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駒場城(長野県阿智村) [古城めぐり(長野)]

DSCN5261.JPG←主郭背後から南に落ちる竪堀
 駒場城は、歴史不詳の城である。伝承では、応永年間(1394~1428年)頃に林氏によって築かれたとされるが、仔細は不明。その後、天文年間(1532~55年)に伊那谷が甲斐武田氏の支配下に入ると、武田氏が修築したと考えられている。1573年、西上戦を開始した武田信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝するなど着々とその兵馬を進めたが、進軍途上で病の為に甲斐へ撤退を開始し、その途中この駒場にて病没したと伝えられる。その後、1582年2月、織田信長は木曽義昌の離反を機に武田征伐を開始した。信長の嫡男信忠を総大将とする本軍が伊那谷に侵攻すると、伊那谷の諸将は相次いで織田方に帰順、もしくは城を捨てて逃走した。信長は武田勝頼の反撃を恐れており、軍監の河尻秀隆に書状を送り、安易に武田領国に深入りせず、繋ぎ城を数ヶ所築いて警護を固めるよう厳命している。この時繋ぎ城として取り立てるべき城の一つとして駒場城の名が上がっていることから、駒場城は織田勢によって修築されたと推測されている。

 駒場城は、阿智川南岸にそびえる標高650m、比高120mの山稜上に築かれている。主郭を中心に、東西の尾根に曲輪を連ね、要所を堀切で分断した典型的な連郭式山城の縄張りである。城内は公園化されており、山道の敷設で一部の遺構が損壊を受けているが、概ねの遺構はよく残っている。主郭は長円形で土塁はなく、南北の斜面に腰曲輪群を築いている。特に北斜面の腰曲輪群はかなり下方まで連なっており、多数に及ぶ。主郭の東尾根の曲輪群は、段々に連なっているが、山道による改変と薮で形状がわかりにくい。途中には2ヶ所、尾根両側に落ちる堀切がある。その下方に暗部の平場があり、その東には一段高く東郭があり、神社が建っている。東郭の先は尾根が東と南東にY字型に分かれ、それぞれ尾根の付け根に堀切を穿ち、その先に小郭を置いている。一方、主郭背後には堀切が穿たれ、南北の斜面に竪堀が長く落ちている。特に南側の竪堀は、両翼に腰曲輪群が段状に連なっており、竪堀沿いに登ってくる敵を迎撃できるようにしている。主郭背後の堀切の西には小さな二ノ郭があり、その西に三重堀切が穿たれ、細尾根の曲輪を挟んで西端の堀切が穿たれて城域が終わっている。主郭西側にある堀切群は、主郭背後のものは大きいが、その他の堀切は小規模である。二ノ郭の南北にも腰曲輪があり、北斜面には竪堀が落ちている。以上が駒場城の遺構で、多重堀切がある以外は特色に乏しく、あまり武田氏・織田氏らしい城の痕跡が見られないので、武田氏以降にどの程度使用された城だったのか、検討の余地がありそうである。
主郭背後の堀切→DSCN5291.JPG
DSCN5253.JPG←主郭南斜面の腰曲輪群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.441504/137.738643/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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