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古城めぐり(沖縄) ブログトップ

南山城(沖縄県糸満市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06975.JPG←公園北辺に残る往時の石垣
 南山城は、島尻大里城とも呼ばれ、三山分立時代に南山王(山南王)の居城であったと言われている。南山王統の歴史は詳らかではなく、諸説あってその系譜は俄には明確にできない。居城についても、この南山城の他、島添大里城であったとする説もある。中華帝国・明王朝の『明実録』からは、太祖洪武帝(朱元璋)の時代に山南王が盛んに朝貢したしたことが知られ、南山文化を花開かせていた。15世紀に入ると、中山の尚巴志に攻め滅ぼされ、南山王統は滅亡した。
 南山城は、ほぼ平地に近い比高わずか数mの小台地に築かれたグスクである。現在は、城域の東側1/3は南山神社のある公園となり、残り2/3は高嶺小学校に変貌している。公園の東面と南面には切石積みの石垣があるが、これは小学校建設の際に積み直されたものと言われ、往時の遺構ではない。しかし復元石垣だけかと思ったら、実はしっかり遺構の石垣も残っており、公園の北辺部に数十mに渡って野面積みの石垣が確認できる。さすがに往時の石垣は、復元石垣とはその風格が違う。公園の北西部には隅櫓らしい土壇もある。かなり改変されているのではっきりとはわからないが、単郭のグスクだった様だ。あまり要害性の高くない地勢とグスクの規模・構造を考えれば、南山王統の本城としてはやや不自然さを残すグスクである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.127257/127.690090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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具志川城(沖縄県糸満市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06908.JPG←垂直断崖上に積まれた石垣
 具志川城は、歴史不詳のグスクである。久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主真金声(まかねくい)按司が、伊敷索(いしきなわ)按司の二男真仁古樽(まにくたる)に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたとされるが、真偽の程は定かではない。しかし、双方の立地や構造はよく似ているとされる。
 具志川城は、海岸に突き出た垂直断崖上に築かれた、沖縄本島最南端のグスクである。小規模ながら総石垣で築かれたグスクで、断崖の付け根の部分に城門を築き、その先のニノ郭と更にそこから1段下がった先端部の主郭から構成されている。いずれの曲輪も大した広さはなく、城内の居住性はあまりなかったと思われる。外周の石垣は一部が修復されて積み直しされており、石が真新しい。また、ニノ郭の石垣は、地形に沿わせる形で大きく湾曲して積まれている。グスクの周りには集落がないので、根古屋的なものがあったのかどうかも不明で、どのように運用されたのか謎の多いグスクである。伝説の通り、一時的に逃げ込んだだけのグスクだったのかもしれない。
ニノ郭から見た主郭→DSC06929.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.080549/127.664319/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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具志頭城(沖縄県八重瀬町) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06888.JPG←公園となったグスクの現況
 具志頭城は、具志頭按司の歴代の居城である。14世紀中頃に英祖王統第2代大成王の第3子が具志頭按司に封じられて、このグスクを築いたと言われている。
 具志頭城は、沖縄本島の南海岸に面した標高50mの段丘上に築かれたグスクである。現在は公園となっており、改変が激しくどのような縄張りであったかも定かではない。公園内には遺構はなく、グスク南側に「高ヤックヮ(高櫓)」と呼ばれる見張櫓の石垣が残っているそうだが、場所がよくわからなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.121458/127.750429/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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糸数城(沖縄県南城市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06852.JPG←豪壮な石垣の城壁
 糸数城は、糸数按司の居城と言われている。築城年代は不明であるが、伝説では玉城按司が、次男を大城按司に封じ、3男を糸数按司に封じたと言われている。三山分立時代の初期、14世紀前半の築城と推測されている。
 糸数城は、比高30m程の台地先端部に築かれたグスクである。豪壮な長城形式の石垣のグスクで、特に東側を防衛する城壁は、張り出した方形の櫓台を複数備えた圧巻の高石垣となっている。中国・東アジアの城郭で言う「馬面」である。ここから北に伸びる石垣は、小丘の上まで伸びて折れ曲がっているが、この最上部の物見台は曲輪の体を成しておらず、ただの遠見番所の様な位置付けだったのか、意図がよくわからない。単郭のグスクで、主郭内は広い平場になっているが、内部を区画するように石垣の残欠が多数散在している。非常に素晴らしい石垣が見られるグスクだが、これまで見てきたグスクの例からすると、ここもかなり復元が含まれていると思われる。沖縄県は、どこまでが往時のままの遺構で、どこからが復元(想像復元?)なのか、もっときちんと史跡の解説板に記載すべきだと思う。
長城形式の石垣→DSC06790.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.151740/127.762638/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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玉城城(沖縄県南城市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06735.JPG←山麓からの城址の遠望
 玉城城は、歴史不詳のグスクである。伝説では、沖縄開闢の神アマミキヨが築城し、その子孫が歴代の城主になったとされるが、元より伝説に過ぎない。おそらく三山時代に、玉城按司の居城になっていたと思われる。
玉城城は、標高180mの丘陵上に築かれたグスクである。現在国の指定史跡として整備され、主郭の石垣がかなり良好に残っており、一部は真新しい石で積み直されて修復されている。穴が明けられたような主郭城門の石垣は、ちょっと崩壊寸前の様な感じで危なげで、もう少し補強などの手を入れて欲しいところである。主郭は全周を石垣が囲んでいるが、西側や南端部は薮が多くて形状がよくわからない。元々は、東側の緩斜面に向かってニノ郭・三ノ郭が広がった梯郭式の縄張りだったが、悲しいことにニノ郭・三ノ郭は米軍によって基地建設の用材として石垣が運び出され、破壊されてしまったらしい。それにしても、これだけよく遺構の残ったグスクが歴史不詳というのも、不思議に感じるところである。中山による南山攻略で、歴史が失われたのだろう。
主郭の城門→DSC06759.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.144266/127.780577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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垣花城(沖縄県南城市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06725.JPG←主郭虎口付近の石垣
 垣花城は、歴史不詳のグスクである。伝承によれば、南山城の島尻大里按司と戦い自害した大城按司の妻が垣花出身だった為、子の若按司は家来に助けられて、母と共に垣花の母の実家に潜み、その後、真和志間切田原の薮に隠れ住んだとされる。
 垣花城は、垣花集落の南の比高10m程の独立丘陵上に築かれている。石碑と解説板のある入口から登って行くと、途中に部分的に残存する石垣を見ながらニノ郭に至る。ニノ郭の一段下にも平場と石垣があるので、ここにも曲輪があったらしい。ニノ郭には城門跡らしい大手虎口があり、内部は広い平場となっている。その先に一段高く細長い主郭があり、虎口付近には石垣がよく残っている。主郭虎口は動線が屈曲しており、本土の築城技術の影響を受けているとも考えられる。主郭は奥に長いが、奥へは行かなかった。というのも、主郭も二ノ郭も鬱蒼とした密林に覆われており、かなり危険な雰囲気が濃厚なのである。実際、主郭の南の方を歩いていたら、謎のトカゲ状生物が一瞬走り去るのが見え、尻尾だけが見えた。あれは何だったんだろう・・・?野生の王国の様なグスクである。
登道途中の石垣→DSC06699.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.147926/127.792293/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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知念城(沖縄県南城市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06641.JPG←新城の城壁と城門
 知念城は、知念按司歴代の居城である。古城(クーグスク)と新城(ミーグスク)に分かれ、古城の創築は不明であるが、新城は尚真王の異母兄弟に当たる内間大親が尚真王時代(1477~1526年)に知念按司に封じられて築いたと伝えられている。1761年以降は知念番所が置かれたと言う。
 知念城は、知念集落背後の比高50m程の段丘上に築かれたグスクである。新城は小規模な単郭のグスクだが、石垣と2つの城門がよく残っている。石垣は修復作業でかなり積み直しされているらしく、現在でも作業中の様だ。グスク周辺には、ノロ屋敷と呼ばれる屋敷跡や、やや離れて知念按司の墓が残っている。尚、古城は新城東側の高台にあるが、未整備の為、例によってハブ・蜘蛛リスクによって未踏査である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.160157/127.811562/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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ミーグスク(沖縄県南城市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06572.JPG←ミーグスクの現況
 ミーグスクは、島添大里グスクの外郭の東側に位置するグスクである。標高約160mの丘陵頂部に位置し、島添大里グスクの出城であったとも言われている。また、島添大里按司が明国との貿易をしていた時代に、船の出入りを送迎した所とも伝えられている。
 ミーグスクは、出城というより物見台に近いグスクで、現在は頂部の岩場の上に四阿が置かれている。明確な遺構は確認できず、おまけに蜂の巣があるらしく、危険で近づけなかった。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.185538/127.764012/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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島添大里城(沖縄県南城市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06549.JPG←城内の現況、奥が主郭
 島添大里城は、14世紀頃の三山時代に、島尻地域を支配していた南山王の一族島添大里按司によって築かれたグスクである。後には尚巴志が最初に攻略したグスクと言われ、三山統一のきっかけとなった重要な場所でもある。
 島添大里城は、標高150mの丘陵上に築かれたグスクである。現地解説板によれば、城域北部の断崖を背にした最高所に主郭を置き、その東から南にかけての平場に、ニノ郭・三ノ郭を放射状に配した縄張りであったとされる。しかし、太平洋戦争の沖縄戦で遺構が尽く破壊された為、現在は明確な縄張りが確認できなくなってしまっている。主郭は物見台程度のもので、その背後に切通し状の小道が通っているが、これは堀切であろうか?主郭の周囲には平場が広がっており、そこがニノ郭・三ノ郭だったと思われるが、現在ではただの平場である。周囲や城道には石積みが広範囲に散乱しており、一部に遺構と思われる石垣もあるが、どこまで遺構が残されているのかもよくわからない。グスクの南には、かつて小学校が建てられていたという広場があり、その広場に沿って石積みが見られるが、これも遺構であろうか?いずれにしても、島添大里城は2012年に国の指定史跡となったばかりなので、今後復元整備が進められればグスクの形状がよく分かるようになるだろう。
主郭付近に残る石垣→DSC06551.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.186462/127.759892/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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勝連城(沖縄県うるま市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06471.JPG←そびえ立つ石垣群
 勝連城は、有力按司の阿麻和利の居城である。伝承では、初代城主は英祖王系・大成王の5男であったとされる。その後、勝連按司は4代続き、6代目に世継ぎがなかったことから、伊波城主伊波按司の6男が養子に入り、勝連按司を継いだ。9代目は茂知附按司となったが、暴政によって民心を失い、信望の厚かった阿麻和利によって倒された。阿麻和利は10代目の勝連按司となると、善政を敷いて民力を養い、勝連は益々栄えた為、琉球国王6代尚泰久は娘の百登足揚(ももとふみあがり)を降嫁させた。その後1458年、阿麻和利は中城城主の護佐丸を讒言によって討ち滅ぼし、王国奪取を目指して首里城を攻めた。しかし、妻の足揚とその御供であった大城賢勇によって、その叛意は事前に首里城に伝えられていた為、阿麻和利の軍勢は備えを固めていた王国軍に大敗した。阿麻和利は勝連城に立て籠もったが、大城賢勇率いる討伐軍が勝連城を攻め落とし、阿麻和利は滅亡した。勝連城は、この時廃城となったと言う。

 勝連城は、標高90mの丘陵上に築かれた、総石垣のグスクである。梯郭式の縄張りを持った平山城で、垂直断崖の上に豪壮な石垣が積まれた屈指の要害である。最上部に主郭を置き、その南東に広がる斜面上に、ニノ郭・三ノ郭・四ノ郭を連ね、更にその東の高台に東郭を構えている。主郭外周の石垣は、ところどころ外側に対して凸状に張り出しており、わずかではあるが横矢掛かりを意識したものの様である。ニノ郭には舎殿跡の礎石が残っている。四ノ郭の石垣は、緩斜面の曲輪を包むように長城形式で築かれており、一部が復元整備中である。東郭は未整備の為、今回は未踏査である。夕闇迫る勝連城から眺める風景は、何とも言えぬ美しさだった。
外郭線の石垣→DSC06479.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.330768/127.878596/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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首里城(沖縄県那覇市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06287.JPG←瑞泉門への大手道
 首里城は、中山城とも呼ばれ、琉球王国の王城である。その創築は不明であるが、第一尚氏の時代、1406年に尚巴志が居城として以来、1879年に最後の国王尚泰が明治政府に明け渡すまで、王国の首府として政治・外交・文化の中心であった。佐敷按司の尚巴志は、1406年、察度王統(中山王)2代武寧王を攻め滅ぼし、父の尚思紹を中山王に即位させ、第一尚氏王統を開いた。その後、1416年に今帰仁城の北山王国を滅ぼし、巴志が王位を継いだ後の1429年に南山城の南山王国を滅ぼして、三山統一を成し遂げた。1462年、尚徳王の重臣であった金丸が王位に就き、尚円と称して第二尚氏王統を開いた。1609年、薩摩藩は琉球に侵攻し、尚寧王は和睦を申し入れて首里城を開城し、以後、琉球王国は薩摩藩の付庸国となった。明治維新後の1879年、明治政府は琉球を廃して沖縄県として、琉球王国は廃された。
 太平洋戦争の沖縄戦では、帝国陸軍の司令部が首里城の地下壕に置かれた為、この地で激しい戦闘が行われ、首里城は壊滅的な破壊を受けた。

 首里城は、標高120mの丘陵上に築かれたグスクである。王国の首府であった関係から、城というよりも王宮としての側面が強く、本土の近世城郭と比べてもかなり趣を異にしている。戦災による破壊は、近年の復元整備によりかなり修復され、グスク外周の石垣の他、正殿や守礼門等の建築物も復元されている。訪城時は、正殿の他に右掖門にも足場が掛けられて整備が行われていた他、主郭の東側は工事地区となって復元整備が進められていた。主郭南側は、京の内と呼ばれ、主郭より高台となった祭祀空間であったらしい。その西端には物見台が置かれ、グスクの外郭線を形成している。首里城は、那覇市内の世界遺産であることから、観光地化が進んでおり、古城巡りとは趣が異なってしまうのは仕方のない事であろう。
久慶門付近の石垣→DSC06388.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.217017/127.719165/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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中城城(沖縄県中城村) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06225.JPG←主郭の城門と石垣
 中城城は、15世紀中頃に、築城家としても名高い護佐丸によって築かれたグスクである。元々の創築は、先中城按司が14世紀後半頃迄の数世代に渡り築かれたと考えられている。その後、1440年に護佐丸が座喜味城から移封となり、グスクを改修・拡張した。これは、勝連城の阿麻和利から中山(首里城)を防衛するための措置であったとされる。その後1458年、中山の弱体化を目論む阿麻和利の讒言に惑わされた尚泰久王は、阿麻和利に護佐丸討伐を命じ、護佐丸は敗れて自害した。以後、中城城は王府の直轄地となり、江戸時代には間切番所が置かれた。

 中城城は、眼下に海を望む標高167mの丘陵上に築かれた、総石垣の連郭式のグスクである。三ノ郭・ニノ郭・主郭・南郭が一直線に並び、その北側に西郭・北郭といった腰曲輪が築かれている。琉球のグスクでは珍しく、整然とした連郭式の縄張りで、本土の築城法の影響を受けていると推測されている。一方で石垣の造りや城門の構造は、中華帝国・朝鮮の影響を色濃く受けており、琉球がまさに東アジア海上交通の要路であったことを伺わせている。正門やそれを防衛する櫓台などの石垣がよく残り、この他にも南郭の西側には切通し状の虎口が確認できる。訪城当日は、残念ながら主郭西側の石垣が修復中で、城門も解体されていた。それにしても要塞のような城壁は素晴らしく、このグスクが琉球王国の城郭技術の一つの到達点であったことを示している。
主郭の城壁→DSC06184.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.284450/127.802378/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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今帰仁城(沖縄県今帰仁村) [古城めぐり(沖縄)]

DSC06014.JPG←御内原からの眺望
 今帰仁城は、北山城とも呼ばれ、北山王の居城である。北山王統は、怕尼芝・珉・攀安知と続いた系統で、今帰仁城を歴代の居城とした。今帰仁城の創築は明確ではないが、発掘調査の結果からは13世紀頃には築城されたと考えられている。1416年、北山最後の王攀安知は密かに中山(首里城)攻略を企図していたが、淫虐無道であったために周辺の按司達は北山を恐れ、中山王尚思紹にその計画を告げて、北山攻略を進言した。思紹はこれを容れ、世子尚巴志に今帰仁城攻略を命じた。諸按司を率いた中山連合軍は今帰仁城を攻めたが、難攻不落の要害である上、攀安知の重臣本部平原が勇戦し、容易に落ちなかった。そこで巴志は計略を巡らし、敵将平原を調略して裏切らせ、遂に今帰仁城を攻め落とし、攀安知を滅ぼした。その後、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁城に設置し、1422年以降監守の居城となった。1609年、薩摩軍による琉球侵攻で城は炎上し、後に廃城となった。

 今帰仁城は、琉球王国のグスクの中でも大規模な遺構が残る屈指の名城である。標高105mの丘陵地に築かれたグスクで、最上部に主郭を置き、その北側に広がる緩斜面上に大庭・大隅などと呼ばれる曲輪群を石垣で区画している。特に大隅はかつての練兵場であったと言われ、外周に豪壮な石垣が築かれている。今帰仁の石垣は、弓なりに弧を描いた独特のもので、私には星形に見える。星形の角部は高くせり上がるようにそびえており、櫓台として機能していたのだろう。石垣の外周には窪地があるが、庭園跡か堀跡か、よくわからない。北側には外郭が広がり、その外周も前述同様な星形石垣が取り巻いている。但し外郭のものは、高さがかなり低い。一方、主郭の南東側には志慶真門郭があり、4つの建物が発掘されて見つかっているが、かなり傾斜した地勢の曲輪となっている。ここも他の琉球のグスク同様、かなり広範囲に石垣が復元されているようで、現在の姿がそっくりそのままの遺構ではないと思われるが、広大な総石垣のグスクで見応えがある。海の眺望も素晴らしい。
志慶真門郭の石垣→DSC06060.JPG
DSC05939.JPG←星形の豪壮な石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.690315/127.930373/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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名護城(沖縄県名護市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC05855.JPG←主郭の現況
 名護城は、名護按司の居城である。名護按司は、今帰仁城の北山系統の一流で、14世紀の初期頃にこの地に入部して名護城を築いたと言われている。
 名護城は、名護岳から西に伸びる支尾根の先端部の、標高100mの丘陵上に築かれたグスクである。現在名護城公園となっているが、あまり整備は進んでおらずそれほど大きな改変を受けていない様である。頂部の主郭と、その北西にニノ郭の平場がある他は、あまり明確な遺構は確認できない。主郭はそこそこの広さを持つが、沖縄のグスクには珍しく石垣がなく、また現地解説板の縄張図によれば、主郭背後にはこれまたグスクには珍しい二重堀切がある様だ。しかし主郭内の背後の尾根に行く方向には拝所が設けられ、よそ者進入禁止とされている。また、夏場のガサ藪なので、ハブと蜘蛛が障害となり堀切の確認は断念した。グスクには珍しい堀切が確認できるよう、山腹に散策路を整備してくれるとありがたいのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.588623/127.993394/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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安慶名城(沖縄県うるま市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC05776.JPG←主郭の高石垣
 安慶名城は、14世紀頃に安慶名大川按司が築いたとされるグスクである。安慶名按司は伊波城主伊波按司の子で、初めは兼箇段城を築こうとしたが、より築城に適したこの地にグスクを築いたと言われている。安慶名按司は、更に次男を屋良城に、3男を喜屋武城に封じたと言われ、大きな勢力を有していたらしい。
 安慶名城は、天願川河畔にそびえる比高30m程の断崖に囲まれた小丘上に築かれたグスクである。グスクの北東側に円形の闘牛場があるが、その背後に豪壮な高石垣の壁がそびえ立っている。主郭と周囲を取り巻く腰曲輪から成る環郭式のグスクで、琉球のグスクでは珍しい縄張りとされる。主郭周囲は全周石垣で囲まれ、岩盤の裂け目を利用したトンネル状の城門が築かれている。主郭は巨大な岩塊によって大きく2つの区画に分かれ、その間は切通し状の木戸口となっている。石垣は、復元されたものもかなり混じっているようだが、糸数城と似た屈曲した外周の城壁と主郭の高石垣は、荒々しく見応えがある。
腰曲輪の石垣→DSC05775.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.380932/127.850357/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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伊波城(沖縄県うるま市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC05750.JPG←主郭外周の石垣
 伊波城は、伊波按司の居城である。伝承によれば、伊波按司は1322年に怕尼芝(羽地)按司に滅ぼされた今帰仁城主(中北山系統)の子孫で、この地に逃れてから再び勢力を得て伊波按司となり、伊波城を築いて居城としたとされる。
 伊波城は、金武湾を見下ろす標高87mの丘陵上に築かれたグスクである。ほぼ単郭の小規模なグスクで、内部がやや窪んだ主郭の周囲に、石垣の残欠がよく残っている。主郭の北東端には拝所が設けられた狭小な物見台があり、周囲の眺望に優れていることがよく分かる。主郭には大手と2つの搦手の合計3つの城門があったらしく、城門部分だけ石垣が開けられており、特に大手には石段も残っている。このグスクは幸いにも戦災から免れたらしく、しかも薮も少ないので、復元ではない素の遺構が分かりやすい。
大手の城門跡→DSC05732.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.421524/127.817913/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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山田城(沖縄県恩納村) [古城めぐり(沖縄)]

DSC05712.JPG←護佐丸父祖の墓
 山田城は、第一尚氏王統の建国の功臣護佐丸の父祖歴代の居城である。護佐丸の父祖はこの地を守って北山に対する押さえと為していたが、三山統一後に護佐丸が新たに座喜味城を築いた時、山田城の石材を転用したと伝わり、この時山田城は廃城になったと考えられる。
 山田城は、標高80m程の丘陵上に築かれたグスクである。表の国道58号線に大きな標識が出ているが、その先は案内標識が全くなくグスクの登り口を見つけることができなかった。辛うじてグスクの西側中腹にある護佐丸父祖の墓だけは確認できたが、グスクのある丘陵全体は深い薮で覆われていた。訪城時は7月で、沖縄の夏場はハブ出現の危険性が大きいので、とてもではないが薮に入り込んでいくわけには行かず、訪城は断念した。主郭には、小規模な石積みが残っているらしい。
 それにしても、国道には標識があるのに、肝心の登り口の案内がないとは。沖縄のグスクでは、整備されたグスク以外は同様な案内標識の例が多く、遺構に巡り逢うにはなかなか苦労する。

 お城評価(満点=五つ星):-(未訪城のため評価なし)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.430741/127.782539/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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座喜味城(沖縄県読谷村) [古城めぐり(沖縄)]

DSC05635.JPG←ニノ郭の城門と城壁
 座喜味城は、15世紀の初頭、築城家としても名高い護佐丸によって築かれたグスクである。護佐丸は、中山股肱の大臣の子で、読谷山按司として北山防衛のため山田城を居城としていた。1416年、北山王の攀安知による中山(首里城)攻略の計画を察知した中山王尚思紹は、世子尚巴志に北山城(今帰仁城)攻略を命じ、護佐丸はこれに参戦した。北山攻略後、護佐丸は戦後処理の為に一時北山城に留まったが、その間に座喜味城を築き始めて居城としたと言う。その後、1440年に中城に移封となったが、発掘調査の結果からその後も使用されたことがわかっている。
 太平洋戦争の沖縄戦の時には、座喜味城一ノ郭に日本軍の高射砲陣地が築かれ、戦後は米軍のレーダー基地が置かれた。その為、遺構は破壊を受けたが、返還後に発掘と復元整備が行われ、かつての姿を取り戻した。

 座喜味城は、標高120mの台地上に築かれた総石垣のグスクである。比較的小規模な、一ノ郭とニノ郭から成るコンパクトにまとまったグスクで、城壁は綺麗な曲線を描きながら星形に廻らされている。一ノ郭とニノ郭には、共にアーチ状の城門が築かれ、この城門に対して横矢を掛ける様に、城壁が張り出している。特にニノ郭においては、本土の城で言う左袖の構造で、独自の文化圏を築いていた琉球においても似た様な築城技術が発展していたことが伺われる。ニノ郭外周の南東側には、石垣周囲に腰曲輪状の平場と石積みの残欠が確認できる。但し、前述の通り近代にかなり改変されているので、遺構かどうかは不明である。尚、グスクの北東にある小丘上の広場は位置的に出丸の様に見えるが、どうであろうか。
一ノ郭の全景→DSC05696.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.408456/127.741932/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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知花城(沖縄県沖縄市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC05596.JPG←グスクの遠望
 知花城は、15世紀に武勇を誇り鬼大城と呼ばれた大城賢勇が城主で、その最後の地とも言われている。大城賢勇は、第一尚氏王統6代尚泰久王の家臣で、王女の百登足揚(ももとふみあがり)が勝連城主阿麻和利に嫁いだ際、御供として派遣された。その後、阿麻和利の叛意を王に知らせ、討伐軍を指揮して勝連城を攻め落とし、阿麻和利を滅ぼした。その功によって、越来・具志川・美里を領地として与えられ、王女足揚を降嫁された。第二尚氏王統初代となる尚円王が擁立されると、大城賢勇も滅ぼされて知花城は廃城になったと考えられる。
 知花城は、沖縄本島中央部に位置する比高45m程の急峻な丘陵上に築かれたグスクである。普通の城で言うと腰曲輪に当たる山麓部の平場は公園化され、拝所が残っているが、山上の主郭部は夏場は深い薮に覆われ、遺構が明確には確認できない。階段で登る途中、主郭東側に窪地の様な地形があるが、堀切であろうか?主郭にはさびれた展望台が建っており、周囲の眺望に優れた地勢であることがよく分かる。
主郭周囲の岩場の断崖→DSC05608.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.362919/127.810854/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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浦添城(沖縄県浦添市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC05550.JPG←復元された城壁
 浦添城は、首里城以前の中山王城である。その創築は明確ではないが、13世紀に野面積みの城が築かれたと考えられており、一説には英祖王統初代の英祖王が築いたとも言われている。14世紀には高麗系瓦葺きの正殿を構えた大規模なグスクとなったことが発掘調査の結果からわかっており、察度王統の王宮であったと推測されている。1406年、佐敷按司の尚巴志は、察度王統(中山王)2代武寧王を攻め滅ぼし、父の尚思紹を中山王に即位させ、第一尚氏王統を開いた。そして新たな王城として首里城を築くと、浦添城は一旦荒廃した。しかし1500年頃から浦添按司家の居館となって再び整備された。1609年、薩摩島津氏が琉球に侵攻すると、浦添城は島津軍に焼き討ちされた。
 太平洋戦争の沖縄戦では、浦添城は眺望に優れた高地で首里周辺の拠点であった為、日米両軍の激戦地となり、逃げ込んだ住民が多数死亡し、グスクの遺構も大きく破壊された。

 浦添城は、標高120m程の細長い丘陵上に築かれたグスクである。徹底的な破壊を受けたせいか、城の形態は今一つわかりにくい。近年、城壁の石垣が復元整備され、北西側に立派な姿を再現したが、如何せん真新しい復元石垣であるので、古城の趣に欠けるのは仕方のない事であろう。しかし一部にはわずかに往時の石積みを残している様で、これらも今後復元整備されていくのだろう。いずれにしても祭政一致の琉球王国の都城であるので、戦闘を強く意識して防衛構造を張り廻らした本土の城とは、かなり趣の異なるグスクである。
わずかに残る往時の石垣→DSC05579.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.246716/127.732061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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伊祖城(沖縄県浦添市) [古城めぐり(沖縄)]

DSC05506.JPG←主郭に残る石垣
 伊祖城は、実在の可能性が高い琉球王国最初の王統、英祖王統歴代の居城と言われ、英祖王の父祖が代々居城していたとされる。英祖王も、この城で生まれたと言われている。
 伊祖城は、比高30m程の舌状台地先端に築かれたグスクで、現在伊祖公園の一部となっている。丘陵の東側は公園化が進み、また太平洋戦争の時には北の物見台に日本軍の高射砲陣地が構築されるなどしているため、かなり改変を受けているため、どこまでが遺構か判断に迷う部分が多い。明確な石垣は、主郭の東辺にわずかに残っているぐらいである。主郭は現在伊祖神社が置かれている平場で、その北側に物見台が2段の平場に分かれて築かれている。この物見台付近にもたくさんの石が散乱しているが、明確な石垣とはなっておらず、日本軍によって破壊されたものかもしれない。

 尚、今回から沖縄のグスクの訪城記を掲載していくが、沖縄のグスクでは太平洋戦争の沖縄戦の傷跡が各所に残っている。あの戦争が、沖縄にいかにすさまじい破壊をもたらしたかについて、本土の人間は一度身を以って知っておく必要があると思う。
北端の物見台→DSC05492.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/26.258686/127.722319/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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