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本佐倉城(千葉県酒々井町) [古城めぐり(千葉)]

IMG_0592.JPG←セッテイ郭の大空堀
 本佐倉城は、下総の名族千葉氏の戦国期の居城である。千葉氏は元は千葉城(猪鼻城)を居城としていたが、室町期に生起した享徳の大乱の余波で千葉氏内部に内訌が生じ、宗家の千葉胤直・胤宣父子は、一族の馬加城主馬加康胤・小弓城主原胤房らに攻められて志摩城・多古城に敗走し、志摩城・多古城も攻囲されて自刃し、千葉宗家は滅亡した。その後は馬加康胤の系統が千葉氏を称し(後期千葉氏)、康胤の子輔胤が文明年間(1469~86年)に新たな拠点として本佐倉城を築城した。その後、小弓公方足利義明を擁する真里谷武田氏・里見氏らとの抗争の中で、千葉氏は関東に勢力を伸ばしつつあった小田原の北条氏綱と誼を通じ、その姻戚となって命脈を保った。しかし、重臣であった小弓城主原氏や小金城主高城氏などは独立領主化して北条氏直属の他国衆として遇され、千葉宗家の勢力は衰亡の一途を辿った。1585年に千葉邦胤が家臣に殺害されると、北条氏政は7男直重を千葉氏の後継に送り込み、実質的に千葉氏を乗っ取った。1590年に北条氏が滅亡すると、千葉氏も改易された。徳川家康が関東に入部すると、本佐倉城はその家臣の持ち城となり、1610年に土井利勝が入部して新たに佐倉城を築くと、1615年の一国一城令で本佐倉城は廃城になった。

 本佐倉城は、低地帯に突き出た比高25m程の段丘先端部に築かれた城である。衰えたりと雖も名族千葉氏の本城らしく、極めて広大な城域を有しており、遺構はほぼ完存し、国指定史跡となって整備が続けられている。段丘先端から、主郭(城山)・ニノ郭(奥ノ山)・三ノ郭(倉跡)が並び、その北側の谷戸部にⅣ郭とⅤ郭(東山馬場)の平場が築かれている。その北側には東山と呼ばれる細尾根の外郭がある。また三ノ郭の西側には空堀を挟んでⅦ郭(セッテイ)があり、更に大空堀を挟んで西側に外郭の広大な平地が広がっている。

 まず主郭は、発掘調査の結果に基づいて表示板や構造を示すラインが引かれており、土塁や隅櫓台・虎口の枡形門跡などが残っている。復元建物などは無いが、余計な復元建物に金をかけずに表示板と想像図とラインだけの方が、キャッスラーには想像性を掻き立てさせるので非常に好ましい。また復元建物がないので、視界が遮られないのも良いと思う。主郭とニノ郭の間は深さ5m程の堀切で分断されており、ここには木橋が架かっていたと考えられている様だ。ニノ郭は西側だけに土塁が残る広い平場であるが、発掘調査によって妙見宮の基壇跡が見つかっているらしい。ニノ郭と三ノ郭は3m程の段差だけで区切られているが、段差部の南端に坂虎口が築かれている。三ノ郭外周には深さ10mの空堀が、屈曲しながら穿たれている。この空堀の北側は東光寺ビョウ(Ⅵ郭)の平場に繋がっており、木戸口が発掘で見つかっている。空堀の西側にはⅦ郭がそびえ、「セッテイ」の名から接待曲輪か人質曲輪であったと推測されており、周りに腰曲輪や虎口が築かれている。Ⅶ郭の外周の空堀は16mもの深さの巨大なもので、横矢が掛けられている。堀の両側に竹が生えた、美しい屈曲する大空堀は、同じ北条氏の城であった小机城のものを彷彿とさせる。堀の北端部は堀底道となって伸びており、その両側は物見台を兼ねた細尾根が走り、細尾根は要所を堀切で分断している。城域最西部の外郭は現在一部が民家になる他は一面の畑であるが、南端に大土塁と空堀が残っている。ここには中央部に出枡形の櫓台が残り、土塁の東端にも櫓台が張り出して横矢が掛けられている。この他、東山の細尾根には横堀や物見台も残っている。本佐倉城は非常に素晴らしい中世城郭の遺構で、下総では最良の城であろう。
主郭の枡形虎口→IMG_0499.JPG
IMG_0671.JPG←外郭の出枡形部の空堀
東山の横堀→IMG_0458.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.728259/140.260402/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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