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花倉城(静岡県藤枝市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02389.JPG←主郭の堀切
 花倉城は、葉梨城とも言い、今川氏の内乱「花倉の乱」の舞台として知られる城である。創築は1352年、今川範氏によるとされる。今川氏は、その祖範国が足利尊氏に従って各地を転戦し、室町幕府が開かれると遠江守護となり、1337年の北畠顕家率いる奥州勢の迎撃戦、青野原の戦い(現在の関ヶ原の地)で軍功を挙げ、駿河守護を兼帯した。しかし駿河は南朝方の勢力が強くて容易に入国できず、狩野氏の拠る安倍城などを徐々に制圧し、1352年、遂に駿河南朝方の最後の拠点大津城徳山城を攻め落とし、今川氏は16年の歳月を掛けて駿河南部の南朝勢力を駆逐した。そして範国の嫡子範氏は、遠江府中から葉梨荘に入部して居館を設け、詰城として花倉城を築いた。その後、戦国時代の1536年、今川氏輝が病没し、その跡目を巡って弟の玄広恵探と梅岳承芳(後の今川義元)との間で国を二分する抗争が勃発した。これが「花倉の乱」で、この時、花倉城は恵探の籠もる本城となり、内乱の決戦舞台となった。承芳方の主将岡部親綱は、方ノ上城と花倉城を攻撃して落城させ、逃れた恵探は瀬戸谷の普門寺で自刃した。この乱の後、花倉城は廃城となった。

 花倉城は、烏帽子形山の東の支峰、標高297mの山上に築かれている。麓から登れば比高200mを超える峻険な山城であるが、幸い東尾根の茶畑まで車で登ることができ、そこからハイキングコースが整備されているので楽に訪城できる。この東の尾根は小丘となっていて、大手筋に当たり、その先に一騎駆けの土塁を備えた腰曲輪があることから、出丸として機能した可能性がある。この窪地状の腰曲輪の東側の斜面には石積みが見られ、遺構の可能性がある。一騎駆けと呼ばれる長い土橋構造は駿遠地方の城独特のもので、古くは南北朝期の徳山城から戦国末期の高天神城まで多くの城で見られる。この先、主城部へはここからでも高低差は100m程もある。尾根が急になる登り口には、食い違いに穿たれた堀切によるS字状土橋があり、その先の城道を登って行くと、ニノ郭の腰曲輪に達する。山上の遺構は、南北に伸びる尾根上に曲輪を連ねた単純な連郭式の縄張りである。主要な曲輪は主郭とニノ郭だけで、あとは周囲の腰曲輪と削平の甘い南尾根の平場、あとは北尾根のかなり下方にやや広い曲輪状の緩斜面が広がっているだけである。花倉の乱で一方の拠点となった割りには、大きな兵力を籠められる様な城の規模ではない。しかし縄張りの随所には前述のS字状土橋等の様に戦国期の普請の工夫が見られ、主郭・ニノ郭の堀切も決して小規模なものではない。それ以外の堀切は、北尾根の先と南尾根の先にそれぞれ1本づつ穿たれていて、城域を区分している。この他では、主郭には不整形な物見台が構えられている。縄張りに目新しさはないが、今川系城郭の形態を今に残す貴重な遺構であろう。
東尾根のS字状土橋と堀切→DSC02368.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.915883/138.222588/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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