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壇城(富山県砺波市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7500.JPG←主郭の現況
 壇城(壇ノ城)は、南北朝期の1369年に室町幕府方の越中守護斯波義将の軍勢の攻撃を受けた「庄城」のことと考えられている。庄城は、観応の擾乱以来幕府に敵対していた元越中守護桃井直常の軍事拠点の一つであった。『二宮円阿軍忠状』によれば、足利一族の名門斯波高経の重臣であった二宮円阿は、1362年に2代将軍足利義詮と主君高経の命を受け、観応の擾乱以来室町幕府に敵対していた元越中守護桃井直常を討伐する為越中国に出陣、松根御陣・和田合戦・庄城・野尻などに従軍した。次いで1369年には再び桃井直常討伐のため、越中守護の斯波勢、能登守護の吉見勢が出陣し、庄城は二宮円阿らの斯波勢に攻められ落城したと言う。戦国期には石黒与三右衛門が城主となったが、1576年頃に上杉謙信に攻められ城を明け退いたと伝えられる。

 壇城は、庄川東岸の比高40m程の段丘上に築かれている。南方の三条山には同じ南北朝期に千代ヶ様城があり、平時の居館が壇城で、千代ヶ様城が有事の際の詰城であったと考えられている。しかし居館とされる壇城自体も、居館跡の平坦地(主郭。通称、台所屋敷)の東の山上に詰城とされる砦遺構が存在する。主郭は現在、ほとんどが水田に、西端部分が弁天温泉となっている。たまたま温泉のご主人が外にいたので、遺構探索の許可を頂いた。主郭は改変されているので、平場以外に明確な遺構は見られない。一方、背後の山上の砦は遺構がよく残っている。北西の中腹部に腰曲輪状の平場が見られる。北西の尾根を登っていくと、途中に小堀切があり、その上に砦がある。砦は縦長の小規模な平場となってるが、後部にコの字型の土塁で囲まれた一段低い曲輪があり、小屋掛けがあったらしい。南の尾根には2本の小堀切が穿たれている。また尾根の東に腰曲輪があり、山上の曲輪から竪堀が落ちて東腰曲輪に繋がっている。またこの東腰曲輪からも竪堀が落ちている。以上が壇城の遺構で、小規模ながら居館と詰城がセットになった形態がよく残っている。
砦のコの字型土塁で囲まれた曲輪→DSCN7517.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.588974/136.994973/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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