尾引城(長野県上田市) [古城めぐり(長野)]
←主郭背後の三重堀切
尾引城は横尾城とも呼ばれ、この地の豪族横尾氏の城であった。横尾氏は、バサラ大名で信濃守護の小笠原長秀と村上氏をはじめとする有力国人領主が争った1400年の大塔合戦に祢津氏に従って参戦している。後に武田信玄と村上義清が戦った上田原の合戦で城主の横尾采女守が戦死し、残された幼君は家臣と共に上州に逃れた。その後この城は真田氏の支配するところとなった。
城は、主郭の南面半分の斜面上に多数の帯曲輪を配しており、このあたりは根小屋城に近い縄張りとなっている。主郭には、現在秋葉神社が置かれており、広さとしては真田城塞群の中では広い方である。この城も背後に堀切があるが、規模はそれほど大きくはない。しかし特徴的なのは、三重堀切になっていることである。現地表示では二重堀切となっているが、どう見ても三重にしか見えない。誤植であろうか。この三重堀切を越えると小さい曲輪があり、小さい堀切で尾根筋を遮断している。この先は自然地形の尾根となるが、面白いのは200mほど先に行くと、副郭と呼ばれる小さい曲輪があるのである。この副郭も小さい堀切と土塁で尾根筋から防御されている。搦め手を守る防御陣地か何かであったのだろうか?
こじんまりしているが、なかなか面白い縄張りの城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.447603/138.302564/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
尾引城は横尾城とも呼ばれ、この地の豪族横尾氏の城であった。横尾氏は、バサラ大名で信濃守護の小笠原長秀と村上氏をはじめとする有力国人領主が争った1400年の大塔合戦に祢津氏に従って参戦している。後に武田信玄と村上義清が戦った上田原の合戦で城主の横尾采女守が戦死し、残された幼君は家臣と共に上州に逃れた。その後この城は真田氏の支配するところとなった。
城は、主郭の南面半分の斜面上に多数の帯曲輪を配しており、このあたりは根小屋城に近い縄張りとなっている。主郭には、現在秋葉神社が置かれており、広さとしては真田城塞群の中では広い方である。この城も背後に堀切があるが、規模はそれほど大きくはない。しかし特徴的なのは、三重堀切になっていることである。現地表示では二重堀切となっているが、どう見ても三重にしか見えない。誤植であろうか。この三重堀切を越えると小さい曲輪があり、小さい堀切で尾根筋を遮断している。この先は自然地形の尾根となるが、面白いのは200mほど先に行くと、副郭と呼ばれる小さい曲輪があるのである。この副郭も小さい堀切と土塁で尾根筋から防御されている。搦め手を守る防御陣地か何かであったのだろうか?
こじんまりしているが、なかなか面白い縄張りの城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.447603/138.302564/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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