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米谷城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4339.JPG←本丸から張り出した櫓台
 米谷城は、伊達氏の重臣桑折新左衛門景頼(石母田景頼)の居城であった。元々米谷の地は、1276年に葛西清信が石巻日和山城に入部した際、その家臣亀卦川氏の一族、亀卦川胤氏が米谷に入部して居城を築いたことに始まる。亀卦川氏は、奥州千葉氏の庶流で、後には米谷を本拠とした米谷亀卦川氏と大原新山城を居城とした大原亀卦川氏の2流に分かれている。米谷亀卦川氏は米谷氏を称したともされ、米谷氏時代の居城は南の鼎館であったとも、また大膳館であったともされ、明確にはわからない。1590年、14代亀卦川(米谷)常親(常秀?)が当主の時、奥州仕置で葛西氏が改易され、その後の葛西大崎一揆が鎮圧されて、米谷亀卦川氏は滅亡した。この時には、既に米谷城の地に居城が移されていたとも言われている。その後、葛西・大崎氏の旧領が伊達政宗に与えられると、1594年にその重臣石母田景頼が入部した。景頼は、後に桑折氏の後見となって桑折景頼となり、婿養子の石母田大膳宗頼に家督を譲り、宗頼が米谷城主となった。その後1616年に、柴田宗朝が水沢より米谷城に移封となった。元和の一国一城令で城が廃されると、米谷城は「所」(「要害」より一段下のランク)となった。宗朝の後を継いだ柴田外記(朝意)は、寛文事件(いわゆる伊達騒動)において江戸で斬られて落命した。1681年、柴田宗意が船岡要害に移封となると、米谷所には一時日野元信が入った後、1703年に登米郡黒沼から高泉兼康が2700石で入封した。そのまま高泉氏の所領として幕末まで存続した。城内には、現在でも高泉家の居宅が建っている。

 米谷城は、大膳館のある丘陵から一つ北側にある比高40m程の丘陵上に築かれている。前述の通り、高泉様の私有地であるので、遺構を見て回るには高泉様の許可が必要である。私が訪城した時は、たまたま高泉様のご当主がご在宅で、出掛ける間際のお忙しい中なのに、わざわざ10分程もお話を伺うことができ、ご当主がまとめた貴重な資料をいただくこともできた。

 以下は高泉様から伺った話。現在居宅が建っているのは侍詰所に当たり、本丸は上の平場である。これらの配置は、江戸時代の絵図面でほぼ確認できる。本丸の東に高台があるが、これは戦国時代に使われていたもの(中世の主郭跡)で、調査はされていないと言う。今は城の西下を車道が貫通しているが、昭和に入ってから西側を削って車道を通したもので、往時は城の防衛のため道を通さないようにしていた。また明治期に、北上川の護岸工事のために、城の石垣がだいぶ取り壊されたらしい。城の周りには、東に寺、南に神社などを配置しているが、これらは全て風水を考えてのものではないかとのこと。米谷の地名は、坂上田村麻呂がその家臣米谷氏を置いたことに始まると言い伝えられているそうだ。

 遺構としては、近世本丸跡(中世の二ノ郭)の広い平場があり、南の切岸下に侍詰所の平場があり、高泉様の居宅が建っている。近世本丸から侍詰に向かって櫓台の張出しが見られる。また近世本丸の東側に切岸で囲まれた段丘があり、これが中世の主郭跡である。背後に当たる東側に城道が残っているが、主郭内は薮で埋もれていて進入は不可能である。この他、中世主郭の南側に竪堀状の窪地や腰曲輪と思われる段々の平場があり、居宅の東側高台の広い平場まで繋がっている。中世主郭の東側は給水施設や学校に変貌して大きく改変されているので、旧状は不明である。
 米谷城は、多少の改変を受けているが、概ねは旧状をよく残しており、中世から近世まで継続的に使われた城の名残を感じることができる。いろいろと貴重なお話や資料を提供していただけた高泉様に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
主郭南の腰曲輪群→IMG_4365.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.712187/141.294994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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