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関城(茨城県筑西市) [古城めぐり(茨城)]

空堀と土塁>
 北畠親房の関東経営シリーズ第3回は、大宝城と連携して南朝の抵抗の拠点となった関城である。小田城を幕府軍に攻められて追われた北畠親房はこの関城に入り、なお2年に亘って抵抗を続けた。城主は在地の南朝方武家の関宗祐であった。鎌倉府執事の高師冬率いる北朝方は、関・大宝二城の周囲を厳重に取り囲み、城内に通じる坑道まで掘って攻撃を試みたと伝えられている。結局南朝方は衆寡敵せず、1343年11月城は陥落した。
 さて関城は、大宝沼を隔てて大宝城の2.5kmほど北にある。城は現在でも周囲の水田地帯からは10mほどの高低差のある台地上の南端に築かれている。かなり宅地化が進んでいるようなので、あまり期待はしていなかったのだが、断片的にではあるが思いのほかに遺構が良く残っていた。しかしかなり断片的に散在している感じなので、往時の姿を想像できるほどではない。大きな空堀や土塁などが住宅地を縫う様に散在している。空堀はかなり埋まってしまっているらしく、どこもかなり浅く平坦な地形に変わってしまっている。残っている土塁は、結構規模が大きく大きいもので高さ5mほど、長さは長いもので20m以上にもわたっている。この堀と土塁で城から北に続いている台地上からの攻撃を防いでいたようだ。
 この城で非常に有名なのが、前述した坑道合戦の際のものと見られる坑道跡である。大正9年に地元の少年が遊んでいるときに偶然見つけたものだそうだ。

 またこれとは別に、城域の北西のはずれに大将山公園というのがある。これは、後醍醐天皇の孫に当たる守永親王が関城から羽州宇津峰城に落ち延びる際、将兵が送別の宴を催した地であるそうだ。公園の北端に石碑が建てられている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(この城も、南北朝フリークなら必須!)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.226308/139.963953/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
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