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韮山城(静岡県伊豆の国市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07054.JPG←横矢の掛かった搦手虎口
 韮山城は、小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が居城として築き、北条氏の最期となる小田原の役では豊臣方の大軍に囲まれて籠城戦を続けた、戦国北条氏5代100年の歴史を刻んだ城である。宗瑞は、1493年に伊豆に討ち入って堀越公方足利茶々丸を滅ぼし、そのまま伊豆全土を平定すると、韮山城を築いて居城とした。その後、相模に進出して大森藤頼の拠る小田原城を謀略を以って攻め落とした後も、小田原城には嫡男氏綱を入れ、自身は韮山城を居城とし続け、1519年にここで没した。その後、関東管領山内上杉氏ら旧勢力を駆逐して、着々と関東に勢力を伸ばした北条氏は、3代氏康の頃に小田原城を本城とした支城網が整備され、韮山城は領国西方を押さえる一級支城として重要拠点であり続けた。1590年、全国制覇を目指す豊臣秀吉が北条討伐(小田原の役)を始めると、韮山城は山中城と共に小田原防衛の前線基地として、4代氏政の弟氏規が城主として3600の兵と共に立て籠もり、豊臣方4万4千余の大軍相手に善戦した。豊臣方の徳川家康は氏規とかねて親交があったため、朝比奈泰勝を使者として説得工作を始め、氏規は3ヶ月の攻防戦の末にようやく開城・降服した。その後間もなく5代北条氏直は小田原城を開城して秀吉に降り、戦国大名北条氏は滅亡したが、北条家中で外交を担当して和平派でもあった氏規は、1591年に秀吉に許されて河内狭山を宛がわれた。赦免されつつあった当主氏直が若くして死ぬと、氏規の系統が狭山北条氏として幕末まで存続した。一方、開城後の韮山城は、関東に入部した徳川家康の持ち城となってその家臣内藤信成が城主となり、関ヶ原合戦後の1601年、信成の駿府転封と共に廃城となった。

 韮山城は、比高35m程の南北に長い丘陵上に築かれた平山城で、北から順に三ノ丸・権現曲輪・二ノ丸・本丸・南郭と曲輪を連ね、各曲輪間を堀切で分断した典型的な連郭式の縄張りである。西側山麓の平地部には御座敷と呼ばれる城主居館が置かれ、外周を水堀で囲んで防御していた。また韮山城の南東側の山地には、天ヶ岳砦を頂点とする支砦群が築かれて外郭を形成していた、複合城郭でもあった。韮山城は現在公園化されて整備されており、その遺構を楽しむことができる。小じんまりしているが小技の効いた縄張りで、三ノ丸と権現曲輪の間の堀切に繋がる搦手虎口は、横矢の掛かった切通し状で、櫓台が睨みを効かせている。三ノ丸は韮山高校のテニスコートになっているが、周囲全周には高土塁が残っている。最高所に置かれた本丸は小さく、実質的には詰丸の様である。南郭は土塁で2つに分けられ、塩蔵・弾薬庫などが置かれていたらしい。南郭の北側は囮虎口の様な形にも見える。いずれの曲輪も土塁で防御され、本丸付近には腰曲輪が取り巻き、更に天ヶ岳砦に続く南東部の尾根筋にも堀切を介して2つの曲輪を連ねている。一方山麓部は、西側の御屋敷跡は韮山高校や住宅地に変貌し、遺構はほとんど湮滅している。東側の城池に面した平地には、腰曲輪状の平場の他、岸辺に船着場のような窪地が残っている。また三ノ丸東側だけ、水堀が残っている。全体としての城の規模は鉢形城八王子城と比べればかなり小さく、現状からすれば要害性も高いとは言えず、いくら外郭城塞群と連携していたとは言っても、この城でよく大軍相手に3ヶ月も籠城できたものだと思う。おそらくは攻撃側も、大兵に物を言わせて取り囲むだけで、本気で攻めるつもりはあまりなかったのかもしれない。尚、韮山城からは富士山の雄大で美しい姿をよく眺めることが出来る。宗瑞が終生この城を離れなかったのは、この景色を気に入っていたからなのかもしれない。
わずかに残る水堀→DSC07181.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.053643/138.955668/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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