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峰上城(千葉県富津市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_5719.JPG←主郭背後の大堀切
 峰上城は、真里谷武田氏が築いた西上総の拠点城郭である。伝承では1533年に真里谷武田信興が、南の里見氏に対抗する為に峰上城を築き、弟の信武を城主としたとされる。しかし信興は、応仁の乱頃の当主で時代的に合わない。また真里谷武田氏の系図にも混乱が見られ、信武は信興の叔父に当たるとも言われ、明確ではない。いずれにしても上総に入部した真里谷武田氏が勢力を拡張していく中で里見氏に備えて築いた城というのは間違いないであろう。1534年、真里谷武田氏家中に内訌が生じ、真里谷城を逐われた信隆とその子信政は椎津城に立て籠もったが小弓公方足利義明に攻められて敗走し、信隆は峰上城に、信政は造海城に立て籠もった。しかし峰上城を攻撃された信隆は、更に造海城に逃れ、結局敗れて小田原の北条氏綱の元に追放された。これ以後、真里谷武田氏は里見氏に属することとなり、峰上城も里見勢力圏の支城となった。1554年には、峰上城に拠っていた吉原玄蕃助を中心とした尾崎郭二十二人衆が、北条氏に通じて反里見勢力として叛乱を起こしたことが知られている。その後の峰上城の歴史は不明である。

 峰上城は、志駒川の東にそびえる標高130m、比高100m程の丘陵上に築かれた城である。大規模な堀切と、急峻な垂直断崖式切岸による外周防御を多用した城である。まず大手道が伸びていたと思われる北に伸びる尾根には3本程の堀切が穿たれ、物見台らしい小郭が堀切の前面に置かれている。特に「要害」の地名が残る三ノ郭手前は道路建設で改変されているものの、明らかな大堀切で、更にそこから北尾根の東斜面に回りこむと、岩盤を削った横堀や、支尾根を分断する堀切がある。この城の中心部は、急峻な垂直絶壁の切岸で囲まれた広い台地で、ここに段差だけで区切られた、主郭・ニノ郭・三ノ郭が梯郭式に配置されている。三ノ郭は民家と畑になっている。主郭には南端に大きな櫓台がそびえ、その広さなどから近世城郭で言う天守台に相当するような曲輪で、現在は環神社が鎮座している。この櫓台の前には段曲輪群が置かれている。櫓台背後には、この城の最大の見所である、岩盤を垂直に削りきった大規模な七重堀切が穿たれている。これは信濃山家城の五重堀切を凌駕する圧巻の数と規模で、全てが垂直絶壁の急峻な堀切となっており、この切岸を登り降りすることはロッククライミングを専門でやっている人以外はまず不可能である。主郭背後に当たる1本目が最大規模で、両側に腰曲輪が繋がっており、中央に障壁のような石の畝が構築されている。主郭の東下方には、岩盤を削った横堀、そこにT字状にぶつかる竪堀状の切通し虎口、その周囲に築かれた腰曲輪などがある。この先には、斜面の谷戸に向かって大きな竪堀が穿たれている。一見自然地形の様にも見えるが、下の方に垂直絶壁の切岸があるので、明らかに人為的な構築である。一方、主郭の南西からニノ郭西側にかけても腰曲輪が廻らされている。こちらには尾崎曲輪などの広い曲輪が置かれ、支尾根には堀切が穿たれている。この方面の腰曲輪は、城の主要部と同様に垂直絶壁の切岸で外周を防御している。その為腰曲輪から下の曲輪に降りるのも困難である。特に西の出曲輪との間は深さ10mの垂直絶壁の堀切で完全に遮断されており、これまでの城巡りで大抵の遺構は踏査してきた私でも、さすがに身の危険を感じ、進むことができなかった。他にも先に進めない垂直絶壁が多く、行きつ戻りつで遺構の探索も容易ではない。いつも拝見している余湖さんのHPで「こんな怖い城は他にはない」と言っている意味がよくわかる。縄張りの技巧性には乏しいが、行く手を阻む絶壁群に瞠目する城である。
主郭の櫓台→IMG_5704.JPG
IMG_5734.JPG←T字状に穿たれた横堀と虎口
七重堀切の4本目→IMG_5779.JPG
IMG_5835.JPG←行く手を阻む西出曲輪の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.206170/139.931373/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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