鎌田氏館(山梨県大月市) [古城めぐり(山梨)]
←諏訪神社付近の現況
鎌田氏館は、鎌倉時代にこの地を領した鎌田兵衛尉(為成とも言われる)の居館とされる。1213年の和田合戦で古郡氏が滅亡すると、その遺領は勲功のあった武士たちに分与され、福地郷は鎌田兵衛尉が賜った。
鎌田氏館は、桂川曲流部に突き出た半島状台地に築かれている。この台地は堀之内と呼ばれ、その頂部に当たる諏訪神社付近に居館が置かれたとされるが、遺構は完全に湮滅している。現在この半島状台地は宅地と畑・空き地となっているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、台地上は一面の耕作地で宅地はほとんど見られない。既に館跡らしい明確な遺構は見られなくなっており、現地解説板に書かれている「北方の堀切」も昭和20年代前半には既にわからなくなっている。結局、堀之内の地名以外に居館跡の痕跡は残っていない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.604294/139.013497/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
鎌田氏館は、鎌倉時代にこの地を領した鎌田兵衛尉(為成とも言われる)の居館とされる。1213年の和田合戦で古郡氏が滅亡すると、その遺領は勲功のあった武士たちに分与され、福地郷は鎌田兵衛尉が賜った。
鎌田氏館は、桂川曲流部に突き出た半島状台地に築かれている。この台地は堀之内と呼ばれ、その頂部に当たる諏訪神社付近に居館が置かれたとされるが、遺構は完全に湮滅している。現在この半島状台地は宅地と畑・空き地となっているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、台地上は一面の耕作地で宅地はほとんど見られない。既に館跡らしい明確な遺構は見られなくなっており、現地解説板に書かれている「北方の堀切」も昭和20年代前半には既にわからなくなっている。結局、堀之内の地名以外に居館跡の痕跡は残っていない。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.604294/139.013497/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
コメント 0