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浅井畷古戦場(石川県小松市) [その他の史跡巡り]

IMG_7305.JPG←浅井畷古戦場
(2005年3月訪問)
 浅井畷古戦場は、北陸の関ヶ原と呼ばれた古戦場である。1600年、徳川家康が上杉討伐の為に諸将を率いて東下した虚を突いて、石田三成が徳川討伐に挙兵したことで、国内を二分する戦いが始まった。加賀の前田利長は、父利家亡き後、家名存続のため家康に膝を屈し、実母芳春院を人質として、徳川方に付くという苦渋の決断を既にしていた。三成挙兵の報を受けた利長は、西軍に付いた丹羽長重の拠る小松城に大軍で攻め寄せた。しかし小松城を攻略できず、矛先を変えて大聖寺城を攻め落とした。その後利長の本隊は金沢城に向かって兵を引揚げ、三道山城に入った。一方、前田勢の殿(しんがり)であった長連竜配下の部隊は、本隊合流の為、御幸塚城から間道を抜けて大領野を過ぎようとした時、浅井畷で丹羽勢の伏兵の急襲を受けた。時に8月9日。雨の降る悪天候の中、白兵戦が繰り広げられた。小松城からは丹羽方の援軍が次々と到着して参戦し、長連竜隊は大苦戦となった。しかし急報を受けた前田方の援軍もやがて到着し、双方痛み分けとなって戦闘は集結した。丹羽方では松村孫三郎・雑賀兵部・寺岡勘左衛門らが討死し、前田方でも長家の九士、小林平左衛門・隠岐覚左衛門・長中務・鹿島路六左衛門・八田三助・鈴木権兵衛・堀内景広・柳弥兵次・岩田新助をはじめ多数の将士が命を落とした。この合戦後、金沢城に戻った利長は、家康の催促を受け、再び出陣し三道山城に入った。この時、丹羽長重から和を請う使者が発せられ、利長はこれを受諾した。この時、既に関ヶ原で東西両軍が激突、三成主導の西軍は壊滅し、勝敗は決していた。戦後の論功行賞で、丹羽長重を釘付けにした功によって、利長は加増を受け、加賀・能登・越中を領する100万石の大大名となった。

 浅井畷古戦場は、小松市街の南方、現在周囲に田園風景の広がる住宅地の一角にある。長家の九士の墓が立てられており、いずれも戦いで倒れた方を向いて墓が立てられたと伝えられている。浅井畷の戦いは、関ヶ原の本戦はもとより、最上・上杉両軍が激突した慶長出羽合戦と比べても、小規模で短時間で集結した局地戦であったと思われるが、加賀100万石の礎を築いた重要な戦いとなった。後に加賀八家の一つとして重臣の家系となった長家が、江戸時代を通して大切にこの古戦場を保護したのだろう。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.382691/136.451086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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