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向石毛城(茨城県常総市) [古城めぐり(茨城)]

DSC05718.JPG←法輪寺西側に残る土塁
 向石毛城は、下総の豪族豊田氏の支城であり、古くは豊田館と呼ばれ、平安の御世に関東を席巻した風雲児平将門の居館であった。将門は、桓武天皇の孫で臣籍降下して平の姓を賜った高望王の三男に当たる鎮守府将軍平良将の嫡子で、この豊田館で生まれ育ったと言われている。早く父を失った将門は、成人すると父の遺領を横領した伯父平国香らと不和となり、一族内で干戈を交えるに至ったとされる。後に鎌輪の宿に本拠を移し、更に一族との抗争の中で石井営所に居館を移したと言う。939年、将門は武蔵国権守興世王・武蔵介源経基と足立郡司武芝との争いを調停したが、手違いにより経基から謀反を朝廷に訴えられた。更に常陸国府から追われている藤原玄明を匿った為に、やむを得ず常陸国府と戦うこととなり、これを発端として天慶の乱が起きることとなった。一時は関東を席巻し「新皇」を称したが、朝廷の命を受けた平貞盛(国香の子で将門の従兄弟に当たる)・藤原秀郷と戦って破れ、滅ぼされた。

 この後、将門の遺領は貞盛の領有となり、更に貞盛の弟繁盛に伝えられた。繁盛の後裔で平重幹の第3子政幹は、下総豊田郡石毛荘に住して赤須四郎(石毛荒四郎)と称した。赤須四郎は前九年の役の際に、源頼義・義家父子に従って軍功を挙げ、豊田郷を下賜されて名を豊田四郎平将基と改め、豊田氏の祖となった。将基は、館を天然の要害豊田館跡に構築し、これが向石毛城の起源となった。

 戦国時代になると、関館氏の一族館武蔵守が向石毛城に拠った。永正年間(1504~21)に、館武蔵守宣重は向石毛城を修築して防備を固め、主家豊田氏の居城豊田城と東西相呼応して守りを堅くした。下総結城氏の重臣多賀谷氏は豊田領に侵攻を繰り返すようになり、天文年間(1532~55年)に向石毛城を攻め落とし、城主館武蔵守は自刃し、嫡子播磨は母方の古間木城主渡邉周防守を頼って落ち延びた。以後、向石毛城は廃城となった。

 向石毛城は、鬼怒川西岸の低湿地帯に浮かぶ台地上に築かれた城で、現在はほとんどが宅地化されてほとんどの遺構は湮滅し、わずかに法輪寺の西側に土塁の跡を留めているだけである。しかし地勢は良く残っており、周囲の低地帯との高低差は10m近くある。また前述の土塁の西側の住宅地と道路は、御城と西館を分断する空堀の跡だと思われる。法輪寺東の公園「将門公苑」には立派な石碑が建ち、この地が由緒のある城であったことを今に伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.116869/139.962687/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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