っているので、以前は公園か何かになっていたらしい。いずれにしても小規模な城砦であるうえ、遺構にも見どころが少なく、あまり見応えのある城とは言えない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.565969/137.112540/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書

  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2020/10/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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高嶺城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6139.JPG←横堀と北東の櫓台
 高嶺城は、歴史不詳の城である。神保氏の部将が城主であったとも、或いは丹羽市右衛門という武士が城主であったが上杉氏に攻撃されて落城したとも伝えられる。

 高嶺城は、仁歩川西岸の南北に連なる丘陵上の、東側に突出した標高260mの峰に築かれている。この城へ登るには、南の水田地帯の道を登って南東中腹に至り、そこから斜面を直答するルートと、北尾根を貫通する市道から未舗装の林道に入り、林道伝いに城の直下までくるルートの2種類があるらしく、私は前者で訪城した。広い主郭を持つ単郭の城で、大まかには半月形をした曲輪形状となっている。北側半周には低土塁が築かれ、その外周に横堀が穿たれている。塁線は緩やかに凹凸のカーブを描いており、北東には張出しの櫓台、北西には出枡形の虎口が築かれている。また櫓台の西には虎口らしき土塁の切れ目があり、横堀をまたいで木橋で繋がっていたようである。櫓台は、この木橋に横矢を掛ける形となっている。櫓台東の横堀は、途中までは残っているが、重機で破壊を受けている。主郭内は削平の甘い地山で、内部が傾斜している。恒常的に使われたのではなく、陣城として一時的に使われた城だったように感じられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559972/137.119128/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/03/26
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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