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武生城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1265.JPG←主郭
 武生(たきゅう)城は、南北朝時代に佐竹氏が拠った山城である。元々は鎌倉時代に国井経義という武士による築城とされるが、詳細は不明。南北朝時代になると、北朝方の佐竹貞義は、南朝方と戦い敗れて、貞義は金砂山城に籠もり、子の義篤らは武生城に立て籠もったと言われている(この時の合戦を常陸甕の原合戦としているものがあるが、実在自体が不明の合戦であることを付記しておく)。1336年、楠木正成の一族で代官として常陸に下向した楠木正家は、瓜連城に入って常陸南朝勢力を糾合すると、佐竹義篤は武生城から出撃して南下し、瓜連城を攻撃したと言う。

 武生城は、竜神湖の北側にそびえる標高340m、比高220mの山上に築かれている。東南東の尾根筋に登り道が付いており、迷うことなく登ることができる。山頂に主郭を置き、北斜面に腰曲輪、また主郭の北西に二ノ郭・三ノ郭を腰曲輪状に並べており、いずれの曲輪も切岸だけで区画されている。あまり遺構に期待はしていなかったが、主郭の削平は明瞭で、腰曲輪もはっきりしている。主郭後部は細尾根状となり、そこから北側に二ノ郭・三ノ郭が僅かな段差で広がっている。三ノ郭の北には細尾根が伸び、先端に物見台がある。一方、主郭の手前に当たる東側にも四ノ郭があり、わずかな堀切が見られ、南東の尾根端部にやはり物見台の岩場があり、眼下に竜神大吊橋を望むことができる。これらの他にも登り道の途中に幾つかの腰曲輪が見られ、城域はかなり広かった可能性が考えられる。城の形態としては、いかにも高所の要害性だけを頼りとした南北朝時代の山城という趣で、古い形態を留めている。尚、しばらく茨城や千葉の段丘上の城が多かったため、久しぶりの比高200m級山城はすごく疲れて、少々足に来た。
四ノ郭の堀切→IMG_1257.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.687366/140.464175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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