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大田原城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSC03221.JPG←北曲輪(上段)と土塁
 かなりサボってしまったが、久しぶりに城巡りの記事をUP。
 大田原城は、那須七騎の一つ、大田原氏の本拠である。大田原氏は、もともと大俵氏といい、武蔵丹党の分かれという。那須氏に仕えたが、主家那須氏の上那須・下那須の分裂期に、この抗争を利用して筆頭重臣にのし上がった。上那須家が滅亡したときの策謀の中心は大田原資清で、資清はライバルの大関氏、福原氏との権力抗争に敗れて一旦は越前の永平寺に出家隠棲したが、たまたま永平寺に訪れた朝倉氏と意気投合し、その支援を得て下野に帰国した。その後ライバルだった大関氏、福原氏を養子戦略で乗っ取り、主筋の那須家をも牛耳った。この辺の歴史は、下克上の世とはいえ余りにも謀略が多く、そのため私は大田原氏をあまり好きにはなれない。そして大田原氏は戦国末期には抜け目なく秀吉の小田原攻めに参陣して近世大名として生き延びることに成功し、大田原城はそのまま近世大名大田原氏の居城となって明治まで存続した。
 大田原城は、大田原市中心部の東方、蛇尾川沿いの断崖上の丘陵地帯に築かれている。前述の通り江戸時代にも近世城郭として使用され、現在は龍城公園となって公園化されているが、遺構は大きく、全体によく残っている。本丸北側には2段の曲輪があり、特に上段の曲輪は周囲を取り巻く土塁がきれいに残っており、また本丸への切岸も高低差が大きく目を引くものがある。
坂下門枡形土塁→DSC03242.JPG
 本丸西側には坂下門という近世城郭としての遺構があり、枡形土塁とわずかな水掘が現存している。更にその西の西曲輪や三の丸は、宅地化などで湮滅している。本丸南側には大きな堀切を挟んで、馬出しのような二の丸があり、更にその南側にも稲荷曲輪に続く細長い曲輪が明瞭に残っている。先端には小さな堀切があり、二の丸への登り口は中世城郭的な虎口が残り、林が生い茂っているせいもあって、この辺りは中世城郭の色彩が濃厚である。二の丸から土橋を渡った本丸は広く、周囲をぐるっと規模の大きい土塁で防御している。また虎口の形状も明瞭である。近世城郭としての側面も持ちながら、中世山城の雰囲気も濃厚に漂わせた、県内屈指の城郭遺構である。
DSC03262.JPG←二の丸南側の曲輪
二の丸へ通じる虎口→DSC03268.JPG
DSC03280.JPG←本丸、周囲を土塁が取り巻く
本丸と二の丸間の堀切・土橋→DSC03303.JPG

 お城評価:☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.868498,140.034549&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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