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松田城(神奈川県松田町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC06492.JPG←上部曲輪から見た松田城主要部
 松田城は、小田原北条氏の重臣松田氏の築いた城である。松田氏は、藤原系波多野氏の一族で、西相模有数の豪族であった。波多野義通の子義常が足柄上郡松田郷を領して松田右馬允を名乗った事に始まるとされ、鎌倉・室町時代を通じて松田郷を拠点に勢力を保っていた。1495年、小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が、扇谷上杉氏の重臣大森藤頼から謀略によって小田原城を奪取すると、古河公方に属して大森氏と対立していた松田氏は、直ちに宗瑞に従った。以後、北条氏に仕えて大道寺氏・遠山氏と共に三家老衆の一人として家中に重きを成し、北条氏所領役帳ではその知行高は北条一門の重鎮北条幻庵(2代氏綱の弟)に次いで第2位を占めるほどであった。特に松田憲秀は、筆頭家老として氏康の治世を支え、甲斐武田氏との深沢城の攻防でも活躍した。当時の松田城主は、憲秀の弟新次郎康隆で、湯ノ沢城主も兼ねていた。その後の城の歴史は定かではないが、1590年の小田原の役で北条氏が滅亡すると、廃城になったと思われる。

 松田城は、小田原城東側を流れる酒匂川上流域を押さえる要衝で、この地からは小田原市街が一望できることからもその重要性が伺われる。東西を旗矢沢・天神沢という二つの沢を天然の堀とし、南に張り出した尾根上に築かれた山城である。現地解説板の縄張図によれば、大きく5つの曲輪が縦に連なっており、要所を堀切で分断し、南側も空堀と腰曲輪で防御していたようであるが、南側の遺構は東名高速が貫通して破壊されている。城跡は現在、一部が空地になっているが大部分がみかん畑に変貌していて、改変が多く遺構ははっきりしない。唯一、標柱の建つ主郭手前の堀切が明確な遺構である。城内は段々畑になっているが、どこまで遺構なのか不明であり、尾根を登って行った先のどこまでが城域だったのかも不明である。ただ、事前に想像していたより広い城だったことは確かなようである。尚、松田城周辺の地名であるが、「松田惣領」とか「松田庶子」と言う名称で、この地を松田一族が分領していた名残であろうか。すごい地名である。
主郭の堀切跡→DSC06454.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.355556/139.126944/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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ノリパ

お堀の中の黄色いのはみかんなのか何なのか、気になります。
by ノリパ (2011-05-22 09:40) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
みかんでした。
大量廃棄されてたみたいですが、震災とは関係ないですよ。
訪城したのは1月ですので・・・。
そう、まだ1月の城書いてるんですぅ・・・。
by アテンザ23Z (2011-05-22 12:28) 

名前  籔田開作

松田城址の記事の件で質問させてください
①波多野義常が、松田を領し、松田右馬允と名乗った。
②小田原北条氏家臣、松田城主は、憲秀の弟新次郎康隆・・・

この出典、参考書類の名前がお分かりでしたらお教えください。
この二点、諸説あるようで関心がありますのでぜひ参考にお願いします。
by 名前 籔田開作 (2017-02-01 22:08) 

アテンザ23Z

>籔田開作さん
当ブログにご訪問いただきありがとうございます。
ご質問の件ですが、
①については『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』の松田城の項目、及びHP『風雲戦国史 戦国武将の家紋』(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matuda.html)に記載されています。
②については、松田町教育委員会が設置した現地解説板に記載されています。これについては松田町に聞けば、何か情報が得られるかもしれません。

私も独自研究で書けるほど学識があるわけではありませんので、こうした書籍や解説板の受け売りです。あまりお役に立てないかもしれませんが、その節はご容赦ください。
by アテンザ23Z (2017-02-02 22:55) 

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