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洲崎古戦場(神奈川県鎌倉市) [その他の史跡巡り]

DSC03591.JPG←赤橋守時の腹切りやぐら
 洲崎古戦場は、新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場である。1333年5月8日、上野の野からわずか150騎で挙兵した義貞は、上野国府を襲った後、疾風のように南下し、一路鎌倉を目指した。途中多くの武家を味方につけた義貞の軍勢は大軍に膨れ上がり、瞬く間に武蔵野を席巻した。笛吹峠を越えた新田勢は、小手指ヶ原で幕府軍を一蹴し、分倍河原・関戸でも激戦の上、得宗(北条氏の嫡流のこと)北条高時の舎弟泰家を総大将とした軍勢を打ち破った。鎌倉に迫った義貞は、軍勢を3手に分け、三方より鎌倉を攻めた。その内、堀口貞満・大嶋守之を左翼の将として、巨福呂坂へ指し向けた。この時既に京では、足利高氏(後の尊氏)が後醍醐天皇側に付いて六波羅探題を攻略し、京の幕府軍を壊滅させていた。最後の執権北条(赤橋)守時は、妹登子が高氏に嫁いでおり、高氏の謀反と、預けられていた登子と高氏の嫡子千寿王(後の義詮)が密かに鎌倉から逃れたことによって、幕府内での立場は悪化していた。しかし守時は、先陣を賜って堀口らの軍勢と洲崎で一歩も引かずに激戦を展開し、斬り結ぶこと1日で65度に及んだと太平記に記されている。しかし勢いに乗る新田勢の前に頽勢覆い難く、守時は自刃し、守時配下の南条高直ら90人の将兵も守時に続いて自刃して果てたと言う。

 洲崎古戦場は、湘南モノレールの通る県道脇に石碑が建っている。そして、この地から西に200m程の場所、深沢多目的スポーツ広場の一角には、千代塚と呼ばれる守時の腹切りやぐら、そして洲崎の戦いから約20年後に戦没者の供養の為に建てられたと言われる泣塔が残っている。義貞の鎌倉攻めの中でも最も壮絶な戦場であり、その悲しい歴史を今に伝えている。

 場所:【古戦場碑】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.334996/139.520971/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1

    【腹切りやぐらと泣塔】http://maps.gsi.go.jp/#16/35.335276/139.518868/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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タグ:古戦場
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