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旭城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2842.JPG←竪堀となって落ちる堀切
 旭城は、大黒山城とも言い、歴史不詳の城である。旭城のある地域は平柴と呼ばれ、1387年に室町幕府から斯波義種が信濃守護に任命されると、それに反抗した村上中務大輔入道(頼国)、小笠原信濃入道(清順)、高梨薩摩守(頼高)、長沼太郎等の国人衆が、平柴にあった守護所を攻めた事が伝わっている。これは、旭山城・旭城・小柴見城といった旭山に築かれた山城のいずれかが守護所の詰城となっていて、戦場となったと推測されている。1446年には信濃守護小笠原氏の家督をめぐって内紛が起き、小笠原宗康と小笠原長持が「漆田原・大黒塚」で戦った。この「大黒塚」が旭城のことと考えられており、守護所に関連する城郭であったらしいことが推測されている。その後は不明であるが、戦国中期の甲越両軍による旭山城をめぐる戦いでは、その中腹に位置する旭城も争乱の対象となったのではないかと考えられている。

 旭城は、旭山の東斜面の中腹の標高540mの小ピーク上に築かれている。頭上には旭山城がそびえ、眼下には小柴見城がある。堀切で城域を大きく南北に二分割しており、南の最高所に主郭を置いている。主郭には左近稲荷神社が鎮座しており、南斜面に登り道が付いている。主郭の東と南に腰曲輪が築かれ、北西部には堀切に向かって枡形虎口が築かれている。ここには石積みが残っている。堀切は、東西に長い竪堀となって落ちている。堀切の北側は二ノ郭群が広がっている。二ノ郭群は幾つもの平場で構成されており、最高所は古墳をそのまま物見台として転用している。古墳の石室が地表に現れている。北斜面や東斜面に切岸で区画された曲輪を築いており、特に東斜面の下方の腰曲輪には、隅櫓台が2ヶ所に確認できる。二ノ郭群は緩斜面をそのまま利用したようなところがあるが、削平や切岸ははっきりしているので、それ相応の普請はされている。また、切岸部分に石積みが散在しており、位置的に城の構造に合致するのでおそらく遺構と思われる(近世の耕地化による土留の石積みの可能性もある)。旭城は、大きな城ではなく縄張りの技巧性も見られないが、軍団の駐屯には適した平場群が残っており、旭山城に援軍として派遣された武田軍がここに駐屯した可能性は確かに考えられる。
櫓台を備えた腰曲輪→IMG_2813.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.651825/138.170886/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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