片岡城(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]
←唯一残る土塁
片岡城は、片岡氏の居館である。平安時代末期に、板東平氏の平国繁がこの地に入部して片岡氏を称した。2代経繁は平清盛に仕えたが、1185年に平家が壇ノ浦で滅亡すると、関東を逃れて土佐に渡って黒岩城主となった。その後経繁は、1194年に片岡から妻子を呼び寄せたが、長男経俊と二男経政は亡き母の供養のため片岡村に残り、三男経氏と二人の女子が土佐に渡った。この系統が土佐片岡氏となり、戦国期には長宗我部氏の家臣として活躍したと言う。一方、故地上州の片岡氏の事跡はこの後不明である。1265年、新田一族の大島景継が中野に入部して中野城主となって城下町を整備した際に、ほとんどの片岡の住民は元宿へ移住させられた。この頃には片岡城は廃城になっていたものと思われる。
片岡城は、現在は遺構のほとんどは湮滅し、民家の並ぶ地域の片隅に1本の土塁が残るのみである。しかし解説板が設置され、このわずかに残った土塁が大切に保存されている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.259596/139.448369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
片岡城は、片岡氏の居館である。平安時代末期に、板東平氏の平国繁がこの地に入部して片岡氏を称した。2代経繁は平清盛に仕えたが、1185年に平家が壇ノ浦で滅亡すると、関東を逃れて土佐に渡って黒岩城主となった。その後経繁は、1194年に片岡から妻子を呼び寄せたが、長男経俊と二男経政は亡き母の供養のため片岡村に残り、三男経氏と二人の女子が土佐に渡った。この系統が土佐片岡氏となり、戦国期には長宗我部氏の家臣として活躍したと言う。一方、故地上州の片岡氏の事跡はこの後不明である。1265年、新田一族の大島景継が中野に入部して中野城主となって城下町を整備した際に、ほとんどの片岡の住民は元宿へ移住させられた。この頃には片岡城は廃城になっていたものと思われる。
片岡城は、現在は遺構のほとんどは湮滅し、民家の並ぶ地域の片隅に1本の土塁が残るのみである。しかし解説板が設置され、このわずかに残った土塁が大切に保存されている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.259596/139.448369/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:居館
2011-01-23 02:00
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