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掛川城(静岡県掛川市) [古城めぐり(静岡)]

DSC04950.JPG←掛川城の遠望
 掛川城は、遠江の支配拠点となった城である。駿河の戦国大名今川氏の重臣朝比奈泰能が、それまでにあった掛川古城から場所を移して1513年頃に築いたと考えられている。以後、今川氏の遠江支配の拠点となったが、今川義元が桶狭間に倒れて家運が傾くと、1568年に武田信玄が駿河に侵攻し、駿府を追われた今川氏真は朝比奈泰朝を頼って掛川城に逃れた。信玄と同時に三河から遠江制圧を目指す徳川家康は、掛川城を囲んだが攻めあぐね、攻城戦は半年に及んだ。その後、氏真を無事に北条領の伊豆まで移すことで講和が成立し、掛川城は開城した。その後、徳川氏の持ち城として、武田氏の遠江侵攻を防衛する拠点となったが、1590年に家康が江戸に移封となると、豊臣秀吉の家臣山内一豊が掛川城主となった。山内時代に、掛川城は近世城郭へと大々的に改修された。1600年の関ヶ原合戦の軍功により、山内氏が土佐に加増移封となると、その後は徳川譜代大名が歴代の城主となり、幕末まで存続した。

 掛川城は、小高い小丘の上に築かれた平山城で、有名な白亜の復元天守が建っている。この天守を初めて築いた山内一豊は、殊の外この天守を気に入っていたらしく、後に土佐に移封されてから築いた高知城天守は、この掛川城天守を模したものと伝えられている。しかし、近世城郭の天守としては小規模な三層四階のもので、外観もコンパクトに纏められている。天守の建つ天守丸は非常に小規模な曲輪で、いわば詰丸である。その下に本丸があり、現在は花広場に変貌している。その上には天守丸の腰曲輪や、腰櫓台などが備えられている。天守丸の東側下方には二ノ丸があり、全国的にも例の少ない御殿建築が現存している。御殿の中の城主執務室も狭く、高知城の御殿と類似している。一豊は華美を嫌う堅実な武将だったのだろうか。二ノ丸外周には土塁も残っている。本丸から東側下方の三ノ丸に向かう途中には、三日月堀がある。三日月堀で囲まれた小郭は、背後に十露盤堀が穿たれた独立性の高い曲輪で、二ノ丸との間は狭い土橋で接続していることから、現地に表示はないが丸馬出だと考えられる。三ノ丸は現在ただの広場で、主城部周囲の外郭部は市街化で改変が激しい。掛川城は、復元建築物と移築現存門が多いことも特徴で、特に油山寺に残る大手ニノ門は、珍しい江戸初期の城郭建築物で、見るからに威厳があり、必見の遺構である。
本丸下方の丸馬出→DSC04987.JPG
DSC00089.JPG←油山寺に残る大手ニノ門

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.775125/138.014041/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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ノリパ

好きです、掛川城。ゆっくりと見てみたいです。名古屋になって近くなったのでまた行ってみます。
by ノリパ (2013-03-17 15:21) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
静岡の城は、今川氏の事実上の滅亡の後、
武田・徳川・北条がせめぎ合った城が多く、
4つ星・5つ星クラスの城がゴロゴロしています。
掛川城を手始めにいろいろとお楽しみください。
by アテンザ23Z (2013-03-18 01:01) 

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