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摺沢城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0513.JPG←外周の大空堀
 摺沢城(数流沢城)は、八丁館とも言い、葛西氏の家臣岩淵氏(摺沢氏)の居城である。1221年、葛西清親に仕えた岩淵重政が、磐井郷摺沢郷を賜り、摺沢城を築いて居城としたと伝えられる。しかしそれ以前にも千葉氏の一族が摺沢城に居たとも、また古くは前九年の役の際に安倍貞任軍がこの地に拠り、源頼義軍を撃破したとも言われるが定かではない。1498年から翌年にかけての葛西領内の擾乱では摺沢摂津守が参画している。またこの時薄衣城主薄衣美濃入道清胤が伊達成宗に出した『薄衣状』には、「数流沢城は大原飛騨守が籠って警固している」と書かれている。天文年間(1532~55年)頃には摺沢筑前守信定の娘が安俵城主安俵玄蕃忠秀の室となっている。1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となると、摺沢氏は伊達氏に仕えたと言う。尚、同年10月に生起した葛西大崎一揆で桃生郡中津山香取(神取山城)に出陣した軍勢の中に摺沢将監の名が、また佐沼城の籠城衆の中に摺沢出雲の名があり、城主か一族であると考えられている。

 摺沢城は、曽慶川南岸の丘陵先端部に築かれている。北西麓に城への入口があり、車道の曲がり角に「八丁館大手門」の標柱があるが、現在は朽ちて倒れている。その奥に城址標柱があり、そこから奥に小道が登っている。南に向かって折れた「く」の字型の尾根に城が築かれている。頂部に長方形の主郭を置き、北西に伸びる尾根に二ノ郭と段曲輪2段を築いている。また主郭後部にも1段低く腰曲輪が築かれている。これらの曲輪群は段差だけで区画されている。また二ノ郭の南北と主郭の南にも帯曲輪が築かれている。この城で出色なのは、背後尾根から主郭北側にかけて穿たれた大空堀で、現地標柱では「馬隠し」と呼ばれている。この大空堀は、二ノ郭の北麓まで伸びている。大空堀の外周に築かれた土塁は、実際は土塁ではなく段付きの帯曲輪となっている。大空堀の裏にも大竪堀が北斜面に落ちている。この他、背後の東尾根にはT字型土塁と平場があるが、用途は謎である。古い航空写真を見ると耕地であった様なので、遺構ではなく耕地の名残かもしれない。以上が摺沢城の遺構で、単純な構造の城であるが、大空堀だけが異彩を放っている。
 尚、主郭に行ったら草むらの中にタヌキが転がっていた。死んでるのかと思って手を叩いてみたら、寝てただけらしく、眠そうな顔をしてモソモソと薮に入っていった。のどかなものである。
竪堀→DSCN0523.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.993280/141.331859/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


 [カラー版] 地形と立地から読み解く「戦国の城」

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  • 発売日: 2018/09/14
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松川内館(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0363.JPG←主郭から見た二ノ郭・腰曲輪
 松川内館は、松川城とも言い、薄衣城主薄衣千葉氏の庶流松川千葉氏の居城である。1343年に薄衣清堅(清純)の4男隼人正村がこの地に分封され、松川氏の祖となり、内館を居城とした。以後、宗家の薄衣氏を支えながら活動した。1507年、薄衣一族の朝日館主金沢伊豆冬胤が、熊谷掃部直時・高森城主奈良坂信置と共に、峠城主寺崎時胤と合戦し、金沢方が勝利した。この時、松川城主松川太郎三郎胤広は、寺崎方に与したが、敗戦の中で討死したと言う。松川氏は、薄衣城主薄衣清貞の弟信胤が跡を継いだ。その3年後の1510年、今度は薄衣清貞が、弟松川信胤とその子胤光らの加勢を得て金沢冬胤の拠る金沢郷を攻撃した。しかし戦いは金沢方の勝利に帰し、松川胤光が戦死した。1590年、10代民部信胤の時に主家葛西氏が奥州仕置で改易されて没落した。信胤は病弱で、弟の主水胤好が兄の陣代として同年10月に生起した葛西大崎一揆に出陣したが、桃生郡深谷において伊達勢に謀殺された。この後、信胤は出羽国稲二把邑で没したと伝えられる。

 松川内館は、砂鉄川の東岸にある比高40m程の小高い丘に築かれている。全域が公園化されており、遺構がよく確認できる。しかも主郭直下まで車で行けるので、訪城もお手軽である。南北に長く弓形になった丘陵上に、北から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭を配置し、外周に腰曲輪を廻らした縄張りとなっている。主郭には古館明神社が鎮座している。主郭には土塁は築かれていないが、面積は広く、綺麗に削平され、周囲をしっかりした切岸で防御している。東西には腰曲輪が築かれ、南の二ノ郭との間は深い堀切で分断している。二ノ郭は中央がややくびれた鼓形をした曲輪で、東西に腰曲輪があり、南の三ノ郭との間に大きな円弧状の堀切を穿っている。三ノ郭は舌状のなだらかな緩斜面で、東西に腰曲輪があり、中央西側に虎口が築かれている。三ノ郭の南西先端にもL字型に空堀が穿たれている。その先は緩斜面になった四ノ郭で、その外周にも腰曲輪がある。以上が松川内館の遺構で、低丘陵を利用した大型の館城で、なかなか見応えがある。
主郭~二ノ郭間の堀切→DSCN0391.JPG
DSCN0417.JPG←二ノ郭~三ノ郭間の円弧状堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.953994/141.252337/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本


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門崎城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0289.JPG←二ノ郭から見た主郭切岸
 門崎(かんざき)城は、奥州千葉氏の一流門崎氏の居城である。門崎氏には、前期門崎氏と後期門崎氏があったらしい。前期門崎氏は薄衣城主薄衣千葉氏の庶流で、薄衣清純の次男修理亮胤村により築かれたとも言われるが、詳細は不明。1498年に薄衣城主薄衣美濃入道が大崎氏の内紛に巻き込まれて、主君葛西政信の大軍の攻撃を受けた時には、門崎氏は薄衣美濃入道に与して敗れ、没落した。その後、永正年間(1504~21年)頃に気仙郡の浜田氏(浜田千葉氏)の一族浜田安房守盛糺が門崎村に入部し、その玄孫安芸守盛常の時に門崎氏を称したと言う(後期門崎氏)。1590年に豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易となると、門崎氏は伊達氏に仕え、門崎盛隆は1600年の白石の役などに功をあげたと伝わる。

 門崎城は、常堅寺南の標高110mの山上に築かれている。寺の墓地脇に登道があり、これを登っていくと西尾根の腰曲輪群に至る。城は、山頂に長円形の主郭を置き、その周囲に腰曲輪状の二ノ郭を配置している。二ノ郭は、背後に当たる東尾根に沿って東に伸びており、その先端を堀切で分断している。更に小郭をおいてもう1本の堀切で区画して城域が終わっている。一方、主郭の西側下方には三ノ郭があり、外周に腰曲輪を築き、更に西側に四ノ郭とそれに付随する腰曲輪群を配置している。前述の墓地脇の道は、この腰曲輪群に通じている。遺構はよく残っているが、主郭・二ノ郭は一部薮多く、少々辟易する。また城址標柱が二ノ郭にあったらしいが見つからなかった。尚、腰曲輪群を登っていったら、雉らしい母子がいて、母鳥と雛が別方向に飛んでいった。雛がそのままはぐれてしまっていなければいいが・・・。
二ノ郭東の堀切→DSCN0294.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.928559/141.264750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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薄衣城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0157.JPG←二ノ郭から見た主郭
 薄衣城は、葛丸城とも言い、奥州千葉氏の一流薄衣氏(薄衣千葉氏)の居城である。薄衣氏は『薄衣状』でもよく知られる。薄衣氏は奥州千葉氏の一流で、越前国大野郡鳥田城を居城としていた千葉四郎胤堅が、1252年8月に奥州の押えとして陸奥国栗原郡に下向し、磐井郡薄衣庄に居住して翌53年に薄衣城を築いて居城とし、薄衣氏の祖となったと言われる。薄衣氏からは、門崎城主門崎氏・朝日館主金沢氏・松川城主松川氏を分出した。南北朝時代の1339年、南朝方についた薄衣清村は北朝方の葛西高清と戦って敗れ、葛西氏に臣従する事となった。1498年、葛西領に隣接する大崎氏において重臣氏家三河父子が反乱を起こし、大崎氏家中の内紛が勃発した。葛西領の薄衣美濃入道清胤と江刺三河守は、大崎義兼からの内乱鎮圧のための出兵要請を再三受け、ついに断わりきれず出陣した。この清胤は、葛西氏9代満信の子・和泉守重信の子で、薄衣清房の長女と結婚して薄衣氏を継いでいたが、清房の末子常盛は清胤の入嗣を不服とし、両者の関係は険悪なものとなっていた。清胤が大崎氏支援のために出兵すると、常盛は長谷城に籠城して大崎氏救援反対の気勢をあげた。清胤は急遽薄衣城に引き返したが、更に主君葛西政信も大崎救援反対の軍を出し、薄衣城は葛西氏の大軍に包囲された。進退窮まった清胤は自刃しようとしたが、米谷左馬助に制止され、清胤は伊達成宗に救援を求める書状を送った。これが『薄衣状』である。この戦乱は、伊達氏の仲介によって収束したらしい。1507年、薄衣一族の朝日館主金沢冬胤が、峠城主寺崎時胤と合戦し、金沢方が勝利した。その3年後の1510年、薄衣清貞は、弟松川信胤とその子胤光らの加勢を得て金沢冬胤の拠る金沢郷を攻撃した。しかし戦いは金沢方の勝利に帰し、薄衣方の松川胤光が戦死した。この敗戦後、薄衣氏の勢力は頽勢に傾いた。しかし1580年には、薄衣甲斐守が葛西太守に代わって上洛するなど、葛西氏の重臣であったことがうかがわれる。しかし1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、薄衣氏も没落。同年に生起した葛西大崎一揆では、薄衣甲斐守胤勝(胤次?常雄?)が栗原郡高清水森原山に出陣した軍勢の大将となったが、伊達勢に敗れ、桃生郡深谷で謀殺されたと伝えられる。

 薄衣城は、北上川東岸にそびえる比高60m程の山上に築かれている。市の史跡に指定されており、北麓から登道が整備されている。山頂に広い主郭を置き、その北から西側半周に腰曲輪を築き、更に西側にL字型をした二ノ郭を張り出させている。主郭・二ノ郭共に内部は大きく傾斜しており、二ノ郭の中央北寄りには大きな土壇が築かれている。この土壇は櫓台ほどの広さがないので、おそらく信仰上の施設が置かれていたのだろう。同様の土壇は黄海城などにもあり、葛西氏領国の城では時折見られるものである。二ノ郭の北尾根に段曲輪群、南斜面に腰曲輪群が築かれているが、草が覆い茂っていたので踏査はしていない。主郭北側の最上段の腰曲輪には、東端に土塁が築かれている。この腰曲輪と二ノ郭との間の谷戸には、前述の登道が通っており、道の東側に腰曲輪が2段築かれている。主郭の南東には、堀切状の通路を挟んで三ノ郭が、その東には四ノ郭が築かれているが、いずれも草が覆い茂っていて遠目に見ただけである。縄張り的には少々面白みに欠け、また比高の数字ほどの高さを感じさせない、川沿いの比較的低い山に築かれた城である。
主郭から見た二ノ郭→DSCN0167.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.891292/141.267743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


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富沢城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0110.JPG←富沢城の遠望
 富沢城は、古館とも言い、岩淵民部の居城とも、或いは奥州千葉氏の一流富沢彦次郎の居城とも言われるが、詳細は不明。葛西大崎一揆の伝承では、流郷富沢城主千葉彦九郎久胤が栗原郡高清水森原山に参陣したと伝わる。いずれにしても、奥州仕置で改易となった葛西氏の家臣団については、事績が混乱しているものが多く、富沢城主もその例に漏れない。

 富沢城は、標高40mのU字型をした尾根に囲まれた低丘陵に築かれている。おそらく、尾根に囲まれた真ん中の谷戸が主郭で、その背後を防衛する丘陵であったものと考えられる。しかし、主郭と考えられる谷戸も含めて、ほとんどの部分が民家となっていて、内部の探索ができない。わずかに西側の尾根だけ探索できたが、明確な遺構は確認できなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.884661/141.251457/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


描かれた中世城郭: 城絵図・屏風・絵巻物

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2023/12/04
  • メディア: 単行本



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青葉山城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN1014.JPG←腰曲輪外周の横掘
 青葉山城は、東永井館・東館とも言い、永井讃岐の居城と伝えられる。それに先立つ応永年間(1394~1428年)には菅原道長・春道の居城で、後に西館(西永井楯)に移ったとの説、また平安末期には奥州藤原氏3代秀衡の家臣照井太郎の一族照井次郎の居城であったとの説もある。

 青葉山城は、標高80mの丘陵上に築かれている。西麓の車道脇に城址標柱があり、そこから谷地形の畑の脇を抜けていくと、山中の小道があったので、これを辿って南東へと登っていくと、小道は堀状になって城の南の尾根に至る。道はここから更に南に伸びているが、それでは城から離れてしまうので、尾根上で道をそれて北に向かうと、切岸が現れる。ここからが城域である。青葉山城は、山頂に主郭を置き、その北西に二ノ郭が突き出ている。主郭内には祠が2基ある土壇がある。西に虎口があって、二ノ郭に繋がっているが、単純な坂虎口である。二ノ郭は主郭・二ノ郭の西から南にかけて腰曲輪が築かれている。二ノ郭はこの腰曲輪に対して横矢を掛けるように張り出している。腰曲輪も同様に塁線が外に張り出している。この腰曲輪の外周には幅広の横掘が穿たれており、前述の塁線の張り出しは、この横掘への横矢掛りとなっている。横堀の外周には土塁が築かれ、その外周にも腰曲輪がもう1段築かれている。横掘の東端部には、下方の腰曲輪からの虎口が形成されている。地形が崩れていて明確にはわからないが、枡形虎口を形成していたようにも見える。以上が青葉山城の遺構で、高倉城よりもしっかりした遺構であり、また城内もある程度間伐や薮払いがされているので、遺構が見やすい。
祠のある主郭の土壇→DSCN1081.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.786848/141.244762/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

続・東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2021/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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高倉城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN9981.JPG←主郭群東の横掘
 高倉城は、西永井館とも言い、葛西晴信の家臣加瀬谷三河の居城と伝えられる。加瀬谷氏の事績は不明である。

 高倉城は、高倉山丘陵の東に張り出した標高100m弱の小山に築かれている。登り口はわかりにくいが、南東麓の民有地の小屋の脇に奥へ登っていく道があり、それを辿ると北西の斜面を登る獣道に至り、それを登ると三ノ郭腰曲輪の虎口に到達する。城は、最高所に主郭を置き、南に二ノ郭・三ノ郭を配置している。主郭は外周に2~3段の腰曲輪を廻らし、上段の腰曲輪と二ノ郭との間に堀切を穿ち、中央に土橋を架けている。この虎口の両側には土塁を築いて防御している。主郭の2段目の腰曲輪は、二ノ郭との間の堀切に繋がっている。二ノ郭と三ノ郭との間も堀切で区画されている。二ノ郭の両側には腰曲輪があるが、東のものはそのまま三ノ郭東まで繋がっている。この腰曲輪に虎口があり、最初に書いた獣道はここに繋がっている。また主郭群の東側には横堀が穿たれているが、横掘になっているのは一部だけで、他は腰曲輪状を呈している。この他にも『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図では、更に北東に曲輪・横掘や、西の尾根鞍部に堀切などの遺構があるようだが、城内は薮と倒竹地獄で踏査が困難である上、遺構も見劣りするものだったので、戦意喪失して未確認のまま撤退した。
主郭腰曲輪に架かる土橋→DSCN9944.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.758476/141.232274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の豊島・葛西・江戸氏 (中世史研究叢書 33)

中世の豊島・葛西・江戸氏 (中世史研究叢書 33)

  • 作者: 今野 慶信
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2021/07/01
  • メディア: 単行本


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井田館(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9904.JPG←館の名残の石垣
 井田館は、この地の土豪斎藤氏の居館と伝えられる。井田主馬ヶ城はその詰城であったと推測されている。斎藤氏は南北朝期の貞治年間(1362~68年)の左衛門大夫入道常喜以来、楡原保一帯を支配した豪族であった。戦国期には、斎藤孫二郎利忠・小市郎利常・五郎二郎利憲の兄弟が居住していたと言われるが、1552年に上杉謙信の配下願海寺城主寺崎民部左衛門と戦って、利常・利憲は討死し、利忠は城生城に逃れたと伝えられる。その際に井田館は寺崎氏の手に落ちたとも、後には斎藤次郎右衛門信和が居住したとも言われるが明確ではない。斎藤氏は、1583年に佐々成政に城生城を攻め落とされ、没落した。

 井田館は、現在は妙法寺、白山社、立泉寺の境内となっている。これらの周囲にある土塁や西面の石垣は、館跡の名残とされる。付近を歩いて回ったが、遺構はあまり明瞭ではない。白山社周囲にある土盛りも遺構なのか、はっきりしない。現地解説板をよく読むと、「遺構」とは書いておらず「名残」とあるので、石垣も遺構ではなく切岸の名残であるらしい。空堀跡もあるとされるが、これは改変で全く分からなかった。

お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.595658/137.151840/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/12/08
  • メディア: 大型本


タグ:居館
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井田主馬ヶ城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9804.JPG←二ノ郭の畝状阻塞
 井田主馬ヶ城は、この地の土豪斎藤氏が築いた城と伝えられる。斎藤氏は南北朝期から楡原保に勢力を有し、井田館を居館としていたと推測される。戦国中期には城生城に本拠を移した。井田主馬ヶ城は、井田館の詰城と推測されており、城主として斎藤主馬・主馬判官・斎藤左源太などの名が伝わるが、はっきりしない。斎藤氏が上杉勢と戦った1552年までには築城され、1583年に斎藤次郎右衛門と佐々成政が戦った城生城攻防戦以前に廃城になったと推測されている。

 井田主馬ヶ城は、標高175.4m、比高100m程の山上に築かれている。市の史跡に指定されており、北麓に登り口がある。しかし城までの尾根道は長く、500m程の距離がある。しかしこれが往時の大手道だったと考えられ、途中に削平の甘い木戸曲輪が2ヶ所確認でき、1個目の手前には一騎駆けの土橋があって登城道を防御している。主城部は、主郭(A郭、以下アルファベットは現地表記)を中心に、東側半周に同心円状に二ノ郭(B郭)を配し、その周囲に腰曲輪、また南の尾根に不整形な三ノ郭(C郭)を配置している。二ノ郭虎口は登城路が屈曲して枡形を呈し、その前面西側には浅い空堀を穿っている。二ノ郭の南東部は、浅い横堀が主郭切岸周囲に穿たれ、その外に幅広の帯曲輪が築かれたような構造となっている。この帯曲輪を刻んだ形で、畝状阻塞が構築されている。これは畝状竪堀ではなく、「櫛の歯状畝状空堀群」(佐伯哲也氏の表現)である。この形態の空堀は摩頂山南砦に似た構造があるが、珍しい形態である。この南端に大きな土壇があり、後部を防衛する櫓台になっていたと思われる。ここでは横掘が薬研堀状に狭くなっている。二ノ郭の上にある主郭は、中央に土壇のある狭小な曲輪で、内部は傾斜していてほとんど居住性はない。南の三ノ郭は中央部に土壇があり、南端に堀切が穿たれているが、これも整形が中途半端である。二ノ郭周囲の腰曲輪には、三ノ郭から道が通じている。腰曲輪には支尾根の付け根を貫通する堀切兼用の通路が設けられている。外側の斜面には竪堀もある様だが、薮でわかりにくい。以上が井田主馬ヶ城の遺構で、全体的に曲輪の削平が甘く、パッとしない印象で少々期待外れだった。
腰曲輪から見た二ノ郭切岸→DSCN9859.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.586699/137.151346/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 上杉謙信

図説 上杉謙信

  • 作者: 今福 匡
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/03/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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大道城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9628.JPG←南1郭の大井戸、奥は主郭虎口
 大道城は、若狭城とも言い、射水・婦負郡守護代であった神保氏の支城群の最奥の城である。神保氏は、山田川沿いに鶴ヶ城富崎城下瀬城高山城・大道城を数珠繋ぎに築いているが、大道城はその最奥・最高所に位置し、最後に拠る詰城であったと考えられる。越後の上杉謙信が越中に侵攻した際、神保氏の重臣寺嶋牛之助・小嶋甚助兄弟が立て籠もったと伝えられる。また1581年、織田信長の部将佐々成政の攻撃を受けた寺嶋・小嶋両名は富崎城を拠点に織田勢に抵抗したが、5月に織田軍の攻撃を受けて富崎城は落城し、寺嶋・小嶋両名は大道城に逃れて抵抗を続けたが、後に和を結んで佐々成政に属したと言う。

 大道城は、標高639.1mの山上に築かれている。かなり山の奥深くにあるが、なんでこんなところに城を築いたかといえば、「殿様道」と呼ばれる古道が通っていたらしい。越中には飛騨に繋がる山岳古道がいくつもあり、これもその一つだったのだろう。即ち古道を押さえる要害でもあったと考えられる。この城へ行くには、標高493.7mの三角点がある峰の西中腹にある、車道から分岐する林道を登っていく必要がある。オフロード車ならば登っていけるかもしれないが、普通乗用車はこの分岐で車を降り、歩いていく方が良い。城の南東にある入口まで、歩いて50分も掛かる遠い道のりである。市の史跡に指定されているので、この入口から城内まで散策路が整備されている。山奥の城であるが普請の規模はかなり大きい。堀切で分断された南北4つの曲輪で構成されており、ここでは便宜上、北から順に北郭・主郭・南1郭・南2郭としておく。散策路を登っていくと最初に現れるのが南2郭を防御する横掘である。南2郭は南に突き出たT字型をした曲輪で、外周に横掘を廻らし、西端部に搦手虎口を築いている。この虎口は入ってすぐ正面に土塁があり、導線を屈曲させた枡形虎口となっている。南2郭の北には南1郭の切岸があるが、切岸の下は堀状の通路となっている。この西端は竪堀が穿たれていることから、一応堀切としての機能を有していたようである。中央より東寄りに虎口がある。南1郭は郭内が傾斜しており、主郭の虎口の前には大井戸の穴があり、まるで落とし穴である。この大井戸の障壁を迂回する枡形の通路で、堀切に架かる土橋へ至る。主郭南側は堀切で画されている。主郭の搦手虎口は内枡形を形成している。主郭の北側には大手虎口があり、その右手には土塁がそびえ、櫓台となっている。主郭北側も堀切で画され、虎口前に土橋が架かっている。その先が北郭で、郭内は傾斜しており、北辺と東辺に土塁を築いている。西端近くに大手虎口があり、前面の堀切に土橋が架かっている。土橋の先には大井戸の穴があいており、南1郭のものと同じく導線を制約する役目を果たしている。この他、北郭と主郭の東側には横掘が穿たれ、主郭前後の堀切はこの横掘に交差し、更に竪堀が落ちている。つまり主郭の南東・北東は、横堀・堀切・竪堀の交差点となっている。大道城は、堀切・横掘の規模は決して大きくはないが、これらが防御線としてしっかり構築されている。
主郭北側の堀切→DSCN9718.JPG

 尚、大道城から北東に1kmの地点には、山中を通る山道の途中に「門口の門」と呼ばれる遺構がある。大道城の大手門と伝えられ、両脇に切岸・曲輪を築いた枡形通路となっている。
DSCN9541.JPG←門口の門の枡形通路

 いずれの遺構も結構草木が多く、少々確認しにくいのが難である。ちなみにこの城から車に戻り、走り出して少ししたら緊急地震速報が鳴り、車を止めたらグラグラ揺れていた。珠洲で大地震があった時だった。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【大道城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.545458/137.070204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【門口の門】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.553284/137.076395/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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下瀬城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9499.JPG←大堀切
 下瀬城は、射水・婦負郡守護代神保氏の重要拠点富崎城の出城である。『三州志』によれば、天正年間(1573~92年)に越後の上杉謙信が越中に侵攻した際、神保麾下の部将が築いたと言われる。また富崎城との間には山上を通る連絡路もあったと伝えられる。山田川沿いに展開する鶴ヶ城・富崎城・下瀬城・高山城大道城は、いずれも神保氏とその部将が居城したことで知られており、神保氏がこの流域に大きな支配力を持っていたことを物語っている。

 下瀬城は、山田川東岸に連なる丘陵から北西に突き出た尾根上に築かれている。登道はないので、適当に尾根に取り付いて登るしか方法はない。しかも城のある尾根の北西部は建設会社の敷地となって削られているので、削り残されている部分を登攀する他ない。幸い、城のある尾根の西にある谷に入っていく道があるので、そこから谷に入り、適当なところから左手の削り残された尾根に取り付いて登った。この尾根の最上部は垂直絶壁となっているが、右側に迂回する獣道があり、それを辿ると二ノ郭の虎口に至る。二ノ郭は、L字型をした曲輪で、北側の部分が広くなっている。L字の折れの西側に大手虎口があるが、広い谷状の地形になっていて、ここに3つの小段がある。枡形虎口の一種のようである。二ノ郭の背後には堀切が穿たれ、その上に主郭がそびえている。主郭は長方形をした縦長の曲輪で、背後には深さ7m程の大堀切が穿たれている。大堀切の後ろには物見の小郭があり、その後部にも小堀切が穿たれて城域が終わっている。この他主郭の西側には腰曲輪があり、大堀切から武者走りが繋がっている。下瀬城は連郭式の小規模な城であるが、堀切は鋭く、大手虎口にも工夫があり、繋ぎの城として重視されていたことがうかがわれる。
二ノ郭大手虎口の段→DSCN9476.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.634720/137.106929/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


地図でめぐる日本の城

地図でめぐる日本の城

  • 出版社/メーカー: 帝国書院
  • 発売日: 2023/07/08
  • メディア: 大型本


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銀納砦(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9418.JPG←主郭南の横掘と切岸
 銀納砦は、歴史不詳の城砦である。富崎城からわずか200m程しか離れておらず、富崎城に付随した出砦であったことはほぼ間違いないだろう。

 銀納砦は、富崎城のある段丘の東端部に築かれている。東に向かって傾斜した地形に段状に曲輪を築いている。最上段が主郭で、郭内には富崎墳墓群3号墓があり、櫓台として転用したものと推測される。主郭の南と西に土塁が築かれ、その外周には横掘が穿たれている。この横掘は北の尾根まで回り込んで掘り切っている。更に外側には西から北にかけて谷があり、自然地形をそのまま外堀として使ったものだろう。主郭の東部から下の曲輪にかけては墓地となって改変されているが、わずかに南側に土塁と空堀が確認できる。東方の監視を主任務とした物見の砦であった様である。
主郭の西から北にかけての横掘→DSCN9443.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.642107/137.120544/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/12/03
  • メディア: 大型本


タグ:中世崖端城
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富崎城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9330.JPG←主郭の空堀
 富崎城は、滝山城・福山城とも呼ばれ、戦国時代に射水・婦負郡守護代であった神保氏の有力支城の一つである。伝承では、1441年に神保八郎左衛門が居城したと言われる。戦国前期の天文年間(1532~55年)に、富山に進出した神保長職が本格的に築城したとされる。長職は、永禄年間(1558~70年)に越後の上杉謙信に富崎城を攻められ、1562年の戦いで謙信に降り、上杉氏に属して増山城に居城を移した。元亀年間(1570~73年)に長職が没すると、富崎城には長職の旧臣水越氏が一向一揆と共に立て籠もり、1572年9月に謙信に攻撃されて落城した。この時謙信は、城内を悉く焼き払い、城を取り壊したと言う。天正年間(1573~92年)には一時上杉氏が支城として使ったと見られ、1581年には神保氏旧臣の寺嶋牛之助・小嶋甚助兄弟が富崎城を拠点に織田氏に抵抗したが、5月に織田軍の攻撃を受けて落城し、寺嶋氏らは大道城に逃れて抵抗を続けたが、後に和を結んで佐々成政に属した。寺嶋氏らが落ち延びた後の富崎城は、佐々氏の支城となったと見られるが、この時に廃城になったとの説もある。

 富崎城は、山田川南岸の段丘上に築かれている。段丘北西端部を三角形に区画した城域を有している。城は大きく南北2郭に分かれ、北が主郭、南が二ノ郭である。主郭内にはわずかな段差があり、井戸跡も残っている。主郭南には空堀が穿たれ、空堀は南西で直角に折れて崖線まで掘り切っている。空堀中央部には土橋が架かり、二ノ郭に繋がっている。土橋の先は一段高くなっていて、現地解説板では馬出しとしているが、私の定義では馬出しではなく虎口郭である(馬出しは空堀で囲まれた独立小郭。虎口郭は主郭または他の曲輪に付随する小郭で、空堀で囲まれておらず独立性が高くない)。二ノ郭周囲にも空堀が穿たれ、横矢掛りが数ヶ所設けられている。主郭・二ノ郭の東側には腰曲輪が築かれ、腰曲輪の中央部には堀底道が外に向かって設けられて枡形虎口を形成している。この他、主郭の北斜面にも、段曲輪群と2本の堀切が穿たれており、川岸からの接近を阻止している。富崎城は、遺構はよく残っているが、二ノ郭など未整備の薮に覆われていて、遺構の確認がし辛い部分もある。また空堀の規模もそれほど大きくはなく、台地側からの要害性がそれほど高いとは言えず、長職没後はあまり積極的な使用はされなかったように感じられた。
北斜面の堀切→DSCN9310.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.642847/137.117615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


北陸の名城を歩く 富山編

北陸の名城を歩く 富山編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2022/09/01
  • メディア: 単行本


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長沢西城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9180.JPG←枡形虎口
 長沢西城は、単に長沢城とも呼ばれる。明確な歴史は不明であるが、観応の擾乱以来室町幕府に敵対していた元越中守護桃井直常が最後に挙兵した1369年、桃井軍の侵攻を受けた能登守護吉見氏頼がこれを迎え撃って各地で桃井勢を撃破し、逆に越中に攻め込んだ。更に越中守護斯波義将・加賀守護冨樫竹童丸もこれに加勢し、1370年3月16日に直常の嫡子直和を越中国長沢で討ち取っている。この長沢合戦の舞台となったのが長沢城ではないかとされるが、確証はない。戦国末期の佐々成政支配時代には、その家臣寺島牛之助の居城になったとも伝えられるが、これも明確ではない。

 長沢西城は、辺呂川の北側に連なる丘陵地の一角、石山に築かれている。婦中ふるさと自然公園の散策路から行くことができ、長沢東城への分岐点から更に奥に300m程進むと、西城への分岐がある。U字型をした2つの尾根に挟まれた谷部に大きな平場を築いて主郭とした形態の城である。こうした谷中式曲輪の城は、少ないが他県でも類例がある。主体となる平場は、間に仕切り土塁があって南北に分かれている。南の平場は南東から登る虎口があり、これが二ノ郭であろう。奥に位置する北の平場は大井戸があり、これが主郭と思われる。二ノ郭に登る城道は多重枡形虎口となっており、虎口側方には櫓台が築かれている。虎口の右上方には武者隠しと呼ばれる小郭があって、虎口の防御を厳重なものにしている。この大手の多重枡形を出て、道が少し下ったところには、谷側に2本の横掘・土塁が築かれている。その先に道の屈曲がもう一つあり、側方に竪堀と土塁を伴っている。主郭背後には削り残しの尾根があり、上部が削平されて上方から主郭を守る曲輪(B郭)となっている。この曲輪の南に伸びる尾根の中間には櫓台の土壇が築かれている。また南東に伸びる尾根には土塁や小郭があり、先端に堀切が穿たれている。この堀切に谷側から近づいた時、鹿がダッシュで逃げていった。B郭の後部には鞍部の先に小ピークがあり、ここに詰の曲輪であるC郭がある。C郭も北面に土塁が築かれ、背後の尾根には堀切が穿たれている。その先は自然地形の尾根であるが、側方に土塁がある。おそらくこの背後の尾根筋で東城と連絡していたのだろう。以上が長沢西城の遺構で、手の込んだ多重枡形虎口が異彩を放っている。
南尾根の櫓台→DSCN9153.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.650612/137.108088/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 北朝編

南北朝武将列伝 北朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/05/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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老化現象 [雑感]

50代に入ってから、記憶力の低下が顕著になってきました。
最近は正確な縄張図が手元にない、ドマイナーな城に行くことが多くなってきたため、
(ネット上の情報皆無とか、縄張図があっても不正確極まりないものだったりとか)
写真だけだと城の縄張りが全く思い出せないことが増えてきました。

ブログを頑張って書いているものの、大体今書いている城は、半年ぐらい前に行った城で、
なかなか探訪ペースにブログ記事が追っつかない状態です。
おかげで、特徴があまりなかったり、印象が薄い城は、
ブログを書くために写真を見返していても、
「これ、どこの部分だ?」「何を撮ったんだっけ、この写真?」なんて言うことが、
とっても多くなってきました。

記憶力の限界を感じてきたため、今冬の山城探訪から簡単な縄張図を書き始めました。
歩測もせずにテキトーに描いているので、正確性には欠けますが、
縄張りの概略だけ分かればいいかな、ということで、走り描きをいくつか残し始めました。

下に掲載したのは、先月下旬に行った岩手県遠野市の花楯(花館)です。
スーパー地形の地形データから、すごい城だろうと想像はしていましたが、
竪堀・横掘が縦横に張り巡らされた、期待に違わぬすごい城でした。
私が人生始めてまともに描いた縄張図です。
ヘタクソでどうしようもないですが、すこしずつ頑張っていきたいと思います。
なにせ基本が「個人の備忘録」というスタンスのブログなので、
正確さは求めないでくださいね・・・。
z花楯縄張図.jpg
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長沢東城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN9045.JPG←大手枡形
 長沢東城は、家老屋敷とも言い、歴史不詳の城である。谷を挟んで南西には長沢西城があり、東城は西城の出城であった可能性がある。南東約1.2kmには富崎城があり、富崎城の攻防に関連して築かれたものと推測されている。

 長沢東城は、辺呂川の北側に連なる丘陵地の一角、無常山に築かれている。婦中ふるさと自然公園から南西に広がる林の中の散策路を進んでいくと、やがて城への案内板が現れる。そこから南東へと進んでいくと、城域に至る。城内は大きく7つの曲輪に分かれ、現地ではA~G郭と名前が割り振られている。城域後部の最高所にあるのがG郭で、本丸とされている。削平が甘い地山で、周囲の切岸も不明瞭であり、単なる物見か詰丸的な位置づけである。G郭の南東には切岸で区画されたF郭があり、二の丸とされるが、実態はG郭の腰曲輪である。その下方の平坦地にC~Eの3つの長方形の平場が並ぶが、土塁があるのは一番西のE郭だけで、他はわずかな段差で区画されているだけで、いかにも屋敷地と言う感じである。これらの南側に高台となったA郭がある。A郭は城内で最も広く、土塁もあり、浅い空堀でB郭と区画され、東下方に大手枡形を置いている。実質的な主郭はA郭であろう。B郭はA郭の東に突出した尾根上の曲輪で、A郭とは土橋で連結されている。大手枡形を俯瞰する位置にあり、大手虎口防衛の櫓台として機能していたと考えられる。大手枡形は、前面に土塁を築き、入り口を狭めている。枡形からの城道は、A郭へ登る道とC~E郭の脇を通る道に分かれて通じている。長沢東城は、家老屋敷の別名通り、家臣団の居館地的な城である。
A郭の土塁→DSCN9090.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.651903/137.109654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2023/12/01
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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赤丸城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8956.JPG←二ノ郭西側の畝状竪堀
 赤丸城は、この地の国人領主中山氏の居城と推測されている。中山氏は、室町~戦国前期にかけて浅井城を本城としていたが、戦国後期になると赤丸城に居城を移したと推測されている。佐々成政が越中を平定する過程でその配下に入った様である。天正年間(1573~92年)の城主として中山国松の名が伝わっている。1584年に成政が前田利家の支城末森城を大挙攻撃した際(末森合戦)には、中山氏も参陣している。1585年8月に成政が豊臣秀吉の討伐を受けて降伏し、越中を離れると、中山氏もこの地を離れ、越前敦賀に移り住んだとされる。尚、『日本城郭大系』では浅井城のことを赤丸城として記載している。

 赤丸城は、標高172mの城ヶ平山に築かれている。ハイキングコースが整備されており、迷うことなく登ることができる。登道は、東麓からと北東尾根筋の2ルートが有り、往時の大手に当たる北東尾根から登る方が遺構がよく分かる。登り口は八幡宮の裏手にある。北東尾根を登っていくと途中に鉄塔があり、それを越えて登っていくと、3本の堀切と段曲輪があり、その先に山頂の主郭がある。主郭は東側が一段低く腰曲輪状になっている。南東尾根にも4本の堀切が穿たれており、間には小郭も見られるが、ほとんどは自然地形の尾根となっている。主郭の西側には二ノ郭があり、殿様池と呼ばれる井戸跡が残っている。二ノ郭の周囲には腰曲輪群が築かれており、南の腰曲輪群は下方に土橋で後部土塁と連結した馬蹄形曲輪がある。また二ノ郭から伸びる南西と北西の尾根の先にも堀切があり、南西ではその先に出曲輪が築かれている。二ノ郭の西斜面には、明確な畝状竪堀が穿たれている。畝状竪堀は、主郭の東斜面にも穿たれているとされるが、草木に埋もれているせいもあってほとんどわからなかった。以上が赤丸城の遺構で、高岡市内の山城の中ではかなり技巧的な縄張りの城である。
南東尾根の3本目の堀切→DSCN8895.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.737225/136.921577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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浅井城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8785.JPG←幅広の堀切
 浅井城は、この地の国人領主中山氏の居城である。中山氏は、室町~戦国前期にかけて浅井城を本城としていたが、戦国後期になると赤丸城に居城を移したと推測されている。後に佐々成政が越中に入ると、中山国松は成政に服属したが、1585年8月に成政が豊臣秀吉の討伐を受けて降伏し、越中を離れると、中山氏も城を退転したと考えられている。尚、別説では、勝興寺の坊官下間氏が増山城の神保長職との戦いを指揮する為に浅井城に一時的に拠ったとも言われる。

 浅井城は、清水山から南東に向かって張り出した比高40m程の尾根先端部に築かれている。城へは、浅井神社の奥に伸びる車道を500m程進み、南に入る林道を5分以上歩くと、ようやく城の解説板が現れる。しかし城はそこから更に150m程奥にある。結構遠回りになるので、遺構を手っ取り早く見たい方は城の周囲の急斜面を強行突破した方が早いかもしれない。尾根の基部には幅広の堀切が穿たれ、その先が城域で、後部に方形の主郭がある。主郭は2段の平場で構成されている。主郭の南東には菱形をした広い二ノ郭が広がっている。二ノ郭外周には腰曲輪が築かれている他、二ノ郭内部もいくつかの段差で区画されているようだが、草木が繁茂していて形状がわかりにくい。以上が遺構の全容で、解説板にある通り「全体として縄張りが単純」であり、政庁機能を主とした館城だったと思われる。
主郭→DSCN8792.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.740956/136.932939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2013/12/01
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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二ッ城(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN8737.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 二ッ城は、標高264.1mの三千坊山に築かれている。三千坊山には、中世には能登石動山天平寺と関係のあった天台宗寺院があったと伝えられ、山伏修験の場であったらしい。南北朝時代には遠江国井伊谷を逐われた後醍醐天皇の皇子宗良親王が、1342年に名子の裏(放生津)に滞在しており、二ッ城にあった天台寺院と関係があったと言われる。それもそのはず、宗良親王は元弘の乱当時は天台座主を務めていたので、天台寺院とは深い繋がりがあったのだろう。しかし北朝方の攻撃により、この三千坊の寺院堂舎は焼亡したらしい。また戦国時代にも越後上杉氏の軍勢による戦火で焼失したと推測されている。これらのことから推測すると、二ッ城は南北朝時代によく見られる、寺院を城砦化した寺院城郭、もしくは寺院勢力が築いた詰城であったと考えられる。

 二ッ城は、前述の通り三千坊山にあり、ハイキングコースが整備されているので簡単に登ることができる。ルートはいくつかあるようだが、南中腹から登るルートが一番わかり易い。南から登ると最初に到達するのが主郭の南虎口で、浅い横堀が穿たれた円弧状の虎口郭があり、横掘の西端に竪堀が落ちている。虎口郭の上には主郭がある。主郭は円形の曲輪で展望台が建っており、高岡城などがよく見える。主郭の西には堀切を挟みながら、二ノ郭・三ノ郭が並んでいる。主郭と二ノ郭との間の堀切の北東には主郭腰曲輪がある。縄張図では二重竪堀があるとされるが、薮でわかりにくい。二ノ郭は小さな方形の曲輪で、三ノ郭との間の堀切は浅い。三ノ郭は堀切に沿って土塁が築かれ、西側には腰曲輪が築かれている。腰曲輪には3本の竪堀が間隔を開けて落ちているようだが、これも薮でわかりにくい。この他、主郭の東側にも横掘があり、前述の虎口郭脇から堀が繋がっているようだが、薮が多くてよくわからない。以上が二ッ城の遺構で、遺構はよく残っているが小さな城砦であり、主要部以外は未整備の薮に覆われていてわかりにくいのが残念である。
主郭南の虎口郭→DSCN8724.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.773998/136.933798/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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