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岩谷堂城(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5375.JPG←中の丸後部の堀切
 岩谷堂城は、藩政時代には岩谷堂要害と呼ばれ、伊達氏が領内に置いた21要害(城の一つ下のランク)の一である。元々は、葛西氏の一族で家臣であった江刺氏が築いた城と伝えられる。南北朝期以降、江刺氏は江刺郡の惣領職にあったらしく、葛西氏5代信詮の次男江刺次郎信満が岩谷堂城主となったと言う。その後、勢力を拡大した江刺氏は、葛西宗家しばしば抗争するようになり、1361年・1485年・1495年に葛西氏との間で合戦があったとされる。1495年の合戦では、江刺隆見は葛西政信と合戦して敗れ、岩谷堂城は政信の孫三河守重胤が相続し、郡内を再統一した。1585年頃には、重胤の後裔三河守信時が葛西宗家から勘当され、代わって江刺重恒が城主となった。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏は改易となり、同年に生起した葛西大崎一揆では重恒の養嗣子重俊は桃生郡深谷で討死した(須江山の惨劇)。しかしどうゆう経緯があったか不明であるが、奥州仕置で下向した秀吉の重臣浅野長政は、重恒を南部信直に託したことから江刺氏は南部氏の家臣となり、重恒は稗貫郡新堀城に1500石で封じられ、1612年には養嗣子重隆の子隆直が伊達藩領との境域に近い土沢城に移封され、藩境の警備に当たった。一方、江刺氏の去った岩谷堂城には秀吉の家臣木村吉清の家臣溝口外記が入ったが、葛西大崎一揆で殺害された。一揆鎮圧後は伊達氏の領国に組み込まれ、伊達政宗の重臣桑折摂津守政長が岩谷堂城主となり、城下の整備を進めた。1659年には伊達家一門の岩城宗規(仙台伊達藩2代藩主忠宗の7男)が岩谷堂城主となり、以後岩谷堂伊達氏として9代続いて明治維新を迎えた。

 岩谷堂城は、人首川西岸の標高114.9m、比高70m程の丘陵上に築かれている。広大な城で、本丸付近の城の中心部は館山史跡公園として公園化されているが、二ノ丸は岩谷堂高校のグラウンドに、また外郭(下中屋敷)は旧岩谷堂高校・総合運動場(旧小学校)・住宅地に変貌している。しかし本丸から二ノ丸にかけては旧状をよく残している。本丸には現在、館山八幡神社や二清院が建っているが、外周には土塁がめぐらされ、その外側には2段の腰曲輪が築かれ、本丸東側には横堀も穿たれている。本丸腰曲輪と二ノ丸の間には、双方と堀切で分断された中の郭が置かれている。二ノ丸の後部には大土塁が残り、後部土塁の西端部には枡形状の地形も見られる。またグラウンドの東西に土塁が残存している。二ノ丸の南側には水堀と腰曲輪が確認できる。その南側は改変されて旧状を失っている。
 以上が岩谷堂城の遺構で、「要害屋敷」と言うものの、その縄張りは山城そのままである。その他の要害でもそうだが、城ではないと称しつつ有事の際には城として機能する形を維持しており、仙台伊達藩はよくもまあ江戸幕府を舐めていたものだ、政宗はさすがにふてぶてしいと呆れてしまう。幕府も密偵による情報収集でわかっていたはずで、よく黙認していたものだと思う。
二の丸南側の水堀→DSCN5457.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.198081/141.183028/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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