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熊野城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3885.JPG←堀切
 熊野城は、この地の土豪市野瀬氏の居城である。市野瀬氏は平維茂の末裔と言われ、応永年間(1394~1428年)に市野瀬兵庫正保が熊野城を築いたと伝えられる。その後、但馬守正親・帯刀正久・帯刀久保・兵庫正光と5代続き、1539年に武田氏に従って甲斐へ移ったとされる。その後、一瀬主水入道直繁(一説には越前守直忠とも言う)により、熊野城跡に一ノ瀬城(市野瀬城)が築かれたが、城の位置や規模は熊野城とあまり違ったものではなかったらしい。直繁は高遠領下に属していたが、武田信玄の侵攻を受け、1549年に青柳峠の戦いで討死した。その子左兵衛直長が跡を継いだが、1556年に武田氏に降り、厳しい時代を生き抜いた。その後、1582年の天正壬午の乱の中で保科正直が高遠城を確保し、乱終結後は徳川氏の下で高遠城主となると、直長の子勘兵衛直重は保科氏に仕えた。家老の一人となり、1636年に藩主保科正之が出羽山形藩に転封となると、これに随行したと言う。

 熊野城は、三峰川と粟沢川の合流点西側の比高40m程の城山と言う独立丘陵に築かれている。小規模な城で、南北に長い丘陵に堀切で区画された南北2郭で構成されている。山上には神社が2つ建てられ、北麓から登道が付いている。北の広いのが主郭で、縦長三角形をした平場で、わずかに南西に土塁が見られる。主郭から空堀を挟んで南には二ノ郭があるが、小規模な曲輪で夏場は草叢に埋もれている。なお、城の南西の丘の上には一瀬越前守直忠の墓があり、市野瀬地区内の円通寺には一瀬勘兵衛の母の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.739868/138.081408/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第5巻〉上伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本


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溝口下ノ城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3827.JPG←東の堀跡
 溝口下ノ城は、小笠原氏の庶流溝口氏の居城である。応永年間(1394~1428年)に小笠原信濃守政長の3男溝口右馬助氏長がこの地に分封されてこの城を築き、居城とした。以後、溝口氏歴代の居城となった。溝口氏は代々本家の小笠原氏に忠勤を尽くし、戦国中期の当主美作守氏友は、信濃守護小笠原長時の弟で伊那郡鈴岡城主であった小笠原信定に仕えた。長時は、信濃に侵攻した武田信玄に敗れ、没落して同族の三好長慶を頼って京都に逃れた。この時、氏友・長勝父子も長時に従い、長慶の弟三好義賢の居城河内高屋城に寄寓したと言う。長友の子貞泰は、1582年の織田信長滅亡後に信濃旧領の回復を目指す小笠原貞慶(長時の子)の重臣として深志城回復などに活躍した。

 溝口下ノ城は、ダム湖である美和湖東岸の段丘上に築かれている。美和ダム建設前は、三峰川の氾濫原に面した段丘先端部に当たっていた。ここには中央構造線が貫通しており、南の崖下にその断層の露頭があるため、主郭は中央構造線公園として公園化されている。主郭の周囲は断崖で囲まれており、台地続きの北側に穿たれた幅広の堀がわずかな低地となって残っている。この堀は、主郭東側を掘り切って崖下まで伸びているが、これは自然地形を利用したものだろう。主郭内には改変のせいもあるのか、土塁等は見られずただの平場が広がっている。溝口上ノ城以上に遺構の残りが悪く、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.791788/138.082191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

信濃小笠原氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第18巻)

  • 作者: 花岡康隆
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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溝口上ノ城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3801.JPG←主郭北の空堀
 溝口上ノ城は、南北朝期に北条時行が立て籠もって戦った大徳王寺城と推測されている城である。最後の得宗北条高時の遺児時行は、鎌倉幕府滅亡後に諏訪氏に匿われ、1335年に中先代の乱を起こした。女影ヶ原、府中と立て続けに鎌倉府の軍勢を破った中先代軍は、一旦は鎌倉を制圧したが、東下した足利尊氏に鎮圧され、諏訪頼重らは自刃し、時行は行方をくらました。1337年の北畠顕家の2度めの上洛戦の際、時行は勅免を蒙り、顕家軍に合流して足利勢と戦った。しかし畿内の戦いで顕家軍が敗北して四散すると、時行は再び行方知れずとなった。その後、1340年6月に時行は伊那の大徳王寺城に立て籠った。これに呼応して諏訪頼継も大徳王寺城に馳せ参じた。北朝方の信濃守護小笠原貞宗は、直ちに討伐軍を編成して城を取り囲んだが、城は容易に落ちず、4ヶ月の籠城戦の末にようやく落城したと言う。この大徳王寺城は、長年その位置が確認できず幻の古戦場とされたが、大徳王寺城の戦いを記した諏訪大社上社神長官の『守矢貞実手記』の解読により、溝口丸山の上ノ城であることが推考されたと言う。但し、大徳王寺城は、高遠城など他の場所との説もある他、大徳王寺城の戦い自体が実際のものか明確ではないので、考証の余地が多い様である。
 また時代は下って、戦国時代の天文年間(1532~55年)には、保科弾正忠正辰の次男溝口民部正慶が溝口上ノ城に居住したと言う。正慶は、1556年の武田信玄の伊那侵攻の際に抗戦して捕えられ、正慶ら8人衆は狐島で磔にされ、八人塚に葬られた。

 溝口上ノ城は、小犬沢が刻んだ断崖南の段丘上に築かれている。切岸で囲まれた長円形の主郭があり、北には空堀が穿たれ、その北側に「御山」と呼ばれる独立丘状の土壇がある。ここには、後醍醐天皇の皇子で信濃宮と呼ばれた宗良親王のものとされる無縫塔が祀られている。御山の東には竪堀が穿たれている。主郭の西や南には平場が広がっているが、西は畑に、南は宅地になっていて、どこまでが城域であったのかはわからない。また主郭も畑や宅地になっていて、一部改変されている。空堀は残るものの城の遺構としては少々物足りなさを感じるが、大徳王寺城の推定地の一つであり、宗良親王の墓があるなど、南朝の残影を色濃く残す土地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.792623/138.087566/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世崖端城
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高島古城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2406.JPG←主郭の現況
 高島古城は、同時代資料では高島城と言い、また別名を茶臼山城とも言う。近世高島城と紛らわしいので、ここでは高島古城で統一する。諏訪を制圧した甲斐武田氏が、新たな統治拠点とした城である。築城時期は明確ではないが、高島古城が歴史に現れるのは1483年の下社大祝金刺興春の上社侵攻の時である。この年の正月、大祝継満が惣領諏訪政満らを謀殺したことから上社で内訌が巻き起こると、3月19日に興春は継満の味方を口実にして上社領を攻撃して高島古城を占領した。更に上桑原・武津まで侵攻したが、上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。1542年に諏訪を攻略した武田信玄は、重臣の板垣信方を諏訪郡代として上原城に置いたが、1548年の上田原の戦いで武田勢が村上義清に敗北して信方も討死した。この敗戦の結果、府中小笠原氏の諏訪侵入や諏訪西方衆の反乱が起きる事態となり、翌49年正月に高島古城を改修した。そして統治拠点を上原城から高島古城に移し、長坂大炊助を諏訪郡代とし、代官所を南麓の岡村に置いた。以後、高島古城は武田氏滅亡まで武田氏の拠点となり、長坂氏の後は信玄の弟信廉が高島古城主となった。1582年3月に織田信長が武田氏を滅ぼすと、甲斐・信濃諏訪郡を与えられた河尻秀隆は、家臣弓削重蔵を代官として高島古城に置いた。しかしわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死し、旧武田領国の織田勢力が瓦解すると、千野左兵衛昌房が先頭に立って諏訪氏の旧臣を集めて高島古城を奪還し、諏訪頼忠を高島古城に迎えた。ここに40年ぶりに諏訪氏が旧領を回復して自立した。間もなく生起した天正壬午の乱を経て、諏訪氏は徳川家康に臣従した。その後頼忠は千野氏の城館跡に金子城を築き、1584年に金子城に居城を移した。1590年の小田原の役の後、徳川家康が関東に移封となると、頼忠も武蔵国奈良梨に移り、諏訪郡には豊臣秀吉の家臣日根野織部正高吉が入った。高吉は当初高島古城を居城としたが、1592年に新たに高島城の築城を開始し、朝鮮出兵などを挟んで1598年に足掛け7年の歳月をかけて完成させ、居城を移した。以後、高島古城は廃城となった。

 高島古城は、大見山山塊の尾根の南端にある丘陵、茶臼山に築かれている。現在主郭は住宅団地に、二ノ郭は茶臼山配水池が建設され、旧状はほとんど失われている。西側斜面には腰曲輪跡らしい平場も見られるが、はっきりしない。昭和20年代前半の航空写真を見ても、城跡は畑地として全山耕作されており、すでに平場群以外は確認できない。武田氏の重要な当地拠点であったので、遺構が残っていればさぞ凄い城だったろうにと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.045794/138.122392/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新装改訂版 信州の城と古戦場

新装改訂版 信州の城と古戦場

  • 作者: 南原公平
  • 出版社/メーカー: しなのき書房
  • 発売日: 2009/06/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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丹波屋敷(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3717.JPG←殿小路と屋敷看板
 丹波屋敷は、諏訪氏の庶流有賀氏の平時の居館である。背後の山上には詰城の有賀城が築かれている。応仁年間(1467~69年)頃に有賀丹波守好照が居住していたと言われる。有賀氏の事績については有賀城の項に記載する。1601年に諏訪頼水が諏訪に復帰すると、千野丹波守房清が有賀に戻った。丹波屋敷の名称については、有賀丹波守好照から来たものか、千野丹波守房清から来たものか、どちらともはっきりはわからないらしい。

 丹波屋敷は、有賀城北東麓の段丘上にある。江音寺境内の南東続きに当たり、現在は畑地となっている。中央付近に小道が通っているが、これは殿小路と呼ばれているらしく、丹波屋敷か有賀城に関連する城道であった可能性がある。それ以外は耕地化、墓地造営による改変が多く、遺構は明確ではない。なお、ここには昨冬有賀城を訪れた際に来ているが、その時には畑の中に立つ「丹波屋敷」の看板には気付かなかった。後から看板があることを知って、夏に再訪した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.018307/138.082674/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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神戸古戦場(長野県富士見町) [その他の史跡巡り]

DSCN3633.JPG←古戦場の五輪塔と解説板
 神戸古戦場は、1528年に諏訪攻略を狙う武田信虎が諏訪頼満と戦った古戦場である。甲斐国内を統一した信虎は、1528年8月22日、蘿木(つたき)郷の小東に先鋒隊を進出させたが、これに対して頼満は8月26日に木舟の白ザレ山に軍を進めて布陣した。両軍は8月30日に激突した。朝、武田勢の進撃を諏訪勢が迎え撃つ形で戦いが始まり、神戸付近一帯が戦場となった。この戦闘では諏訪勢が敗れ、部将千野孫四郎などが討死した。しかし夜になって諏訪勢が勢いを盛り返して境川付近で武田勢を攻撃し、武田方の部将萩原備中守などを討ち取って勝利したと言う。この後、数年間は両軍で交戦が続いたが、1535年に両軍は和睦した。

 神戸古戦場は、神戸地区北端の旧甲州街道沿いの丘陵地に石碑が立っている。場所が非常にわかりにくいが、民家裏の高台に解説板が立ち、その近くに戦死者の供養塔と伝えられる五輪塔4基が立っている。一応町の史跡になっているので、解説板がある場所までの誘導標識などを設置してくれるとありがたいのだが・・・。


 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.930578/138.206184/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


武田信虎 (中世武士選書42)

武田信虎 (中世武士選書42)

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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瀬沢古戦場・九ッ塚(長野県富士見町) [その他の史跡巡り]

DSCN3617.JPG←瀬沢古戦場の石碑
 瀬沢の戦いは、『甲陽軍鑑』だけに記され、同時代史料には現れない謎の多い合戦である。1542年2月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の4大将は甲斐の武田信玄を攻撃しようと合議し、甲信境の瀬川に陣取った。しかしこの動きを察知していた信玄は密かに軍勢を発し、3月9日朝、信濃勢の不意を衝いて攻撃した。武田軍は信濃兵1621を討ち取って大勝したが、味方にも多数の死傷者を出したと言う。以上が軍鑑の記述であるが、実際の年次と合わないなど不自然な事が多い。しかしその一方で地元にはその伝承を裏付ける史跡や地名も存在している。
 九ッ塚はそうした史跡の一つで、戦死者の屍を9つの穴に埋めて塚を作ったと伝えられる。

 瀬沢古戦場は、国道20号線が大きくカーブする地点の内側道沿いに石碑と解説板が立っている。このカーブはかなり急である上、内側に丘があって視界を遮っているので完全なブラインドコーナになっており、車通りも多く横断するのは大変危険である。近くで農作業をしていた方の話では過去に何度も事故があったとのことで、そのため古戦場碑の東側に地下通路が作られている。訪問の際はこの地下通路を使って道路を横断した方が良い。
 また九ッ塚は、瀬沢古戦場碑から1.2km程西方の横吹地区の町道脇にある。ここにも石碑と解説板が立ち、謎の多い歴史を伝えている。
九ツ塚の石碑→DSCN3626.JPG

 場所:【瀬沢古戦場】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.896047/138.244550/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【九ツ塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.893578/138.231740/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)

甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 文庫


タグ:古戦場
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乙事陣場(長野県富士見町) [その他の史跡巡り]

DSCN3612.JPG←現在の乙事原
 乙事陣場は、1582年の天正壬午の乱の際、徳川方の七手衆が迫りくる北条勢に対して布陣した陣場である。武田征伐で短時日で武田氏を滅ぼし、その領国を併呑して得意の絶頂にあった織田信長であったが、そのわずか3ヶ月後の6月2日早暁、信長が本能寺で横死すると、甲斐・信濃を支配していた織田氏の勢力は瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が勃発した。北条氏直は、神流川の戦いで滝川一益を破った後、服属した上野国衆を加えた大軍を率いて碓氷峠を越え、信濃に侵攻した。そして川中島での上杉景勝との対陣を経た後、7月29日、甲斐制圧に矛先を変えて南下を始めた。一方、信長の招待で堺遊覧中だった徳川家康は、本能寺の変の報を受けて決死の伊賀越えを敢行して、6月4日、命からがら岡崎城に戻った。その後、家臣や庇護していた武田旧臣達を甲信攻略のため先発させた。6月27日には重臣の酒井忠次に命じて、3000人余の軍勢を率いて奥三河から伊那口を通って信濃に侵攻させた。忠次は、伊那衆を服属させつつ北上し、諏訪を目指した。家康自身は、駿河から中道往還を経て甲斐に入り、7月9日に甲府に着陣した。この頃、諏訪郡に到達した忠次は、信長滅亡後に旧領を回復して高島城(茶臼山城)で自立した諏訪頼忠を服属させるため、開城交渉を開始した。しかし頼忠は、忠次の高圧的な態度に反発して返って北条方への服属を決めてしまい、徳川方との交渉は遅々として進まなかった。家康は、頼忠を味方につけるため軍事的圧力を強めるべく、甲斐から大久保忠世・大須賀康高ら七手衆を諏訪に派遣した。忠世らは7月18日に諏訪に着陣し、乙事村名主の五味太郎左衛門を使者に立てて数度の交渉を行ったが、頼忠の北条氏服属の意志は決しており、7月22日に徳川七手衆と諏訪氏との交渉は決裂し、徳川軍は高島城への攻撃を開始した。しかしそんな最中の7月29日、北条軍4万3千の大軍が諏訪を目指して南下を始めたとの知らせを受けた七手衆は、29日夜、撤退を開始した。3千の兵を率いて乙事まで退いて布陣したが、北条の大軍は一里近くまで迫り、両軍は乙事原で衝突しようとする寸前にあった。この時、太郎左衛門はつぶさに北条軍の動静を探り適切な助言をしたので、徳川軍は上の棒道を進んでくる北条軍の先鋒隊を牽制しつつ、中の棒道を通って一兵も損なうことなく新府に退くことができた。これを乙事の退陣と言い、徳川軍が布陣した乙事原の地を陣場と呼ぶようになった。この後の乱の経緯は、御坂城の項に記載がある。天正壬午の乱終結後、太郎左衛門はその功績により十貫文の知行を拝領し、更に後になって家康に召し出され、姓を乙骨と改め、その旗本に取り立てられた。

 乙事陣場は、矢の沢川と母沢川に挟まれた丘陵地帯にあったらしい。現在はなだらかに傾斜した丘陵地であるが、現地解説板によれば以前はなだらかな尾根となっていたらしい。しかし戦後の土地改良区整理事業で切り取られ、改変されてしまっている。市道の脇に解説板が立ち、そこから北北西90m程の高台に「史跡 陣場」と刻まれた石碑が立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.907240/138.266523/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

天正壬午の乱 増補改訂版

  • 作者: 平山 優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/07/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:古戦場
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中新里城(埼玉県神川町) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN3245.JPG←東城稲荷
 中新里城は、歴史不詳の城である。この地域の中核的城郭である御嶽城雉ヶ岡城に近いので、それらに関連する城であった可能性も考えられる。

 中新里城は、九郷用水の南の平地にあったらしい。この地区には、「東城」「北城」「南城」などの小字名が残されているということで、城があった可能性はかなり高いらしい。しかし明確な遺構は残っておらず、城域と思われる一角に「東城稲荷」が残るだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.207914/139.103651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


埼玉の城―127城の歴史と縄張

埼玉の城―127城の歴史と縄張

  • 作者: 太久夫, 梅沢
  • 出版社/メーカー: まつやま書房
  • 発売日: 2018/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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真下氏館(埼玉県本庄市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN3240.JPG←真下氏の墓石群
 真下氏館は、武蔵七党の一、児玉党の一流で、真下氏の祖・五郎太夫基行(太郎基行ともされる)の居館である。真下氏の正確な系図は不明ながら、児玉氏2代弘行の次男・入西三郎大夫資行の子・基行が、児玉郡真下郷に分封され、真下氏を称したことに始まると推測されている。鎌倉期には弓の名手として知られた一族であったらしい。1333年、新田義貞の鎌倉攻めの際、真下左兵衛春行は新田軍に属して戦った。しかし1337年、奥州霊山城から南下してきた鎮守府大将軍北畠顕家率いる南朝軍と鎌倉府の足利勢率いる北朝軍が戦った薊山(あざみやま)合戦(または薊山安保原合戦とも言う)では、南朝方に付いていた春行は討死し、真下氏は没落したらしい。残った一族は上野国に移住して、戦国期に真下城を築いたとされる。

 真下氏館は、現在の龍泉寺付近にあったらしい。所在地も明確ではなく、遺構は望むべくもない。ただ龍泉寺とその南にある金佐奈神社は真下氏所縁の神社仏閣で、それらの由緒書に真下氏のことが書かれている。また金佐奈神社の南西200m弱の位置にある馬頭観音堂も、真下氏所縁のもので、観音堂南東にある墓地内に真下氏一族の墓石群があり、薊山合戦で討死にした真下春行の墓もある。尚、下真下地区の西には、太平洋戦争の時に陸軍によって児玉飛行場が建設され(現在の児玉工業団地)、そのため寺が移転させられるなど、集落自体の形が戦前と全く変わってしまっている可能性があることを付記しておく。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【龍泉寺】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.216969/139.143348/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


南北朝武将列伝 南朝編

南北朝武将列伝 南朝編

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/02/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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富塚城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3187.JPG←櫓台跡とされる八幡宮
 富塚城は、この地の豪族那波氏の支城で、那波掃部助宗長が拠ったと伝えられる。1454年に勃発した享徳の乱の際には、古河公方足利成氏に従った岩松持国は翌55年に嫡子次郎(宮内少輔)に関東管領上杉方に付いていた那波掃部助・富塚氏の居城那波城・富塚城を攻撃させて、上杉勢を撃退したと言う。

 富塚城は、韮川という小河川の西方の平地に築かれている。城内は完全に宅地化され、遺構はほとんど湮滅している。主郭とされる部分の北と東には堀跡の水路が流れている。また主郭西辺に当たる部分には、車道脇に小さな八幡宮の祠が祀られた高台がある。コンクリートで固められているので風情も何もないが、これは往時の城の櫓台跡とされる。以上が遺構のほぼ全てであり、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.274924/139.200361/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 享徳の乱

図説 享徳の乱

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2021/03/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平城
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玉村城(群馬県玉村町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN3182.JPG←食違い虎口の名残の道路
 玉村城は、甲斐武田氏の家臣宇津木下総守下綱(氏久)が築いた城である。1580年1月、厩橋城主北条(きたじょう)高広を武田方に従属させる斡旋をした功績により、武田勝頼は下綱に那波郡西部281貫文を与え、玉村城を築かせた。1582年3月に武田氏が滅亡すると宇津木氏は小田原北条氏に従属し、厩橋衆の北条従属工作を行ったが、織田氏家臣滝川一益が信長より上野一国を与えられて入部したため、工作を中断した。しかし武田氏滅亡からわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死し、その後の天正壬午の乱の中で上野の過半が小田原北条氏の支配下となった。北条高広が同年8月と12月に那波城を攻撃した際、氏久(下綱改め。「氏」は北条氏直の偏諱か)は那波顕宗と共に籠城して撃退した。また小田原北条氏の沼田城攻撃に参陣した功により、利根川東方の福島を与えられた。1584年には先鋒となって由良氏の金山城攻撃に加わり、金山城を攻略した小田原北条氏は金山北城(坂中城)を氏久に守らせた。小田原の役の際には、領内に混乱があって氏久は小田原籠城に赴くことができなかったらしい。小田原北条氏滅亡後、徳川家康の関東移封に伴って箕輪城に封ぜられた井伊直政から、氏久は本領を安堵され、その家臣となった。井伊氏が彦根城に移封となると、氏久の子泰繁も彦根に移った。

 玉村城は、玉村八幡宮の東方250m程の至近に築かれていた。東西に長い長方形をした単郭の平城で、南に食違い虎口、西に平虎口があったらしい。位置は玉村小学校の北隣に当たり、小学校北門の前の道が、西と東のもので位置がずれているのは、この食違い虎口と空堀位置のズレの名残である。主郭は完全に宅地化されており、一部にわずかに堀跡らしい名残を見せるものの、遺構はほぼ壊滅状態である。戦後間もなくの航空写真を見ても、空堀が田んぼの中の水路として残っている程度で、かなり早くに遺構は失われていたらしい。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.305641/139.111397/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 10)

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 10)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


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大森氏陣屋(埼玉県入間市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN3134.JPG←大森氏・加藤氏の墓石群
 大森氏陣屋は、大森錦治郎館とも呼ばれ、江戸前期の旗本大森好長の陣屋である。大森氏は、徳川家康の祖父清康の代から仕えた譜代家臣で、好長の時に大坂の陣で軍功を挙げ、この地を加増された。好長はその後も加増を受け、合計1470石となった。子孫の時長は長崎奉行を努めた。また好長の実子重長は、好長の妻の実家・旗本加藤重正の養子となって加藤家を継いだ。

 大森氏陣屋は、国道16号線宮寺交差点の南方にあったらしい。工場敷地の裏に大森氏と加藤氏の宝篋印塔6基があり、入間市景観50選に選ばれている。陣屋は、この墓地の近くにあったと推測される。お城巡りの先達余呉さん等の城郭サイトでは、墓石群の裏手にあるL字型の土塁を陣屋遺構としているが、宝篋印塔は大森氏の菩提寺崇巖寺の境内に建てられたと解説板にあるので、この土塁は崇巖寺跡のものと思われる。結局、陣屋の遺構はその正確な場所も不明であるが、宝篋印塔群だけでも見応えがある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.802126/139.378738/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

江戸の旗本事典 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 小川 恭一
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2016/01/23
  • メディア: 文庫


タグ:陣屋
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宮寺氏館(埼玉県入間市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN3090.JPG←境内に残る土塁
 宮寺氏館は、加納下野守城とも呼ばれる。宮寺氏は、武蔵七党の一、村山党の一流で、村山党の祖村山頼任の子頼家の次男家平が、宮寺に入部して宮寺五郎家平と称したのが始まりと伝えられる。その後の宮寺氏の歴史は不明であるが、鎌倉幕府滅亡時には同じ村山党の加納下野守の居館となっていた。加納下野守は、1352年に新田義興に従って武蔵小手指ヶ原で足利尊氏の軍勢と戦ったと言う(武蔵野合戦)。また、江戸時代には狩尾氏・伊濃氏が居を構えたと言う。

 宮寺氏館は、現在は西勝院の境内となっている。本堂の南東にL字型の大きな土塁が残っている。この土塁の周囲には堀跡も確認できる。また門前の駐車スペース脇のフェンスの向こうにも、土塁の残欠が見られる。寺の西側には、水堀跡の水路が巡っている。遺構はこれだけであるが、市の史跡となり解説板も立っているのは嬉しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.792031/139.382966/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/07/26
  • メディア: 単行本


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渋江氏館(埼玉県さいたま市) [古城めぐり(埼玉)]

DSCN2842.JPG←浄安寺の山門
 渋江氏は、武蔵七党の一、野与党の一流で、大蔵経長の子経遠が渋江郷に入部して渋江氏を称したのに始まる。『吾妻鏡』には、渋江五郎光衡や渋江太郎兵衛尉の名が見える。また南北朝期の1383年には渋江加賀入道が花積郷御厩瀬渡を押領し、鎌倉公方足利氏満が禁止命令を出している。室町時代には、扇谷上杉氏の家宰太田道真(道灌の父)が岩槻城を築いた後は太田氏に従属していたが、1525年2月の北条氏綱の岩槻城攻撃の際、渋江氏が内応して岩槻城は落城し、城主太田資頼は石戸城へ逃れた。その後、渋江三郎が岩槻城代となった。しかし資頼は、1530年9月に渋江氏を破って岩槻城を奪還したと言う。

 渋江氏館は、岩槻城の大手門外の渋江町にあったらしい。正確な場所は不明だが、浄安寺付近にあったと思われる。場所も不明なので明確な遺構は望むべくもないが、浄安寺には徳川家康の家臣で関東移封後に岩槻城主となった高力清長や、家康の6男松平忠輝の側室竹の局とその子徳松丸の墓がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.954031/139.701269/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵

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  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/11/01
  • メディア: 単行本


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湯川城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2741.JPG←枡形城の現況
                          奥の山は朝倉山城
 湯川城は、枡形城と原の城という2つの城から成る複合城郭である。築城は武田信玄によるとされ、諏訪頼重を滅ぼして諏訪郡を制圧した信玄は、諏訪を足掛かりにして大門峠を越えて東北信濃の小県・佐久・筑摩・更級方面に侵攻した際、軍勢の棒道(武田氏の軍道)筋の中継拠点として築城したと言う。

 枡形城は、滝ノ湯川南岸の段丘先端部に築かれている。南には砦の沢と言う小流があり、原の城との間を分断していたらしい。現在は耕地化で遺構は完全に湮滅しているが、往時は城域東辺を画する土塁・空堀が築かれ、中央の虎口の外側には丸馬出が築かれていたらしい。畑の奥まで行ったが、先端部に腰曲輪らしい一段低い平場が草むらの中に確認できただけである。東を通る大門街道脇に経塚(哨塚)跡の看板があり、湯川城の見張り場の哨塚とも伝えられるらしいが、これも遺構は残っていない。

 原の城は、枡形城の南東400mの位置にあり、段丘の南の辺縁部に築かれている。枡形城同様に耕地化で遺構はかなり失われているが、南東部に堀状地形が残っている。しかし明確な遺構はこれだけで、現在の状況からではどのような縄張りの城だったのかもはっきりしない。

 以上の様に湯川城の全体的な縄張りははっきりしないが、大軍勢の進軍途中の駐屯地として、台地全体に兵卒が野営し、軍団の司令部だけが枡形城など防備を固めた城砦に入ったのであろう。遺構は残念な状況だが、標柱・解説板が数ヶ所に設置されている。尚、枡形城では、毛色がペンキで塗ったように艶艶しい鹿が逃げていった。あまりに艶艶しかったので、最初は鹿の形をした遊具かと思ったほどだった。
原の城の堀状地形→DSCN2786.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【枡形城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.037986/138.220689/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【原の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.035019/138.222256/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 武田信玄

図説 武田信玄

  • 作者: 平山優
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2022/02/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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粟沢城(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2709.JPG←わずかに残る土塁
 粟沢城は、諏訪氏の支城である。鎌倉時代には神(諏訪)氏の庶流粟沢氏の居館であったと言われる。天文年間(1532~55年)には上原城主諏訪頼重の従兄弟諏訪越中守頼豊が、粟沢城主となった。頼豊は、頼重が武田信玄に滅ぼされると武田氏に従い、1582年に木曽義昌が織田信長に寝返ると、武田勝頼の命で木曽氏討伐に出陣し、雪深い鳥居峠で木曽勢と戦って、2月6日息子采女正・源二郎と共に討死した。1582年の天正壬午の乱の中で諏訪郡を回復して諏訪氏を再興した頼忠は、頼豊の弟に当たる。また天正年間(1573~92年)には諏訪氏の庶流沢長門守房重が粟沢城に居住したと言われる。尚、房重は、諏訪頼忠の旧領回復に千野丹波房清と共に活躍したと言う。

 粟沢城は、上川東岸の段丘上に築かれている。台地上の館城で、方形の土塁で囲まれた居館があったらしい。現在は住宅地に改変されて遺構はほとんど残っていない。わずかに南西隅の土塁の一部が車道脇に残っているに過ぎない。尚、城の西側の旧領先端部は大手先の地名があり、粟沢観音が建っている。土塁上に立つ城址石碑だけが、歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.998485/138.176079/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史 (県史)

長野県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2011/01/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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諏訪大社上社前宮神殿(長野県茅野市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2686.JPG←土塁跡
 神殿(ごうどの)は、諏訪大祝の居館である。大祝の始祖と伝えられる有員(ありかず)が初めて大祝の職位について以来、大祝代々の居館で、「神殿」とは神体と同視された大祝常住の殿舎の尊称である。上社の重要な神事のほとんどがこの地で行われた。1483年の諏訪氏の内訌の際、上社の祭政両権を握ろうとした大祝継満が惣領の諏訪政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺したことで、この聖地が一時その血で穢された。しかし後に清地にかえして大祝の居館として後世まで続いたと言う。尚、神殿の詰城として、南東の山上に干沢城が築かれていた。

 神殿は、諏訪大社上社前宮の境内の一部となっている。内部は2段の平場に分かれ、西側外周には土塁がわずかに残っている。諏訪では土塁のことを「くね(土偏に郭)」と称したらしい。県指定史跡となり、解説板も立っている。上社の祭政一致時代の古体の跡を今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.992495/138.134269/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


善光寺と諏訪大社 神仏習合の時空間

善光寺と諏訪大社 神仏習合の時空間

  • 作者: 長尾 晃
  • 出版社/メーカー: 鳥影社
  • 発売日: 2022/02/17
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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金子城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2589.JPG←解説板と堀跡の水路
 金子城は、1582年の天正壬午の乱の中で旧領を回復した諏訪頼忠が、新たに築いた居城である。元々この地には諏訪氏の家臣で大熊城主であった千野氏が築いた砦があったとされる。本能寺の変により、武田遺領を支配して間もない織田勢力は瓦解し、その間隙を衝いて各地の勢力が自立の動きを見せ始めた。諏訪郡では、千野左兵衛昌房が先頭に立って諏訪氏の旧臣を集めて茶臼山城(高島古城)を奪還し、諏訪頼忠を茶臼山城に迎えた。その後、北条・徳川両氏による抗争の結果、信濃国の過半は徳川氏の領国となり、信濃諸豪は徳川氏に服属した。頼忠も徳川家臣となり、諏訪郡を安堵された。頼忠は千野氏の城館跡に金子城を築き、1584年に居城を移した。しかし1590年の徳川氏の関東移封に伴い、諏訪氏も金子城に数年住んだだけで武蔵国奈良梨に転封となってこの地を離れた。その後に諏訪郡に入ったのは豊臣秀吉の家臣日根野高吉で、高吉は茶臼山城に入ったが、新たに高島城の築城を開始した。この時、金子城を破却し、その石材は舟で運ばれて高島城の石垣に転用された。

 金子城は、宮川の曲流部にそれを外堀として築かれていた。しかし城跡は宅地化されて、遺構はほとんど失われている。また外堀であった宮川の流れも、往時からは変えられてしまっているらしく、余計に縄張りが分かりにくくなってしまっている。解説板があるのが唯一の救いと言う感じである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.011209/138.113508/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


長野県の歴史散歩

長野県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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高島城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2488.JPG←本丸の冠木門
 高島城は、文禄・慶長年間(1592~1615年)に築かれた純然たる近世城郭である。1590年の小田原の役の後、徳川家康が関東に移封となると、その家臣となってこの地を領していた諏訪頼忠も武蔵国奈良梨に移り、諏訪郡には豊臣秀吉の家臣日根野織部正高吉が入った。高吉は当初茶臼山城(高島古城)を居城としたが、1592年に新たに高島城の築城を開始し、朝鮮出兵などを挟んで1598年に足掛け7年の歳月をかけて完成させ、居城を移した。普請にあたってはかなり重い課役を課したと言われ、住民からかなり反感を買っていたらしい。しかし2年住んだだけで1600年5月に病死し、子の吉明が跡を継いだ。同年の関ヶ原合戦の後、天下の権を握った徳川家康は、1601年に日根野氏を下野国壬生に移し、旧領主であった諏訪頼忠の子頼水を諏訪に転封した。頼水は在郷の安定に努めつつ、高島城の整備を進め、現在残る姿となった。以後、高島藩諏訪家歴代の居城となり、藩主は10代を数えて幕末まで存続した。
 尚、『信濃の山城と館』の中で宮坂氏は、「(日根野)高吉は諏訪へ高島城を作りに来たようなもの」「(諏訪頼水が)足かけ12年留守をして(旧領に)帰って来て見ると、目を疑うばかりの城が迎えてくれたことになる」「この高島城ができたのは、日根野高吉だから考えられたことであり、可能であったと言える。仮りに頼忠が11年間留守にしなかったとしたら、この浮城はこの世に出現しなかったであろう」と述べているが、全くその通りである。

 高島城は、諏訪湖南東に築かれた平城で、往時は諏訪湖岸に築かれ、数条の河川に挟まれた難攻不落の水城であったらしい。また縄張りは、天守を備えた本丸の北・東・南の三方に二ノ丸を廻らし、その北に三ノ丸川を挟んで三ノ丸、更にその北に衣之渡川を挟んで衣之渡郭を置き、そこから北に一本道の大手(縄手)を伸ばした連郭式の構造となっていた。また二ノ丸の東には、南ノ丸が置かれた。しかし現在は市街化で本丸以外の遺構はほとんど失われている。近世城郭らしく本丸は総石垣で、要所に折れを設けて横矢を掛け、北と東に水堀を廻らしている。しかし南と西の石垣は失われている。本丸は高島公園となり、天守・櫓・冠木門・塀が復興されている。二ノ丸・三ノ丸は完全に宅地化しているが、堀を兼ねた2本の川筋が残っており、部分的に石垣っぽいものが見られる。また三ノ丸の端には三ノ丸湯跡があり、今でも熱い温泉が湧いている。南ノ丸は諏訪市武道館の敷地に変貌している。高島城は、本丸以外の現存遺構がほとんどなく、なんでこれが続日本百名城になったのか、不思議である。
三ノ丸川と二ノ丸切岸→DSCN2536.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.039097/138.112285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:近世水城
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峰畑城(長野県岡谷市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2316.JPG←主郭の空堀
 峰畑城は、諏訪五十騎の一人駒沢新右衛門の居城である。駒沢氏は上社系の一族と伝えられ、武田信玄が諏訪を制圧すると武田氏に従ったと言う。

 峰畑城は、天竜川東岸の河岸段丘上に築かれている。段丘辺縁部に築かれた城砦と、その東方の緩斜面に置かれた居館から構成されている。城砦の主郭は民家裏にある長方形の区画で、現在はソーラーパネルが並べられているが、南側に空堀が残り、西側に腰曲輪が築かれている。空堀の南の畑地も城の一郭であったと推測されている。一方、居館の方は宅地となっている。車道脇に城址標柱があり、車道と敷地の段差部に見られる低い石積みは居館の遺構であるらしい。小規模な城砦であるが、街道を押さえる要地に置かれたことが現在でもよく分かる。
居館部の石積み→DSCN2333.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【城砦部】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.028217/138.019073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【居館部】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.028252/138.020446/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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上ノ平城(長野県箕輪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN2211.JPG←主郭後部の堀跡
 上ノ平城は、後に下伊那の神之峰城を本拠とした豪族知久氏の、最初の居城とされている。伝承では、元々の創築は平安後期に清和源氏の祖源経基の5男満快(みつよし)の4代の孫・源為公(ためとも)によるとされる。鎌倉時代には、諏訪氏の分流である知久氏の居城となったが、鎌倉中期の正嘉年間(1257~59年)に知久氏が下伊那郡の知久平城に本拠を移すと、上ノ平城は廃されて、使われなくなったとされていた。しかし平成10~12年に行われた発掘調査の結果、戦国時代にも使用されたらしいことが判明し、それは武田信玄の上伊那郡侵攻の前後であったと考えられている。どの勢力に属した城だったのかは判明していない。

 上ノ平城は、比高30m程の舌状台地に築かれている。現在県の史跡となっているので、主郭が公園となっている他、各所の堀に表示板が設置されるなど整備されているので、夏でも訪城しやすい。西端から順に笹曲輪・二ノ郭・主郭・三ノ郭・四ノ郭を直線的に並べた連郭式の城で、それぞれの曲輪は空堀で区画されている。しかし二ノ郭・三ノ郭・四ノ郭は畑や空き地に変貌しているため、5本ある堀切の内、原型を留めているのは笹曲輪後部の堀切だけで、三ノ郭・四ノ郭後部の堀切はほぼ形状が失われ、二ノ郭後部の堀切はわずかに堀形が認められる程度である。主郭後部の堀切は北半分は残るが、南半分は埋まっている。こんな状況ではあるが縄張りの全体像は追うことができる。主郭は城の中央部に位置する方形の曲輪で、南北に腰曲輪を伴っている。主郭後部の堀切から三ノ郭・四ノ郭を東西に貫通して四ノ郭東端まで至るコの字型の空堀が見られ、この空堀によって三ノ郭・四ノ郭は南北に分断されている。二ノ郭までは公園や畑の風景が広がっているが、二ノ郭先端の杉林の中に入り込むと、突然中世城郭の世界が目の前に広がる。そこには笹曲輪との間を分断する堀切があり、その前面に物見台状の笹曲輪があり、頂部に祠が祀られている。笹曲輪から西斜面には平場の横に土塁が走っている。以上が上ノ平城の遺構で、残存状態はやや悪い部類に入るが、全体に遺構の確認はしやすく、往時の雰囲気は感じられる。また伊那谷を望む素晴らしい眺望が開けており、ここに城を築いた意味もよく分かる。
笹曲輪後部の堀切→DSCN2261.JPG
DSCN2204.JPG←三ノ郭を貫通する空堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.931464/138.001328/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

甲信越の名城を歩く 長野編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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松島城(長野県箕輪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN2141.JPG←北辺部の堀跡
 松島城は、福与城主藤沢氏の麾下にあった松島氏の居城である。松島氏は信濃守護小笠原氏の一族とされ、この地に入部して松島氏を称した。藤沢氏の家臣団中でも大身であり、藤沢氏と共に軍事行動を取った。1542年に諏訪郡を制圧していた武田信玄が、1544年から上伊那郡への侵攻を開始すると、藤沢頼親と共に激しく抵抗した。しかし1546年の福与城落城前後から武田氏の調略の手が伸び、松島対馬守貞実は武田に通じたとして高遠で誅殺された。1556年、上伊那衆は武田信玄が川中島で上杉謙信と対峙した隙を衝いて叛乱を起こし、武田勢の討伐を受けて降伏を迫られたが、上伊那衆は武田氏に抵抗した。しかし多勢に無勢で制圧され、松島豊前守信久ら8人衆は狐島で磔にされ、八人塚に葬られた。

 松島城は、天竜川西方の河岸段丘辺縁部に築かれている。主郭には箕輪町役場が建ち、その西側の外郭は重唄口・畑・文化センターに、南の出曲輪も博物館や神社境内となり、遺構の残存状況は良くない。北辺部の2本の堀跡だけが明確に残っている。役場の西側には松島氏の墓所もある。尚、8月の朝訪城したら、朝の町役場駐車場はツバメの楽園となっていて、多くのツバメが飛び交い、子育てをしていた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.915113/137.981908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世東国の道と城館

中世東国の道と城館

  • 作者: 齋藤 慎一
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 2010/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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田中城(長野県箕輪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN2122.JPG←わずかに残る土塁
 田中城は、上伊那の豪族であった藤沢頼親によって1582年に築かれた城である。藤沢氏は、諏訪神(みわ)氏の庶流千野氏の一族で、戦国中期に藤沢頼親は福与城(箕輪城)を本拠として強大な勢力を誇っていた。しかし武田信玄の伊那侵攻によって没落し、京都に上って三好長慶のもとに身を寄せた。1582年3月、織田信長が武田氏を滅ぼすと、頼親は34年ぶりに伊那に戻り本領に復帰し、田中城を築いて居城とした。藤沢氏の復帰は信長の支援によると推測されている。そのわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死すると、武田遺領の織田勢力は一挙に瓦解し、北条・徳川・上杉3氏による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。伊那衆は当初、三河から伊那に侵攻した徳川勢に従属したが、その後北条氏の大軍が信濃に侵攻してくると、北条方に転じるものが相次ぎ、藤沢氏も北条方となった。しかしその後の情勢変化で北条方が苦境に陥ると、高遠城を奪取していた保科正直は徳川方となり、頼親にも徳川方への帰属を促したが、頼親はこれを拒否した。その結果、保科氏は軍勢を率いて田中城を攻撃し、頼親は懸命に防戦したが抗しきれず、城に火を放って自刃、藤沢氏は滅亡した。その後、飯田の小笠原氏の箕輪領統治の際、田中城に陣屋が置かれたと言う。

 田中城は、伊那地方の城にしては珍しい平地に築かれた平城である。現在は工場やスーパーが立ち並ぶ一角に、わずかに土塁を残しているだけである。昭和20年代前半の航空写真を見ると、長円形の主郭の周囲に堀を廻らし、更に外周に二ノ郭を廻らした環郭式の縄張りだったらしい。現状残る土塁はL字型をしているように見えるが、航空写真を見ると、L字型の塁線は該当しそうな場所にはないので、土塁の形状も変わってしまっている様である。1960年代には耕地整理で城のほとんどが破壊され、現在残る土塁以外は消滅しているので、更に改変された今では、現地で往時の城の縄張りを追うことは全くできない。町史跡として城址碑・解説板が立っているが、非常に残念な状況である。
昭和20年代前半の田中城→田中城航空写真1948.jpg
クリックで拡大可(出典:国土地理院の空中写真閲覧サービス)

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.886799/137.988646/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平城
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御所平(長野県阿智村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2109.JPG←御所桜と御所平
 御所平は、南朝の後醍醐天皇の子・宗良親王(信濃宮)の皇子とされる尹良親王の御所があったと伝承される。しかし尹良親王については、その実在が疑わしい。尹良親王の事績を伝える『浪合記』も信憑性には疑いがあるので、おそらく尹良親王という宮はいなかったのだろう。しかし、より史料的価値があるとされる『鎌倉大草紙』には、「宮」を初め新田一門が信濃国浪合という所で皆討死したとあり、この南朝某宮は守永親王とする説がある。宮討死が史実であったとすると、この御所平付近には南朝某宮が潜幸していた可能性はあるだろう。

 御所平は、和知野川上流域の浪合地区にある広々とした段丘上にある。しかし明確な遺構はなく、御所桜と言う大きな桜の木が目印となっているだけである。
 尚、御所平の北西1.2kmには「南朝某宮」が討死した場所に建てられたと伝えられる浪合神社があり、境内には尹良親王の旧跡碑と陵墓があって宮内庁管理となっている。また周囲数百mの範囲には、親王と共に討死した新田一族などの武臣の陪塚3つが散在している。南朝の伝承を色濃く残す土地である。
尹良親王の陵墓→DSCN2079.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.371161/137.699912/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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甲賀城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2049.JPG←主郭内部の現況
 甲賀城は、近江甲賀出身の一族甲賀氏の居城である。甲賀氏は、近江観音寺城主六角佐々木氏を領主とした一族とされ、松尾小笠原氏や甲斐武田氏と縁が深く、三者の間にあって諸国の情勢を探って伝えていた忍びの一団と推測されている。武田氏滅亡後の消息は不明で、近江に帰郷したとも考えられている。江戸時代になると、最初は旗本宮崎氏の所領に、1619年からは旗本近藤氏の所領となり、近藤氏5000石の陣屋が城跡に構えられ、代官が居住したと言う。

 甲賀城は、阿智川北岸の段丘辺縁部に築かれている。東の寺沢川の谷に臨む位置に主郭を置き、西に二ノ郭を置いていたらしい。現在は宅地や畑に変貌しているので内部踏査はできず、外目からは地勢以外に明確な遺構は見られない。城の北面から西面にかけて通る道路は往時の堀跡らしく、主郭・二ノ郭跡の宅地は道路よりも一段高くなっている。解説板はおろか標柱もなく、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.426992/137.787405/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世崖端城
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原氏館(長野県下條村) [古城めぐり(長野)]

DSCN2037.JPG←石碑がある主郭
 原氏館は、元亀年間(1570~73年)に武田信玄の命により浪合の原氏の一族が小松原に来て構えた居館とされる。『上伊那郡史』によれば以下の通りである。浪合原氏は下総の名族千葉氏の一族原氏の庶流で、吉岡城主下條氏に属し、1556年に原(浪合)弾正忠胤光は浪合及び小松原で知行600貫文を領し、浪合関所を守衛した。1571年、胤光は嫡子七郎兵衛胤秋と共に武田軍に参加して美濃で父子とも討死した。胤秋の子胤定はまだ幼かったため、信玄の命で胤光の弟原備前守胤成が浪合の館を継ぎ、胤定には小松原で160貫文を分知して移住させた。胤定も、下條氏の麾下に属し、1573年に三河野田合戦に出陣して100貫文の加増を受けた。その子市之丞胤末が跡を継いだが、1582年の織田信長の武田征伐の際に討死したと言う。胤末の子は帰農したと言う。

 原氏館は、阿智川南岸の段丘先端部に築かれている。館跡は果樹園となっており、その中に主郭とされる方形の区画があり、低い石垣で囲まれているが、往時の遺構とは即断しかねる。この方形区画の南東角に、小さな城址碑がある。周囲に腰曲輪らしい平場もあるが、訪城したのが夏だったので、草木でほとんどわからなかった。いすれにしても大した遺構はない。尚、館跡から南西150m程の所に「馬乗石」があるが、原氏にまつわる遺蹟だろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.424212/137.797673/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲信越の名城を歩く 長野編

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