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狩野城(静岡県伊豆市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09537.JPG←「中郭」~「本郭」間の二重堀切
 狩野城は、伊豆の豪族狩野氏歴代の本拠である。その創築は平安末期まで遡るとされる。狩野氏の遠祖は藤原南家と言われ、その子孫工藤維景が駿河守となって当地に下向し、狩野氏の祖となった。維景は、駿河守を退任後、初め日向館に居住したが、その子で伊豆横領使を務めた2代維職か3代維次の頃に、要害の地を選んで城を築いたとされている。狩野氏は代々狩野介を称し、維景から5代の孫茂光は、保元の乱後に伊豆大島に流罪となった鎮西八郎源為朝が、流人でありながら伊豆七島を支配下に置いて暴れまわった時、1170年4月に為朝を討伐して、勇名を轟かせた。1180年に源頼朝が挙兵すると、茂光は子の親光と共に頼朝に従い、石橋山の合戦で討死した。親光は生き延びて、頼朝の後を追って関東に下り、鎌倉幕府の成立に貢献したが、奥州合戦時の阿津賀志山の合戦で先陣を務めて討死した。一方、茂光の嫡子宗茂は、頼朝の側近となって重んじられ、その子孫は代々伊豆を代表する豪族となった。1493年、小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)は堀越公方を滅ぼして伊豆に侵攻したが、狩野氏は頑強に抵抗し、1498年にようやく狩野道一が宗瑞に降った。以後、北条氏の重臣となり、1590年の北条氏滅亡まで、狩野城を支配していたと思われる。尚、織田信長や豊臣秀吉らの天下人に仕えた絵師狩野永徳は、狩野氏の子孫とされている。

 狩野城は、狩野川とその支流柿木川の合流点の南西にそびえる、標高180m、比高80m程の山上に築かれている。T字状に展開した尾根上に曲輪を連ねた連郭式で、Tの真ん中の縦棒の部分が現地標識では「中郭」とされている。この中郭南には大きな土壇状の平場があり、「南郭」とされている。しかし南郭は最高所に位置し、周囲に腰曲輪・段曲輪群・堀切・横堀などを備えて防備は厳重で、普通に考えれば南郭が主郭であろう。その一段下の中郭がニノ郭に相当すると思われる。中郭は北辺にも土塁を備え、東西には堀切をまたいで東郭と「本郭」(現地標柱の表記)を築いている。現地標柱で言う「本郭」は、中郭から二重堀切をまたいで西側にあるが、方形の狭小な曲輪で、土塁で囲まれ東西を二重堀切で囲まれて防備が厳重であるものの、中郭より低地に位置しているなど、主郭とするには理に合わない。また「本郭」の更に西には西郭があり、一方、東郭の東にも広大な出丸があるが、西郭・出丸ともその先は緩やかで平坦な尾根に続いていて、城域の区切りが明確ではない。全体に、鎌倉期や戦国初期の城にしては堀切が大きく発達しているので、鎌倉期の詰城を、戦国期に北条氏が改修した可能性が大きいと思われる。ただそれほど高度な縄張りではないので、北条氏の前期に改修された城であろう。
東郭の堀切→DSC09501.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.937742/138.927387/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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evergreen

古代には、狩野で作られた船は、高速で有名で、
その舟を操る駿河湾の海賊は、有名だったそうです。
狩野川を下って海に運ばれたという事なので、
大型ではなかったのでしょう。
古事記・日本書紀枯に出てくる枯野の舟は、
その狩野で作られたものという事です。

舟や海賊というと、後世の紀伊半島や瀬戸内海というイメージですが、
古代の伊豆は海運の技術が高かったという事ですね。
by evergreen (2012-06-13 09:07) 

アテンザ23Z

>evergreenさん
貴重なお話ありがとうございます。
狩野の船の話は初耳です。
伊豆の海賊や水軍は、
戦国時代よりはるか昔から広範囲に活躍していた可能性が
あるのでしょうね。
by アテンザ23Z (2012-06-13 12:54) 

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