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長久保城(静岡県長泉町) [古城めぐり(静岡)]

DSC01597.JPG←三ノ丸の外堀
 長久保城は、駿豆国境を押さえる要衝である。その重要性から、今川・北条による抗争「河東一乱」の最前線ともなり、武田が駿河を制圧すると武田・北条の間で争われるなど、3大大名の争奪の的となった。また武田氏滅亡後は徳川氏にも利用された重要拠点であった。その創築は明らかではないが、鎌倉時代初期に竹之下に居住し、大森氏の庶流と言われる竹下孫八左衛門が築いた砦が素形と言われている。その後、室町時代には国人領主であった葛山氏が沼津進出の為の拠点としたとも言う。戦国時代に入ると、駿河・遠江の守護大名今川氏は、東の小田原北条氏に対する防衛拠点として長久保城を築いた。1537年、北条氏綱は、敵方の甲斐武田氏と同盟を結んだ今川義元への報復として、駿東・富士のいわゆる河東に侵攻した(第1次河東一乱)。この時、今川氏の築いた長久保城を奪取、修復して河東支配の足掛かりとしたとも言われる。1545年、今川義元は河東奪還を目指して北条領に侵攻し、長久保城を攻撃した(第2次河東一乱)。義元は、巧みな外交戦略によって、北条と敵対していた関東管領山内上杉憲政を誘い、2方面からの共同戦線を張った。山内・扇谷両上杉氏の大軍に河越城を包囲され、二正面作戦を余儀なくされた北条氏康は、武田信玄の仲介によって今川と和睦し、長久保城を明け渡した。1554年に今川・北条・武田が三国同盟を結ぶと河東地域は安定したが、今川義元が桶狭間で討死後の1568年、弱体化した今川氏を逐って武田信玄が駿河を制圧した。北条氏康は今川救援のため駿東に出兵し、武田方と対峙した。この時、長久保城は北条の支配下となった。その後、元亀年間(1570~73年)頃から武田氏の支配下となり、武田時代に大改修された。1582年に武田勝頼が織田信長に滅ぼされると、徳川家康が駿河を支配し、以後1604年の廃城まで徳川氏が支配した。この間、1590年の小田原の役の時、家康は長久保城で豊臣秀吉を出迎えたと言う。

 長久保城は、この様に名だたる戦国群雄の争奪の的となった重要な城であったが、現在は残念ながら遺構の多くが失われてしまっている。黄瀬川がほぼ直角に流路を曲げる部分の北岸に築かれた城で、左右を黄瀬川の支流の刻んだ深い沢で挟まれた要害の地にある。本丸は現在ウェルディというショッピングセンターが立ち、ニノ丸もその駐車場となり、完全に破壊されている。一方、西側の南郭と八幡曲輪は、城山神社が置かれ公園化されているものの土塁や平場が良く残っている。ニノ丸と三ノ丸の間にあった空堀には、現在国道246号線が貫通し、城域を南北に分断している。三ノ丸には小学校やマンションなどが建っているが、北辺の土塁と外堀が見事に残っている。ここが往時の城の面影を最もよく残している部分であろう。かつては武田氏の築城法である三日月堀があった他、発掘調査では北条氏の築城法である畝堀も見つかっている。国土変遷アーカイブの航空写真を見ると、昭和20年代頃は本丸を囲む空堀の形状まで明瞭に確認することができ、今から思えば惜しい遺構を破壊したものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.148372/138.891102/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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