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北大門城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4001.JPG←大手虎口脇の櫓台
 北大門城は、金砂山城の戦いで山入氏義を撃退した佐竹義舜が常陸太田城の奪還の前に一時居城した城である。本来は小野崎氏の庶流助川氏の歴代の居城であった。助川氏は、小野崎通綱の子通定に始まり、いつの頃からか大門城を築いて歴代の居城とした。また助川氏から、根本氏・滑川氏を分出し、伝承では助川氏が拠る北大門城に対して、すぐ南の南大門城に根本氏が居城したと言われ、少々関係がややこしい。佐竹氏の内訌、山入の乱では、助川通高・滑川式部少輔・根本石見守忠行らははじめ山入氏方に付いていたが、通高は佐竹義治方に鞍替えし、根本石見守らを攻めて、根本氏は討死にして滅亡した。その後、南大門城には滑川氏が居住したと言われている。また文明年間(1469~86年)に4年間、佐竹義治を大門城に庇護したとも伝えられている。その後、1490年には佐竹義舜は、山入氏義に居城の常陸太田城を逐われて、外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は大門城に移り、助川右衛門尉通繁の助けを受けて2年の間に勢力を盛り返し、1504年に常陸太田城の奪還に成功し、遂に山入氏を滅ぼして100年に渡る内訌に終止符を打った。通繁の子の出羽守通厚も義舜を補佐して功があり、通厚の四世の孫周防守通高まで大門城に居城したが、1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、大門城も廃城となったらしい。

 北大門城は、国見山から西に伸びた支尾根の先端部、標高160m、比高70mに築かれている。前述の通り堀ノ内集落を挟んですぐ南には南大門城があり、機能的には両城一体となっていたと思うのだが、両城の城主が別々に伝わっており、しかも両者間で交戦もあったので、両城の関係性が非常に複雑である。古文書では単に「大門城」と記されているようだが、現地で城の規模や構造を見ると、北大門城のことを指していることは容易に想像がつく。城へは堀ノ内集落奥の民家の近くから登ることができる。民家の方に入山のお断りを入れると、例によって「杉山で何もないよ」と強調されたが、過去の経験からすると「何もない」と言われたところに限ってしっかりした遺構があったりするので、期待して登ったら、やっぱりしっかりとした良質な遺構があった。最頂部の主郭の前面に当たる西斜面に多数の曲輪群を築いた梯郭式の縄張りで、荒蒔城の縄張りによく似ている。主郭は三角形状の曲輪で背後に土塁を築いている。前面の曲輪群は切岸でしっかり区画された上に左右で幾つもの段に分かれ、虎口郭を備えたり、竪堀状の大手道、その側方に櫓台を設けるなど、なかなかしっかりとした普請がされている。曲輪間の動線構造も比較的わかりやすい。この城で出色なのは主郭背後の遺構で、主郭背後には比較的規模の大きな堀切が穿たれて尾根筋を遮断し土橋を架けている。その先の細尾根上も曲輪に整形されているが、北側斜面に帯曲輪を設けており、前述の堀切から落ちる竪堀はこの帯曲輪に繋がっていて、城道を兼ねた竪堀であったことがわかる。しかもこの竪堀状の城道の上方右側には横堀状の堡塁が構築されており、主郭への虎口を防衛する塹壕的な防衛陣地となっている。また前述の細尾根上の曲輪の先はやはり堀切で分断されているが、この堀切も前述の帯曲輪に繋がっている。山中は整備されているので、藪が少なく遺構の確認がし易い。それほど大きな城ではないが、良好な遺構と相俟って、見応えがある。
竪堀状の城道脇の横堀状堡塁→IMG_4069.JPGIMG_4104.JPG←帯曲輪に繋がる堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.585295/140.514300/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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