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山楯(山形県酒田市) [古城めぐり(山形)]

IMG_0373.JPG←主郭背後の空堀
 山楯は、歴史不詳の城である。飽海郡誌等によれば、最上氏の家臣庄司四郎兵衛尉の居城であったとの伝承が紹介されている。この庄司氏は、沼ノ平楯主東海林隼人助成盛の子に三郎兵衛尉宗長と四郎太夫政成の兄弟のいずれかとの説もある様だ。1583年に山形城主最上氏の後援を受けた前森蔵人(後の東禅寺筑前守義長)が尾浦城主武藤(大宝寺)義氏を攻め滅ぼし、庄内は最上義光の支配下に入ったが、1588年、越後上杉氏の家臣本庄繁長が庄内に侵攻して庄内争奪戦が始まった。上杉勢は十五里ヶ原の合戦で最上勢を破って庄内を制圧すると、最上氏の家臣、東海林兄弟は朝日山城と山楯に拠って抵抗したが、上杉勢に攻められて、東海林氏は最上領に敗走したと言う。

 山楯は、標高90mの丘陵上に築かれた城で、現在主郭部が公園化されている。公園に至る道は、主郭背後の空堀を通る堀底道で、この空堀に沿って主郭背面には土塁が築かれている。主郭から西側にゆるやかな傾斜地が広がり、そこに扇状に多くの腰曲輪群が築かれているらしいが、視認できるのは極一部に過ぎず、大半は藪がひどく確認が困難である。また城内を車道が貫通している為、一部破壊を受けている。それでも遺構は残っているので、もう少し整備してくれると、城の全容が把握しやすいのだが。
公園化された主郭→IMG_0348.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.903408/139.946116/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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