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小坂城(長野県岡谷市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3602.JPG←わずかに残る堀切跡
 小坂城は、諏訪氏(神氏)の庶流有賀氏の分流小坂氏の居城であったと伝えられる。伝承では、平安後期の1154年に甲斐源氏の源信義が初めて築城したとも言われるが詳細は不明。小坂氏は、上社大祝敦光の子敦忠を祖とする一族で、小坂郷に入部して小坂殿と呼ばれた。小坂城は有賀城の支城で、1483年に前宮神殿(こうどの)で大祝継満が惣領家諏訪政満一族を忙殺した「文明の内訌」の時には、小坂氏は惣領家に与した。武田信玄が諏訪を攻略すると、小坂氏は一旦は武田氏に降ったが、1548年に信玄が上田原の戦いで村上義清に敗北すると、諏訪西方衆の反乱に与し、鎮圧後に追放された。その後、小坂城は武田氏の支配下となったが、1582年に武田氏が滅亡すると廃城となったと推測されている。

 小坂城は、諏訪湖西岸の山地の先端部に築かれている。中央自動車道の建設に伴って、城跡の主要部分は発掘調査の後、破壊消滅している。かつては土塁で囲まれた方形の主郭を持ち、西に堀切を挟んで、二ノ郭を配し、これらの外周に腰曲輪群を廻らしていたらしい。城へは南東麓から伸びる小道を登って行ける。主郭は完全に消滅しているが、二ノ郭は西側部分が残存し、間の堀切も南端部分がわずかに残っている。主郭と二ノ郭の周囲に段々に廻らされた腰曲輪群は明瞭に残っているが、昭和20年代の航空写真を見ると、全山耕地化されているので、どこまでが往時の曲輪跡で、どこからが畑の跡なのか、明確には判別できない。城から西の谷を挟んで西の丘陵地に方形の平場と段々の平場群があるが、これも城跡だったのかどうかはわからない。以上が小坂城の遺構で、残っているのはわずかだが、二ノ郭には標柱も立ち、城の雰囲気は残っている。尚、登り口である南の畑地には往時は城主居館があったらしく、近くには「御頭屋敷」の地名も残り、小坂氏が上社の社務を務めた両頭奉行であったことを示している。
西の腰曲輪群→DSCN3581.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.034776/138.063844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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