千須和備後守家屋敷(山梨県早川町) [古城めぐり(山梨)]
←千須和備後守の墓
千須和備後守は、波木井氏と共に日蓮を身延山に招いた人物と伝えられる。しかし後に穴山氏と対立して討たれたらしい。伝承では、穴山梅雪の使者から出陣要請を受けたが、その時はまともな対応をせず、使者に対して接待もしなかったことから、バカにされたと思った使者は主君梅雪に千須和は出陣しない旨を報告した。その為、梅雪から討手を差し向けられて備後守は殺されたと言う。但し、日蓮のいた鎌倉時代と、穴山梅雪のいた戦国後期では時代が離れているので、2つの話に出てくる千須和備後守は生きた時代の異なる別人で、千須和氏は代々備後守を称したということなのだろうか。
千須和備後守家屋敷は、『甲斐の山城と館』では本証寺境内と推測している。遺構はないが、寺の北西の墓地に千須和備後守の墓がある。尚、この地は山間の急峻な斜面に築かれた集落で、こんな所にも集落があるのかと驚かされる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.423076/138.382298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
千須和備後守は、波木井氏と共に日蓮を身延山に招いた人物と伝えられる。しかし後に穴山氏と対立して討たれたらしい。伝承では、穴山梅雪の使者から出陣要請を受けたが、その時はまともな対応をせず、使者に対して接待もしなかったことから、バカにされたと思った使者は主君梅雪に千須和は出陣しない旨を報告した。その為、梅雪から討手を差し向けられて備後守は殺されたと言う。但し、日蓮のいた鎌倉時代と、穴山梅雪のいた戦国後期では時代が離れているので、2つの話に出てくる千須和備後守は生きた時代の異なる別人で、千須和氏は代々備後守を称したということなのだろうか。
千須和備後守家屋敷は、『甲斐の山城と館』では本証寺境内と推測している。遺構はないが、寺の北西の墓地に千須和備後守の墓がある。尚、この地は山間の急峻な斜面に築かれた集落で、こんな所にも集落があるのかと驚かされる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.423076/138.382298/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
- 作者: 宮坂 武男
- 出版社/メーカー: 戎光祥出版
- 発売日: 2014/07/01
- メディア: 単行本
コメント 0