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北松野城(静岡県富士市) [古城めぐり(静岡)]

DSC09983.JPG←西尾根の二重堀切
 北松野城は、駿河の戦国大名今川氏の被官荻氏の詰城である。荻氏の出自は必ずしも明確ではないが、武田太郎信義の弟奈古義行の後裔で、長義が初めて荻氏を称したとされる。その孫の萩次郎左衛門尉氏誉が北松野城を築城し、初代城主となった。以後、9代200年に渡ってこの地を領した。5代慶徳の頃には今川氏の被官となっており、慶徳は1521年、今川氏の重臣福島正成に属して甲斐一条原で武田信虎の軍と戦い討死した。その子清誉は、1568年の武田信玄の駿河侵攻に際して、今川方として松野山上内房口に出陣し、信玄の重臣山県三郎兵衛昌景と戦って討死したとされる。清誉の子久誉は、駿河を制圧した武田氏から旧領の内、松野郷だけを安堵され、久誉の弟君誉は武田氏の一族穴山梅雪に仕えた。1582年に武田氏が滅亡すると、荻氏は徳川家康の9男信吉に仕えて水戸に移った。

 北松野城は、有無瀬川北岸の比高50m程の山上に築かれた山城である。小規模な城砦で、いかにも小豪族の詰城という趣である。山頂に主郭を置き、周囲に腰曲輪と東側に数段の曲輪の先に小堀切を挟んでニノ郭を置いている。このニノ郭は切岸が甘く、曲輪の造作が若干雑な感じである。一方、主郭北側の腰曲輪には2本の竪堀が穿たれ、西側の尾根筋には二重堀切が穿たれて防御をしている。この二重堀切から城内へは土塁で防御された虎口構造が明瞭で、ニノ郭にあったと思われる大手虎口の不分明な造りとは随分異なっている。この辺りの構造が、武田氏支配時代に改修されたと見られている様だが、それにしては随分とささやかな遺構である。その先の西尾根にも平場があり遺構の様であるが、はっきりしない。尚、北東麓には荻氏の平時の居館があったが、現在は宅地化と耕地化で、遺構はわかりにくくなてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.184531/138.584974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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