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藤沢城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7733.JPG←中城の土塁
 藤沢城は、小田氏の支城である。明確な築城時期は不明だが、常陸小田氏の元に配流となった後醍醐天皇の側近万里小路藤房がこの地に置かれていることから、既に小田氏の城館が構えられていたことが窺われる。即ち1331年、正中の変に続き、再び倒幕の企てが露見した後醍醐天皇は、急遽御所を抜け出して笠置山を城砦化して立て籠もった。鎌倉幕府は直ちに鎮圧の軍勢を送り、間もなく笠置山は陥落した(元弘の乱の始まり)。後醍醐天皇は捕えられて隠岐に流され、皇子や側近の公卿達も各地に遠流となった。その中で、後醍醐天皇の側近であった万里小路藤房(後三房の一人、万里小路宣房の長子)は常陸に配流となり、常陸の有力御家人小田高知(治久)に預けられ、その時高知は藤房を藤沢の地に軟禁している。時代は下って戦国後期には、佐竹氏に本拠の小田城を逐われた小田氏治が、藤沢城を拠点にして幾度か本拠奪還を試みたと言う。小田原の役の後、豊臣秀吉の裁定によって小田氏は結城氏の食客となり、藤沢城は廃城となった。

 藤沢城は、桜川の北岸の比高20m程の段丘上に築かれている。かつては広い台地全体を城砦化していた様で、戦後数年後の航空写真を見るといくつかの空堀が確認できるが、現在は宅地化などでかなり湮滅が進んでいる。主郭は畑となっており、周囲にわずかに土塁が残っている。北西辺にあった空堀は、現在は湮滅している。その西には播磨郭があるが、ここも改変が進んでいる。ここには万里小路藤房の髪を切って埋めたという、髪塔塚がある。播磨郭の北側にも空堀があったが、民家があって現況を確認できない。主郭北の神宮寺のある辺りが二ノ郭とされ、若干の土塁が残っている。一方、主郭から谷戸を挟んで東には「中城」の名が残る三ノ郭があり、東側に立派な土塁と空堀跡が残っているが、植木園で進入できない。これらが城の主要部であるが、この城では台地の北側基部を分断する総構えがあったらしく、精泉寺の裏などに大土塁と空堀跡が断片的に数百mに渡って残っている。藤沢城は、残念ながら遺構がかなり断片的になってしまっている。解説板がないのも残念である。
総構えの土塁と空堀→IMG_7760.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.122710/140.154541/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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