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土生田楯(山形県村山市) [古城めぐり(山形)]

DSC08450.JPG←堀切と物見台曲輪群
 土生田楯は、安食大和守光信の居城と言われている。光信は、山形城主最上義光の内命を受け、延沢城主野辺沢能登守の動向や延沢銀山の財宝の流れを監視していたと言われている。義光は一族の内訌を武力で克服した経験を持ち、謀略を専らとしていた梟雄であったことを考えれば、猜疑心が薄い人であった訳はなく、一旦は服した野辺沢氏を監視させることは十分有り得る話であっただろう。
 土生田楯は、標高197m、比高約100mの楯山に築かれた山城である。現在、登城道が整備され展望公園となっているが、公園とは名ばかりで、震災復興優先のせいか方形の主郭は深い薮に埋もれている状態である。主郭南にニノ郭の曲輪群が連なっており、ニノ郭の主郭切岸前には土塁が築かれている。ニノ郭から西の腰曲輪に降りる竪堀状虎口もはっきりと残っている。主郭と北側の物見台曲輪群の間には堀切が穿たれ、物見台の東側にも堀切があって尾根筋を遮断している。この堀切の南側は屈曲して竪堀で落ちている。物見台北西にも曲輪群があるが、藪が深く未踏査である。この他、西側尾根に市の天然記念物である三吉杉があるが、その南に伸びる支尾根にも腰曲輪らしい平場群があり、大手道を守る物見台として機能したと思われる。それらの配置から推測すると、深山神社に至る谷戸道が大手に当たり、この周辺にも居館や建物が置かれていたのだろう。あまり技巧的な縄張りはないが、地域支配の拠点として機能したことが伺われる中規模の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.551665/140.407372/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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