SSブログ

三沢城(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1284.JPG←主郭群外周の二重横堀
 三沢城は、南北朝時代に南朝方の北畠顕信が籠城した城と言われている。建武の新政が始まってから、奥州には陸奥国司・鎮守府大将軍として青年公卿の北畠顕家が派遣されていたが、1338年に京都奪還の為に奥州から出陣し、和泉国阿倍野で討死した。顕家の戦死後、奥州南朝勢力の再建のため、その弟顕信が派遣されて霊山城を拠点に北朝方と戦った。1352年、顕信は三沢城に暫くの間籠城して、北朝方の吉良貞経らと戦ったが敗れて城から逃れたと言う。その後の城の歴史は明確ではないが、慶長年間(1596~1615年)には三沢信濃守頼母の居城であったとされる。一方、現在残る遺構から推測すれば、後述する様に戦国後期に伊達氏による改修を受けたものと思われる。

 三沢城は、大聖寺の背後にそびえる標高130m、比高65mの丘陵上に築かれた城である。城内は大きく主郭群・ニノ郭・東出郭群・三ノ郭群に分かれる。大聖寺の墓地裏から登ると、最初に到達するのは東出郭群で、不正形な四角い曲輪の周囲を浅い横堀や腰曲輪で防御している。特に曲輪の東面は二重横堀となっていて、上段の横堀は北面の横堀と合流してY字状に竪堀となって落ちている。その先を東面下段の横堀が、尾根ごと掘り切っており、その先は東の物見台となっている。東出郭群の西側上方にはニノ郭がある。二ノ郭は東辺に低土塁を築き、西面に二重横堀を穿って防御している。しかし二ノ郭は藪がひどく、形状がわかりにくい。ニノ郭から北に二重横堀を貫通する虎口を越えて暫く行くと、三ノ郭群に至る。三ノ郭群は、楕円形の曲輪内に、同心円状に多段式の曲輪が築かれている。この曲輪も南面から西面を通り北面に至る外周を二重横堀を穿って防御している。北端には虎口が開いており、北尾根に城道があったようだ。一方、二ノ郭から南尾根を辿ると主郭群に至る。縄張図を見ると、繋ぎの部分には枡形と横堀を組み合わせた複雑な構造があるらしいが、ここも一面の薮で全く形状が把握できない。それでも主郭群には巧妙な二重枡形虎口が構えられており、上段の枡形への登城道の側方は竪堀で防御され、上段の虎口には櫓門らしい土塁が備わっているのがわかる。主郭群も三ノ郭群同様、多段式の曲輪で構成され、西側外周を規模の大きな二重横堀で防御している。この二重横堀は、途中で竪堀となってクランクしており、大きな横矢掛かりとなっている。二重横堀中間の土塁は、南端で直角に折れ曲がり、そのまま土橋となって主郭に通じている。主郭は最上部に小さな土壇があり、塚など信仰上の施設があった可能性がある。

 これらの遺構を総括すると、曲輪外周を横堀で防御する技法、同心円状の多段式曲輪の技法、巧妙な多重枡形虎口の技法、どれをとっても出羽置賜地方における伊達氏系山城と酷似した築城法であり(館山楯柳沢楯二色根楯など)、三沢城も伊達氏による改修であることは疑いを容れない。即ち三沢城は、南北朝期と言う伝承の城だが、実態は戦国後期の伊達氏構築の山城であり、眼下に白石城を遠望できる位置にあることから、白石城攻略に関連した城砦である可能性も考えられる。しかし残念なのは藪が酷いことで、藪がなければ技巧的な伊達氏の築城法をよりはっきり見ることができるのにと惜しまれる。
主郭群の枡形虎口の土塁→IMG_1299.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆(藪の分、☆一つ減点)
 場所:http://maps.gsi.go.jp/?ll=37.976798,140.644333&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント