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福原城(兵庫県佐用町) [古城めぐり(兵庫)]

DSC07129.JPG←空堀跡の道路
 福原城は、佐用城とも呼ばれ、赤松氏の一族佐用兵庫介範家が建武年間(1334~38年)に築城したと伝えられる城である。範家は弓矢の名手で、元弘の乱の際、赤松円心の京都六波羅攻めに従い、船上山に向かう幕軍の大手の大将名越尾張守高家を、久我畷の戦いに於いて一閃のもとに討ち取り功を挙げた。その後、赤松36家衆の一、福原隼人がこの城を守った。戦国末期には、織田・毛利の二大勢力の狭間で上月城・高倉城・利神城と共に赤松氏の城郭群を形成していたが、1577年、羽柴秀吉の家臣竹中半兵衛重治・黒田官兵衛孝高らの率いる3千余騎に攻め落とされ、城主福原藤間允則尚は自刃した。福原城はそのまま廃城となった。

 福原城は、佐用川西岸の段丘上に築かれた城で、現在城地はほとんど畑となっている。しかし遺構は比較的よく残っており、最上段の本丸に当たる方形の平場には北側と西側に土塁が残り、特に西側は櫓台となっていた様で、ある程度の広さを持ち、現在はそこに自刃した福原則尚を祀った福原霊社が置かれている。この土塁の西側は切通し状の狭い車道となっていて、空堀跡であった様である。日本城郭大系に拠れば、本丸周囲の段々になった畑も曲輪跡とされている。城とは言っても、どちらかと言うと居館から発展した形態で要害性に乏しく、あくまで地域統治の政庁的拠点であったと考えられ、半兵衛・官兵衛の名軍師に攻められたらひとたまりもなかったであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.996412/134.351774/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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