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堀之内大台城(茨城県潮来市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0447.JPG←校庭脇の土塁っぽい土盛
 堀之内大台城は、佐竹氏が築いた新鋭城郭である。1590年の小田原の役後、佐竹氏は豊臣秀吉から常陸一国を安堵され、それを背景に常陸南部の計略に取り掛かった。水戸城の江戸氏、府中城の大掾氏を相次いで攻め滅ぼし、翌91年には鹿行地域の大掾氏諸族を陰惨な謀略によって制圧した。即ち、佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏(所謂「南方三十三館」)に対し、新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き、参集した小高治部大輔ら16名は酒宴の中、一挙に惨殺されたと言う。直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした(南方三十三館の仕置)。その後、常陸南部の支配拠点として1594年頃から堀之内大台城の築城が開始された。1596年に完成し、重臣の小貫頼久を城代として置いた。しかし佐竹氏は、関ヶ原の戦いの際の去就から、1602年に出羽秋田に移封となり、堀之内大台城はわずか7年で廃城になった。

 堀之内大台城は、比高10m程の半島状台地に築かれていた。しかし現在は開発により、遺構は湮滅している。主郭は南端にあったが、現在は牛堀中学の校地に変貌している。地勢は残っており、外周を急峻な崖で囲まれている。校庭脇に僅かに土塁らしい土盛が見られるが遺構であろうか?主郭以外の曲輪は大半が採土で消滅してしまっている。校門前に城址碑が建っているが、その文章によれば、主郭・二ノ郭・三ノ郭と出城で構成された城で、廊下橋や三重櫓を有し、二重堀切を穿ち、曲輪外周に土塁を廻らし、更にその周囲に二重の犬走り(帯曲輪)を築いていたと言う。主郭には、枯山水庭まで造作されていたと言うことで、まさに中世城郭と近世城郭を繋ぐ位置にあった城であった様である。主郭に庭園を有した城の類例としては遠江鳥羽山城があり、これも中世と近世を繋ぐ位置にあり、庭園を持つ城は当時の流行りであったのかもしれない。尚、湮滅前に発掘調査が行われた結果に基づいて、大台城の主殿が逆井城内に復元されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.966389/140.525565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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