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千福城(静岡県裾野市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02364.JPG←主郭背後の大堀切
 千福城は、平山城とも言い、大森氏葛山氏の同族御宿氏の城であったと言われている。戦国時代に築かれた城と考えられており、当初は葛山備中守が居城としたが、後に同族の御宿勘兵衛正倫が城主となった。1569年、駿河に侵攻した武田信玄は、今川氏を支援する小田原北条氏の深沢城を攻撃した。北条氏政は後詰として出陣し、この時千福城を本陣とした。深沢城は城将北条綱成が間もなく開城し、武田氏の支配下となった。そこで北条氏は、千福城を南下する武田氏に備える拠点として重臣清水康英の子清水新七郎に守らせ、城を改修させた。1571年に甲相同盟が成立すると、千福城は武田氏に引き渡され、破却された。その後この一帯の葛山領は、葛山一族の御宿監物友綱が治めたが、千福城は使われなかったと推測されている。

 千福城は、佐野川とその支流の小河川の間の比高50m程の丘陵上に築かれた山城である。城の西端部を東名高速が貫通していて破壊を受けているが、それ以外の遺構はほぼ完存している。広大な城域に多くの曲輪群を連ねた山城で、この地域の城としては非常に規模が大きい。一城別郭の縄張りで、主郭背後の深さ10m近い大堀切によって、城域が本城部と外城部に大きく分かれている。本城部は、最高所に主郭を置き、その手前にニノ郭・三ノ郭を連ね、更にその南北に腰曲輪を巡らしている。主郭南側斜面には、大堀切とつながった三重竪堀があり、北側の腰曲輪には櫓台らしき土壇や木戸口、横堀などが散見される。腰曲輪群には動線の屈曲が巧みな虎口も明瞭に残っている。三ノ郭の南側下方には広い平坦地が広がっており、主殿が置かれた「中城」と呼ばれている。この周囲の土塁には石積みらしい遺構も確認できる。一方、外城部は詰丸とも考えられる構造で、削平のやや甘い、傾斜した曲輪を最上部に置き、背後の土塁の外側には、深さ4~5m程の二重堀切で尾根筋を分断している。この内、1本目の堀切はそのままL字状に屈曲して巨大空堀となって、外城部を囲んで防御を固めている。

 以上の様に、千福城は広大な曲輪群を有し、更に堀切など一つ一つのパーツが巨大で見応えがある。その一方で、主郭手前のニノ郭や外城の詰丸などは削平がやや甘い部分もあり、普請がやや不徹底な印象も受ける。しかし、虎口など技巧的な構造も多く、素晴らしい遺構が藪の中に横たわっている。

 尚、千福城の麓には、信玄所縁と大きく宣伝されている普明寺があり、葛山城と距離的に近いこともあって、甲斐武田氏の城かと思っていたが、歴史を紐解くと小田原北条氏が整備した城であったのは意外だった。
三重竪堀の一部→DSC02370.JPG
DSC02472.JPG←動線の巧みな虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.193038/138.904856/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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滝壷の住人

行きは順潮かえりは道に迷いなんとかが帰りついた。
by 滝壷の住人 (2017-05-06 22:07) 

滝壷の住人

私も武蔵の五遁さんの意見に賛同します、もう少し帰りの順路が分かるような工夫をしてください。
by 滝壷の住人 (2017-05-07 06:50) 

アテンザ23Z

>滝壷の住人さん
当ブログにご訪問頂き、ありがとうございます。
ご要望はご要望として理解は致しますが、
あれだけの広い城域を、お寺の方に個人での整備を要望するのは
少々無理があるかと思います。(皆さん、高齢化も進んでいますし)
市の史跡指定候補地になっているようですので
(おそらく地主さんと協議中なのでしょう)、
まずは裾野市に整備の要望書を出してはいかがでしょうか?

また中世山城は未整備が原則ですので、
自己責任で入山する以上、地主さん個人に順路案内の整備を求めるのも
少々行き過ぎかと思います。
(私に対して要望している様な文章になっていますが、それも困惑してしまいます。
 当事者ではありませんので・・・。)
by アテンザ23Z (2017-05-07 11:29) 

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