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浜居場城(神奈川県南足柄市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC06675.JPG←主郭周囲の堀跡
 浜居場城は、足柄山東方の古道を扼する小田原北条氏の山城である。元々は小田原城主大森氏の支城だったと言われている。一説には大森氏の家臣室伏土佐守義安が、春日山城と共に浜居場城の城主であったとも言う。小田原北条氏が大森氏を駆逐すると、北条氏の支城となった。浜居場城は、尾根伝いに足柄城支砦の阿弥陀尾砦を経由して足柄城に繋がっており、足柄城と共に足柄山全体防備の一翼を担い、足柄山地北東を押さえる要地であったと考えられる。その為、北条氏は重臣の松田氏を城将に任じ、代官の須藤源次郎・村野安芸守・小沢孫七郎の三人が交代で管理していた。この城に関しては、有名な「はまいは掟」という1581年の北条氏の文書が残っており、足柄城・浜居場城間が極めて厳重な監視体制下にあったことが知られている。当時は武田勝頼が積極的に外征を繰り返しており、対立が深まる甲斐武田氏に対する国境防衛の城として重視された。1590年の小田原の役の際の浜居場城の動向は不明であるが、足柄城が落城すると放棄されたのかもしれない。

 浜居場城は、比高400mを超える山上に築かれている。この地域の城の比高としては、驚くほど高い。しかも現在でも車では途中までしか登れない(登れるのは県立21世紀の森公園の麓まで)ので、かなりの距離と高さを登らなくては城に辿りつけない。山上は緩やかで広い平坦地になっており、そこに空堀や櫓台で防御された主郭がある。主郭周囲にはわずかに土塁が残る。堀はかなり埋まっているが、これは富士山の宝永大噴火の際の大量の火山灰で埋れた為らしい。その為、その他の遺構もあまり明瞭ではない。西側尾根を下って行くと、鞍部には堀切と土橋がわずかに残っている。遺構としてはこんなもので、埋れているせいかインパクトのあるものではない。しかし数m火山灰が堆積したと考えられるのに、堀跡が判るということは、往時の空堀は深さ5m程はあったということで、かなりしっかりした普請のされた城だったと思われる。この城も、発掘復元してくれればその威容が判るかも知れない。

 尚、主郭には現在、縄張図を載せた新しい解説板が建っている。また地図に記載されている途中の無線中継所は、現在はなくなったようである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.336944/139.045833/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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